やさしい人
王都郊外の小さな庭園付きの屋敷。
元は下級貴族の邸宅だったらしいそこに、フィナは一人で住んでいた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
出された黒に近い色の紅茶を一口――眉一つ動かさずに飲み込んだ。家や王宮で出された紅茶と比べるのは愚かだが、それを差し引いてもよく分からない酸味と渋みが喉を滑り落ちていく。
やたらと不味い紅茶だったが、逆にその不味さがリザの心を鎮めてくれた。
「まず、貴女の名前から聞いてもいいですか?」
テーブルを挟んで向かい側に座ったフィナのその一言で、リザは自分が名乗ってすらいないことに気づいた。彼女には名乗らせたというのに、貴族の癖で「自分は知られていて当然」という意識が抜けない。
(平民として生きると決めたのに、まだ心は貴族なんだわ)
己の覚悟の無さを突き付けられたような気がして内心で恥じる。が、反省は後だ。
フィナが静かな眼差しでこちらを見守っている。かつて王妃教育として現王妃と面会したときと同じ、背筋を無理矢理正すような緊張がリザを襲った。
「リザと申します。事情があって家を出ましたの。家事は……得意ではありませんが、必ず身につけます。お願いです、私をここに置いてくださいませ」
「家事、得意じゃないの? 使用人だったのに?」
「…………私、こんな格好をしておりますが、実は使用人でも何でもないのです」
ぎゅっとスカートを握りしめる。視界の端で、短くなった金髪がちらちらと煌めいていた。
事情を説明したくなかった。婚約破棄から勘当までの一連の流れはリザの人生の汚点であり、まだ新しい傷である。血は止まれど触れれば容易く傷は開く。
けれど傷はなによりの証明でもあった。開示せねばリザは信用が得られない。
知らず震える口で事情を説明しようとしたリザを、華奢な手が遮った。
「――――いいよ。話さなくて」
「はい?」
「そんな青い顔で説明されても内容なんて頭に入らないし、お貴族様のどろどろした事情は聞いていて気分が悪くなるから」
「で、ですが話さなければ、私は……っ」
家事の出来ない使用人なんて、お荷物も甚だしい。貴族時代のリザが一番それを知っている。
思わず立ち上がった衝撃で、紅茶のカップが倒れ紅茶が勢いよくテーブルを濡らした。
「あっ」
「あ、ああ……っ」
おろおろする間に紅茶はどんどんテーブルを埋め尽くしていく。元々それほど大きくないテーブルだ、すぐに端まで到達し床に雫が落ちた。
(な、何か拭くものを――――手巾、いえそんなもの持っていないわ。布がどこにあるかも分からないし――――)
拭くもの。手巾。布――そこまで考えて、リザは自分が今着ているものを思い出した。
今のリザはエプロンとワンピースという簡素な作業着。つまり汚れてもいいもの。
そして服とは布である。
そこまで考えたリザの行動は早かった。
「え、ちょっと何して――」
フィナの驚いた声などなんのその。
エプロンを解き、丸めるように畳んだそれを、黒い水の広がるテーブルに押し付けた。
じわりと白かったエプロンが茶色く汚れていく。流石王宮使用人服、吸水性が高い。
ごしごしと水分を取り除くように拭き、テーブルの端から滴り落ちる紅茶と床に広がった水溜まりもエプロンに吸わせる。途中で道具が足りなくなったので、胸元のリボンと頭のスカーフも外して手巾代わりに酷使した。
「ふう。綺麗になりましたわね。掃除って、気持ちのいいものなのですね!」
「っあはははははは!!」
今まで体験したことのなかった未知の爽快感に顔を輝かせれば、堪えきれないとばかりにフィナが笑い声を上げた。
きょとんと首を傾げれば、フィナが肩を震わせながらリザの汚れたエプロンを手に取る。
ひぃひぃ言いながら、けれどその夕焼け色の瞳はリザを真っ直ぐに見据えていた。
「いきなりエプロンで拭き出すからどうしたかと思った」
「あ、えっと……必死で。というよりも貴女もわざと動きませんでしたわね?」
「いや、どう動くか気になったから。試すような真似をしてごめんなさい」
「…………謝られることではありません。私自身、驚いています。こんなに動けるなんて」
これまでのリザなら、使用人が拭いているところを見ることすらせず部屋を移しただろう。
(自分がしなければと思うと、咄嗟でも行動出来るものなのね)
これまで人形のようだとばかり思っていた自分も、ちゃんと行動出来た。その事実にリザの心は羽のように舞い上がった。
そしてそんなリザをさらに後押しするように、フィナがにっこりと微笑みを向ける。
「分かった。貴女をここで雇うよ」
「え、えっ! いいのですか!? 本当に?」
「事情もあるだろうし、このまま放り出したらすぐ野垂れ死にそう。でもリザさんなら頑張ってくれそうだから、気に入ったよ」
「ありがとうございます!」
胸に温かいものが広がってリザの頬が緩む。
「気に入った」と純粋に向けられた好意がこれほど嬉しいものだとリザは生まれて初めて知った。
フィナが手を差し出す。
反射的に握り返したその手は、リザより小さかった。けれど、
「これからよろしくね」
泣きたくなるほど、あたたかかった。
いつかちゃんと話したい。心から、そう思った。
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