第38話「水野千尋、“記録するという孤独”」
「……また、止まった」
千尋はパソコンの前で肩を落とした。
ゼミで提出する制度報告書の本文、数行まで書いては手が止まり、
カーソルの点滅だけが、彼女の迷いを映しているようだった。
(制度の内容、活動記録、成果。事実はある。でも、書けない)
なぜか――心がついてこないのだ。
「水野さん」
研究室のドアがノックされ、ゼミの教授が入ってきた。
穏やかな中年女性。千尋が唯一、実習について“個人的に話せた”大人だった。
「報告書、順調?」
「……いえ、詰まってます」
千尋は正直に答えた。教授は微笑んで椅子に座る。
「書こうとしてることって、“何があったか”?」
「はい……それを、正確に」
「じゃあ、“あなたが、何を思ったか”は?」
――沈黙。
「それって、入れちゃいけないと思ってて……制度の記録は客観的に」
「でも、水野さん。“制度”って、人が動いて初めて制度になるのよ」
千尋の目が揺れた。
教授は言った。
「人の感情は、制度の中で一番見えにくくて、一番壊れやすい。
でも、記録するなら、それを“見た”あなたが書かなきゃいけないんじゃない?」
千尋は何も言えなかった。
ただ、ノートの端に残っていた実習中のメモを開く。
『灯が縁側でコーヒーを淹れていた。黙っていたけど、あれは一種の“実践”だった気がする。』
『葵がアイスを手に、「商品化したら売れるかな?」と笑っていた。あの時、笑いの奥に“なにか”があった。』
千尋は静かにうなずいた。
(私は、記録係じゃない。観察者でもない)
(私は、あの実習に、“居た”)
それを、ようやく認めることができた気がした。
翌日。再びパソコンを開いた千尋は、本文の冒頭にこう記した。
「これは制度の記録であると同時に、
制度に巻き込まれた、ある三人の女子大生の、“ひとつの暮らし”の物語でもある。」
ようやく、書けた。
この回では、千尋が「書く」ことに真正面から向き合い、“当事者として記録する”ことの葛藤と決意を描きました。
制度の本質は“仕組み”ではなく、“動いた人の数だけの物語”です。
千尋がこの経験をどのように未来へ繋げるのか。彼女の章が、少しずつ動き出しました。