“偉大なる魔術師”は彼女と出会う
お待たせしました。
じーく君、紗代ちゃんと出会う。
積み上げられた汚れたシーツを籠から引っ張り出し、洗濯板に擦り付けてよく洗い、水ですすいだシーツを両手で絞る。
汚れたシーツを擦り洗いする娘の指先は、深い井戸から汲んだ冷たい水で真っ赤になっていた。
ぎいぃぃ……
無心で洗濯をする娘は自分の背後の扉が開き、眉間に皺を寄せた薄汚れたエプロンを着けた使用人の中年男性が入って来たことに気が付かない。
持ち場を離れカードゲームに興じていた中年男性は、そのことを上司から叱責された苛立ちを最近下働きとして雇われた、身寄りも後ろ盾も何も無いという新入りの娘で発散させようと洗濯場までやって来たのだ。
八つ当たりをするつもりの娘に対する罪悪感など抱かない。新入りは皆受ける洗礼なのだから。
「おいっ! 新入り! まだ洗い終えていないのか! こののろま女が!」
握り締めた拳を振り上げた使用人の男性は、卑下た笑みを浮かべて勢いよく拳を下ろす……ことは出来なかった。
笑みは苦痛の表情へ変わり、男性は呻き声を上げた。振り下ろそうとした拳と腕は、見えない何かに絡み付かれ動かすことが出来ない。
洗濯をする手を止めてようやく振り返った娘は、目と口を開いた驚きの表情で男性を見上げた。
カツカツ、足音と共に洗濯場に突然第三者の気配が出現する。
「何をしている」
静かな、しかし逆らい難い雰囲気を放つ声が聞こえ、使用人の男性はビクリと肩を揺らした。
「し、新入りの娘に仕事を教えていただけです」
「……拳を振り上げて脅し、この娘が仕事を覚えると言うのか?」
扉から姿を現したのは漆黒のローブを頭から目深にかぶった長身の魔術師だった。
彼の顔半分はフードに隠れて見えないはずなのに、鋭い眼光を感じた男性は震えあがった。
がくがくと膝が震え出し男性は、腕を振り上げたままの格好でその場に尻もちをつく。
「消えろ」
「ひいいいー」
見えない何かから腕を解放され、男性は悲鳴を上げながら四つん這いで洗濯場から逃げていった。
何が起きているのか理解が追い付かない娘は唖然と男性の後ろ姿を見送り、ようやく魔術師の青年へ視線を移した。
「あの、貴方は、どうして此処に?」
魔術師の青年は問いには答えず、戸惑う彼女の側まで歩み寄ると地面に片膝をついて身を屈めた。
「……私が早く駆け付けていれば貴女にこのような真似はさせなかったのに……申し訳ありませんでした。どうか、手を見せてください」
懇願に近い声で言われ、彼女は冷たい水を使用してかじかみ感覚が鈍くなった両手を魔術師の青年へ差し出した。
魔術師の青年の指が真っ赤になった彼女の指先に触れ、黄緑色の温かな光が指先から手のひら全体へ広がっていく。
光に包まれた指は感覚が戻り、血が滲んでいた指先のあかぎれが瞬時に癒えていった。
「わぁ……ありがとうございます」
水仕事で荒れた手は、使用人となる前の滑らかな肌触りへと戻り、彼女は大きく目を見開き微笑んだ。
無表情で洗濯をしていた時と異なり、嬉しそうに笑う彼女をフードの奥から見つめていた魔術師の青年は主の命でかけていた“最低限”の守りの魔法を強化した。
その日の深夜。
目くらましの結界を張った魔術師団の自室で、魔術師の青年は鏡越しに彼の主へ火急の報告があると連絡を入れ、自分の影を主の元へ送った。
「予想以上に聖女は消耗されており、早急に保護する必要があります。どうか御命令を」
ここ数日、魔術師の青年は監視対象の第二王子達の側についていた。守りの魔法はかけていたとはいえ、聖女から目を離していた間にあれほどまで彼女が衰弱しているとは思わなかった。
明らかに痩せてやつれた彼女は、満足に食事と睡眠をとっていないようで顔色も悪く、生気が失せていた。あの急激な衰弱は、疲労栄養と疲労だけが原因ではない。聖女の力を増幅させる聖杖を手にしていないことが原因なのだろう。
「……分かった」
報告を受けたジークフリートは、室内に浮かぶ無数の球体から白銀色の球体を選び、指を横に動かして自分の側まで動かす。
銀色の球体が映し出すのは、月光がほとんど入らない小さな窓がある狭く暗い部屋。硬い木製のベッドで眠る彼女の姿だった。
数日後、用意していた塔を聖女が居住できるように整えさせ、部下であるファンデルに指示を出したジークフリートは王宮の外れに打ち捨てられていた転移門へ魔力を流し込み、彼女を呼び寄せ魔国へ転移させた。
最高位の力を持ち賢く鼻が利く魔獣、ケルベロスに娘の臭いを覚えさせて転移門近くに待機させておき、ジークフリートの思惑通りケルベロスが聖女を塔へと連れて来る。
遠見魔法で見た娘は、召喚時よりも窶れて痩せていた。
彼女を哀れに思い、先ずは食事をさせようとケルベロスに調理場へ案内させた。だが、何を勘違いしたのか娘はジークがシンクに放置した皿の汚れを洗おうと、流食器洗い用のスポンジを探して粉石けんを泡立て始める。
声をかける機会を廊下でうかがっていたジークフリートは、皿洗いを始めた娘に半ば呆れながら無防備な背中へ声をかけた。
「何者だ」
「きゃっ」
ガチャンッ!
突然背後からかけられた声に、娘はビクリッと大きく肩を揺らし手から食器が滑り落ちた。
「お前は、此処で何をしている?」
速まる心臓の鼓動を落ち着かせようと深呼吸をして、娘はゆっくりと振り返った。
声をかけたジークフリートを見て、娘は目を丸くする。
少年の姿へ変化させたのは娘に警戒心を抱かせないため。戸惑いつつも警戒はしていない彼女に対して安堵している自分に気が付き、内心苦笑いした。
水道の蛇口ハンドルを閉めて水を止めた娘は濡れた手をスカートで拭う。
「その、私は……」
どう答えたらいいのか迷う娘とジークフリートの間に、部屋の隅にいたケルベロスがやって来るとどかりと座った。
「くーん、くーん」
耳と尻尾を下げたケルベロスは、ジークフリートへ向かって情けない声を出して「怖がらせないでくれ」と訴え出す。
どうやらケルベロスは娘と関わった、たった数時間の間ですっかり彼女に懐柔されてしまったようだ。
「ケルベロス? まさかお前が此処へ招き入れたのか?」
「がうっ」
目を細めて返事をして嬉しそうに肯定したケルベロスは、褒めて欲しいと尻尾を振り全身でアピールをする。
(魔獣の中でも警戒心が強く、残忍で己より強者しか従わないという地獄の番犬、ケルベロスがこうも簡単に懐くとは。これが聖女の力か)
目の前の娘とどことなく似ている前任の聖女を思い出す。彼女も関わる者は人、魔物関係なく好かれていた。
「娘、どうやってこの地へ来たか話してもらうぞ」
腕組みをしたジークフリートが圧をかけ、娘の顔色から血の気が引いていった。
調理場の作業テーブルとイスを指差し、座るように指示する。
テーブルを挟んでジークフリートと向かい合って座った娘は、促されるまま自分が理解している範囲で一か月前聖女召喚に巻き込まれてこの世界に来たこと、その場で不要だと判断されて今まで使用人以下の扱いを受けてきたことを伝えた。
途中、唇を噛み締めて涙を浮かべる彼女の椅子の横に寝転がったケルベロスが頭を擦り寄せ、励ましてくれているのが妙に気になった。
「ふーん、魔王討伐のために異世界から聖女召喚ねぇ。ラスピア王国ならやりそうだな。それで、娘、お前は巻き込まれた挙句、奴等から謝罪の一つも受けられずに不当な扱いをされたわけか。で、嫌気がさして城から逃げ出した先が此処だった、というわけか」
ジークフリートの問い掛けに頷きかけて、娘は首を傾げる。
「私は娘という名前ではありません。田中紗代という、ちゃんとした名前があります。逃げ出して来たというか、風で飛ばされた洗濯物を追いかけて行ったら森へ入ってしまい、門の様な物を見付けて光に包まれて。気が付いたら此処の近くにある森の中に居たんです」
このタイミングで娘が名乗るとは思っていなかったジークフリートは笑いそうになった。
自ら名乗るということは、彼女の緊張が解けているということ。自分に対する警戒心など、彼女は抱いて無いのだと確信する。
「それで、サヨはこの後どうするのだ」
名前を呼んだことに驚いて、紗代は俯いていた顔上げて少年を見詰める。返事をしようと唇を動かして、「あ」と声を出した。
「あの、名前を、貴方の名前を教えてください」
「俺の、名前?」
ジークフリートは怪訝そうに眉を寄せる。
暫し紗代と見つめ合い、彼女の真っすぐな視線に耐え切れず息を吐いてジークフリートは視線を逸らした。
「ジーク、そう呼べ」
ぶっきらぼうに言えば、緊張で強張っていた紗代の表情が緩んだのを見て苦笑いを浮かべた。
「ジーク君」
『ジーク君』
幼い頃、自分のことを“ジーク”と呼んだ聖女、紗知子の声と重なる。
記憶の中の紗知子とよく似た、しかし全く異なる娘。
「サヨ」
娘が名乗った名前は似た響きだからか、すんなりと口にすることが出来た。ジークフリートは歪みそうになる唇に力を入れ、無表情を装う。
「何だ、ジーク君って?」
「年下の男の子だから、君をつけただけだよ」
「年下ねぇ……まぁ、そういうことにしてやるか」
(今はまだ、知らせるつもりはない。聖女召喚の真実も俺のことも。今のサヨに必要なことは、休息だ。阿呆王子達への報復はもう少し先でいい)
外見に騙され年下と思い込んでいる紗代と、主の意味深な視線を感じ取り縮こまるケルベロスを交互に見て、ジークは愉しそうに口角を上げた。
痩せちゃった紗代ちゃんを見て、ジーク君は放置していたことを反省する。




