第四話「違うはずの日」
石段を登るたびに、蝉の声が濃くなる。
いや、“圧”に近い。音の塊が、頭の内側から膨らんでくるようだった。
照りつける日差しは、葉の隙間をすり抜けて容赦なく首筋を焼く。
背中はすでにぐっしょり濡れていて、シャツが皮膚に貼りついて気持ち悪い。
「……あつ……」
思わず口に出た言葉すら、自分のものじゃないみたいにぼんやり響いた。
ぬるくなったペットボトルの水をあおる。喉を通る感覚だけは確かだった。
草むらの奥に続く道は、最初に思っていたよりも荒れていた。
左右の木々が道の上に覆いかぶさるように伸びていて、ところどころ日が差さない。
でも、かえってその日陰の方が、熱気を閉じ込めていた。
誰もいない道を、一人で歩いているはずなのに――
ときどき、何かに見られているような気がした。
動物だろうか。風だろうか。
草がわずかに揺れた音にすら、思考が過敏に反応する。
けれど、不思議と怖くはなかった。
それ以上に、なぜか「知っている場所に向かっている」そんな気がしていた。
子どもの頃に、夢の中で見たような感覚。懐かしいけれど、どこか歪んでいる。
やがて、鳥居が見えた。
傾きかけた木製の柱は片方が深くひび割れていて、そこにツタが巻きついていた。
笠木の上には、朽ちた葉や土ぼこりが積もっている。
鳥居の先に広がっていたのは、もう神社とは呼べないほど荒れた空間だった。
拝殿らしき建物は、屋根の一部が落ちていて、壁もところどころ剥がれている。
柱に触れれば簡単に倒れてしまいそうだ。だが、それでもぎりぎりで立っていた。
誰かが来た形跡はない。足元の草は踏まれた跡すらなかった。
「……ここか」
そう言って、ひとつ息を吐いた。
周囲を包む蝉の声が、さっきよりも一段階、音を上げた気がした。
拝殿の正面へと足を進めると、軒下に何かが吊るされているのが見えた。
面だった。
天狗、狐、翁。色の褪せた木や紙の面が、風に揺れている。
祭りの名残だろうか。それとも誰かが勝手に吊るしたのか。
どれも古く、今にも崩れ落ちそうなものばかりだった。
その中に、ひとつだけ違和感のあるものがあった。
龍の面。
素材は陶器のような質感で、色もほかの面とは違って白っぽい。
鱗のような彫刻が粗く施され、左右には小さな角もあった。
そして、それだけが――横を向いて吊るされていた。
他の面はまっすぐこちらを見ているのに、龍の面だけが“斜め後ろ”を見ているような角度。
風のせいかと思ったが、風はほとんど吹いていなかった。
「……なんでこれだけ……」
気になって、手を伸ばした。
吊るされた紐の根元に軽く触れて、向きを直そうとする。
その瞬間だった。
視界が、ぐにゃりとゆがんだ。
輪郭が溶けていく。
蝉の声が、濁音のように低く響いて反転する。
空の色が青から白へと切り替わり、まばたきをしても戻らない。
足元がふわりと浮き、喉の奥が焼けるように熱くなる。
肺が呼吸を忘れている。汗が、額から一気に噴き出した。
「……っつ……」
その場にしゃがみ込む。地面に手をついて、深く息を吸う。
匂いが、急に濃くなった。
土、苔、どこかで焦げたような草の匂いが鼻を突いた。
でも、それもすぐに消えた。
気がつけば、視界は元に戻っていた。蝉の声も、空の色も、何事もなかったように。
「……なんだったんだ……」
疲れすぎただけか。
立ち上がって、首にタオルを当てた。
「……熱中症、かな……」
そう言って笑おうとしたが、口の中は乾いていて、声はほとんど出なかった。
それでも、その場を離れた。
拝殿に背を向け、鳥居をくぐる。
鳥居をくぐった瞬間、スマホが震えた。
取り出すと、画面には“母”の名前。
なんの気なしに通話ボタンを押す。
『あ、起きてた? ちょっと頼みがあって』
軽い調子のその声に、自然と気が抜ける。
でも、何かが引っかかった。
この感じ……どこかで、聞いたような。
「なに」
『今日から一泊で、友達と旅行行ってくるの。あんた暇でしょ? 家の猫、見に来てくれない?』
その瞬間、喉の奥がきゅっと詰まった。
「……は?」
今の話、昨日聞いた。確かに。
猫の世話を頼まれて、家に行って……それから、龍三辻に――
『餌と水と、トイレだけお願い。ほんとそれだけでいいから』
「ちょっと待って。え、なに?」
『なに?』
「今朝、もう行ったけど。猫の世話、したし」
『え、なにそれ。あんた何言ってんの?』
「だって昨日、電話で――」
『してないって。今言ってるじゃん』
「……いや、だから……今日、猫見に行って…」
おかしい。でも、その“おかしさ”を言葉にしようとした瞬間、喉が詰まる。
言えない。声にならない。
背中に、じっとりと汗がにじむ。
暑さとは違う。――嫌な汗だった。
そんなのお構いなしに、母の声が続いた。
『もー、寝ぼけてないでよ。とにかくお願いね! もう行かなきゃだから、よろしく〜』
ピッ、と軽い音とともに通話が切れた。
それでも、耳からスマホを離せなかった。
思考が、うまくまとまらない。
どこか遠くで蝉が鳴いている。いや、近い。ずっと鳴いていた。
でも、そんなことどうでもよかった。
なんだ、今の会話。
昨日の繰り返し? でも俺は……今日、猫の世話に行って……。
ふと、スマホを目の前に持ち直す。
画面には、“通話終了”の文字とともに、日付が表示されていた。
“7月12日(木)”
「……は?」
蝉の声だけが妙に響いて、僕はただ、立ち尽くすしかなかった。
昨日と、同じ日が――もう一度始まっていた。