「お前らの嘘は、ボクが絶対に暴いてやる」
「……ろ」
声が微かに耳へと響く。
いつもよりも頭に響く割には、意識は朦朧としていることに加え、肉体的な不快感がリュボーフィーを苛んだ。
「……起きろ!」
ぼんやりと霞む視界に、おぼろげに映し出されるのは、夜風に揺れる銀色の髪、それに灰色の目をした幼女の険しい表情。
まだ平原の癖に、ビスチェなんかをしている……
「……ア……リカ?」
しゃがれた声が口からこぼれた。
呂律の回らない喋りで、焦点の定まらない目で、リュボーフィーはアリカの名を口にする。
「暫く……眠っていろ……」
アリカがリュボーフィーへと手を翳すと、彼女の目がとろんとまどろみ、瞼が落ちてすぐに寝息を立てた。
「……」
震える手がリュボーフィーを支えながら、宙に浮く絨毯の上へと寝かすアリカの表情は、激怒しているといってよかった。
先ほどの出来事を思い出しながら、更に怒りの炎を滾らせる。
「遅かったっ!!!」
アリカが街の入り口へと駆けつけた時には、リュボーフィーは既にトーテムポールに括りつけられたロープによって、夜風に揺られていた。
息絶えていたリュボーフィーだが、辛うじてまだ肉体にプラーナの大部分が残り、魂と肉体のつながりが途絶えていなかったのが、不幸中の幸いと言えるだろう。
蘇生魔法をかけた際に、アリカへと流れ込んできたリュボーフィーの記憶の一部……それだけでもアリカは平常心を保つことができないほど、激情に押し流されようとしている。
リュボーフィーが首を吊っていたその事実は、更に火に油を注ぐ。
「クズどもが……」
トーテムポールの向こうを睨みつけるも、だが今はリュボーフィーの方が先だ――とアリカも絨毯へと乗ると、絨毯は夜空へと舞い上がっていった。
――トンスラ頭が、子供たちを前にして語っている。
もしかしたら、騙っているのかもしれないが、それは置いておこう。
『私たちはみな咎人だったのである』
渋めの声が、冷たい石畳の床と切り株の椅子だけで、後は何も無い殺風景な部屋に反響する。
青や栗色、白や金といった、色とりどりな髪の色をした子供たちが無邪気に笑いながら、声の主へと耳目を傾けていく。
『しかし、嘗てこの地に降り立たれた聖女様が、人族の全ての罪を背負われたのである……』
沈んだ声で嘆くのは、トンスラ頭だけではない。
子供たちもまた同様に、嘆き悲しみ、涙を流していた。
『聖女様は仰られたのである……「私の身が、髪の毛一本であっても、世界を救えると言うのなら、喜んで差し出そう――」と!!!』
トンスラ頭が懐から取り出したるは、パヴェシェンヌイ教において神聖とされる、絞首刑用のロープ……が、異様なのは、彼の持つ縄が金色の繊維で編まれていたことだった。
即ち、人毛……髪の毛を素材にしていたのだ。
『これはその時聖女様が自らの髪の毛をバッサリと切り落とし、自ら編まれた……そしてこれにより自らを吊るし、罪を贖われた奇跡の縄なのである!!!』
傍から見れば、それはかなり異様……もとい異常な光景だったが、トンスラ頭は勿論としても、子供たちですら、熱狂的な眼差しでこの話に聞き入っている。
信仰とはそんなものなのかもしれないが。
『そしてその翌日――吊るされたはずの聖女様は復活し、それどころか、それまで無実の罪で処刑台へと吊るされた者たちをも、蘇らせたのである!!!』
トンスラ頭の目が更に輝きを増し、彼は語気を強め盛大にある言葉を口にした。
『そう――聖女様は、私たちを愛していたのである――』
更に感極まった声で、恍惚とした表情で、トンスラ頭は子供たちへと問いかけた。
『人生における最高の栄誉は何であるか?』
子供たちが異口同音に答えを斉唱した。
『『『『はい、世界を救うことです!』』』』
真っ直ぐな目を輝かせる彼女らは元気のよい返事をする。
『では、その次の栄誉とは何であるか?』
『『『『はい、世界を救うであろう、パヴェシェンヌイの灯火を、世界へと広げていくことです』』』』
希望に満ち溢れた目が、トンスラ頭へと向かう。
『それじゃあ、今言った二つのことができなかった時には、我らは何をしたらよいであるか?』
『『『『はい、神様の元へ使者として派遣され、この世界を救う光を齎す役目を仰せつかることです』』』』
悩む様子も無く、言葉を詰まらせることもなく、淀みない答えが室内に響き渡る。
にっこりと微笑むトンスラ頭は、熱心に身寄りの無い子供たちを世話していた。
寄付から賄われただろう、衣類を、食料を掻き集め、教会の一部を割いてまで、孤児院を建設し経営するトンスラ頭は、それだけなら聖職者の鏡と呼ぶにたる人物といえただろう。
確かに、普通の人間にできることではない。
だが……この孤児院はまともではなかった。
何が――子供たちが教え込まれていたその内容の数々が。
『誰かのために何かができる……これは実に素晴らしいことである』
トンスラは尚も語る。
実に嬉々とした表情で、迷いも曇りも無い、信念に基づいて生きる人を思わせるものだ。
『縄で吊るされた聖女様も、我ら人族への愛を片時も忘れることはなかったのである! 誰かのために何かをする……即ち愛とは、聖女様に近づく最高の行為なのである!!!』
感極まり涙するトンスラ……いや、ザイル・ハングマンに、子供たちも皆同じく涙していた。
『あなたたちもいつか、人族のため、世界のために決断することが、きっとあるのである!』
子供たちの耳目が一斉にザイル・ハングマンへと吸い寄せられていく。
『その時には、聖女様のご決断を思い出すのである! 世界のため、そして人族のために犠牲となられた聖女様の崇高な行為を――そして願わくばあなたたちの中から未来の聖女様が現れんことを――』
(……これがリューバの受けた教えなのか?)
確かに、利他行為を宗教は語る。
利他行為それ自体は間違いではない。
寧ろ奨励されるべき行いだろう。
問題は、それを悪用する人間だ。
(確かにリューバは、聖女を崇拝し世界の行方を案じていたし、そこに嘘偽りは無かっただろう……)
絨毯の上でリュボーフィーの隣に座りながら、アリカが静かに目を瞑る。
(だけど……だけどだっ!)
重大な、そして決定的な提起は、本当にそれがリュボーフィーが求めるべき行動であったのか、だ。
何故なら……
(リューバは、あのザイルとかいう奴の教えしか知らない……)
身寄りの無い子供たちを集めた孤児院、表向きは宗教家による崇高な行為だとしても、いやだからこそ孤児たちはザイルに心身ともに依存することになる。
誰かに依存するようになると、結果どうなるか?
ザイルから得た衣食住が命をつなぎとめ、或いはザイルの教えしか知らず、何より、他の孤児たちも同じ境遇。
(生きるためにはザイルが必要、ともすればそれはザイルから見放された瞬間に死を意味することになるんじゃないか?)
まるで純粋培養された社稷の贄のように。
(リューバたちは少しでもザイルから注目を集めなければならなかった……そのためにはできるだけザイルの喜ぶであろう言動を取る必要があったはずだ……)
そこにはザイルに注目される、いやされなくてはならないという、競争があった。
競争に勝つことは生きる糧を得ることであり、少しでも多くの自分にとって必要な物心両面の不足を補うことにつながる。
(そんな生活を物心ついた時からやっていたとしたら……)
典型的なマインドコントロールになるのだ、と。
(催眠術ってのは、本当に相手が望んでいない時には絶対かからない……)
アリカは前世の記憶を総動員して自分の考えを確かめていく。
(全ての催眠は、自分で自分にかける……自己防衛の本能から他人が催眠をかけることは不可能だ。平常では……だが、ザイルの孤児院のような環境では?)
生きるために必要な物資を、衣食住全てをザイルに依存し、ザイル以外の教えを知らず、そしてそれらを互いに奪い合うような競争相手がいる境遇……
(あのトンスラが、こんな絶好の機会を、無私の慈善心で――あいつの言葉を借りれば愛とやらで――やっただろうか?)
アリカの灰色の目が月の光を反射して鋭く光った。
(或いは、自分を慕うであろう孤児たちに囲まれて、従順な相手を前に、道を外れないだろう強烈な自制心があったとか?)
だがアリカは断じた。
(そんなはずは無い!)と。
世の中で生きていくための術を、どのように振舞ったらいいかを教えていたのなら、また違ったのかもしれない。
それはあくまで、リュボーフィーたちが生きていくことを前提にしているからだ。
が、アリカの見たリュボーフィーの記憶での、ザイルが孤児たちを前に言い放った言葉は何だったか?
『縄で吊るされた聖女様も、我ら人族への愛を片時も忘れることはなかったのである! 誰かのために何かをする……即ち愛とは、聖女様に近づく最高の行為なのである!!!』
『あなたたちもいつか、人族のため、世界のために決断することが、きっとあるのである!』
『その時には、聖女様のご決断を思い出すのである! 世界のため、そして人族のために犠牲となられた聖女様の崇高な行為を――そして願わくばあなたたちの中から未来の聖女様が現れんことを――』
人族の全ての罪を背負い、自ら縄につき吊るされたという聖女とやらを賞賛し、そしてリュボーフィーたちからその「聖女」がでることを口にしていたではないか。
何を言いたいのかって?
どれほどの宗教家であろとも、どれだけ信心深かろうと、誰かを――とりわけいいように操りやすい立場の相手を、自分たちの信仰という名のエゴのために、犠牲にしようというのは看過できなかった、ということだ。
リュボーフィーと暮らしていた他の孤児たちが、彼女より早く聖女と同じ道を歩んでいったことからも、間違いないだろう。
彼女たちは、ではどうなった?
何故九十九回も儀式に及んでいながら失敗し続けるのか?
それでいて百回目には成功すると思えるのか?
仮に失敗した時に、彼女らの犠牲はどういう意味を持つのか……尊い犠牲か、それとも無駄に命を散らしただけなのか?
(信じるとは騙されると表裏一体……)
信じ続ける限り、どれだけ無意味なことであっても、どれほど間違ったことであろうとも、常に尊い犠牲であり続けることができる。
逆に言えば、理不尽や不条理を正当化し、権力者のエゴを押し付けるのにこれほど便利なものもない。
拳を握り締めて震えながら、アリカは怒りから擦れた声で呟いた。
「お前らの嘘は、ボクが絶対に暴いてやる」と。
だがその前にリュボーフィーだった。
彼女はザイルが信奉するであろう聖女と同じ道を歩もうとした。
それも自分の意思で。
仮にこの街を破壊し、住民を棄教させることに成功できたとしても、リュボーフィーは再び同じことを、自らの意思で行うであろう。
即ち首を吊る。
問題の解決は、リュボーフィーを犠牲にさせないことであって、そのためには彼女の心に刻まれた軛から、彼女自身を解放させなくてはならない。
では、どうやって?
(結局、問題はリューバがザイルに依存していることであって、聖女を信じているというのも、結局はザイルへの依存の結果そうなった……)
純粋に聖女を信仰するにしても、それ以外のことを知った上で信じるのと、それ以外に選択肢が無い、逃げ場が無い状態での信仰では、全く意味が違うはずだ。
何よりもリュボーフィーは、ザイルの教え以外の知識があったのか疑わしい。
それでは聖女を信仰していたのか、それともザイルを信仰していたのか分からなくなってしまう――アリカは考えた。
つまり、ここで二択が成り立つ、と。
(もし、本当に聖女を信仰していたのだとするなら、今ここに聖女が現れて、ザイルと矛盾する言葉を聖女様から聞かされた時に、リューバはどちらを選ぶのだろうか?)
聖女か、或いはザイルなのか?
アリカは考え、そして翌朝に決行することを決意した。
何をって……リュボーフィーの前で、ザイルと聖女のご対面をさせるという召喚の儀を執り行うことを。