00.家政婦女子は心配する
聖女召喚に巻き込まれたオマケ女子の話を始めました。
よろしくお願いします。
世界の端、樹海と荒野が混在する“最果ての地”と呼ばれる地に大昔から在るという、魔術師の搭。
最上階は雲の上にあり、その全貌は下から見上げる者には分からない。
塔に住むのは、強大な魔力を持つ魔術師とも強大な力を持つ魔物だとも言われており、内部には古に滅びた帝国の秘宝があるとも言われていた。
数多の冒険者が塔を目指して最果ての地へ足を踏み入れたが、強力な魔物と険しい大地に阻まれて塔まで辿り着けなかったという。
幸運にも塔へと辿り着いたとしても、内部へ入ることが出来るのは、塔の主に許された者のみだった。
黒光りする重厚で四隅を金属で補強された扉に耳をくっつけ、濃紺色のメイド服を着て長い黒髪を耳の後ろで二つに結んだ少女は、扉の向こう側の物音をどうにかして聴きとろうとして耳を澄ましていた。
どんなに扉に耳をくっつけても、耳を澄ませても、自分の息遣いと心臓の鼓動しか聴こえない。
扉から耳を離した少女は、ふぅと息を吐いて扉に手をつく。
白銀の狼を一回り大きくしたような獣が、傍らに座って心配そうに少女を見上げている。眉間に赤い瞳を持ったその獣は、額の目と両目、両耳を下げて立ち上がると「もう止めなよ」とばかりに彼女の服の裾を引っ張る。
「止めないでケルちゃん、ジーク君が部屋に引き篭もってもう二日だよ? さすがにこれ以上は心配だよ。前は遅くても翌日には出てきたのに。何かあって倒れて干からびているかもしれないじゃない」
「がうぅ」
真剣な顔で言う少女に圧されて、獣は咥えていた服の裾から口を外す。
『いいかサヨ。これから少々面倒な案件を片付けなければならない。俺が出てくるまで部屋には近付くな』
雇い主である自分より年下の少年にそう命じられたとはいえ、二日前の昼ご飯からご飯も食べずに部屋から出てこない彼がお腹を空かせていないか心配になる。
獣が後ろへ下がったのを確認して少女、紗代はエプロンドレスのポケットから金色の鍵を取り出す。
家政婦として塔の主に雇われている紗代は、塔内の掃除をするために塔内の全部屋に対応したこの合い鍵を“ご主人様兼師匠”から受け取っていたのだ。
音を立てないように鍵穴に鍵を差し込みゆっくりと回す。
「邪魔するな」とあれだけ彼は言っていたのに、こんなに簡単に鍵が解除されるのは不用心だなと、拍子抜けした気分で紗代は扉を開いた。
「ジーク君ー!! 生きていますかー? 夕ご飯の時間ですよー。心配だから入りますよー!!」
勢いよく扉を開き、紗代は箒を片手に持ち室内へ足を踏み入れる。
居住階の半分ほどの面積を使ったこの部屋はとても広く、天井まで届く無数の本棚が設置されているものだから、さながら本棚の迷路。
初めてこの部屋を訪れた時は、本棚の迷路に迷子になり標本や薬品が並ぶ棚の中、きょろきょろ辺りを見ているうちに扉を見失ってしまったのだ。
本棚の迷路へ向かおうとした時、目を吊り上げた牙をむき出しにした獣が彼女の前へ躍り出た。
「がうぅー!」
「どうしたの? ケルちゃ、えっ?」
ぼたり、紗代の頭上から生暖かく重量のある何かが落ちてきて、彼女の全身を粘着質な液体が汚していく。
『イイニオイ。ウマソウダ』
五メートルはあろうかというくらいの高い天井に頭がついてしまい、顔を斜めにしている頭部に角が生えた巨大な一つ目の大男が本棚を掴んで紗代を見下ろしていた。
目を見開いて硬直する紗代と視線が合うと、大男は大きな口と目を歪めて笑う。
「きゃああー!!」
悲鳴を上げた紗代は、驚きすぎてその場にへたり込んでしまった。
牙を剥いて身を屈めた獣は、今にも大男に飛び掛からんと臨戦態勢をとる。
大男が紗代へ向けて手を伸ばそうとした時、部屋いっぱいに金色の光が出現して室内は光の洪水となった。
「え?」
光が収束しきつく閉じた目蓋を開いた紗代の視界から、大男の姿は最初から居なかったかのように消え去り部屋中に漂っていた重苦しい空気は無くなっていた。
部屋の空気も生臭い匂いではなく、何時もと同じ薬草の独特の香りへ戻っている。
今のはいったい何だったのかと、紗代は目を瞬かせた。
臨戦態勢を解いた獣が紗代の傍らに座り、真っ白でフワフワの毛で覆われた尻尾をブンブンと振り出す。
「このっ、馬鹿がっ!!」
響き渡る怒号によって部屋の中の物が揺れる。
紗代もビクリッと肩を揺らし「ひっ」と悲鳴を上げた。
「部屋には入って来るなと言っただろうが!!」
怒鳴りながら本棚の影から現れたのは、目を吊り上げた銀髪の少年。
外見だけならば12、3歳くらいの年齢に見える彼は、シャツの襟元から覗いた喉ぼとけを隠して低めの声を発しなければ、括った銀髪を下ろしていれば美少女に見える中性的で綺麗な顔立ちをしていた。
切れ長の紫色の瞳は光の加減で鮮やかな赤紫色にも深い青紫色に変化し、初めて彼と顔を合わせた時の紗代は思わず見入ってしまったものだ。
そんな将来有望な美少年だが、今は瞳に怒りの光を宿して雰囲気だけで紗代を圧倒する。
「だって、だってご飯が、出来たから。昨日もずっと出てこないから」
震える唇で言葉を紡ぐ紗代の眉尻が下がっていく。
「邪魔して、ごめんなさい」
少女の大きな瞳に涙が浮かぶのを見て、少年はグッと言葉を飲み込んだ。
「いい。連絡しなかった俺が悪い」
零れ落ちる涙から視線を逸らすように、少年は横を向いた。
「飯を作って待っていてくれたんだろう? お前達と一緒に食べる。と、その前にサヨは風呂だな」
少年の言葉で首を動かして下を向いた少女、紗代は、自身の惨状を知った。
「うわぁっ?! 涎でベッタベタ?!」
先程、一つ目の大男が垂らした涎を頭からかぶっていたのだ。
涎まみれだと自覚した途端、粘着質な液体の不快感とヘドロに近い生臭さに包まれている気持ち悪さで、吐き気と全身に鳥肌が立ってきた。
「ひぃー!! 気持ち悪い~!」
「全く、お前は」
泣きべそになって慌てだす紗代から飛び散る涎をかわして、少年はブハッと吹き出した。
「ほら、行くぞサヨ」
笑いを堪えて少年は紗代へ手を差し出す。
涎で汚れてべたべたしているのに、触れていいものと戸惑い少年の顔を見る。
「粘液まみれでは転ぶぞ。歩けないのならば大人の体になって担いでやろうか。風呂も大変だろうから一緒に入って洗ってやるよ。触手の粘液まみれになった時みたいにな」
ニヤリと口角を上げて、少年は意地の悪い笑みを浮かべる。
「か、担ぐとか、一緒にとか無理だって! あの時は頭が変になっていたからっていうか、本当にアレは無理―!!」
全身を真っ赤に染めた紗代の脳裏に、無茶なお手伝いを強要された挙句食虫植物の粘液まみれになり、大人の姿になった少年に全身を洗われてしまい羞恥のあまりで倒れた時の記憶が蘇る。
子どもの姿でも色気のある美少年の彼と一緒にお風呂に入るのは想像するだけでも無理なのに、大人の姿になった彼は神々しいばかりの色気を放っていて近付くだけで体が熱くなり、動悸息切れに襲われて苦しくなるのだ。
「嫌なら掴まれ」
「ジーク君のえっち、変態」
「誰が変態だ」
ムッと眉間に皺を寄せた少年は紗代を睨む。
差し出された自分よりも少しだけ小さな手を握って、紗代は鼻水を啜りながら浴室へ向かったのだった。
半年前、異世界から聖女召喚する際、近くに居た自分はオマケとしてこの世界へ召喚された。
元の世界へ戻ることと引き換えに、紗代がジークと交わした家政婦の雇用契約期間が終わるまであと半月。
思った以上の待遇の良さと此処の居心地の良さに、この生活をもう少しだけ続けたいと、ジークともう少し一緒に居たいと思ってしまう。
繋いだ手をぎゅっと握れば肩越しに振り返ったジークが僅かに笑う。
繋いだ手に力がこもった、気がした。
もう一話更新予定です。