北風と月
あるところに北風がいた。その北風はとにかく吹くことが楽しくて仕方がなかった。
北風にはお気に入りの場所があった。高い山のてっぺんに刻まれた、崖の様な深い谷がその場所だった。その谷へ、はずみをつけて身体ごと飛び込むと面白いほど早く滑り降りる事が出来た。ぼくは誰よりも早く吹くことが出来る。北風は得意になっていた。
その晩も、北風は勢いよく谷を吹き下ろしていた。するとどこからともなく、声がした。
「おやまあ、随分とお急ぎで」
「誰だ」
北風は大きな声で聞き返した。あたりを見回したが誰もいない。風の吹くその谷に木は生えなかった。背の低い草がわずかに地面をはいつくばるようにして生え、あとは大小さまざまな岩が転がるだけだった。
「随分と威勢の良い事」再び声がした。
声は頭上から聞こえてくる様だった。北風が立ち止まると谷の風はぴたりと止んだ。北風が見上げた先には、それは細い三日月が浮いていた。
北風は月を見た事が無かった。随分とやせっぽっちでととんがり頭の奴だなと北風は思った。細い上にそいつは顔色まで悪い。ほとんど真っ白な顔をしていた。
「この谷も良いですが、そのまま進んで行くとまた違った景色があって楽しいですよ」
宙に浮き細長く白い顔のそいつは言った。
「うるさいやい。ぼくはこの谷を滑り降りるのが好きなんだ。ここんなに早く吹く事が出来るのは僕しかいない。せっかく良い調子で滑り降りてきたのに、ここで止まっちゃあ、またやり直しじゃないか。まだ誰も知らない早さでこの谷を滑るんだ。では失敬」
そう言うやいなや北風はクルリと身をひるがえすと、再び大きな弾みをつけて残りの谷の斜面を一息に滑り降りた。
それからもまた、北風は飽きることなく、来る日も来る日もひたすら谷を滑り降りていた。そして北風は、細長い顔をした奴に会った事を忘れていた。そんなある夜、いつもの様に全速力で谷を滑り降りていると、何だか少し斜面がいつもと違う様に感じられた。今夜はいつもよりも地面がでこぼこしているのだ。何だろう。北風は自分でも気付かぬうちにスピードを緩めていた。なぜ今日は地面がいつもと違うんだ。速度を落とした北風が、じっくり地面を見下ろすと、昼でもないのにそこには沢山の岩陰が出来ていた。どうして。不審に思った北風は辺りを見回した。そして最後に上を向く。するとそこには穏やかな、でもこうこうと、かすかに黄色みを帯びた光りがあった。そしてそれは、まん丸だった。谷底めがけて下ばかり見ていた北風は、穏やかなその光りにすら目を射られた。あまりのまぶしさに北風はうっと目をそらした。
すると
「お久しぶりですね」
と光りが話しかけた。
「やい、なれなれしい口を聞くな。ぼくはお前になんか会ったことは無いぞ」
「おやまあ、お忘れですか。以前一度だけお話しをした事があります。この谷のもっとずっと先にある平野まで吹いて行くと、また違った景色があって楽しいですよ。そう以前お話しした者です」
ああ、と北風は思った。そう言えばそんな失礼なことを言ったやつがいた。でももう随分と前の話しだ。もうすっかりそんな事は忘れていた。しかも、あいつはこんな丸っこい顔をしていなかった。もっとずっと薄っぺらで細長くて、こいつみたいにまぶしくもなかった。それに、もっとずっと貧相なやつだった。
「ああ、そんな失礼なことを言う奴がいたにはいたな。でもずっと細くて随分と貧乏くさい奴だった」
「その細くて貧乏くさい奴がこの私です」
北風はその光りが嘘をついているとしか思えなかった。
「やい嘘つき。そんな事があるもんか。僕かあ嘘つきは嫌いだ」
そう言うと、北風はこんな嘘つきの相手はしていられないと、踵を返して谷の上へ戻って行った。そして、ありったけの力を振り絞り、身体を叩きつけるようにして谷を一気に吹き下りた。地面にはいつくばるようにして、かろうじて生えている草はますますその身体を縮めた。小さな石はカラカラと斜面を滑り落ちた。そうして何度か嵐の様な風を吹かせると、幾分すっきりとした風はいつもより早めに寝床へ戻った。
翌朝、北風はもうすっかり光りの事なんて忘れた気になっていた。だが、それからと言うもの、北風はどんなに全力で谷を疾走しても、常に頭の上から見られている様な気がして落ち付かなかった。以前は目標の谷底だけをただひたすら見つめて吹き下りていた北風だったが、それからと言うもの、昼でも夜でも自分が滑り降りている谷の斜面が気になる様になった。するとそこは、荒い岩肌のほとんどが灰色で色がなく、ひどく代わり映えのしない世界に思えてきた。今まであんなに楽しく斜面を滑り降りていたのに、突然ここが単調でいともつまらない景色に思えてきたのだ。
風は本来、誰でも行きたい場所へ行く事ができ、好きなように吹く事が出来る。北風がこの谷にとどまっていなければならない理由はない。果たしてこの先にどのような世界があるのか。北風は急に気になり始めた。するともう、北風は居てもたっても居られなくなった。
その日の夜、北風は空に向かって声を掛けた。
「おーい」
すると、地面すれすれに、前よりは少し太めの、でもまだ細長く、見ようによっては青白いとも言える顔をした光りが浮いていた。
「今日はそんなに低い所に居るのかい。それに少し大きくなったようだな」
「だから言ったでしょう。丸い私も、細長い私もどちらも私なのですよ」
「ふーん」と北風は鼻を鳴らした。あるいはそうなのかもしれない。そう言えば今日のこいつも、細い奴も、丸顔も、思い返せば皆同じ声をしていた。
そうしている間にも光はもっと低い位置へと沈んで行く。
「君のせいで灰色の岩しかないこの景色に飽きてしまったよ」
光りはもう地べたにはいつくばり、片方の頬は地面の下に沈んでいた。
「だから明日、僕はこの先まで行くことにしたよ。その事を君に伝えておきたくて」
そう言うと北風は、半分以上地平線に沈み込んだ光りが、にっこりと笑いかけた様な気がした。
翌朝、北風は太陽が昇ると同時に目を覚ました。さあ出発だ。どこまでも飛んでいけるよう、北風は渾身の力を込めて飛び上がると、身体をねじりこむように勢いよく谷へ飛び込んだ。カラカラと音を立て小石が斜面を滑り落ちる。そして谷底に到着すると、北風はいつもの様に飛び上がってきた方向へUターンはせず、そのまま前方へ、新たな斜面へ身を滑らせた。徐々に背の低い木々が姿を現し始めた。だがあまりの北風の早さに、木は幹を地面すれすれにまでしならせて、その身体を伏せた。徐々に徐々に辺りの木が大きくなってゆく。それにつれて、北風のスピードも落ちて行った。だがそれでも所によって、木から葉をもぎ取りながら下へ下へと吹いて行く。山の合間には所々に湖が広がり、川が流れている。眼下には隊列を組んだ鳥が飛んでいた。今まで灰色の岩場しか見た事のなかった北風は、思わずその世界に見入った。風は今、これまで感じた事のないゆったりとした気持ちになっていた。
やがて山を抜けると、突然視界が開けた。それは広い広い平野だった。風は思わず立ち止り、その平野の上にしばしたたずんだ。
その日、まだ硬かった桜のつぼみがほんの少しほころんだ。次の日も、その次の日も、風は平野の上で揺れていた。まだ力加減がよく分からない北風は、少し強く吹き過ぎたようだ。地上では、人々が春一番が吹いたと話した。
それから数日後、風は目を見張った。広い平野のここそこに、ほんのり淡い色をした桜の花が一斉に開いた。風は桜の花を撫でるように木から木へゆるやかに吹き抜けた。
気が付けば、風は柔らかな春の風へ姿を変えていた。春風が、たまに満開の桜の木の上で一休みしている様子を、月が静かに見ていた。昼間の月はこれ以上ないほど、まん丸な顔をしていた。
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