第43話「千尋、“制度”ともう一度向き合う」
水野千尋は、大学の図書館で画面をにらんでいた。
制度報告書の提出期限が迫っている。実習が終わってから、すでに数週間。
でも、まだ「書けた」とは思えなかった。
序論、中間成果、地域課題、施策提案。
フォーマット通りに埋めていけば、かたちは整う。
けれど、どこか“抜け殻”のような文面になる。
(制度って、誰のためにあったんだろ)
灯は空き家再生に動き出した。
葵はバイトと就活をしながら、何かを温め続けている。
自分はというと、“記録すること”にこだわって、気づけば置いていかれているようだった。
「千尋、レジュメある? 今日のゼミで提出」
隣の席のゼミ仲間に声をかけられ、慌ててプリントを差し出す。
この日は、制度報告の中間レビュー。
他の学生たちが、実習内容をプレゼン形式で発表していく。
千尋は、PowerPointではなく文章ベースのレジュメだけを提出していた。
教授はそれを読みながら、言った。
「水野さんは……“制度を外側から見ていた”ように感じますね」
「レポートとしてはよくまとまっています。でも、“あなた”がいない」
(……わたしが、いない?)
千尋はその言葉に、強く引っかかった。
実習中、千尋は誰よりも記録を取っていた。
スマホのメモアプリには、葵のアイスの材料リスト、灯のカフェ案、村人の口癖――
それらは全て、制度の資料としてではなく、“残しておきたい感覚”だった。
でも、それを文章に起こす段になってから、急に怖くなった。
自分の感情を入れていいのか?
それは客観性を損なうのではないか?
制度の文脈に、自分の“好き嫌い”が混じっていいのか?
帰り道、千尋は図書館近くのベンチに腰掛けた。
スマホを取り出して、久しぶりに実習中のメモを読み返す。
『7月×日 灯、縁側でコーヒーを淹れる。村人が一人、座って黙っていた。会話なし。でも、それがいい空気だった。』
『7月×日 葵、手作りアイスの試作3回目。笑ってたけど、ちょっと悔しそうな顔してた。』
『7月×日 自分は何してた? 多分、撮ってた。書いてた。あの時点では、それが一番大事だと思ってた。』
千尋はそっと目を閉じる。
(わたし、記録係じゃなかったはず。実習の一人だったはずなのに)
その夜、久しぶりに3人のグループチャットに投稿した。
千尋:「ねえ、制度って結局、誰のためやったと思う?」
灯:「むず(笑)」
葵:「役場的には地域のため。うちら的には……出会うため?」
灯:「制度なかったら、出会ってなかったよな」
千尋:「うん。でも、“制度”だけでは繋がらなかった気がする」
葵:「うちは、灯が縁側で淹れたコーヒーがなかったら、村に向き合えてなかったと思う」
灯:「逆に、千尋がおらんかったら、うちらのこと、何も残ってなかったかもよ?」
千尋は画面を見つめたまま、笑った。
(そうか。わたしが“いたこと”を、覚えてくれてるんだ)
その感覚は、制度の報告書には載っていない。
でも、自分がそこにいた証だと思った。
翌日。千尋は制度報告書の末尾に、新たな一文を加えた。
『制度とは、ひとつの“きっかけ”だった。
わたしたちは、それを通して互いを知り、誰かと暮らすことの難しさと優しさを知った。
制度の外で、この経験がどう続くか。
その記録を、未来の誰かに渡せるように、今ここに残します。』
その言葉を書いたとき、初めて“制度の意味”がわかった気がした。
【第43話 了】
千尋は“客観的な記録者”であろうとして、
一度は自分の感情を遠ざけようとしました。
でも、制度とは人が動いてこそ意味を持つもの。
そこに“いた”という事実が、彼女の中に新しい視点をもたらしました。
この回は、千尋が“書くこと”で立ち直る、小さな回復の物語です。




