第三話「龍の道と、擦れた文字」
翌朝。少し早く目が覚めた。
「はぁ……もう3日目か」
天井を見上げたまま、小さくため息をつく。せっかくの四連休なのに、気づけばあと一日しか残っていない。
昨日は昼前まで寝ていたから、たぶんその反動だ。別に早起きしようと思ったわけじゃない。
顔を洗って着替えを済ませ、コーヒーを淹れながらふと考える。
「……そういえば、チビの世話」
バッグに財布とスマホを突っ込んで車の鍵を手に取る。エンジンをかけると、少し肌寒いような、でもどこか懐かしい風が車内に流れ込んできた。
母の家までは車で五分ほど。道はよく知っているはずなのに、今日はなぜか景色が違って見えた。
玄関を開けると、懐かしい匂いがした。洗剤と、木の床の香り。それに、少しだけ猫っぽい空気。
「チビー、来たぞー」
返事はない。リビングに入ると、ソファの背に乗って、チビがこっちを見下ろしていた。なんだその上から目線は。
「……相変わらずの態度だな」
チビはあくびだけして、また視線を外す。ごはん皿にはカリカリが残っていたけど、水が空っぽになっていた。トイレも見て、軽く掃除。最低限の世話は、まあ、これでいいか。
「……っと、これでミッション完了」
ソファに座って伸びをしたとき、ふいにチビがこちらへ降りてきた。すり寄るでもなく、ただ横を通って、仏壇の前で立ち止まる。
「あー……そこ、ばあちゃんのとこな。いたずらすんなよ」
そう言ってもおかまいなしに、チビは仏壇の下、引き出しの前で前足をカリカリし始めた。
「ちょ、おい。そこガリガリすんのやめろって」
急いで立ち上がってチビをどけると、引き出しが少しだけ開いていた。中には、紙が数枚……何かのノートの切れ端みたいなのが見えたけど、いまは閉じる。
「はは、お前、もしやばあちゃんの使いか?」
そんなことを言っても、チビはまるで聞いてない。
仏壇の前に座り直し、手を合わせる。
「……ばあちゃん。今日、行ってみるから。あの神社」
声に出すと、なんだか少しだけ胸が軽くなった。
再び車に乗り込む。ナビには一応名前は出てきたが、ピンはざっくりとした場所を示すだけだった。
“観光地扱いされてるはず”――母はそう言っていたけど、実際にネットで調べてみても、数年前の記事がひとつあるだけで、写真も口コミもほとんど残っていなかった。
昔すぎるのか、地元の人しか知らなかったのか。どちらにしても、行ったことのある自分にとってすら、記憶はぼんやりとしていた。
この間、母に聞いておいた話を思い出す。
「たしか薬局の角を右に入って、そこから山のほうに上がってくんだったよな……」
そう呟きながらハンドルを切る。
曲がった先は、山沿いの道。舗装はされているけれど、細くてガードレールもところどころ錆びている。
しばらく進むと、ぽつんと開けたスペースが現れた。道の端に砂利が敷かれた、小さな駐車スペース。車を停められるのはせいぜい2台分。誰が使ってるのかもわからないような場所だ。
エンジンを切って外に出る。すぐそばに、草に埋もれかけた鉄の看板が立っていた。
近づくと、錆びでところどころ文字が剥げ落ちている。でも、かろうじて読めた。
「龍三辻」
文字の上に、小さくふりがなが添えられていた。
「……ここだよな」
ポツリと呟いて、視線を奥の山道へ移す。
看板のすぐ先には、苔むした石段が続いていた。木々に囲まれたその道は、思っていたよりもずっと静かで、ずっと古びていた。
――ああ、たしかに、こんな雰囲気だったかもしれない。
15年前のあの日。記憶の輪郭はもうぼやけているのに、足元の感触だけは不思議と覚えている気がした。
そのまま、足を踏み入れる。