「私……アリカの力になりたい」
「う……」
ほんのりと周囲の壁が光を放っている。
と言っても燃えている訳ではなく、摂りこんだプラーナによる光だろう。
明かりが照らしたのは、ねっとりとした粘液に塗れている自分の体だった。
何の液かって、竜の唾液と消化液辺りだろう。
ぬるぬるした感触がやたら気色悪かったのと、周囲が異臭を放つ肉の壁だというのが何とも言えない不気味さを漂わせている。
「そうか……ボクは、こいつに呑み込まれて……」
青白く光る目を見た瞬間に、凍りついてしまったために飲み込まれたのだということを思い出すのは、云うまでもなくアリカだった。
(あの時……ボクは固まっちゃって、ちっとも動けなかった)
遅れて痛みが全身に走る。
金縛りにでも遭ったように体の自由が利かなくなったことを思い出したアリカ。
それも邪視の時とも違う……単純にアリカ自身の心の問題で。
(ボクは……ずっとこのまま?)
逃げちゃいけない――だが、向かい合おうとすればするほど、アリカは自分自身に追い詰められていくという悪循環に陥っていた。
それに――
「……っ!?」
服が溶け出していた。
一応は竜の腹の中、それにアリカは消化液らしきものに塗れている。
唾液ならまだしも、胃液なら溶かされることは明白だ。
「まずい――」
逃げなきゃいけない。
少なくともこの竜の腹から脱出しなければ。
だが――
「――!?」
再びアリカの脳裏をよぎる青白い目。
思い出した瞬間に、ギュッと目を瞑り、耳を押さえて身を縮ませてしまう。
体が小刻みに震えている。
このもどかしさ。
ことあるごとに「青い目」がアリカの自由を奪うのだ。
それは無力感?
自分の惨めな姿を自分自身が認められなかったからだろうか。
そうこうしている間にも、アリカの身に危機が迫ってくる。
溶けたのは今のところ服だけだが、それがどうしてアリカ自身まで溶けないという保証がされるだろう。
「熱っ!?」
視界が揺れる。
足の裏が熱いのは、竜の深部体温がそれだけ高いからだろうか、それとも……
「溶かされるっ!?」
次第に消化されていく自分の姿が脳裏をよぎる。
胃袋の中で少しずつ溶かされていく様を想像して鳥肌を立てるアリカ。
グズグズはしていられなかった。
と――ボトリ……肉の壁がうごめきながらアリカのいる胃袋だろうか――へ押し込まれてくるものがいた。
「何が――!?」
肉の壁を手で押しやりながら、新たに入ってきたものへと近づいていく。
それを見て、アリカが驚きを隠せなかった。
「エリーナっ!?」
唾液とか消化液でベトベトではあったが、紛れもなく赤い髪の少女はエリーナだった。
エリーナまでも呑みこまれた。
しかしコーシュカや、村の子供たちの姿はそこにはない。
彼女らはどうなったのか――アリカに焦燥が走る。
だが、その前にまずは目の前のエリーナだ。
彼女に絡みつく、主に口や鼻を塞いでいた粘液を剥がしていく。
「おい、しっかりしろ……」
「う……」
微かに反応があった。
息を吹き返しゆっくりと開く瞼から覗く赤い目。
「……アリカ?」
意識はあるらしい。
「よかった……まだ無事で……」
「無事じゃない」
アリカが言った。
そう、今にも消化されようとしているのだ。
「あ……」
エリーナが気まずそうに目を逸らす。
(私、アリカを助けようとして……)
それで逆に面倒な事態になっているのだが。
だが、文句を言っている場合でもなかった。
何しろ肉の壁から滴る胃液が、少しずつ二人へと迫ってきたのだから。
「と……取り合えず、ここから出よう」
どうやって?
そんなの決まっている。
実に簡単な話だ、と。
魔法で胃袋をぶち破って、外へと出ればいいのだ。
いつものようにプラーナを集中して――
「……!?」
異変が起こった。
アリカの顔が強張る。
「何で……?」
それもそのはずだ。
「魔法が……使えない?」
魔法が、使えなくなっていたからだ。
(落ち着け……冷静になれ……)
竜の胃袋の中で、まさかの状況。
いかにして竜の腹から脱出するかだが、しかし名案が浮かばないアリカは頭を掻き毟った。
アリカの勇者としての力の根源はプラーナによるものだ。
身体強化にせよ、魔法にせよ、とどのつまりプラーナが使えることが前提となっている。
ところが肝心のプラーナが上手く操作できない。
アリカの顔が険しくなる。
(マンスールと戦った後からだ……)
確かに不死身の怪物相手に、プラーナを限界近くまで使うことにはなったけれど、その後半月以上も眠っていたのだから、プラーナは回復していていいはずだ。
(いや、そんなんじゃない……)
もっと別の感覚だ。
プラーナが言うことを聞いてくれない、というのが一番近いだろうか。
(どうすれば――)
「……アリカ」
エリーナが呟く。
酷く落ち込んだ顔をしていた。
「エリーナ?」
確かに不安なのは分かる、と彼女を見るアリカ。
竜に食べられるなんて体験は、人生で早々身に降りかかることではないはずだ、と。
不調のアリカを見て、怖くなるのは責められることではない――
「どうして……」
絞り出すような声で、エリーナが言った。
「分からない。ボクも魔法が使えないことを不思議に――」
「違う……違うよ」
え――と思わず声を上げるアリカが、身を強張らせた。
心臓の鼓動が速く大きくなるのが自分でも分かるくらいに。
エリーナが目に涙を浮かべていたからだ。
大粒の涙を数滴零して彼女が訴える。
「アリカ……どうしていつも一人で突っ走るの? 何で一人で抱え込んじゃうの?」
「え……!?」
突然の問いに、アリカが動揺を隠せなかった。
「エリーナ……何を言って……今はそんなことを言っている場合じゃ」
「こんな時だからだよ!」
エリーナの声がいつもより響いた。
「いつもいつも……自分のこと何一つ話してくれないし……何でも自分ひとりで抱えて……私のこと、そんなに信じられない?」
「…………!?」
頭が真っ白になり、体が宙に浮いているような感覚に襲われていくアリカ。
「私……アリカの力になりたい」
それはエリーナの決意だった。
「どうすれば、私に心を開いてくれるのかな……?」
言葉が全く出てこなかった。
何て言っていいのかがまるで分からないと。
(ボクは……)
この状況で言うべきことなのだろうか?
いや、生きるか死ぬかという状況下において、本心を打ち明けることは決して不自然なことではないはずだ。
死んでしまったら、もう二度と思ったことを口にすることができないのだから。
転生してから――いや、前世からだろう、誰かに本心を明かそうとしなかったのは。
アリカは過去の自分を振り返った。
転生してから、誰かに本心を打ち明けることはあっただろうか?
エリーナは?
リュボーフィーには?
それ以前に、自分自身に対して、心を開いたのか?
だがすぐにアリカの心に浮かび上がる感情が、それを拒む。
――誰かを信じてみろ、必ず裏切られるぞ、と。
召喚され、斧の勇者と呼ばれた時代はどうだったか?
この世界に『魔王を討伐せよ』などと身勝手ともいえる理由で召喚され、しかし自分を召喚したはずのイポニアは、命令とも言えるドラクル討伐に必要なサポートを決してしようとはしなかった。
パーティメンバーはどうだったか?
聖女は「導く」などと宣っていたが、その実寧ろ自分を疎んでいたではないか、と。
ドラクルを討伐した際に、聖女は自分を殺したのが、その何よりの証拠だろう。
比較的気の合った方だった弓使いにしても、聖女が自分に対し「死んでくれ」と命じた時にだって、一緒になって自分を殺そうとしたではないか、と。
生まれ変わっても――リュボーフィーにだって――そうだ、善意を見せようと、世界のために命を懸けようと、人は裏切る。
「アリカ……お願いだから……」
声を震わせながら、エリーナが搾り出すように言った。
「一人で……抱え込まないで。辛いことを自分だけで何とかしようとするのは……もっと辛くなるだけだよ」
ポロポロと涙が零しながら、エリーナがアリカへと訴えていく。
「ボクは……」
怖い、とアリカの心が叫んでいた。
また同じように裏切られるのではないか。
自分を召喚したイポニアのように。
聖女イルザのように。
弓使いや魔法使いのように。
リュボーフィーのように!
(怖い……? そうか、ボクは――)
「私は誰からも忌み嫌われていた」
エリーナが告げた。
「いつも一人ぼっちだったし……命を狙われても誰も助けてなんてくれなかった」
「……」
「でもアリカは私を、何度も助けてくれた」
「……」
「私、嬉しかったんだよ。だから――」
エリーナの手がアリカへと触れる。
「私もアリカの力になりたい。ダメかな……」
エリーナに抱き寄せられていくのを、アリカは拒むことができなくなっていた。
柔らかい感触、温もりがアリカの凍てついた心を溶かし始めたのか――
「あ、あれ……」
涙が溢れてくるのに気づくアリカ。
止まらなかった。
(どうして――)
顔がクシャクシャになっていた。
情けなくなるほどに。
エリーナに顔を埋めるようにして、泣きじゃくるアリカは、堰を切ったようにそれまで溜め込んでいた様々な感情が溢れ出していく。
裏切られた悔しさ、『神風将来』によって体が弾け飛んだ時の痛みと恐怖、冷たい声と身動きを取れなくなった時の絶望、女勇者と間違われて吊るされた時の悲しみ。
抱きつきながら、甘えるようにアリカは溢れ出てきた感情をエリーナへとぶつけていく。
今までずっとアリカが向き合うのを拒み、避けてきた本心だった。
(ボクは――)
怖いのは青い目なんかじゃない。
裏切られただけでなく、理由も分からず身近な相手が突然豹変して自分に憎悪を向けることだったんだ、と。
しがみつくアリカを、エリーナは抱きしめていく。
……どのくらい経ったのだろう。
目を腫らして顔を赤らめていたアリカとエリーナだったが、しかしここが竜の胃袋の中であることを忘れる訳にはいかなかった。
「熱っ!!!」
エリーナが悲鳴を上げる。
当然だが、アリカも髪の毛の先や服の端が焦げていた。
二人を取り囲む肉の壁をプラーナの光の粒が照らし、見れば次第に胃液が分泌されていくのが分かる。
そう――消化活動が始まったのだ。
爬虫類なら完全消化までに一週間かかるらしいが、ところでドラゴンとは爬虫類なのか?
蛇やトカゲに近いとしても、そのものではない。
恒温動物だとしたらあっという間に消化されるはずだ。
漸く自分の気持ちに向き合え始めたというのに、こんなところでアミノ酸に分解されては面白くない、と。
(どうしよう……)
プラーナが使えなければ、アリカはただのか弱い幼女でしかない。
「エリーナ、ボクは今……」
魔法が使えない――と告げようとした時だ。
「アリカ!?」
エリーナの驚く表情がアリカの目に飛び込んできた。
「何――」
まだ薄っすらとではあったが、銀色に光るプラーナがアリカから放たれている。
「……!!!」
アリカは勇者だった頃のそれとは少し違う感覚を覚える。
光の色が違うだけではなく、もっと根本的な質が違うのだ、と。
攪拌しようとしているのか、胃袋が動き始めた。
銀色の光が意味するところをアリカは未だ知らなかったが、でもやるしかない。
こんなところで死ぬ訳にはいかないからだ。
目を閉じ、意識を集中させる。
手のひらにプラーナを集め、銀色の光がアリカの手から迸った。
胃壁へと手を押し当てたその瞬間――胃壁が枯れていくようにボロボロと脆く崩れていった。
『『――ッ!?』』
青ざめた顔が二つ。
急な腹痛に襲われたのは二頭竜であり、羽を広げ空を飛んでいた最中だったからか、羽が止まり墜落事故のようにそのまま土煙と轟音を立てながら地面へと不時着した。
『痛いッ!?』
『腹が痛い――!?』
地響きを上げながら、のた打ち回る二頭竜が苦痛にうめいた。
胃に穴が開き、そこから強力な胃酸が流れ出したのだから、当たり前だろう。
『何で――』
『く、食い合わせが悪かったのか!?』
『何だとッ!?』
『オレは少女よりも幼女の方がいいと思ったんだ……』
『いや、オレはちゃんとあいつを噛み砕いたと思ったが……!? 丸呑みしたのはお前の方じゃねえか!』
『そうじゃねえ……あるだろ? 熱いものと冷たいものを同時に食べると腹壊すって……』
『何の話……だ?』
『幼女と少女は食い合わせが悪かったんじゃねえのか?』
『どういうことだ……?』
『つまり――グフゥッ!!?』
叫び声が漏れ出して、二頭竜の腹が内側から崩れ落ちていく。
破れたのではない。
脆く崩れていったのだ。
ぽっかりと開いた穴から、それは姿を見せる。
『あ……!?』
『お前ら……』
服と毛先が焦げている銀髪の幼女と、赤髪の少女。
先ほど自分たちが呑み込んだはずの、生意気な人族のガキだった。
そして野生が勘が告げた。
先ほどまでとはだいぶ雰囲気が違うことを。
凡そ別人といっていいくらいに。
正しい判断だった。
けれど、二頭竜はまたしても判断を間違えてしまった。
村を襲った時に、全く抵抗もせず固まっていたアリカを、抵抗したけれどもあっという間に二人を呑み込んだ成功体験がそうさせたのだろうか?
『お前が……』
『お前がやったのかッ!?』
痛みが苛むが、しかし今二頭竜には切り札がある。
洞窟で復活した時に、得体の知れない修道女の風体をしたやつから貰った文様だ。
あれにより、大抵の傷は塞がる……はずだった。
なのに塞がらないことには気が回らなかったのか、二頭竜が二人へと業火を噴きつけた。
地を溶かし空を焼くほどの――だが……
『……どうしてだ?』
『……嘘だろ?』
彼らが噴きつけた炎が、掻き消されるようにアリカによって打ち消される。
『このガキ――』
大きく振り下ろされた竜の尾がアリカへと襲い掛かる。
だが、アリカはそれを片手で押さえた。
『な――ッ!?』
一度目の時の教訓が活かされていなかったらしい。
が驚くのはそれだけではなかった。
『――ッ!?』
アリカの掴んだ部分の鱗がボロボロと剥がれていく。
「訊きたいことがある」
アリカが言った。
「お前はどうして復活した?」
銀色の光を放つアリカの目が彼らを捕らえ、幼い手が伸びる。
『『――!?』』
全身の鱗が剥がれ落ちていった。
羽も痛み既に空を飛べる力を失っている。
『再生しない?』
そのことに漸く気づいた二頭竜だが時遅し。
「この術式は、誰かを食べることで自分の体の欠損した部分を補うもの。当然の話」
アリカが嘗て一度見た、マンスールの文様と同じ術式。
『この……』
青い目を光らす二つの首、だが……
『『ひっ!?』』
何故だろう、とてつもない恐怖に襲われたのは、二頭竜の方だったのだ。
「邪視……これも前に見た」
それはファーティマの持っていた力。
今アリカの目が銀色に光っている。
これこそが目には目ということだろうか?
『ま……』
『待ってくれ……』
二頭竜が突然命乞いを始める。
『い……』
『命だけは……』
がアリカは竜の尾を力任せに引き千切り、それを地面へと放った。
「え……?」
エリーナが驚き目を丸くした。
地面へと放られた肉が蠢き――人の形となっていったからだ。
少女くらいの形に収まり、地面へと寝かされている。
「取り合えず……今まで生贄にしてきた子たちへと、その身を捧げようか」
怯える四つの目を見据えながら、アリカがそう告げるのだった。




