オモニの慈愛
優しい風の息遣いが透き通るように美しく清澄な湖面にさざ波を起こしている。足元から伝わる冷ややかな水の感触。頭上から降り注いでくる暖かな日差し。雲一つない青空の下で全裸のアルフレッドは浅瀬で水浴びをしていた。身体に纏わりついた肉片と血を洗い流すためだ。大変な作業を終えた後の充実感は得も言われぬものがあっった。灰色に見えていたはずのアルフレッドの世界は急に色づき始めるのだ。木々達のざわめき、獣の鳴き声、鳥のさえずり。何気ない風景の断片に過ぎない自然現象であるがアルフレッドにはそれら全てに複雑な意味が込められている気がしてならなかった。彼はこれを『啓示』と呼び、主から自分宛に送られてくる特別なメッセージであると思い込んでいた。
「空気が騒がしいな……何だか嫌な予感がする」
アルフレッドはただの鳥のさえずりを空気が騒がしいと形容した。そして彼の予感は不運にも的中することになる。空気を引き裂くような音が背後から聞こえた時には、既に彼の右頬に熱い刺激が走っていた。頬から血筋が垂れ落ち、驚くほどの透明度を誇っていた湖面に赤い色が付け足された。背後を振り向くと、湖の岸辺からこちらを弓矢で射貫こうとする何者かの姿がそこにあった。
「新たな試練を与えてくださいましたこと心から感謝申し上げます。主よ」
アルフレッドは高ぶる気持ちを抑えきれないと言わんばかり挑戦的な笑みを口元に浮かばせると、岸辺に立つ謎の男と向かい合った。
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アルフレッドは脱兎のごとくその場を逃げ出し、深い森の中へと逃げ込んでいた。
「魔法障壁が無ければ即死だった」
極東の国では敵に背中を見せることは恥であると言われているらしいが、アルフレッドはちっぽけな自分のプライドより、1つしかないかけがえのない自分の命を守ることに全力を尽くした。彼が名付けた『オモニの慈愛』という魔法障壁は全ての物理攻撃を一時的に無力化することができる。まさに最強の盾と言っても過言ではないだろう。
通常魔法を1秒間使用すると218.4Jほどのエネルギーが一瞬にして体内から消失するが『オモニの慈愛』はさらにその倍。つまり436.8Jものエネルギーが使用されてしまう。アルフレッドは逃げる際に、尋常ではないエネルギーが消費がされてしまう『オモニの慈愛』を3秒間も背中に障壁を張っていた。体力は既に底をついていた。大木に背中を預けながら彼は、土の上を這う昆虫を貪り食らい、失ったカロリーを少しでも補おうとしている。
「これもまた試練……。クチャクチャ。耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶことで、クチャクチャ。 僕の魂は磨かれ、クチャクチャ。さらに洗練されるはずだ」
カブトムシの表皮を奥歯で何度もかみ砕きながら、彼が念仏のように独り言を唱えていると、ザッザッと地面を踏みしめる音が遠くの方から聞こえてきた。
「クチャクチャクチャクチャクチャクチャ……ごくり」
カブトムシの欠点は甲殻は硬く、飲みこむまでに何度も咀嚼する必要があることだった。翅のもしゃもしゃした歯ざわりは良いが、常食にするには臭みとエグみがあるため、少々厳しいものがある。一番のネックは細かく砕かれた外殻の破片が口の中の至る所に突き刺さって痛いことだ。そのためエネルギー転換効率と味(微甘味)を考えればどう考えても幼虫の方に軍配があがる。しかし窮地に立たされたこの状況で贅沢は言っていられない。
体力が若干、回復したアルフレッドは追手を別の方角へと誘導するため、すぐそばにあった小石を手に取り、右に向かって放り投げた。小石は放物線を描きながら、遠くの草葉に投げ込まれ、ガサッと音がした。
成功しただろうか? 大木からゆっくり顔を出し、誘導が上手くいっているかどうか追手の様子を確認した。大きな弓を担ぎながら森の中を歩く追手である男の衣服は繊維の目が粗く、吸水性に優れた麻で編まれているに違いない。衣服の袖から覗く日に灼けた浅黒い腕は太く、まるで丸太のようだった。男の足取りは見た目に似合わず慎重であった。先ほどアルフレッドが石を投げた方角に向かってゆっくりと歩みを進めている。
アルフレッドも追手の男に倣って神経を極限まで研ぎ澄まさせ、慎重な足取りでこの場から立ち去ろうとする。が、しかし大木の根に足が引っかかり、派手に転んでしまった。
「そこか!!」
「ひぃぃいいいいいい!」
アルフレッドはすぐに立ち上がると、森の中をがむしゃらに駆けまわった。当然、後ろから矢はびゅんびゅんと飛んできた。木を上手く盾にしながら、追手の男との距離を離す。衣服を身に纏っていないため木の枝が何度もアルフレッドの皮膚に刺さった。股間にぶらさがる男の象徴は、走る度に振り子のように揺れ、太腿をぺちぺちと鳴らした。108回程ぺちぺちと鳴ったところで後ろを振り向く。どうやら追手から逃げ果せることができたらしい。緊張の糸が解けたアルフレッドは、ほっと胸をなで下ろした。