「被告人ナジェージダ・ウラジーミロヴナを死刑と処す!」
勝者の裁きって、野蛮だよね。
その頃、薄暗くどんよりと湿った空気の漂う地下牢では、一人の少女が魂でも抜けたように呆然とへたり込んでいた。
淡い金髪をバッサリと切り取られ、何とも言えない色をした粗末な服を着せられて、足首に鉄球のついた鎖、それに首には枷をはめられている。
ナジェージダ・ウラジーミロヴナだ。
観衆の前で悪役に成り下がり、まさかの敗北を喫した上で、帝都中に自分の惨めな姿を晒し、挙句囚人として監禁され、既に彼女のアイデンティティは崩壊していた。
更に気づいた時には、プラーナを操作することができなくなっており、それはこれまで幾度となく転生を繰り返してきた魔法さえも使えないことを意味している。
あまり深く考えないアリカが、転生する相手を逃がさないために、力を剥いだかは疑問が残るものの、ナジェージダにとっては、アリカの意図などは重要ではない。
自分の全てと言っていいものを奪われた、賞賛もそのための舞台装置も、挙句に〈力〉まで――この事実が彼女を絶望のどん底に突き落としていたのだ。
(私は……)
ナジェージダは自分へと言い聞かせる。
そうでもしなければ、自分の心が壊れてしまう、二度と立ちあがれないようになってしまうのではないか、そんな恐怖からだった。
(私は、何も間違ってなんかいない!)
何度も繰り返し言葉にすると、人はそれを本当のことだと思うようになるらしい。
彼女は無意識のうちに何度も何度も、自らの正当性を繰り返し反芻していた。
(イポニアの王女は、世界が危機にあるというのに、私をわざと無能にして召喚した……)
そりの合わなかった召喚術師を失脚させるためなどと身勝手な理由でだ。
そのために自分はこれでもかと言うくらいの辛酸を舐めさせられたのだ、と。
イポニア王女だけではない。
(あの聖女は、何度も私の邪魔をした)
リュボーフィーの顔を、わざと惨めな姿にして思い起こして、その非をあげつらう。
彼女もまた、自分にとっての罪人なのだと言い聞かせながら。
(本来なら、この私が得られるはずだった褒賞を、名誉を、何より世界中からの賞賛を、あいつは私から全て奪ったんだ!)
だから彼女らにしてきた数々の振る舞いは、決して間違っていなかったと。
(ニャポニカの皇族連中だって、どれだけ腐敗と汚職にまみれて、庇護するべき臣民を虐げてきたことか――)
故に、彼らは天命を失っているはずで、ニャポニカは滅びなければならないのだ、と。
(私は、だから間違ってなんかいない……)
幾度となく、同じ言葉を繰り返していく。
だが――そこまで自己洗脳が成功しかけるたびに、あの忌まわしい顔が彼女の脳裏に浮かんでくるのだ。
最初は青い髪の少年で……続いて銀髪で灰色の目をした幼女を。
アリカの姿を。
アリカの存在が、ナジェージダの正当性を根底から覆してしまう。
確かに斧の勇者と呼ばれた少年は、何も好き好んでこの世界へと召喚された訳ではない。
それどころか召喚などされたくはなかったはずだ。
流石の彼女にも、それは分かっていた。
だが、感情が理性を凌駕したのだ。
折角用意した、元聖女の魔王と、恨み骨髄に入るイポニア王女の生まれ変わりの弓使いという、報復と実益を兼ねた新しい人生と、本来得られるはずだった賞賛を、斧の勇者は台無しにしたからだ。
なのに、イポニア王女や聖女と違い、力でごり押しすることができる相手ではないことが、彼女をより一層苛立たせる。
まず以って、一対一で立ち向かえば、斧の勇者であった時でさえ、彼女には勝てる相手ではない。
更に言えば、生まれ変わっただろう今の方が、前世より更にその力を増していた。
しかも力を使い切った状態でさえ、どうやったのか自分の魔法を跳ね返し、或いは無効化した。
況してや今のナジェージダは、プラーナ操作の力を剥ぎ取られて、完全に無力化されている、謂わばまな板の上の鯉なのだから。
(あいつさえ……あいつさえいなければっ!!!)
そもそも、誰があいつをこの世界へと召喚したと言うのか?
斧の勇者さえこの世界へ召喚されなければ、ドラクル討伐は全て自分の計画通りにいったはずだ。
それどころか、サルターンを作り、盗賊ギルドを作り、邪教を作り、その上で勇者の権威を貶めるなどと言った二度手間三度手間をする必要さえなかった。
今回の、ナジェージダとしての人生でも、盗賊ギルドを滅ぼし、邪教を聖女信仰へと帰依させ、誤った政策を布くニャポニカを自分が導くなどの計画が、あの銀髪の幼女の、アリカの存在で全てがぶち壊しになったは言うまでもない。
声に導かれるままに、ニャポニカを滅ぼすという妥協さえも水泡と帰した。
復讐心が掻き立てられていく。
ふと格子の外に目をやれば、見張りの兵士たちでさえ、戦勝に浮かれきっている。
既にへべれけといった有様だ。
舐められているにもほどがある。
〈力〉さえあればこの牢を抜け出すのは容易いが、如何せん、肝心のその力が今ないのだ。
力がない、それはこの体を分解して、新たな転生先へ行く方法さえもないことを意味していた。
死ぬまでこの惨めな状態が続く。
今が幼女だとして、この世界の平均寿命がいくつかは知らないが、最低でも半世紀は間違いなく生きることだろう。
が、それも生きれればの話だが……
無能と呼ばれた時代に、振り出しに戻ってしまった。
屈辱の日々が、ナジェージダを苛んでいく。
(私は……私は選ばれた者でなければならないんだ!)
選ばれたからこそ人の上に立ち、下々が羨望の眼差しで自分を望み、垂涎の的として世界中が自分を中心に回るべきなのだ、と。
召喚された以上、この世界は全て自分のためにあるべきだ――ナジェージダは心のどこかでそう思っていた。
だが、この世界は全て、自分を不当にもぞんざいに扱った。
許されることではない――憎悪に満ちた瞳が禍々しく光を帯びる。
(だから……)
その手を見て、ナジェージダは願った。
(もう一度、力が欲しい――)
ズメイ討伐後に、イポニアの王都へと凱旋した夜に得た、あの力を。
或いはそれ以上の力を!
邪魔な斧の勇者……いや今はアリカを名乗る幼女を一方的に叩きのめせるだけの力を!!
が、そんな都合のいい話は、簡単に降って沸くものでもない。
(力が……力が欲しい!)
何をするにしても、先ずは力がなければどうしようもないことは、身にしみるほどに理解していた。
葛藤を前に、ナジェージダの心は発狂寸前だ。
屈辱は晴らされないままに、この状態が覆ることなく続いていくというのだから。
欲しいものが手に入らない時、人はそれを壊したがる心理が働く。
ナジェージダも例外ではなかった。
(それができないならこんな世界、壊れちゃえ――)
と――金属のこすれる音を鳴らしながら、何者かが近づいてくることに気づいた。
(誰――!?)
靴音から、それが女であるだろうことが推測できる。
エリーナか、弓使いか、それともリュボーフィーか?
惨めな自分を態々見に来て、嘲ることで憂さを晴らそうというのだろうか?
が……違った。
それどころか、異様とも言える風体をしている女性がそこにいた。
薄手の布地を体に巻きつけただけで、体のあちらこちらがちらほらと見え隠れする衣装を羽織り、黒目黒髪というこの世界では珍しい容姿。
前世の、この世界に召喚された頃の自分の容姿を思わせるものだった。
が、最もナジェージダを驚かせたのは、首に巻かれた縄だった。
黒髪を結び作られただろう縄は、先端が上を向き、言うなら絞首刑用のロープの形を思わせるものだ。
目が合い、開口一番、その女性は言った。
「あなたが、帝都を騒がせたという、ナジェージダ・ウラジーミロヴナって子?」と。
「被告人ナジェージダ・ウラジーミロヴナを死刑と処す!」
翌日、判決文が読み上げられ、彼女の命運は決した。
死刑こそが、彼女にとって相応しい刑だと判断されたのだ。
当たり前だが、魔王サルターンを魔法で作り出し帝都を攻め、その後戦闘が終わったにも拘らず、巨大な自爆魔法で帝都を半壊させ、その後皇族を二人殺し、付き人も殺し、更にエリーナたちへの殺人未遂と帝都の全壊、更にはニャポニカを滅ぼそうとしたのだ。
当然の判決と言わざるを得ない。
終始、俯き生気のない顔で、虚ろな目をしていたナジェージダだったが、自業自得と言うものだ。
判決を聞く誰もが、そう思ったことだろう。
傍聴席にいたアリカはひとまずこれで一件落着、と楽観視し安堵の息を漏らしていた。
証言台に立ったリュボーフィー、エリーナ、弓使いたちは大いに不満といった顔をしていたようにも見えたが。
とにかく、判決後すぐに刑は執行された。
あまりにも迅速、前もって書かれていたシナリオのように。
それも公開処刑。
彼女自身が作り上げた荒野で、観衆たちが固唾を呑んで見守る中、首に縄を懸けられたナジェージダが姿を現すと、一斉に罵倒や汚い言葉を投げかける帝都の住民たち。
憎悪と侮蔑の視線が投げつけられる、彼女の目は死んでいた。
死刑よりも先に、心が死んでしまったらしい。
バッサリと根元から切り取られた髪は、まだ新しい切り口を残している。
処刑人に後ろから蹴り飛ばされ、転びながらも覚束ない足取りで緩慢に歩かされていく姿は、何とも言えない惨めさと、この世界の残酷さが散りばめられていた。
時に住民たちから投石され、或いは唾を吐きかけられる場面をも目にする。
足が止まり、彼女の前には階段が設置されていた。
最上段には首に懸けられた縄を引っ掛ける棒が見える。
つまりは処刑台だ。
足を踏み出していくナジェージダは勿論だが裸足、「高貴な者は、足を地につけてはいけない」という文脈からだろう。
言い換えるなら、「裸足のお前は下賎だ」という意味が読み取れる。
足音をミシミシと鳴り響かせてナジェージダは階段を上っていき――足音が止まった。
執行の瞬間だ。
首に懸けられていた縄が、突き出た出っ張りに引っ掛けられ固定される。
その直後、彼女の足元が突然消えた。
自身の重みで首が絞められていく嫌な音を響かせながら彼女は吊るされたのだ。
と同時に、観衆から耳が張り裂けんばかりの歓声が沸き立つ。
俯くこの新しい絞首刑者の骸は、自らの重みと時々起こる風で揺れている。
その後、彼女の骸は火あぶりとされた。
処刑台、つまり彼女の足元に油がかけられて、火が放たれると、肉の焦げる嫌な臭いが鼻を突いたが、だからなのか帝都中を沸き上がらせる歓喜の声が響き渡ったのは言うまでもない。
もう復活させないという意味でもこめられていたのだろうか。
ともあれ、アリカは思う。
全ては終わったのだ、と。
アリカを女勇者の生まれ変わりだと言うリュボーフィーの誤解も解けたし、エリーナも図らずもだが、彼女の命を狙っていた兄姉がいなくなり、長兄のエリオは生き残った妹へのシスコンとも思えるほどの溺愛ぶりを見せている。
流石にもう命を狙われることはないだろう、と安堵の息を漏らす。
弓使いも元の姿に戻り、イルザの影に常に緊張を強いられる毎日から解放された。
怪しげな宗教もなくなったし、借金苦に陥っていたジェーニャはエリオとくっつき、未来の皇后陛下のレールに乗り始めた。
帝都も再建され始めている。
因みに帝都は何層にもなっていたらしく、地表の土を除けるといつぞやの地下街が姿を見せたので、当分はそこを帝都の街とするらしい。
地上にあったみすぼらしい住居群は地表ごと消え去ってしまい、ジェーニャたちが住んでいただろう地下街が、当面の帝都の住民が暮らす生活の場となった。
使えるように改修作業真っ只中ではあったけれど。
まるで大円団のようにも思えた。
世界を混乱に陥れていたイルザの生まれ変わりであるナジェージダは処刑されたのだから、世界は再び平和を取り戻す。
そのことを誰もが疑いもしなかった。
炭と化したナジェージダの死体を目の当たりにしながら、誰もがこれで世界は平和となった、と思ったことだろう。
その日の夕暮れに、弓使いは昨日に処刑台に吊るされ、その後火あぶりにされたナジェージダだった炭と対面していた。
「……イルザ」
すっかり炭と化したナジェージダを見て、弓使いは思い出す。
「お前を……お前をこんなに歪めてしまったのは、ウチだったなのね?」
ナジェージダに言われるまで思い出すことのなかった、イポニアの王女だったという自分の記憶。
もしも召喚術師を失脚させるなどと考えることがなかったなら、その手段として、無能な聖女を召喚するという行為に出ていなければ、イルザの暴挙は起こりえなかったのだろうか?
確かに、彼女のやったこと、やってきたこと、そしてやろうとしたことは、赦されることではない。
それを裁かれるのは当然の報いと言うものだ。
が、彼女の動機は自らに与えられた不利益を自力救済するものだったのだとしたら……
様々な可能性が浮かんでは消えていく。
(もしもズメイを討伐する力をお前が持っていたとして、討伐を成し遂げられたのだとしたら……お前はこんなことをしなかったとでも言うなのね?)
真意のほどは弓使いには分からないことだが。
考えるだけ無駄と言ってしまえばそれまでの話。
ただ、後味が酷く悪かった。
もし召喚された時代に、イルザを全うに扱っていたのなら、との疑念が起こっていた。
(全ては……ウチの所為なのね?)
弓使いの震える手が炭に触れた。
(イルザ……!?)
と、彼女の顔が歪む。
違和感があったのだ。
「そんな……有り得ないなのねっ!?」
思わず口から声が出てしまうほどに。
炭をの腕だっただろう部分が簡単に折れた。
中身のない空虚なこの感触に、弓使いの顔が見る見る位置に青ざめていく。
「まさか……」
あるはずのない出来事。
あってはならないことが、しかし現に起こっている。
が、例えどれだけ奇妙な出来事であったとしても、確かめられた事実は、事実であると言うことを認めなければならない。
背中に嫌な汗が流れる。
きっとそれは夏の陽気の所為ではないだろう。
弓使いが震える声でぽそっと呟いた。
「イルザは……あいつは生きているなのね!?」
「イーラ?」
その翌朝、帝都のはずれで残り物のご馳走を口にしていたアリカへと声をかける者がいた。
アリカを「イーラ」などと呼ぶ者は限られている。
できればあまりその顔を見たくはなかった、とアリカが目を逸らしかけて、ガシっと首を掴まれた。
誰に?
か細く柔らかい手で、アリカと同じ銀髪に灰色の目をして、アリカを少しだけ大きくした風貌の少女にだ。
「やっぱりイーラだぁっ!」
アリカをイーラと呼び、その姉を名乗る彼女の背後には、ずらりと並ぶ無数の人たちが一斉にすがりつくような視線を送りつけている。
あの二頭竜に襲われた村の人たちだ。
突かれきった顔をして、全身が土ぼこりや汗にまみれていた。
「な……どうしてみんながここに?」
あの村には堅牢な防壁や難攻とも呼べる環濠を築いたはずなのにだ。
少なくとも今の帝都よりはまだ安全とも思えたのに、と訝しむアリカは、住民たちに混じって、鳥を象った槍を片手にしている赤毛の少女がいたのを見逃さなかった。
赤い髪と赤い目、それに鳥を象った槍、それはニャポニカの皇族が具える特徴。
そしてエリーナが「お姉様」と呼んだであろうことからも明らかだ。
即ち、エリヴィラ・V・フォルクマンの姿がそこにあった。
彼女の身なりは激しく争った形跡が読み取れる。
何があったというのか?
エリヴィラが口を開く。
「キミが、イーラだね?」
「……?」
何事か、と怪訝な顔をするアリカへ、エリヴィラは言った。
「どうかあの悪魔の手からこの国を、世界を守ってはもらえないだろうか?」と。




