『イェビー教の奥義を、ジェーニャ、お前だけに特別伝授してやろう――』
今回少々性的な表現があります。
苦手な方はご注意ください。
「う……」
気がつくと、アリカは怪しげな場所にいた。
ただただ、怪しいと言うしかない。
みすぼらしい帝都には珍しく、よく磨かれた石材が周囲の建物を成している。
「……ここはどこだ?」
見たことは多分ない。
旧魔王城の迷宮なら、まだ記憶に新しい訳で、大体どこに何があったかを知っているアリカだが、見たことのない景色がそこには広がっていた。
「また、振り出しに戻ったのか?」
長いこと葛藤に苛まれ、どうにか帝都までたどり着き、それでやっとリュボーフィーに会うことができたかと思えば、誤解を解くどころか取り返しがつかない状態になっていた。
「ボクは、どうすればよかったんだ……っ!?」
隣で横になっていた相手を見て、声が上ずる。
赤い髪ではなく、青い髪で、エリーナではなく、ジェーニャだったことに。
「ジェーニャ……じゃあ、エリーナ――エリーナはっ!?」
エリーナの姿が見えない。
「確か……」
怒りに身を任せるリュボーフィーを前に、エリーナが説得を試みて、却って火に油を注ぐ結果となり、巨大な青い光が包み込んだ、そこまでを思い出す。
マンスールと戦う直前に見せた彼女の力、自分が殺されかけた夜に身を以って知ったリュボーフィーの力の正体をアリカは薄々と理解し始めていた。
(リューバの力は、間違いなく空間の操作……)
空間とは何か?
有と無、この二つの要素があって世界は成り立つ。
有だけでも、無だけでも、世界は存在し得ない。
(この世界の魔法は五元素によって説明できる……)
即ち地水火風空。
(空間の操作は、この最上位の空に属する。でも待って?)
おかしなことに気づく。
空間とはそこに何もないから空間なのだ。
有と無の組み合わせで、世界は作られていく。
その無の部分だけを操作することができるのか?
ただ、アリカが違和感を感じたのはそこではない。
(空の属性は……ボクと同じ?)
青い光はその象徴。
(そういえば、何で気づかなかった? ボクのプラーナの光とほぼ同じ色をしていたのに――)
空の属性は基本的にこの世界の存在でないことを意味している。
(どういうことだ……リュ―バはこの世界の人間じゃない?)
この世界の人間でないとすれば、二つの可能性が考えられる。
ひとつは転移者であり、もうひとつは転生者である可能性。
しかしリュボーフィーは|前世でイルザに殺された《・・・・・・・・・・・》はずだ。
即ち転移者ではないことになる。
しかしこの世界で転生した者を、転生者と呼ぶべきなのか、との疑問が頭をよぎった時、寝起きの声がアリカの思考を掻き乱した。
「ふああっ!?」
寝ぼけ眼でまだ夢うつつといった顔をしたジェーニャがアリカを凝視する。
「おねーちゃんっ、怖かったよぉ!!!」
「――っ!?」
と、いきなりジェーニャに抱きつかれ、まだぺったんこな胸の辺りに顔を押し付けてくるジェーニャにギョッとした顔をするアリカ。
「なっ、ななっ!?」
それはもう、見事なほどに的確な――
「いつまで寝ぼけてんだ、このっ!!」
軽く振り上げられた拳が、ジャーニャの頭頂部へと降ろされた。
「ギャンっ!?」
と悲鳴が起こり、
「はっ……ここは? あれ、キミは――」
真顔に戻るジャーニャを見て、苛立ちを隠そうともせずに、アリカがどやしつけた。
「いつまで抱きついてんだ、さっさと放せっ!!!」
「……イェビー教の街、だと?」
「そ、そうだよ。だから、その、拳は……」
ジェーニャの話では、この辺りは帝都の地下にある、それも地下通路の更に下層に建設されたという、宗教区画なのだとか。
そしてどう考えても、表層にあるみすぼらしい街とは比較にならないほど、少なくともイポニアの王都くらいには整った街並みだった。
地下へ行くほど立派になっていく街というのも、変な話ではあるが。
「どころで、イェビー教って何だ?」
「……」
無言が返ってきた。
「おい? 何で黙り込むんだよ? それにお前顔赤いぞ? 熱でもあるんじゃ――」
「二、二柱の神を祭った宗教だよっ!」
とジェーニャが声を荒げる。
しかも早口だった。
どことなく恥ずかしそうにモジモジとしている。
「二柱……二神教か」
「そ、そうだよ……」
珍しい、そうアリカは思う。
一神教とか三位一体というのはよくありがちな展開ではあるが、二柱というのはなくもないが、アリカの知る限り一般的ではなかった。
二とは何か?
色々とアリカの脳裏をよぎる。
名と色、女性原理、陰と陽、有と無、光と闇、二柱は異世界への入り口……
二頭竜といい、ウラジドゥラークのトーテムポールといい、二神教といい、この世界はどうも二が好きらしい。
これで二進法を採用して、一とゼロで世界を全て説明できたら完璧に易の世界になる。
あれは古代のコンピュータと同じ理屈で組み立てられたものだとか――などと考えていた時だ。
「ジェーニャじゃないか!」
渋い声がした。
名前を知っているということは、最低でも知り合い以上の関係――その声の主たるや――
「…………!?」
アリカが言葉を失うくらいに常軌を逸した格好をしていた。
異常と言い換えても差し支えない。
グロテスクな形に織られた布地は、裾が襞になっており、胸元にひとつのブローチのようなもので留められていたが……要するに二枚貝のそれを思わせる形をしていた。
ひたすらに気色悪かったが、それ以上にこの衣装を着ていた人物を見て、更に憂鬱がアリカの心へと圧し掛かってくる。
赤い髪、そして赤い目……もう言うまでもなく、ニャポニカ皇族の特徴を備えていたからだ。
少年というよりは寧ろ青年というくらいの年頃の人物で、彼を一目見た瞬間に、ジェーニャが恐れ戦き声が裏返っていた。
「エ……エリオ殿下っ!?」
もう何も言うまい、と。
「ジェーニャ、礼拝かい? 殊勝な心掛けじゃないか。……それに隣のお嬢さんは? 見ない顔だね。もしかして、帰依を? ジェーニャ、あれほど信仰を疑われるような言動をしていたにも拘らず、神の真理を世に広めていたのか? 見直したぞ!」
何か盛大な誤解が生じている。
エリオの目は逝っていた。
早い話が狂信者の目をしていたのだ。
(こいつ……もしかしてやばいやつ?)
少なくとも第一印象は危険人物を避けられない。
「ジェーニャ、逃げ――!?」
ガッシリとアリカの手が掴まれた。
誰に?
ごつくはないが、あまり男らしくはない手だった。
即ちエリオの手が。
不自然な笑みを浮かべて、エリオが言い放つ。
実に多幸感に包まれているような顔をして。
「さあ、ジェーニャ、それに銀髪のお嬢さん、世界の真理は目の前だ。すぐにでも手は届く、真理を望む心がある限り――」
この世界はどう考えてもおかしい。
イェビー教のアーシュラムにて、アリカが混乱をきたし、頭痛に見舞われた。
いつぞやのパヴェシェンヌイ教とは違った意味で、邪教と言われて余りある空間が広がっている。
壁一面に、天井にまでびっしりと描き込まれた裸の男女が抱き合う絵画に囲まれながら、面と向かった先に安置されている細長い棒と貝を思わせる形をしたのは神の像か。
襞を連想させる天井から吊るされた布地が時折ゆらゆらとうねる。
見るからに薄気味悪い光景だ。
それに輪をかけるように気味の悪い人物が、やはり貝を思わせる服を着た初老の男が怪しげな祭壇を前に跪き、先が独特の形をした棒を両手に掲げながら二柱の神へと吉報を告げる。
「リンガ様、ヨニ様、世界の真理に新たな帰依者が現れたことはまさに神のお導き――」
三度跪き、計九回頭を地に叩きつけてから、男は向きを変えて、アリカ、ジェーニャ、エリオの三人を前にして語りだした。
「この世界は全て二つの要素が対立し、補い合い、形を変えながら移り変わっていく」
何やら説法が始まりの鐘を告げたのだ。
後ろのオブジェ――いや祭壇や、どう考えても春画にしか見えないであろう宗教画が、これより先どのような優れた教えだろうとも、一切を台無しにするだろうことは想像に難くなかったが。
「リンガ様のなり余ったモノを、ヨニ様のなり足らなかったところへと差し込まれ、世界は生まれたのです……」
どこかで聞いたような、それでいて純粋に嫌悪感を掻き立てる物言い。
「そして二つの対立する要素を補い合い、それぞれの属性を超えることで、我々はより高みへと到ることができるのです。そう――不老不死へと!」
不老不死、それは人類の夢。
数多の権力者は不老不死を求め、劇薬や怪しげな術に溺れ、寧ろ寿命を縮めた。
ニャポニカの先帝のように。
「イェビー教に入信するのではない、真理に帰依するのだ!」
ただひたすらに異常という他なかった。
それ以外にどう言えばいいのだろうか?
アリカの隣で座っていたジェーニャを見れば、凍りついたように固まっている。
顔が青ざめているだけでなく、小刻みに震え、何か恐ろしいものでも見たかのような反応をしていた。
「おい?」
どうも様子がおかしい。
(怖がっている?)
ふら……と大きく頭が揺れたかと思うと、ドスンと音を立てて、ジェーニャが石畳の上に倒れた。
「お、おい――!?」
ジェーニャは気を失っていた。
――いつのことだったのかの光景が蘇ってくる。
『イェビー教の奥義を、ジェーニャ、お前だけに特別伝授してやろう――』
貝にも似た服を着たあの初老の男がそう囁く。
ジェーニャは二つ返事で飛びついた。
この世界は非常に理不尽だ。
気の遠くなるような貧困、それをよそに皇族や貴族たちは贅沢三昧という有様で、街には絶望から犯罪に手を染める者は後を絶たなかった。
家を出て行ったあの日の夜のことを思い出す。
酒の臭いが充満する部屋、飛び交う怒声と、誰かを殴る音が耳へと飛び込んでくる。
生まれた時から変わることのない光景。
(どうして――)
人生は一度きり、少なくともこの世界には生まれ変わりなどという概念はなかった。
ギリギリ天国の概念はあったけれど、膨大な寄進や、多大な功績を挙げなければ行く事ができないとされた、あるのかどうかも怪しい場所だ。
たった一度の人生で、ではどうして極端に恵まれ、自分勝手に生きることを許された者と、地を這い蹲り常に理不尽に涙をぬらし、辛酸を舐め続けなければならない者がいるのか?
あまりにも不公平な、そして不正義な話ではないか、と。
天国へいける条件の一つとされた多大な寄進にせよ、他者への奉仕にせよ、それができるのは決まって豊かな者、つまり皇族や貴族、ギリギリ大富豪までではないのか。
自分が生きることすら危うい人間が、寄進も奉仕もできる訳がない。
天国とは恵まれた者だけに用意された物なのか?
ジェーニャはいつもそんなことを思っていた。
だから、イェビー教に触れた時は天地がひっくり返るほどの衝撃に見舞われたのだ。
不老不死――非常に魅力的な考えがそこにあったことに。
人生が一度きりであるから問題なのだ。
何故なら、外れの運命を引いて生まれたら、一生地べたに這いずり回り涙と辛酸を舐めなくてはならなくなる。
チャンスがないのだ。
人生とは生まれで決まる。
だが、不老不死なら?
チャンスは無限。
たとえニャポニカや、その後を継いだ国が滅びたとしても、自分のまま人生を何度となくやり直すことができる。
しかもそれまで経験したものを持って!
たまたま生まれた国が、時代が、環境が、周囲との関係が悪かっただけ。
逆に言えばそういった条件さえ変えてしまえば、人生は変わるのだから――
誰も知らないことを知っていて、不老だから、失敗しても何度でも、前よりも有利な状態で人生を再開することができるというのは、ジェーニャにとっての最高の救いになる――かに見えた。
「では、服を脱ぎなさい」
「は――っ!?」
わが耳を疑った。
服を脱げ?
何を言っているのか、そんな顔をしていたのだろうジェーニャの反応を見て、初老の男の表情が険しくなる。
「イェビー教の奥義を、不老不死の秘法を、お前は知りたくはないのかっ!!?」
怒声に体が凍り付いて動けなくなる。
(……こ、こわい……)
頭が真っ白になっていく。
しかし悪意は決して待ってなどくれない。
「聞こえなかったのですか? 服を脱ぐのですジェーニャ、いえエフゲニヤ・セミョーノヴナっ!!!」
粗末な、貫頭衣にしわがれた手が伸びてくる。
目をギュッと閉じ、小刻みに震える体が、恐怖から言うことを聞いてくれない。
ぱさり――
服が着擦れの音を立て、石の床へと落ちた。
ジェーニャ……いや、エフゲニヤ・セミョーノヴナの肢体が露となる。
まだ無垢な、何も知らない、彼女を舐め回すように見つめる二つの目が、これ以上ないくらいに吐き気を催させる。
「不老不死の本質は、余ったモノを、足りないところへ――有と無の混合なのだよ」
耳にこびりつく荒い息づかい、心臓が今にも張り裂けそうなくらい高鳴っている。
興奮から、いや恐怖心からだ。
ジェーニャの反応に、しかし不満そうな表情を浮かべているイェビー教の男。
「そう――リンガ様とヨニ様はその象徴、二つの対立する要素が混合したその時、世界は変わり――」
(こわい、こわい、こわいっ!!!)
「リンガ様の青と、ヨニ様の赤が交じり合った時、輝く白い光が世界を創造するのだよ」
ねっとりと汗ばんだ手が、湿り気を帯びた息がまとわりついていく。
「何、怖いのは最初だけだ。さあ、力を抜いて――ひゅぐっ!?」
あわやという時に、それでも勇気を振り絞り、ジェーニャは初老の男を蹴り飛ばした。
泡を吹き白目を剥いて転がるそれを見て、震える体を何とか押して、ジェーニャは外へと飛び出していった。
「錬金術……?」
気を失ったジェーニャを介抱していたアリカが呟く。
彼女の記憶の断片を見て、吐息した。
アリカが召喚される前の世界では、似たようなものがいくつかあったことを思い出す。
錬金術、一般的には非金属を貴金属へと変える技法という伝聞だが、それはこの学問の一面でしかない。
錬金術の究極は賢者の石がどうとかの世界へと誘う、つまり不老不死への道なのだ。
これを東洋ではもっと露骨な形で残した。
例えば房中術であり、タントラ……
「確かに、陰陽の結合で、全く新しいものへと昇華するというのは有り得る話だけど……」
ただ、この種の技法は非常に難しく、且つ大抵の場合碌な結果にならない。
普通は邪教へと一直線にひた走り、全うな社会であれば徹底弾圧されるのが関の山だ。
「にしても、これをこの世界の連中が思いついたのか?」
パヴェシェンヌイといいイェビーといい、天国しか存在せず、生まれ変わりの概念に欠けたこの世界の人間の思考は想像を超えていた。
「考えたくはなかったけど……」
どうしてもイルザの影がちらつくのだ。
「二柱の神……これだって、よく考えてみれば、異世界への入り口を意味している」
ウラジドゥラークの入り口も、その前の二頭竜のいた洞窟も、似たような仕掛けが施されていた。
調べてみる価値はありそうだ、と。
「でも、その前にひとつだけやることができた」
アリカがかすかな声でそう呟く。
「イェビー教とかいう邪教をこの世界から消滅させてやる!」




