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死を生きる  作者: 谷兼天慈
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第2話

 そして、それから数カ月後、叔母さんは静かに息を引き取った。

 それほど苦しまなかったそうで、それがせめてもの救いだった。



 僕と由美はあの公園に来ていた。

 初めて病院に行ったあの日のように、僕たちは黙ってベンチに座っていた。

 夏も終わりに近づいていた。

 それでも残暑の厳しいなかで、今日の公園には人々の姿が無かった。

 いつもなら子供たちが走り回り、お母さんたちがお喋りを交わし、お父さんたちが芝生に寝っ転がっていたりするんだが。

 公園の横を通る道路を、車の通り過ぎる音だけが、やけにうるさく聞こえるだけだ。

「夢を見たわ」

 突然、由美が呟いた。

「元気なころの叔母さんが出てきたわ。ニッコリ微笑むと何か言ったの。でも聞こえなくて……」

 声がつまって少し途切れる。

「……なんて言ったの、ねえ叔母さん、もう一度言ってって大声出したら目が覚めたの。辺りはシーンとしていてあまりにも静かすぎて、このままこの静けさのなかに引きずり込まれそうになって自分が自分でなくなりそうになった。その時私の耳にはっきり聞こえたの。頑張ってっていう声が。あれは間違いなく叔母さんの声だったわ。そうと気付いたとたん、まるで関を切ったかのように泣き出してしまった。泣いて泣いて泣きじゃくった。そして涙が涸れ果ててしまったのかしらね。不思議なことにそれ以来もう悲しくなくなったの。逆に叔母さんの分までがんばんなきゃって思えるようになったのよ。何だか別人の気持ちみたいにすっきりしてるの。私って薄情なのかしら」

 由美は、心配そうに僕の目を覗き込んでいる。

「そんなことないよ。そういう気持ちは大切だよ。ほら、有名な霊能者の人が言ってるじゃないか。あまりにも嘆き悲しむと死んだ人があの世に行けなくなるって」

「それならいいんだけど」

 そんなことより、僕は彼女の耳に叔母さんのはっきりした声で「頑張って」と聞こえたことに驚いた。

 もしかしてこれが世間で言う『霊体験』っていうやつじゃないのか。

 空耳じゃないかとも言うだろうけど、僕はそうは思わないな。

 「頑張って」という言葉が妙に生々しく心に響くからだ。

 きっとこのフレーズに込められた、叔母さんの元来持ち備わった性格というものに、心動かされるものがあるからだろう。

 それは理屈ではない、何かを感じ取る力を持つ人間の心がそうさせるんだ。

「そうだ。正人くんに渡す物があったの。これよ」

 由美は青い綺麗な包みを取り出した。

「え、僕に?」

 僕は包みを受け取った。

 十五センチ四方の薄っぺらな物だった。

 どうやらCDらしい。

 ガサゴソと包みから出すとそれはやっぱりそうだった。

「叔母さんがね、あなたに渡してくれって言ってたのよ」

「叔母さんが?」

 僕は改めて手の中のCDを見つめた。

 それはクラシックの曲でフーガとかカノンとかバロック調のオルガン曲ばかりを集めた物だった。

「それね、私も持ってるの。聞いてるととても落ち着いてくるわよって、叔母さんの口癖だった。ぜひ正人くんにも聞いてもらいたいわ」

「そうか、ありがとう。叔母さんの供養だと思って今夜にでも聞かせてもらうよ」

 その日の夜、僕は自分の部屋でヘッドホンを耳に当てた。

 静かに静かに教会のオルガンが奏でるような曲が流れだしてきた。

 僕は目を閉じた。

 もちろん真っ暗闇で周りが見えるはずもない。

 それなのに僕の目に由美の叔母さんの姿が映し出されていた。

 微笑んでいた。

 そんな叔母さんはなぜだか光輝いてとても美しかった。

 その間も曲は川のせせらぎのように、繰り返し繰り返し同じ曲調で流れていく。

 それはもう耳から聞こえるというよりは直接心に響いてくる、そんな感じだった。

 僕の目に見える叔母さんは、由美の夢のように何かを伝えようとしているみたいに口が動いていた。

 なのに何を言っているのか聞こえない。

 僕はそのまま叔母さんに近づこうとして、身体を動かそうとした。

 けれどどうしたことか動かない。

 まるで金縛りにかかったかのように全く動けないのだ。

 曲は流れ続けている。

 僕は身体を動かすのは止めて叔母さんの口もとを見つめた。

「が・ん・ば・っ・て」

 そうだ、そうなんだよ。

「頑張って!」

 叔母さんはそれが言いたかったんだ。

 僕は急いで頷いた。

 わかったよ。頑張るよ。

 由美も僕も叔母さんの分まで頑張って生きるよ。

 たとえ数秒後にこのまま死んでしまうとわかっても、力一杯大往生するよ。

 だから叔母さんも安心してあの世とやらに行ってください。

 僕は心の中でそう叫んだ。

 叔母さんはなぜか少し悲しそうな表情をしたけれど、こくんと頷くと静かに消えていった。

 いつの間にか音楽は終わっていた。

 僕は、はっと我に返った。

 いつの間にか机に突っ伏していたのだ。

 今のは夢だったのだろうか。

 僕も由美のように叔母さんの幽霊を見てしまったのだろうか。

 今にしてみれば、叔母さんが悲しそうにしていたのも由美のことを心配したからだ。

 そして後に残される僕のことも知っていて、励ましてくれたんだろう。

 そしてそれから間もなくして由美は発病した───



 由美は叔母さんと同じ病院に入院することになった。

 最初は胃が痛いからっていうことで、検査のためにだった。

 それがみるみるうちに痩せ細っていき、あまりの変わりように僕は彼女を見ているのが辛かった。

 だけど毎日でも僕の顔を見たがるので病院に通わないわけにはいかなかった。

 叔母さんはきっとこの事を知っていたに違いない。

 それで頑張るようにってメッセージをくれたんだ。

 弱気になってては駄目なんだ。

 僕がしっかりしてないと由美が可哀想だ。

 辛いのは僕だけじゃない。

 由美本人もだし、なによりも由美のご両親が一番辛いに違いない。

「正人くん、由美には何も言ってはないのだけれど……」

 由美のお母さんがそっと教えてくれた。

 彼女は叔母さんと同じく癌だと。

 たぶん持って一ヵ月、下手すると数日の命だろうと。若いからなおさらだそうだ。

 一体どうしてこんな事が起きるのだろう。

 由美がなぜ病気なんかで死ななきゃならないんだ。

 あんなに生きたがっていた彼女を、誰が何の権利があってあの世に連れていくのだろう。

 善人ほど神様が望んで天に連れていくとは言うけれど、なぜ悪人は長生きするんだろうか。

 悪人だからこそ早く地獄にでも落としてしまえば世の中平和になるのに。

 神様は本当に不公平だと思う。

 僕から由美を取り上げないで欲しい。

 これから二人で楽しい人生を生きていこうと思っていた矢先なのに。

「正人くん、手を握っていて」

 物思いにふけっていた僕は、はっと気がついて慌てて由美の手を握った。

 細くて折れてしまいそうな手が、弱々しく僕の手を握り返してくる。

 僕は彼女の顔を見つめた。

 あんなに健康そうにふっくらとしていた頬は、げっそりとこけてしまって見る影もなくなってしまっている。

 由美は僕の肩ごしに窓を眺めていた。

「空が青い。この青さが目に滲るわ。なんだか私、夢の中を彷徨っている気分よ。心が泣いてるのがわかる。深い深い心の奥底で、もう一人の自分が泣いてる。死にたくない、私はまだこんなに若いのに。これからいろんな経験をしていくはずだったのに。そんな風に思う傍ら、変よね、これも運命なんだわって思えるのはなぜかしら。なんだかずーっと昔から、もしかしてこの世に生まれた時から知っていたような気がするの」

 僕は黙ったままだった。

 言葉が見つからなかったからだ。

 彼女は取り乱していなかった。

 むしろ諦めているようだった。

 僕は、なだめるどころか励ましの言葉さえ出てこない。

 なぜだろう───

 僕も彼女が言うように、これは決まったことなんだって思える。

 だけど由美を失いたくない気持ちも確かにあるのだ。

 この矛盾した気持ちが僕を苦しめる。

「正人くん」

「なに?」

「美穂ちゃんはどんな気持ちだったんだろうね」

「ああ……」

 江藤美穂、僕等の小中学の同級生。

 サラサラのストレートの髪、色白の素肌、外人のように彫りが深く、薄茶色の瞳の、なかなかの美人な女の子だった。

 大人しそうに見えてその実、けっこう気が強くて運動神経も良かったりする、不思議な魅力のある子だった。

 その彼女が自殺した。

 理由はよくわからない。

 高校は別だったが、風の便りで都会の専門学校に進んだと聞いていた。

 成人式にこっちに帰ってきた時は普通にしていたのに、その後向こうに帰ってすぐのことだったらしい。恋愛関係のもつれだとか、学校での人間関係の悩みからだとか、いろいろな憶測が飛び交っていたが、遺書もなかったので結局わからずじまいだった。

 衝動的にしろ、悩み抜いたあげくにしろ、自分の命を絶つということはなかなか出来ることではないと思う。

 最近ではいじめを苦にして自殺する子供たちが増えているが、やっぱり僕には理解が出来ない。

 それは僕がそれほど追い込まれたという経験がないからだと言われるかもしれない。

 だけどそれは、ただ僕がちょっと運が良かったというだけで、いじめられる人達と何ら変わりはないはずなんだ。

 今は昔と違って誰でもいじめを受ける可能性を秘めている。

 しかし、宗教では自殺をすると成仏できなくて、永遠に苦しみ続けるっていうけれど、やはりそうなんだろうか。

 江藤美穂もあの世に行けずに、どこかで苦しんでいるのだろうか。

 そうだとしたらどんなに辛いだろう。

 確かに自殺とは、辛いことから逃げることに他ならないだろう。

 だけど、生きてる間にだって辛いことがあったりしたら逃げることあるじゃないか。

 そういうのも罪になるのだろうか。

 逃げることは、そんなにも罪になることなのだろうか。

 そんなことだけでその人間の価値を決めてほしくないと思うのだが。

 だって、これだけ沢山の人間が存在しているのだから一億の人間がいれば一億の人格があって、そのどれが良いのか悪いのかは誰も決めることはできない。

 よしんば神様がいたとして、その神様でさえ決めるべきことではないと僕は思う。

 でも、神様の決めたレールの上で人生が決まっているとしたら───

 だとしたら、何のために僕等はここにこうして生きて存在しているんだろう。

 意味があるからこそ生きているんじゃないのか?

 動物や植物だって意味がないわけじゃない。

 植物は草食動物の餌になるし、その草食動物は肉食動物にとって必要だし、それら動物はやがて死んで植物の肥料になる。

 どれが欠けても自然が壊れてしまう。

 生きてることに立派な意味がある。

 では人間は?

 人間だけはこの動植物の自然に当てはまっていない。

 動植物を食べるだけ食べて、自分たちは彼等に何も与えていない。

 昔はそれでも肥料として亡骸を土に埋めたけれど、現在では皆ほとんど火葬で全く肥料の役目を果たしていない。

 反対に公害だ、汚染だ、乱獲だと自然を壊すことばかりしている。

 一体、何のために僕たちは生きているのだろう。

 誰か真実を教えてほしい。

「正人くん? どうしたの、黙り込んでしまって」

 僕はハッと我に返った。

 ずいぶん考え込んでしまっていたようだ。

 見ると由美は訝しげな表情で僕を見つめている。

「なんでもないよ。ちょっと昔の美穂ちゃんを思い出していたんだ」

「そうなの……」

 由美はいったん言葉を跡切ると、再び続けた。

「私ね、美穂ちゃんの夢を見たのよ。私の部屋に彼女がやって来て洋服をくれるの。もう要らなくなったからって。だけどその服は小さくて私には入らないのね。そしたら彼女は、あなたは着れないわ、他の人にあげてっていうのよ。そして、もういかなくちゃって外に出ていこうとするの。どこに行くのか聞くと、決まってるじゃない、外よって言いながらどんどん出ていってしまうの。追いかけようとするんだけど、足がもつれてその場から動けないのよ。すると彼女が振り返って、あなたはその服を誰かにあげてから外に出てきなさいって言うの。そしてとうとういなくなってしまった。変な夢よね。でも、なんだかとっても気になってしょうがないのよ」

 僕は曖昧な表情をした。

 それはもしかして彼女が呼んでるってわけじゃないよな。

 由美は自分がもう長くないことを薄々気付いているみたいだから、そんな夢を見るんじゃないだろうか。

「正人くん、もし私が死んだとしたら後を追うのだけはやめてね、自分から命を絶つのだけは」

「何言ってんだよ。そんなことする理由ないじゃないか。死ぬなんて考えるんじゃないよ」

 僕のその言葉に彼女は答えず、弱々しく笑うとまた窓に目をやった。

 僕も彼女にならって窓に目を移す。

 外は本当にいい天気だ。

 もうすっかり世の中は秋本番だ。

 今日も夜になったら空は満天の星空になることだろう。

「ここの窓から眺める星空はね、そりゃあ綺麗よ」

 由美はまるで僕の考えてることがわかったかのように話しだした。

「でもね、やっぱりこんなとこなんかじゃなくて、どこかとっても広い広い場所で座り込んでずっと永遠に星空を見つめていたい」

 彼女はゆっくりと窓の外に手を伸ばした。

「そのうちその星の一つが動きだして、私を遠い遠い宇宙へ連れだしてくれるんじゃないかって思えるわ」

 彼女はそのままの格好で、横たわるベッドからぼんやりと空を眺めている。

「最近は特に強く切望しているような気がする。UFOが本当にあるのかどうかわからないけど悪い宇宙人じゃなく、いい宇宙人ばかりだったらいいのにな。前に見た映画のお年寄りたちのように第二の人生を良心的な宇宙人の住む星で過ごすために、宇宙船に乗って神秘の宇宙へ旅立っていくなんて、とっても羨ましいわ」

 彼女は、うっとりとした表情を見せた。

「そうだ。ね、正人くん。病気が治って退院したら空港に連れてって。空港の傍にある滑走路が良く見える場所で夜になるのを待つの。まるでプラネタリウムでも見てるような星が見れるわ。それを一緒に見ましょうよ」

 僕は頷いた。

「秋から冬にかけての星座は格別にいいよね。一年の中で一番空気が澄みきる季節だから」

「あら、そうよね。私もその頃の星空が大好きだわ。ああ、楽しみだわね。よーし、頑張らなくっちゃ」

 由美は健気にも力強く声を出した───つもりだったらしい。

 彼女の声は、どこかふさがれた場所から漏れだしたように弱々しかった。

 僕はとても辛かった。

 あんなにも楽しみにしている彼女が、その冬までたぶん持たないんじゃないかと思うと。

 こんなに楽しそうに話しているのにあまりにも可哀想すぎるよ。

 そして僕は家路につきながら由美のことを考えていた。

 日に日に衰えていく彼女を、僕はただ手をこまねいて見ているだけなんだ。

 あまりにも辛くて、気が狂ってしまいそうだった。

 死なせないでくれと言うのは簡単だけれどいったい誰が叶えてくれるだろう。

 時はどんどん過ぎ去っていく。

 無情にも二人で過ごす時間もどんどん減っていく。

 果して僕は、彼女がいなくなってしまってもやっていけるのだろうか。

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