第45話「灯、“灯’sカフェ”への一歩」
「なんか……やっぱ、まだホコリっぽいな」
倉本灯は、雑巾を絞りながらそうつぶやいた。
村の空き家――制度の実習中に目をつけていた、あの家。
今は、彼女が“借りている”ことになっていた。
役場の人が貸してくれると言ってくれたのは嬉しかったけど、
だからといって準備がすべて整っているわけではない。
キッチンの蛇口から出てきたのは、茶色く濁った水。
床は少し沈んでいて、踏むたびに“ぎい”と音が鳴る。
それでも、灯の足取りは軽かった。
前よりずっと、“ここでやりたい”という気持ちが強くなっていた。
掃除を一段落させて、縁側に腰を下ろす。
持参した水筒から、少しぬるくなったコーヒーを一口。
風が吹いて、ガラス戸がわずかに揺れた。
草の匂いと木の埃が混じった風――この場所独特の空気。
(うち、ほんまにここで始めるんやな)
その思いが、じわじわと胸にしみこんでくる。
数分後、庭の奥から誰かが歩いてくる音がした。
ふと顔を上げると、前に野菜を分けてくれた近所の年配女性が立っていた。
「また来とったんやね、灯ちゃん」
「はい。今日は掃除だけなんですけど……まだ、ほんまに開けるかは決めきれてなくて」
女性はふっと笑った。
「“制度の子”が、また来るとは思わんかった」
「……“制度の子”?」
「そう言うてた人、おったんよ。制度で来た学生は、一時的なもんやって。
でも、灯ちゃんは、そうやないんやなって思った。
“うちに戻ってきた”感じがする」
灯は一瞬、言葉を失った。
でも、胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
(“戻ってきた”って、そんなふうに思ってくれてる人、おるんや)
その日の夜。灯は大学のレポート課題を後回しにして、ノートを広げた。
ノートの表紙には、鉛筆で「灯’sカフェ計画」と書いてある。
ページをめくると、まだ空白ばかり。
でも、頭の中には浮かんでいた。
・コーヒーはハンドドリップ。なるべく地元の焙煎所を探す。
・軽食は“味噌だれおにぎり”。村のばあちゃんレシピ。
・椅子は縁側に三脚。奥の和室にはちゃぶ台。
・BGMはスピーカーでジャズか民謡。できればレコード。
店、というよりも、“縁側の延長”。
営業じゃなくて、“誰かと黙って並ぶ場所”。
スマホを手に取り、3人のグループチャットに写真を送る。
灯:「今日、コーヒー飲みながら掃除した」
灯:「水はまだ濁ってたけど、縁側の風、めっちゃ気持ちよかった」
灯:「“制度の子じゃない”って言ってもらえた。泣きそうやった」
千尋:「それ、めっちゃすごいやん」
葵:「“制度の子”じゃなくて、“灯’sカフェの灯”やな!」
灯:「うまいこと言うな(笑)」
少しして、千尋が送ってきた。
千尋:「じゃあ、制度ノートの“灯’sカフェページ”は、そこから始めようか」
灯は笑って、頷いた。画面越しでも、わかる気がした。
(この2人がおったから、今のうちがある)
ページの片隅に、灯は小さく書いた。
『灯’sカフェ、はじまりの一歩。』
まだ営業もしていない。メニューも決まっていない。
だけど、あの日の縁側から、すべては始まっていた。
この回では、“制度の外で動き出した灯”の姿を描きました。
彼女の原点は「また来てね」の一言。
それが“また行きたい”につながり、ついに“始めたい”へと結実しようとしています。
制度がきっかけなら、これは“その先”の物語。
灯の歩みが、ようやく静かに始まりました。




