08.家政婦女子はお風呂掃除をする
魔術師の塔で紗代が家政婦として働き出して一週間経った。
屋上庭園で収穫した新鮮な野菜を使った朝食を食べ終わると、「やる事がある」と言ってジークは私室へ戻って行った。
この世界のことや聖女のことなど、自称偉大な魔術師ジークに訊きたいことはいっぱいあったのだが、塔に一人で暮らしている彼はコミュニケーションが苦手なのかもしれない。
フォークを置いた紗代は勝手に人付き合いが苦手なのだと納得して、ボウルに顔を突っ込んでいるケルベロスを見る。
「急いで食べると消化に悪いのにね」
「がう?」
味付けを薄くした特製スープを一心不乱に飲んでいたケルベロスは顔を上げ、スープでビチャビチャになった口元を一舐めして首を傾げた。
食器や鍋を洗い食堂の掃除を終えて、掃除道具をバケツに入れて持ち昨日から気になっていた場所へ向かった。
其処は何代か前の魔術師が造り、今はほぼ使っていないという浴室だった。
砕いた魔石を塗り込み耐水性を高めた壁面には、裸の女性像や花々の彫刻が刻まれロココ調な浴室で、異国の神話絵巻を見ている気分になる。
壁面と同じ素材で造られた広い浴槽は乾いており、長い間湯は張られていなかったようだ。
魔法の力で劣化は防ぎ綺麗な状態を保っていても、使わなければ勿体ない。
「こんな素敵なお風呂をほとんど使っていないとか勿体ないもの」
先程の朝食中、浴室の掃除をして使用していいというジークの許可は貰った。
「広すぎて管理が面倒くさいのは分かるけど」
まだジークと知り合って数日だが、彼は物凄く面倒くさがりだということが分かった。調理場の掃除が面倒で、非常食ばかり食べていたと言っていたくらいだ。
ロココ調のお風呂に美少年は物凄く似合う。とはいえ、きっと湯を張り直ぐに入れるようにしてあげなければ面倒くさがって入らない。
「久し振りにお風呂に入りたいものね」
今までは、共同浴場は使わせて貰えずに水で濡らしたタオルで体を拭くか浄化魔法で綺麗にしていた。それに比べれば、部屋にはシャワールームも付いており、毎日髪を洗えるのは幸せだと思う。とはいえ、お風呂があるのならゆっくりお湯に浸かりたい。
ワンピースとエプロンを濡らさないように脱いで、下着の上に太腿の中ほど丈のキャミソールだけを着た姿になった紗代は、デッキブラシに洗剤をつけて浴室の床を擦り洗う。
裸足に泡が気持ちよくて、鼻歌混じりにデッキブラシを動かす。
床を擦り終わり、泡をシャワーで洗い流そうと蛇口ハンドルを捻ろうと腕を伸ばして、バランスを崩してしまった。
よろめいたところを床の泡で足が滑り、紗代の体は大きく傾ぐ。
「うわぁっ!!」
床に尻を強か打ち付ける痛みを覚悟して、紗代はぎゅっと両目を瞑った。
「えっ?」
痛みと衝撃の代わりに感じたのは、全身が床についていないような浮遊感。
洗剤の香りに混じってミントに似た香りがして紗代は目蓋を開いた。
「おい、大丈夫か?」
開けた視界に飛び込んできたのは、腕組みしたジークの姿だった。
青紫色の瞳が紗代を見下ろす。
「ジーク君?」
ジークが視線を動かすと、僅かに浮いていた紗代の両足が床へつく。
転びかけたのを助けてくれたのだと分かり、お礼の言葉を言おうとしてジークが注視している先、自分の胸元を見て……キャミソールと下着のみの姿だということを思い出した。
「ぎゃー!!」
悲鳴を上げた紗代は、胸元を隠そうとして両腕をクロスして後ろへ跳び下がり、床の泡に足を取られた。
ツルンッ!
「馬鹿っ!」
手を伸ばしたジークが紗代の腕を掴み、またもや転倒は免れる。
「あの、二度も助けてくれて、ありがとう」
泡の無い床へ立たせてもらい、全身を真っ赤に染めてキャミソールの裾を伸ばして太腿を隠しながら紗代はお礼を言う。
真っ赤に染まる紗代の汗と水で濡れた頭から泡まみれの足までを見下ろし、ジークはフンッと鼻を鳴らした。
「隠さなくとも、お前の裸を見ても何も思わない。俺は女の裸など見慣れているからな」
少年らしからぬ問題発言を聞き、どういうことかと紗代は混乱する。
「そ、その年でモテ男な発言をしちゃ駄目ですよー」
今時の少年はマセているのか。ジークがマセているだけなのか。
紗代の頭の中でクエスチョンマークが浮かんでは消える。
引きこもり魔術師とはいえこれだけの美少年だ。年上女性達に可愛がられるとか、「お姉さんが教えてあげる」的なピンク色な経験はしているのかもしれない。
悶々とする紗代を無視して、ジークは人差し指を軽く振った。
ふわりっ、やわらかい風が吹き抜けていき汗と洗剤を含んだ水でベタついていた髪と体、下着までがサラリと乾く。
風呂上がりのようにさっぱりした肌と髪からはほのかに花の香りもしてきて、紗代は目を丸くする。
「凄い、一瞬で乾いちゃった。これは、魔法?」
浴室の床の流していなかった泡も綺麗に無くなっており、紗代は恥ずかしさとは違う興奮から頬を染めてジークに問う。
「風と水の魔法を応用した初歩魔法だ。これくらい、ああ、お前は異世界人だから知らないのか」
何てことは無いと言うジークは詠唱も無しにやってのけたが、お城で使用人をしていた時に訪ねて来てくれた魔術師は魔法を使う時は呪文と媒介が必要と言っていた気がする。
簡単な生活魔法でさえ魔力を練るための呪文があるのだ。
流石“偉大な魔術師”だと、尊敬の眼差しでジークを見る。
「魔法って便利だね」
「覚えてみるか?」
「えっ?」
突然の提案に、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「魔法は元の世界では使えないだろうが、覚えておけば何かの役には立つだろう。お前は弱すぎて危なっかしいからな。明日から教えてやるよ。じゃあ、もう転ぶなよ」
言いたいことだけ言ったジークは、紗代の返答を聞かずに背中を向けて転移魔法を使い浴室から姿を消した。
***
皮を剥いて切り分けた林檎を一齧りして、酸味と甘さのバランスの良い味に紗代は笑顔になる。
「この塔は凄いね」
魔術師の塔だけあって、屋上庭園は魔法により一定の気候に保たれているらしく外の天候には左右されない。
季節関係なくたわわに実った果物、畑には食べ頃に成長した新鮮な野菜、池には海と川の魚が混在して泳いでいるし、天国があればこんな光景なのだろうか。
『ねぇ、主との関係は進展した?』
『キスくらいしたの?』
『手を出されないなら、サヨが主の唇を奪っちゃいなよー』
先程、散々纏わりつかれた妖精達から言われたとんでもない台詞。
未だにジークとの関係を勘違いしている彼女達の戯言は、首を数回振って打ち消した。
「ジーク君が引きこもる気持ちが分かるな」
孤独に耐えうる精神の持ち主ならば、引きこもって好きなことに没頭して生きていけるのは最高だろう。
一生引きこもっていたいとは思わないが、一週間くらい引きこもって好きにしてみたい。
カットした林檎に砂糖、レモン汁、シナモンを少量入れて煮込む。
甘い香りを嗅ぎ付け、ケルベロスが紗代の足元に頭を擦り付けて味見を強請る。
「ジーク君、食べてくれるかな?」
夕飯の材料を探しに庭園へ行った紗代は、庭園で収穫した林檎を使ってアップルパイを作っていた。
元の世界へ戻す約束と雇用契約を結んで此処に置いてくれたこと、浴室で転倒しかけた時に助けてもらったお礼の気持ちを込めて、焼き上がったらアップルパイを一緒にジークの部屋へ持って行くつもりだ。
「がううっ」
林檎のコンポートが出来上がるのを、大人しく座って待っているケルベロスから「大丈夫!」と励まされたような気がして紗代は微笑む。
「ありがとう。ケルちゃんには甘さ控えめのものを作るからね。しかし、あの年齢でモテ発言するとか将来が心配だよねぇ。女の子慣れしているみたいだし」
『お前の裸を見ても何も思わない。俺は女の裸など見慣れているからな』
浴室でのジークの発言が脳裏に蘇ってくる。
キャミソール越しとはいえ、紗代の胸を見てジークは鼻で嗤ったのだ。
誰と比較されたのかは分からないが、紗代は自分の胸が小振りな方なのは自覚していた。
無配慮な年下の男の子に遠回しに「色気が無い」と言われると、腹が立つし少しだけ悲しくなる。
麺棒を取り出して無心でパイ生地を伸ばす。
麺棒を持った無表情の紗代を見て、目尻を下げたケルベロスの耳と尻尾が下がっていく。
「あ……あは、ごめんね」
(年下の男の子なんだから誇大したことも言うでしょ。「何とも思わない」と言われて腹を立てるだなんて、助けてもらって少しだけでもトキメクだなんて。どうかしているわ)
転倒しかけた時に、腕を掴まれた時に胸がキュンとなった感覚は気のせいだと、紗代は首を振った。
お風呂ハプニングは定番です。