デイジー・ディズリーは信じてる。
「デイジー、一緒に死のうか」
そう言われた時──デイジーは、自身の誤りを知った。
(私……本当は)
本当は、愛されていた。
私のことなど愛していないと思った、この、冷たく見える婚約者に──。
☆
デイジー・ディズリーは、初めての恋に浮かれる貴族の令嬢だ。
彼女の初恋の相手は、ランドール伯爵家の嫡男、レイモンド・ランドール。
レイモンドは、デイジーの七個上だった。
一目惚れをしたのは、デイジーの方。
彼女は、母に連れられて行ったティーパーティーで、一目彼を見て──心を奪われた。
(きらきら……お日様、みたい)
豊かな黄金の髪に、穏やかな微笑みを浮かべる彼は、デイジーがもう少し大人であれば『遊び人』と認識するであろう、軟派な男性だった。
彼の隣には、いつも女性がいる。
その時も、レイモンドの隣には美しく着飾った貴婦人がいたが……デイジーの眼中には入らなかった。
彼女はただただ、衝撃的な一目惚れに心を奪われ──初恋をしたのだ。
あれから、八年。
十歳の時にレイモンドに出会ったデイジーは、今年で十八歳になった。
あと半年すれば、レイモンドと結婚する日だ。
デイジーは、母親にレイモンドとの婚約を強請った。
幸運なことに、デイジーの母、ディズリー伯爵夫人とランドール伯爵夫人は昔から付き合いがあり、その縁でトントン拍子に婚約は決まった。
その時の、デイジーの気持ちと言ったら。
彼女は、飛び上がらんばかりに驚いた。
なにせ、初恋だ。
少し年上の、大人びた彼が、デイジーの夫になる──。
それはあまりにも素晴らしくて、デイジーはそれから毎日ソワソワして日々を過ごした。
今まで見の入らなかった淑女教育だって、真剣に取り組むようになったし、侍女からレイモンドの好みを聞いては、理想の女性に近づくよう努力してきた。
レイモンドは、恋多き男だった。
デイジーの前ではさすがに隠すが、いつもほかの女性といるらしい。
彼女と婚約してからは、表立って女性を同伴させるような真似はなくなったが、それでも噂は絶えなかった。
最初はただ、レイモンドとの婚約が嬉しかったデイジーだが──やがて、強く打ちのめされることになる。
十五歳を迎え、デイジーは社交界デビューをした。
蝶よ花よ、と大事に大事に育てられたデイジーは、伯爵家の箱入り娘だ。
美しいエメラルド色の髪に、薄青の瞳。
その瞳は、まるで夜明けを知らせる群青色によく似ていて、彼女の美貌は社交界で有名だった。
しかし、まだデイジーは幼い。
十五歳といえば、女性の仲間入りをしたばかりで……とても、匂い立つような色香を持つ女性に、デイジーは太刀打ちできなかった。
ある夜会で、デイジーは友人に挨拶をするためにレイモンドの傍を離れた。
それは僅かな間だったが、彼女が戻った時、レイモンドの隣には見知らぬ女性がいた。
デイジーに気が付くと、レイモンドがふわりと笑う。彼女を、安心させるように。
友人だ、とレイモンドは女性を紹介した。
だけどただの友人でないことは──彼女にもわかった。
きっと、過去の恋人だ。
直感的にそう思ったデイジーは、彼女を睨みつけた。
あまりに短絡的すぎる行動だったが、さすがに数個、あるいは十個ほど年上の女性は、デイジーなど相手にしなかった。
ふふ、と彼女は微笑み、デイジーの嫉妬等あっさり流す。
若いのね、とそう言って。
彼女は悔しくて堪らなかった。
あと数年すれば、デイジーは社交界一の美女になるはずだ。
今はまだ、幼さが抜けきらず、美少女……という枠組みにいるが。
悔しいことに、レイモンドと並んで立つ彼女は──年齢の釣り合いが取れているからか。色っぽい美貌を兼ね揃えているからか。
(とても……お似合いだった)
デイジーはそれから、ますます淑女教育に熱を入れるようになった。
それどころか、異性から魅力的だと思われる女性像を参考にして、あちこちに足を運んだ。
オペラ、画廊、詩集会、夜会、演奏会……
友人に頼み込んで、いかがわしいと言われる仮面舞踏会にすら参加するようになった。
明らかに、彼女は迷走していた。
それでも、レイモンドは何も言わない。
デイジーには、レイモンドに愛されている自信がなかった。
なにせ、この婚約はデイジーが強く望んで結ばれたもの。
十八を迎えた今だからわかる。
レイモンドはきっと、もっと火遊びを楽しみたかったのだろう。
それなのに、七個も下の少女のワガママに付き合わされて、付き合いを考え直さなければならなくなった。
好かれているはずがない。
デイジーは悲しくて、悲しくて──どうすれば、レイモンドに愛されるかがわからなくて。
十八を迎えたデイジー・ディズリーは、理想の令嬢、と言われるほどになった。
何より、やはり際立つのは彼女の美貌。
そして、目線ひとつ、仕草ひとつ、彼女の動きは洗練されており、他者を惹き付ける。
美しい笑みを浮かべて話す彼女は、社交界の人々を魅了にしたし、虜にした。
だけど、レイモンドだけは、デイジーへの態度を変えなかった。
「ねえ、レイモンド。今日の夜会なのだけど」
ある日、デイジーは偶然を装って城まで行き、レイモンドに接触した。
レイモンドの仕事は、第二王子の補佐。
第二王子グラパーとは、幼い頃からの友人らしく、レイモンドは彼に忠誠を誓っている。
タタタ、と可愛らしい足音と仕草を意識して、デイジーは彼に近寄った。
デイジーは、彼が好きだ。
デイジーは、レイモンドを愛している。
一目見ただけで、一瞬、その姿を視界に捉えることが出来ただけで──彼女は、とても嬉しくなる。心が、舞い上がってしまうのだ。
(大好き。今日も、好きよ)
でもきっと、それはデイジーだけ。
この婚約は、いつまでたっても、いつまでも。
デイジーの片思いなのだ。
「どうしたの、デイジー。ひとり?」
レイモンドが、デイジーの背後を確認する。
すると、そこには侍女がひとりいて、彼はため息を吐いた。
「だめだよ、デイジー。きみは伯爵令嬢なのだから、きちんと騎士もつけなければ。夫人が心配する」
(……いつまで経っても、レイモンドは私を大人として見てくれない)
今の心配も、婚約者にするもの、というより、危なっかしい子供にする注意のよう。
彼の中で、デイジーは今も尚、子供のまま。
それを感じ取った彼女は一瞬沈黙してから、にこりと笑った。
「騎士なら、すぐそこにいるわ。私、あなたに会えたのが嬉しくてつい、駆け出しちゃったの。……ほら」
デイジーが振り向くと、焦ったように騎士が駆けてきた。
侍女に咎められるような視線を向けられている。
道中、彼は上司に偶然会い、合流が遅れたのだ。
それを見て、レイモンドは眉を寄せてため息を吐いた。
「……心配だな。いくら王城とはいえ、気を抜いてはいけないよ。分かった?」
「……ええ。ごめんなさい、レイモンド」
「分かったならいいんだ。きみは可愛いから、心配なんだよ。それで?夜会のことだっけ」
レイモンドの言葉は、保護者のそれだ。
彼と言葉を交わす度に、デイジーはそれを痛感する。
デイジーはパッと顔を上げた。
きらきらとした、眩しい笑顔を向けて。
「そう!そうなの。ねえ、今日のドレスはね、菜の花色にしたのよ。あなたの髪色によく似ている色になったの。だからね──」
そこで、デイジーは言葉を切る。
演技では無く、頬が赤く染まる。
恥じらいながら彼女は言った。
「ドレスにあう髪留めを……選んでくれないかしら。少しはやく来て下さるだけでいいの。だめ?」
「髪留め……」
レイモンドは少し考え込んでから、首を横に振る。
「すまない、直前まで仕事が入っているんだ。髪留めは、何でもいいと思うよ。きみなら、何だって似合うと思う」
「──そう」
デイジーは、言葉を呑んだ。
それから、全く気にしていない、というように振る舞って、とびきりの笑顔を見せる。
「それなら良いの!お気に入りのものをつけるから。あなたがくれた、シトリンの髪留めよ」
「ああ、あれ。でもあれは──」
レイモンドは何か言いかけたが、そこで微笑んだ。
「……うん、よく似合うと思う」
でもあれは、の続きは、何?
そう聞きたいのに、勇気のないデイジーは聞けない。
だって、彼女は怖い。
彼の愛が、自分にないと知ることが、怖い。
☆
式の三ヶ月前、ランドール伯爵家に不幸があった。
デイジーは、通夜でレイモンドに会ったが、彼は酷く思い詰めた様子で──彼女は、声をかけることが出来なかった。
それから、一ヶ月。
ランドール家に不幸があったので婚約期間は伸びるかと思われたが、通常通り来月、式をあげることになった。
若くしてランドールの名を継いだレイモンドを支援するため、デイジーの父、ディズリー伯爵が早く縁戚関係になった方がいいと考えためだ。
レイモンドはそれまで以上に忙しくなり──そして、ぱたりと彼は夜会にも出席することはなくなった。
さすがに王族主催の夜会や、出なければ角が出るものは参加するが、それ以外はめっきりだ。
デイジーには、一通のメッセージカードが届いた。
『父のことで迷惑をかけてすまない。しばらく、きみに会えない』
たった、二言のメッセージカード。
ランドール伯爵が亡くなってから、レイモンドはピリピリとしているようにデイジーには感じた。
それはレイモンドの弟のルイスも同様のようで、父の葬式後、彼は全くレイモンドと会っていないという。
ルイスはランドールの家を既に出ており、騎士職に就いている。
今は、騎士寮で寝泊まりをしているはずだ。
デイジーは、もどかしかった。
レイモンドが大変な状況であるというのに、自分は何も出来ない。
何か出来るかと考えたが、レイモンドが何に悩んでいるかすら、彼女には分からないのだ。
下手に干渉するのは、迷惑だろう。
(今までのツケが回ってきたんだわ……)
今まで、彼との曖昧な距離に甘んじていたから。
レイモンドと、ちゃんと向き合わなかったから。
だから、今になってデイジーは、どうすればいいか分からなくなっている。
(淑女教育なんかより……)
紳士に好まれる振る舞いや、スタイルを身につけるよりも、彼女にはしなければならないことがあったはずだ。
デイジーは、多くの紳士に好かれたいわけではなく──たったひとり。
レイモンドに可愛いと、そう思って欲しいだけだったのに。
ピリピリとしているレイモンドは、ランドールの名を継いでから本当に忙しそうで、邸への帰宅も遅い時間らしい。
らしい、というのは彼女の母からの情報だった。
デイジーはもう、この一ヶ月。
彼とまともに会っていなかった。
式の三日前になって──彼女は急に思い立った。
それまでウジウジと永遠に悩んでいたのだが、ここまできたらもう引き返せない。
(式を──婚約をとりやめるなら、もう、今しかない)
式が始まってしまえば。
結婚してしまえば、離縁は難しくなる。
デイジーは、考えたのだ。
本当に、自分はレイモンドを幸せにできるのだろうか、と。
彼女は、レイモンドが大切だ。
彼を愛している。
だからこそ、彼には幸せになって欲しいと……この一ヶ月、考えた末に出した答えだった。
(レイモンドと、話し合おう)
(本当に、本当に、私はあなたのことが好きなの)
大好きなの。
あなたと出会ってから、毎日がきらきらとして見えたの。
私、生まれてきてよかったって……あなたと婚約が決まった日は、天にも登るような気持ちだった。
でも──もし、レイモンドの気持ちを……彼の心を無視して、それを犠牲にした上での私の幸せなら。
デイジーは、それを手放す覚悟を決めなければならない。
決断が、遅すぎたほどだ。
だけど、今だからこそ、彼女は心を決めた。
刺々しい雰囲気を纏う彼に寄り添うこともできない。
デイジーだって、前伯爵にはお世話になったというのに一緒にその死を悼むことすらできなかったのだ。
何のための、婚約者だと言うのだろう。
そして──運命の日が訪れた。
手紙の返事はなかった。
無視されているのか、本当に忙しいのか。
だけど、五分でいい。
デイジーは、彼の心が知りたい。
そう思って、彼女はランドール伯爵家を訪ねた。
出迎えた執事はとても驚いた顔をしていた。
バツが悪くなるが、ここまで来たら引き返せない。
「どうした、ジェイムズ?」
ずっと、聞きたかった人の声が聞こた。
デイジーはパッと顔を上げた。
しかし、レイモンドはデイジーが玄関ホールにいることに気付くと、血相を変えた。
「どうしてきた!?しばらく会えないって言っただろ!!」
「っ……」
ビリビリとした怒声だった。
他人に怒鳴られたことの無いデイジーは驚きに身がすくんだ。
それに、その相手がレイモンドだということにも。
息を呑み、小刻みに震える彼女にレイモンドは煩わしそうに舌打ちをした。それにも、彼女の心が音を立てて跳ねる。
「仕方ない。来てしまったのなら……」
「レイモンド、私」
「すぐ帰りなさい」
「どうして……!?お願い、少しでいいの。話をしましょう!?私、明後日のことで」
「帰れと言ってるのが分からないのか!?」
レイモンドが再び怒鳴ったと同時。
轟音が外から聞こえてきた。
「きゃあっ……!?」
床が震えるほどの振動が伝わってきて、バランスを崩したデイジーを、レイモンドが支えた。
レイモンドは、扉の外を睨みつけるようにしながら、呟いた。
「クソ……あいつら、わざとデイジーを見逃したな」
「旦那様、どうされますか」
「援軍が来るまで持ちこたえる……と言いたいところだが」
執事のジェイムズとレイモンドの言葉が、デイジーの耳を滑っていく。
「既にアンダーソンとエルトンの家は落ちた。ここも、どこまで持つか分からない。デイジー」
「……」
デイジーは、呆然としていた。
何が何だか、分からない。
轟音──いや、発砲音だ。
先程の音は、銃声だったのだ。
それに気づいた彼女は、足がすくんだ。
何か起きているのか、分からない。
頭が真っ白になり、言葉も出ない。
愕然とする彼女の肩を強く掴んだレイモンドが、彼女に言った。
「デイジー!」
「っ……!」
驚きに、デイジーは目を見開いた。
気が付くと、すぐ近くにレイモンドの顔があった。
「きみは逃げるんだ。裏口ならまだ、間に合う。厩番に言って、そのままディズリーの家に向かうんだ。それでディズリー伯爵に伝えてくれ」
「待って、レイモンド。私、何が何だか」
「ランドールは、もう持たない、と」
その言葉だけで、デイジーは理解した。
理解して、しまった。
今現在、ランドール伯爵邸は何者かによって包囲されている。
そして、攻撃を受けているのだ。
「逃げるんだ、デイジー。分かるかい」
「嫌よ!どうして逃げなきゃならないの!?レイモンドはどうするの!?」
「僕は──」
その時、ランドールの私兵が玄関ホールに飛び込んできた。
「旦那様、表門が破られました!急ぎ、避難を!」
「っ……今行く!デイジー、いいな!?きみは裏口に!」
「嫌!!」
「ジェイムズ、彼女を」
「ねえ、待って!レイモンドはここに残ってどうするの!?死ぬつもりなの!?」
分からない、けれど。
このままここに残ろうとするレイモンドは、きっと──。
デイジーはなにがなんだかわからないまま、彼にすがりついた。
レイモンドは、ゆっくりと彼女の指を掴んで離すと、笑いかける。
彼女が好きな、穏やかな顔で。
「きみの幸福を、願ってるよ」
「嫌……!!」
「旦那様……!」
急かす私兵に、レイモンドが答えた。
「分かってる!デイジー、早く」
「嫌──」
そこまで口にした彼女だが、しかし、もうどうしようもないことは分かっていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
彼女は今日、婚約の話を彼にするつもりできたのに。
そのはずだったのに、なぜ──。
ここで、泣いても喚いても、きっとレイモンドは変わらない。
彼は、ここに残る。
それが、ランドール当主の役目だからだ。
彼には、守るべき使用人がいて、率いる私兵がいる。
自分ひとり、逃げるひとではない。
デイジーはそれをよく知っていた。
彼は、自分だけ助かることを良しとしない。
彼女のよく知る、彼女の恋した男は、ここできっと……。
(それなら)
デイジーはもう、覚悟を決めていた。
ずっと、ずっといいたかった言葉を口にした。
「レイモンド、私、あなたが好き」
「何を……」
こんな時に何を言い出すのか、と言いたいのだろう。
僅かに、困惑した気配を感じた。
だから、デイジーは言うのだ。
とびきり美しく見える角度に首を傾げて、美しい微笑みを浮かべて。
「だから、私、あなたが死ぬのなら私も一緒に死ぬわ」
敵の攻撃はどんどん酷く、苛烈なものになっていった。
奥の当主の私室に向かいながら、レイモンドはデイジーに事の経緯を説明した。
調査の結果、大規模な違法取引──武器の売買、密輸が行われていたこと。
だけど、決定的な証拠を抑えることは出来ず、全ての鍵を握っていると思われるジェスコ・ジェルソンの尋問を行う手筈だった。
しかし、どこからか情報が漏れていたのか、ジェスコは逃亡した。
レイモンドたちも彼の行方を追っていたが、ここにきて、彼は攻撃に転じてきた、というわけだ。
彼は、自暴自棄になっていた。
密輸にて手に入れた大型火器を手にし、自身を追い詰めることとなった人間を殺すことにしたのだ。
それには、第二王子の側近であり、摘発の一躍を買ったレイモンドも、含まれる。
「ジェスコ・ジェルソンがどう出るか分からなかったから、きみとも距離を置いた。僕にとって、致命的な弱点は、きみだ」
「どうして教えてくれなかったの」
知っていたら、ディズにもなにか出来たかもしれない。
遠くから轟音が聞こえる。
その度に、レイモンドは僅かに足を止める。
きっとまだ、迷っている。
本当にデイジーを道連れにしていいのか、と。
だから、デイジーは更に言うのだ。
「私、そんなにあなたに信頼されてなかった?」
「違う。きみを巻き込みたく──いや、きみには、何も知らないでいて欲しかったんだ」
「…………」
やはり、自分では力になれないからか、と落ち込みかけたところで、レイモンドが言う。
「きみには、そういう暴力とか、策略とは──遠いところに、居て欲しかった。……僕の、ただのわがままだよ」
「──」
デイジーは息を呑んだ。
その時、階下から歓声のようなものが聞こえてきた。
思わず振り返るデイジーに、レイモンドが言う。
「急ごう。……邸に突入された」
ふたりは私室に入ると、レイモンドが扉に鍵をかけた。
「これで、少しは時間を稼げるだろう」
そう言って。
そして、彼は棚の引き出しから、なにか取り出した。
てっきり、武器の類いだろうとデイジーは思ったのだけど──彼が取り出したのは、小箱だった。
ベルベット生地に包まれた、デイジーの手のひらサイズの、小さな小箱。
「それ……」
「本当は、式の日に渡したかったんだ。……こんなことになってしまって、すまない。きみを、巻き込んだ」
「──」
デイジーは、言葉が出ない。
レイモンドが、箱を開ける。
中には、指輪が収められていた。
煌びやかなダイヤモンドが縦爪の指輪に嵌められている。
呆然とするデイジーの指を取り、レイモンドが指輪を填めた。
「……僕は、きみが一番大切だよ。僕の可愛いお姫様。きみだけは、巻き込まないと……そう、誓ったんだけどな」
「レイモンド、これ」
「ディズリー伯爵は、きっと僕を恨むね。きみを守るどころか、道づれにする、不出来な男を」
「ねえ、これ。……私、あなたの」
あなたの、妻になることを許されるの?
あなたは、私でいいの?
そんな言葉を口にしようとして、言葉に詰まる。
結局、口にできたのは──愛の言葉だけ。
デイジーは、彼に抱きついて、涙を零した。
「私、今、すごく幸せなの。私ね、ずっとあなたが好きだったの。今も好き。初恋なの」
「……知ってる。でも、実際の僕はこんなに頼りなく、情けない男だ。きみなら、もっとふさわしい男が社交界に山ほどいるだろう。本当に、いいの?」
この期に及んで良いも悪いもないのだが、きっと今だからこそ、レイモンドも尋ねられたのだろう。それが分かっていたから、デイジーは何度も頷いた。
「私、あなたの妻になるわ。ここには神父様も、永遠を誓う女神像も、参列者も、婚姻誓約書だってないけど──でも、いいの。これだけで、いいの」
デイジーは、自身の指に嵌められた指輪に触れた。
涙を零しながら笑みを浮かべる彼女に、レイモンドが困ったように笑う。
そして、彼らはどちらともなく──口付けを交わした。
初めての、キスだった。
扉の向こうから、怒号が聞こえる。
もはや、失うだけのジェスコは、なりふり構っていられないだろう。
このまま待てば、城からの応援が到着すると思われるが……その時間は、ないようだった。
当主の私室に鍵が掛けられていることに気がついたのだろう。
怒声が向こうから聞こえ、続いて扉を壊さんと何かを叩きつける暴力的な音が響いた。
咄嗟に、デイジーの肩が跳ねる。
そんな彼女の背中を撫で、レイモンドが言った。
「デイジー、一緒に死のうか」
柔らかく、微笑んだ彼に、デイジーは目を見開く。
そして、彼女は思い知ったのだ。
自身の誤りを。
(私……本当は)
本当は、愛されていた。
私のことなど愛していないと思った、この、冷たく見える婚約者に──。
その日、当主の私室から──二発の、銃声が聞こえた。
レイモンドが所持する拳銃で、彼らは心中したのだ。
そのことは、後世において、【ランドールの悲劇】として語り継がられることになる。
ジェスコが主導した大規模なクーデターは、数時間後には騎士軍に制圧されたが、死者はかなりの数が出た。
その中には、貴族も数名含まれていた。
王家は、大勢の犠牲者を出したことを嘆き、その死を悼むために、石碑を立てた。
以来、その日を迎えると、石碑には多くの白百合が捧げられるようになったのだ。
☆
ぱち、と目が覚めると、デイジーは十八歳を迎えてすぐの頃に、戻っていた。
(……!?)
バッと飛び起きたデイジーは、咄嗟に自分の体を確認した。
どこにも怪我をしていない、それどころか──
(ここは……ディズリーの邸宅?)
デイジーは、レイモンドと心中する半年前に戻っていた。
なぜか、過去に戻ったデイジーは、しかしすぐに決意した。
なぜ、過去に戻ったかはわからない。
もしかしたら、デイジーは壮大な夢を見ていたに過ぎないのかもしれない、とも。
しかし、その可能性は直ぐに打ち砕かれた。
なぜなら、見知ったことが起きるからだ。
春の嵐が訪れたのも、デイジーの記憶通りの日。
夜会で、ある夫人が貧血で倒れたのも、デイジーの記憶にある夜会でのことだった。
婚約発表の日程も、どこそこの家で子供が生まれただとか、そう言ったものまで全て記憶と一致している。
デイジーは、認めざるを得なかった。
あれは、実際に起きたことなのだ、と。
それを知ったデイジーは、すぐに行動に移した。
レイモンドは、確実な証拠を押さえられず、尋問するしかなかった、と言った。
であれば、現場を直接押えてしまえばいい。
もう、彼女はあんな末路を辿ることだけは、絶対に嫌だった。
その日から、デイジーは変わった。
その美貌を、男をたぶらかすためだけに、使うことにしたのだ。
彼女は、ジェスコ・ジェルソンに接触するために、色っぽい女性を演じた。
思わせぶりに目配せをし、適宜スキンシップを計る。
そんなことをしていたものだから、当然デイジーの評判は地に落ちる。
レイモンドの弟のルイスや、父であるランドール伯爵、そしてデイジーの兄にも、その振る舞いは注意された。
それでも、デイジーはやめなかった。
彼女には、目的があったからだ。
結果、デイジーはジェスコとの接触に成功した。
彼は、美しいデイジーにすっかり気を許し、ペラペラと、自身の計画についても話してくれるようになった。
密輸した武器の隠し場所──以前、レイモンドが言っていた【つかみきれなかった証拠】とは、これのことだ。
デイジーは、情報を引き出すだけ引き出すと、それを第二王子へと持って行った。
第二王子グラパーは、最初、デイジーにかなり警戒していた様子だったが、その話をすると呆気にとられていた。
「……あなたは、なぜその話を私に?レイモンドは、私の側近だ。彼に話せば──」
それに、デイジーは首を横に振る。
どこで情報が漏れるか分からない。
ジェスコは、確実に、完全に、言い逃れのできない状況で拘束しなければならない男だ。
逃がしたら──以前と同じ道を辿ることになる。レイモンドを信頼していなかったわけではない。
だけど、デイジーは確実な方法を取りたかった。
「必ず、現行犯で取り押さえてください。あの男が、言い逃れができないように」
強く言うと、グラパーは僅かに目を見開き、それから眉を寄せた。
「……確認しよう」
恐らく、グラパーはデイジーの言葉を完全に信じたわけではない。
むしろ、罠の可能性があると考えたはずだ。
デイジーは、あの叩けば埃まみれになりそうな男、ジェスコと親しくしていたのだから。
だけどすぐ、彼は知ることになる。
デイジーの言葉は、真実だった、と。
☆
新聞の一面に、ジェスコ・ジェルソンが捕まったと書かれていた。
デイジーは、成功したのだ。
それを見た時、彼女の手は震えた。
もはや、デイジーの淑女としての名は地の底に落ちたが、それでも良い。
彼女は、自分の愛を守ったのだから。
(それでも……)
レイモンドの目が、どんどん冷たくなっていくことだけは辛かった。
最初レイモンドは、デイジーにジェスコや、その周りとの付き合いを考えるよう何度も言っていた。
だけどデイジーはそれに従わなかった。
結果、レイモンドとの距離は離れてしまったのだ。
以前、デイジーはレイモンドに愛されていないかもしれない、と不安に思っていた。
だけど、今だからこそわかる。
本当に気持ちがなければ、今のレイモンドのように──とても、冷たくなるものなのだから。
レイモンドの父は、前回同様に亡くなってしまった。
死因は、先天性の病が理由だったから、デイジーにはどうしようもなかったのだ。
レイモンドとは全く会話をしない日々が続く。
以前と違い、ジェスコの件が片付いたので、レイモンドには余裕があるはずだが──彼は、デイジーを避けているようだった。
どう扱っていいのか分からないのだろう。
今のデイジーは、男漁りが趣味の、どうしようもない女だ。
その日、デイジーはランドール伯爵家に呼び出された。
その日は、運命の日だった。
以前、デイジーとレイモンドが自死した日だ。
この日に、レイモンドに呼び出されたことにデイジーは緊張した。
嫌な予感が頭をかすめる。
(大丈夫、大丈夫よ……)
なぜなら、悪しきジェスコは独房の中。
その取り巻きも、デイジーの情報のおかげで全員捕まっている。
デイジーはとんでもなく恨まれていることだろう。
だけど、それは彼女にとってはどうでもいいことだった。
三日後は、デイジーとレイモンドの結婚式だ。
(……何を、言われるんだろう)
デイジーがランドール伯爵邸に到着すると、執事のジェイムズが彼女をサロンに通した。
すぐにレイモンドがやってきて、彼女にいった。
「きみは、社交界で悪女と呼ばれているね」
「……!」
やはり、その話だった。
婚約を、解消したいというのだろうか。
直前ではあるけど、デイジーの責として解消することは不可能ではない。
何より、それを可能にするほどに、デイジーの評判は良くなかった。
しかし、彼女には時間がなかった。
タイムリミットは、半年。
その間に、彼女はジェスコと親しくなる必要があったのだ。
彼女の振る舞いは、とても淑女のそれではない。
デイジーのせいで、ランドール伯爵夫人は体調を崩し、療養のため辺境に向かってしまった。
良心の呵責が彼女を苛むが、彼女にはそれ以外手段がなかった。
ジェスコから情報を入手するには、デイジーの美貌を使うのがもっとも的確だったのだ。
「……デイジー、顔を上げて」
のろのろと、デイジーは顔を上げた。
ソファに座る彼女の前に、レイモンドが跪く。
そして、彼女の手を取った。
「ずっと不思議に思っていたんだ。なぜ、きみが突然変わってしまったのか、と。デイジー、きみはそんなひとじゃなかったでしょう」
「レイモンド……」
「グラパー殿下から、聞いたんだ。ジェスコを捕らえられたのは、きみのおかげだと」
「──」
「どうして、そんなに危ないことをしたの?」
レイモンドはゆっくり、彼女に尋ねた。
デイジーは目を見開き、それから視線を逸らした。
まさか、レイモンドが死ぬのを防ぎたかった……とは言えない。
過去の記憶を知らない彼からしたら、なんのことか分からないだろう。
だから、デイジーは当たり障りないことを口にする。
「怪しそうだと、思ったから…」
信ぴょう性に欠ける理由だが、レイモンドは彼女を問い詰めようとは思わなかったらしい。
彼はフロックコートの内側から、小箱を取り出した。
息を呑む。その、赤のベルベット生地に包まれた小箱は──彼女が前回、死ぬ前に目にしたものだったからだ。
彼は、パカ、と小箱を開けた。
「指、輪?」
デイジーがぽつり、言葉を零す。
レイモンドが苦笑した。
「本当は、これを渡す時に……きみの行いについて聞こうと思っていたんだ。僕自身、ずっと違和感を覚えていた。きみのその振る舞いには、なにか理由があるんじゃないか、とね。悩んでいる僕を見かねて、殿下が僕に教えてくれたんだ」
『お前の婚約者は、勇敢だね』──と。
そこで、彼は初めてジェスコの拘束に至った理由を知った。
「殿下は、ジェスコの摘発に協力してくれたきみに、褒美を与えると仰せだ。きみの名誉を回復する意味合いもあるのだと思う」
「私は……」
「僕は、ずっときみを守りたいと……守るべき女の子だと思っていたのだけど」
そこで、レイモンドは言葉を切る。
そして、デイジーの返答を待つことなく、彼女の薬指に指輪を填めてしまった。
煌めきを帯びたダイヤモンドの石が、彼女の指を飾った。
「きみは、いつの間にかこんなに勇敢な女性になっていたんだね」
そっと、彼は彼女の額に口付けを贈った。
「だけど、次に危ないことをする時は……必ず相談して欲しい。もう、あんな思いはしたくない」
「あんな思い?」
「……きみを取られるかと……失ってしまうかと思った」
レイモンドは、デイジーの手を取って彼女を立たせた。
その声は、とても冷たく感じた。
その言葉に一抹の嫉妬と恐れを感じとった彼女は、そんな場合では無いのに、笑みを浮かべていた。
なぜなら──。
「私、レイモンドが好き。大好きよ」
「僕も、きみを愛してるよ。我ながら、困るくらいにはね」
やっと、想いを交わせたから。
以前のように、死を目前にした状態ではない。
涙を零しながら、デイジーは笑う。
明後日。
今度こそ、彼女は──この国で誰よりも幸せな花嫁になる。
デイジー・ディズリーは信じてる。
婚約者の愛が自分にあることを。
そして、彼女は知っている。
婚約者が、本当に自分のことを想ってくれていることを。
これは愛に生きるデイジーが愛のために悪女になり、その愛を守ったお話。
-fin-
デイジー「どうして髪飾りの時、口篭ったの?」
レイモンド「黄のドレスにシトリンだと、色が被るんじゃないかと思ったんだけど……どちらにせよ、きみは可愛いから関係ないなと思ったんだよ」
デイジー(……言ってくれればいいのに)
という会話がどこかで発生していたように思います。
短編(短くまとめるの)が苦手なので、練習で書いてみました、が、八千文字を目標にしてたのに一万文字を超えてしまいました。難しい。またチャレンジしたい…!!
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読んでいただきありがとうございました!