ミュージック
「ミュージシャンなんて言ったって、最近じゃすっかりサラリーマン化しちゃってましてねぇ・・・」
照れ笑いを浮かべながら、ヒデロウは領収書の束が詰まった財布の中、窮屈そうに並んでいる名刺に手をやった。
「あっ、名刺?だったら僕は受け取らないよ。そう言うの嫌いだからさ」
それまで穏やかだった男の顔が意外なまでに険しくなっていったが、ヒデロウはそれ程気にもとめていなかった。古いタイプの業界人には、ミュージシャンが名刺を持ち歩き、熱心に営業活動をしている姿を否定的に受け取る人も多い。まぁ、良くあることだ。
「そうですか、でもホント気が向いたらでいいんで、その時にはメールでもして下さい、お願いしますよぉ」
いつからだろう、こんな甘ったるい声色を使って、何の抵抗もなく営業トークが出来るようになったのは・・・。ヒデロウの脳裏に、一刺し何かが突き刺さって、目の奥が少し痺れた。しかし、体は自然と反応し、名刺は男の注文したアイスティーの横、几帳面に畳まれたおしぼりに平行して置かれた。
それを見た男のため息と、それに混じって何かを呟く声が聞こえた。が、ヒデロウが聞き返すには、その声はあまりに小さすぎた。
「ま、また、新曲が出来たらデモ渡したいんで、ひとつ宜しくお願いします!あっ、ゴーストライターなんてことも引き受けるんで、遠慮なくどうぞ、それでは・・・」
雲行きが怪しくなるのを感じて、ヒデロウは立ち上がり男の前にある店の伝票に手を伸ばした。
「待ちなさいっ!」
渋谷のスクランブル交差点。その風景が一望出来る小さな喫茶店の店内に、男の苛立ちを隠さない低く太い声が響いた。
ヒデロウは慌てて手を引いた。恐らくその瞬間、小動物のような声も出したかも知れない。とにかくその場に直立不動し、睨みつける男の目を見つめるしかなかった。
「まぁ、もう少し座って話をしよう」
どれだけ時間が経ったのか、とにかくヒデロウが男の目の奥に「寂しさ」らしきものを感じ取ったその直後、やわらかい口調で男が話しかけてきた。ヒデロウはその言葉に操られるように、もとの椅子へと腰を下ろした。
「君が今までどんな仕事をこなして来たか、僕は知らない。ただ、この短い時間の中で、君は僕が今まで愛してきた音楽とそれを取り巻く世界をどれ程侮辱したと思う?」
男の口調は落ち着いたものになっているが、その質問の矛先がヒデロウに対して、そしてヒデロウのミュージシャンとしての在りように向けられていることは理解出来た。
「君と今日会う約束をしたのは、僕の信頼する友人からの紹介があったからだ。それがボイストレーナーのクミコ、君もそれは知ってるね?僕とクミコとは、まだこの音楽業界が発展途上と言われる時代に出会い、お互い仕事は違うものの、良い音楽に携わることに強い誇りと責任を持って今まで数十年とこの業界で生きてきた」
そう、今回この男、つまりレコード会社最大手の一つキャスターレコードの有名ディレクターであり、既にその会社役員にも名を連ねる立場にある引田との接点を設けてくれたのは、現在通っているボーカルスクールの講師であるクミコの紹介があったからだ。
彼女は数回のレッスンの後、ヒデロウの音楽を聴いてみたいと声をかけてきた。最初は、今まで楽曲提供し、そこそこヒットを飛ばしたアーティストの音源を手渡した。ヒデロウの今までの実績として、それは業界内でも高い評価を受けるだけの作品の数々であり、それら評価がヒデロウのコンポーザーとしての自信にもつながっているのは確かだ。
しかし、クミコはそれらの作品の封も開けずに
「本当にあなたが世の中に伝えたいと思える作品を聴かせてちょうだい」
と言い放ったのだ。
正直面食らってしまったが、確かにこうやってボイストレーニングを受けるに至ったのは、自分自身が歌い、そしてそれを作品として世に出すことへ渇望にも似た感覚があったからだった。
翌週のレッスン日。クミコに今まで自宅スタジオで録り溜めてきた作品を手渡した。今まで誰にも聞かしたことがない作品の数々。正直、それらは今までの楽曲のように他人に提供できるような代物ではない。何故ならヒデロウの極めて私的な感情と描写が楽曲全般に渡り織り込まれているからだ。
通常レコード会社から楽曲依頼を受ける時、「今流行っているあの曲みたいなものを」、とか、「とにかく若者達が食いつくような夢だとか希望だとかを盛り込んで」、であるとか、「とにかく泣ける歌を・・・」、などというお決まりのテーマが羅列される。ヒデロウはその都度、その似たり寄ったりのテーマに沿って、同じく似たり寄ったりの自身の楽曲群の中から、メロディーや詩の「切った張った」を繰り返し、何とか「新曲」という体裁を整えてレコード会社に渡すのだ。
結果、運も味方してか、その中からドラマ主題歌やCMソングに採用されるもの、大手レコード会社が売り出した新人アーティストのデビュー曲となりヒットになるものが生まれ、ヒデロウの業界内の評価は急激に高まっていき、それと同時に印税を含めた収入は目が眩むほどの額になっていった。
そして、その膨らむ収入に呼応するように、ヒデロウが住む部屋も、中央線沿線の1Kマンションから、近くの新築の2LDKマンションへ。翌年には山手線沿線の駅近くにたった高層マンションの一室を購入するに至った。
しかし、正しくヒデロウの成功を具現化したようなその部屋から見下ろす東京を眺めていると、次第に心の中に湧き上がってくる押さえようのない感覚がヒデロウを支配するようになっていた。
人づてにクミコの名前を聞いたのは、そんな時だった。日本のボイストレーナーの草分け的な存在であり、三十年以上も業界内でトレーナーとして第一線で走り続ける彼女の存在は、ヒデロウのモヤモヤとした日々に、一筋の光明となるような予感がしていた。
レッスン初日。開口一番、何故ここに来たかをクミコはズバリ問いただした。口籠っていると、矢継ぎ早に違った角度から質問が浴びせかけられた。それはまるで、一人の人間の精神が、時空をも超えた大きなCTスキャンにかけられていくような錯覚に陥るほどだった。
ひとしきり質問の波に揉まれた後、ほんの少しの時間でボイストレーニングの基礎に触れる。そして、最初のレッスンは終了。翌週、また次の週と、同じようにヒデロウの精神はスキャンされ、ほんの少しのトレーニング・・・。いい加減うんざりしてきた。
だが、そんな苛立ちを持ちながらも、何となく居心地は悪くない気がしたので、毎週その時間になると都心から車を走らせ郊外にある教室に向かった。
レッスンに通い始めて一ヵ月が過ぎた頃、クミコは唐突にヒデロウの作品が聴いてみたいと口にした。
「クミコは感心していたよ。今の業界にもこんな曲を書ける人間がいるんだよ!なんてね・・・」
引田は氷も溶けきったアイスティーに口をつけると、少し口角を上げた。
「彼女は、昔から業界を達観しているような大人な雰囲気も持っていたけど、感情を露わにする時には、本当に少女のようになる・・・それは今でも変わらない。とにかく不思議な人なんだよ」
引田は窓の外、渋谷の雑踏を眺め、何かを思い出しているかのような遠い目をしながら微笑んだ。
「僕も今回、はじめて君の曲を聴かせてもらったよ。もちろん世に出回っている君が作った曲も僕は知っている。でも、クミコが手渡してきた曲は、それらとは全く異質なものだった」
異質・・・。
そう、正しく異質なものだ。ヒデロウもそれは分かっている。何故なら、それらの制作過程が既に違っているからだ。
「君は沢山の人の死に触れてきたね?それを衝動的に作品にしてきたんだろう?しかし、それらは売れっ子作家には似つかわしくない、ネガティブなイメージを与える恐れがある作品だ。君は世に出す機会を奪われた作品達を、それでも今まで大切に守ってきた。でも、それも限界だ、いつからか売れっ子の自分と本当の自分との乖離に耐えられなくなってきたんだろ?」
引田の目は澄んでいた。
ヒデロウが今まで見てきた業界人の目とは全く違う。それこそ「異質」なものだ。
これは業界の中の話ではない、きっと人間同士の話なんだろう・・・。ヒデロウから堰を切ったように言葉が溢れ始めた。
最初に作品が出来たのは、自分が十九歳の春、生まれ育った山形の小さな町でのことだ。
ヒデロウには親の記憶が無い。
薄っすらと記憶が始まるのは、祖父と祖母、そしてその曾祖母との四人で暮らしている風景だ。
雪深い山の中、茅葺の屋根、囲炉裏。
そんな昔話に出てくるような家で、ヒデロウは幼い頃を過ごした。数えるほどの世帯が身を寄せるように立ち並ぶ集落。子供同士で遊んだ記憶も無く、雪に包まれれば、家に居る年寄りと童謡や唱歌を一緒に口ずさむのだけが楽しみだった。
祖母は体が弱く、いつも布団に横になっていたため、家のことは曾祖母と農作業の合間を縫って帰ってくる祖父とで行っていた。
ヒデロウが小学校に上がる少し前の冬。祖母は亡くなった。二日ほど高熱を出していて、いよいよ苦しそうな呼吸をしはじめた吹雪の夜。祖父が町まで医者を呼びに行っているのを待たずに息を引き取った。
ヒデロウの耳には、あの晩の吹雪がヒューヒュー鳴く音と、祖母の苦しそうな呼吸とが、不思議なハーモニーとして残り、頭から離れることが無かった。
そして、その年の夏、祖父は農作業中に農機具の下敷きとなり、あっけなく亡くなった。
ヒデロウがランドセルを背負って帰ってきた夕方、集落の人たちが家の前に集まり、何やら世話しなく蠢いていた。
葬儀の日、日差しは強く、この日を逃すまいと集落中のセミが大声で鳴いているようだった。セミのジージーという音と、祖父が焼かれていくパキパキという音。それらが奇妙なリズムを刻み、やはり頭にこびりついて取れなくなった。
それからは、曾祖母とヒデロウの二人きりの生活が始まる。
九十歳を過ぎた曾祖母だったが、家のこともちろん、祖父が残していった田畑の一部を耕し、家で食べるには困らないくらいの野菜は作っていた。ヒデロウは学校の行き帰りには必ず曾祖母の手を引いて畑まで連れて行った。
それから五年十年と経ち、曾祖母は百歳を迎える。近所の人たちが集まり、色々な食材を持ち寄ってくれて百歳の祝いをしてくれた。
しかし、この頃には曾祖母も畑には出ることもなくなり。家の中で日中過ごすことが多くなり、足腰もめっきり弱くなっていった。
その頃、ヒデロウは高校生。隣町にある高校に通い、クラブ活動では仲の良い友達とバンドを組み、ギターを弾き始めた。しかし、放課後はアルバイトに出かけるため、昼休みなどに短時間練習をし、そして授業が終わると町にある焼肉屋で夜までアルバイトをする・・・という日々を送ることになる。
ヒデロウが高校三年生の春。曾祖母が寝たきりになった。雨が強く降り始めた夜、曾祖母は雨戸を閉めようと土間に降りる際に転び、腰の骨を折る大怪我をした。それ以来、起き上がることが出来なくなった曾祖母。寝たきりになると、次第に記憶も曖昧になり、ヒデロウの卒業が迫る頃には、自分の手で食事をすることも出来なくなっていた。
日中は、同じ集落に居た以前に看護師をしていたと言うおばさんに、曾祖母の世話をお願いしていた。
ヒデロウは、いつものように学校帰りにアルバイトをし、帰りは友達から譲ってもらった原付バイクで深夜家まで帰った。その頃、途中の幹線道路には、田舎には珍しいコンビニエンスストアーが一軒出来たため、ヒデロウはバイトの帰り必ず立ち寄り、自分のものは買わず、翌朝曾祖母に食べさせるプリンを毎晩一つずつ買って帰った。
朝は六時には起き、曾祖母の身の回りの世話をした後、買ってきたプリンをスプーンですくって曾祖母の口へと運ぶ。認知症の症状も進み、だいぶ咀嚼する力も衰えていたが、年寄りの口には合うらしく、曾祖母は笑顔でそのプリンを頬張った。
七時が過ぎると看護師のおばさんが顔を出してくれる。そこで、簡単に自分の身支度を整えると、おばさんに後を任しヒデロウは学校へと向かった。
卒業式の日には、看護師のおばさんと集落の代表をしているおじさんの二人が、式に参列してくれた。
家に帰ると、おじさんからのお祝いと言うことで、寿司などがとってあり、もう既にひ孫の名前も分からなくなっていた曾祖母を囲み、四人でささやかな宴を開いてくれた。
宴が終わる頃、ヒデロウは看護師のおばさんに家の外に呼び出された。まだ雪が残る夕暮れの山里。おばさんは「ホントにおめでとうなぁ」と一言声をかけると、涙を流しヒデロウの体を強く抱きしめた。
そして、曾祖母がもう長くは無いことを静かに告げたのだ。
初めて「死」を受け入れなければならない時が来た。今までも、身近な人間の死には立ち会ってきたが、ヒデロウはその頃あまりに幼く、それらの死を何らかの「痛み」として捉えることはなかった。
しかし、今回は違う。この世に唯一残った家族。今までどんな雨風に晒されようが、凍えるような夜の冷気に身を震わせようが、それでも二人で乗り越えてきた掛けがえのない家族。それを失うのである。
百二歳の老婆と、十八歳の少年。この傍から見れば奇妙と思われる二人暮らし。それでも、お互い寄り添って生きてこられた。
でも今、目の前の老婆はこの世を去ろうとしている。それじゃ、残された自分は一体何と寄り添えばいいんだ・・・。
日が沈んでいく・・・。山の稜線がはっきりと、オレンジと黒を二つの世界に隔てていく。
お願いだ太陽よ、これ以上沈まないでくれ・・・。
卒業式から数日後、曾祖母は息を引き取った。ヒデロウが昼過ぎからアルバイトに出かけたその間のことだった。
アルバイト先に連絡が入り、既に闇に包まれた集落をバイクで駆け上り、家の玄関に立った。隣町からお医者さんも来ていて、近所の人たちがヒデロウに気づくと、皆温かく曾祖母の近くまで誘ってくれた。
そこには、まだ頬に赤みのある安らかな顔があった。背後で看護師のおばさんの声が聞こえる。
「ヒデちゃんが昼過ぎに出でから、私が見てだんだけど、実はもうお婆さんこの一週間くらいは何も飲むごども食べるごども出来ねがったのよ。ヒデちゃんが出がける前にあげでたプリンも、あれも冷たいもんだから体が反応して口空けてるだげでね、本当は飲んでやるごとなんて出来ねがったのよ。んだけどヒデちゃん、今日も婆ちゃんが食べた食べたって喜ぶがら・・・、私言わんねぇくてよぉ、ホントごめんなぁ・・・」
おばさんの嗚咽が聞こえた。
しかし、他の音は何も聞こえてこなかった。祖母の時のように吹雪の音もない。祖父の時のようにセミの声もない。ただただ静かな空間の中にヒデロウはいた。
お通夜を終え、曾祖母と一晩を過ごし、お葬式。本当に静かだ。何の音も聞こえてこない。辛うじて遠くからお経の声が聞こえてくる。しかし、頭の中に焼き付くようなものではない。
気がついたら出棺を迎える時間になっていた。
「ヒデちゃん、お婆ちゃんの顔を最後によっく見どいでな」
看護師のおばちゃんに手を引かれ、ヒデロウは棺の脇に立った。集落の人や、小中学校の同級生や先生達が次々に棺を囲んだ。皆、片手に花を持っている。これを棺に納めて、婆ちゃんを綺麗に囲む・・・。そんなことを集落の世話役のおじちゃんが説明している。しかし、その声も遠い。
ヒデロウにも花が一輪渡された。そして、皆が棺の中に花を並べて合掌していく。ヒデロウはしばらくその風景を眺めていた。
世話役の人が話しかけている、どうやら自分が最後に花を手向けるようだ。
もう一度花を見つめ、そしてゆっくりと曾祖母の顔に寄り添うように花を置いた。
音楽が流れ始めた。
周りを見渡すが誰かが演奏している訳でもない。そして回りの人たちは気づいていないようだ。でも、頭の中ではっきりと音楽が流れ始めた。アコースティックギターの音が聞こえる。そして、その伴奏に絡み合うように、これはチェロの音色だ・・・。そして、歌が始まった。 歌っているのは・・・、幼い時の自分だ。そして、それに寄り添うように女の人の歌声もする。
あぁ、これが曾祖母だ。そうだこんな声で昔よく歌ってくれた。本当に美しい声だった。
鳴り始めた音楽が、ヒデロウの心を満たしていった。
そうか、全て音楽だったんだ。あの吹雪やセミの鳴き声も、祖母の息遣いや祖父の棺が焼けていく音も、そうか全て音楽だったんだ・・・。
引田の目に薄っすらと涙が見えた。しかし、その表情は何か喜びに満ちているようだった。
ヒデロウも一気に吐き出た言葉の数々に、自分でも戸惑っていた。
渋谷の街がオレンジ色に染まっていく。ビルの隙間から、ほんの少し空が見えた。
引田は改まると、内ポケットから何やら取り出した。
名刺だ。
「私は引田と申します。今日はあなたに会えて大変光栄です。話の続きはこの後一杯やりながらでも。とにかく今後とも、末永いお付き合いを宜しくお願いいたします」