『そうだ――オレは強い――世界最強――』
少し長めですが、お付き合いください。
全身を覆う黒い鱗、頭から生えた二本の角、巨躯が翼を広げ、その大きな口からは業火とも呼べる灼熱の炎が勢いよく飛び出している、俗に言うドラゴンがそこにいた。
ただ、普通のドラゴンとは、どうも違う。
何が違うって、そいつには二つの頭があったのだ!
ヒュドラ? ズメイ?
いや、ヒュドラは竜というより蛇だろうし、ズメイは三頭だったはずで、では目の前のそれは?
「……」
『『……』』
暫し無言で見つめ合うが、先に口を切り出したのは、ドラゴンの方だった。
そう、喋ったのだ。
『お前が今年の生贄か?』
『あまり美味そうじゃないな。もう少し脂が乗っている方が好みなんだが……』
『まあ、そう言うな。幼いのは肉が柔らかい最高級品だぞ?』
『ほう、確かに、言われてみればそうだな』
と交互に矢継ぎ早な言葉を発しつつ、涎を垂らす二つの首。
いや、それよりも、会話の中で不穏な単語が幾つか聞き取れたんだが……と。
生贄とか肉が柔らかいとか……確かに祭壇が築かれて、台の上にはこれでもかと言わんばかりにご馳走が並べられて、その一つに幼女が寝かされていたのだから、こいつが言うことは状況に大きく逸れてはいない。
だが、改めてそれを確認する必要はあるだろう。
だから幼女は問い質した。
「一体、何の話だ?」
一先ず言葉が通じるらしいので、ここは相手から聞き出すのが手っ取り早い。
「生贄って何のことだ。それにここはどこだ。俺は――?」
『生贄は生贄だ。毎年この辺りの村に出て行ってはアホな人間どもを脅していやると、あいつら恐れ戦いて生贄を寄越すんだよ』
「生贄?」
『そうだ。こいつは少女の方が美味いと言っていたがな、しかしオレとしては幼女の方が美味いと思うんだ』
『いやいや……少女の方が脂が乗っているし、幼女なんて喰うとこないだろ! そうだ、お前はどう思う?』
何故こっちに振る、と幼女が訝しげな目でドラゴンへ視線を投げかける。
「いや、幸か不幸か俺は人間なんて食べたことは無いからな……って、待て?」
いやいや、そんなまさか――思考が纏まりかける。
今ここに幼女がいるのは、生贄として目の前の二頭竜の餌となる為であるとしよう。
で、こいつは少女と幼女、どちらが美味かなどという言い争いをしている。
青ざめながらも、僅かに残った希望に縋り、問いかけてみる。
「……因みに、男は?」
『あっ!?』
と声を荒げられ、
『今何つった!?』
と睨みつけられた。
『おぞましいことを言うな! 男なんて、あんな筋張って不味いもん、生贄になるかよ!』
『そうだ、生贄は幼女から少女と相場が決まっている!』
二つの首に断言された。
「なら、俺は関係ないってことにならない……か?」
『おい?』
『何を言っている?』
と二つの頭が同時に首を捻る。
「何って、生贄は基本女なんだろ? それも幼い……」
二頭が同じく首肯する。
「だとしたら、俺は生贄ではないってことに――」
『だから何を言っているんだ?』
と更に駄目出しを喰らった。
『確かに竜は、人間の個別認識は出来ないがな……しかし性別くらいは分かるぞ?』
思わず心臓の鼓動が早く、大きくなるのを感じる。
『生贄になりたくないからって、言葉巧みに騙そうったって、そうはいかないぜ?』
『誰がどう見ても、お前は幼女ではないか? それを間違えるやつがいると、お前は思うか?』
「……」
再びドラゴンが火を噴き、祭壇の磨かれた台の表面に、幼女の顔が映し出される。
背中の半分くらいまで伸びた銀髪に灰色の目で、彫刻のような顔立ちの痩せこけた体躯の幼女は、転げ回ったためにボロボロのサラファンに似た衣装を着ていた。
要するに女物の衣装を着ているということは、女装趣味でもない限り、女の子ということになる。
呪術めいた迷信で、魔物から子供を守るために、性別を偽る名前をつけたり、逆の性の格好をさせられたりする話は、その昔聞いたことがある幼女だったが、しかしながら、先ほどの手に残る感触からは、その推論が正しいとは到底思えなかった。
「……つまり、俺は女である、と?」
『違うとでも言うのか?』
『実に美味そうな幼女ではないか!』
と涎を垂らす二つの頭が言う。
身の危険よりも、精神的なショックの方がより深く幼女の心を抉る。
「嘘……だよな?」
『嘘じゃない。お前は誰がどう見ても、満場一致で幼女だ!』
『そしてお前はこれからぱっくりとオレに食われるために、ここへ生贄として連れて来られたのだ!』
「いいや、これは夢……」
と、再度確認する……確認しなければならないとばかりに手を伸ばし――何をって、決まっているではないか――ひらひらしているものを着ていたが、しかし生贄なのだから、少々おかしなことがあってもいいはずだ、いや衣装なんてどうでもいい、凶悪なる棒の有無を――
「…………」
『分かったか?』
敗北感に圧しかかられる幼女の顔は、絶望の色に染まっていた。
何故なら、これまで散々練習してきたが、ついぞ晴れの舞台へと勃つことのなかった、哀れなる息子が迷子となってしまっていたことを、改めて確認することができたからだ。
代わりに、妙な感触の湿地帯が、これでもかとその存在を主張している。
「そんなことって……」
膝を突き項垂れながら声を震わせる。
「そんなことがあってたまるかあああああああーーーーーーーーーー!!!?」
認めない、いや認めることができない――アイデンティティの危機が大群を引き連れて、最後の砦が陥落しようとしていた。
「そうだ……これはきっと夢――夢なんだ!!!」
ただ、夢でないことを最も知っていたのは自分に他ならないのだが。
「あああああああああっーーーーーーーーー!!!」
『お、おいっ!?』
『生贄なんだから、男であるはずがないだろう?』
生贄とは女、それも幼い幼女だと相場が決まっている、と。
「……」
ぴたりと動かなくなった幼女を見て、ドラゴンが再び問答を始めた。
『……どうやら、落ち着いたみたいだな?』
『じゃあ、改めていただき――』
『――お、おい?』
『何だよ?』
『やはりどこから齧るかも、食べ方では重要なんじゃないか?』
『……と言うと?』
『つまりな……頭から齧るのか、それとも足から齧っていくのかっていう問題さ』
『……言っている意味が分からん』
『足から齧っていくと悲鳴がうるさいだろ?』
『ふむ……』
『ところが頭から齧れば、泣き喚く嬌声を楽しむことが出来なくなってしまう……』
『なるほど……こいつは由々しき問題だ。なあ、お前だったらどっちから食べた方が――』
「うるさい……」
幼女が口を開く。
聞こえるかどうかくらいの微かな声だったが、その声は腹の底から凍えるような迫力があった。
『うるさいって……オレたちはお前の食べ方を真剣に考え――!?』
『そうだぞ、生贄としておいしくいただかれたいとは思わな――!?』
「だまれ……」
かすれた声でドラゴンを睨みつける幼女の眼光は鋭く、まるで相手を射殺すかのようだった。
一睨みされるだけでその場に倒れてしまいそうなほどの威圧感……相当の殺気がドラゴンへと突き刺さってきたのを、二つの首は感じ取った。
多くの死線を潜り抜けてきたような威圧感に、ドラゴンは思わず後ずさりする。
『お、おい……?』
「ああ……しかし……』
生贄を差し出した村の連中は極めて臆病で、少しブレスしてやれば、恐れ戦いてすぐさま平身低頭し三跪九叩頭すらしかねない勢いで自分に媚び諂う腰抜けどもだったはず。
大の大人で、その中でも血気盛んな喧嘩っ早い連中でさえそうなのだ。
それが人間の標準だと、竜は思っていたし、事実それまで逆らうような人間など一人もいなかったのだから、その答えは間違っているとはいえなかったのも事実だ。
が、目の前の生贄に選ばれたこの生贄はどうか?
村の――それどころか、ドラゴンが今までに関ってきたどの人間よりも強烈な殺気を放っているではないか。
しかも格上の存在である自分に対してだ。
『何者かが暗殺者を送り込んできたのか?』
『いや、しかし……こいつはただの幼女だぞ?』
『そうは言うがな……こいつの殺気と気迫は、ただの人間じゃない』
『だとしてもだ。幼女と言えば、弱っちい人間の、そのまた更に弱い、赤ん坊の次くらいに弱い存在だぞ?』
『いやいや、騙されるな?』
『何?』
『人間どもの中には、姿を変える術があると聞いたことがある』
『何だそれは?』
『女に化けて敵対者を葬り去る……如何にもこずるい人間どもの考えそうなことではないか!』
『確かに、連中のやりそうなことではあるな……』
『それに人間どもの格言には「幼女とは幻の女」と言うのがある。つまり始めから幼女などと言うものは存在しなかったのだと。であれば、目の前のこいつは、幼女に化けた暗殺者だと考えられないか?』
『な、なるほど……お前見かけによらず頭いいな!』
『はっ――トーゼンだぜ!』
再び問答をおっぱじめる二頭竜に、しかし目の前の幼女は完全に理性を失っていた。
自分が女になる、それも幼女になっていたことが証明されてしまったことに対する戸惑いと怒りと、それまで積み重ねてきた数々の暴虐から行き場を失っていた憎悪と怨恨が、プラーナの増幅という形で発露していた。
「ーーーーーーーーーーーーー!!!!」
最早何と言っているのかすら分からないほどの叫びが洞窟内に木霊する。
『ふん、返り討ちにしてくれるわ!』
『ああ、その後で暗殺者を送り込んだあの村は、我が獄炎によって滅ぼすこととしよう!』
二つの頭から吐き出される灼熱の炎が幼女へと襲い掛かる。
二つの首が吐いた獄炎により辺りの岩壁が焦げついて崩れ落ち、或いは溶け出したものがガラス質へと変貌を遂げる。
焦げる嫌な臭いと、炎が叩きつけられた地面が脆くなり崩れていく様は、抵抗する術を持たない人間たちからすれば悪夢のような光景でしかないだろう。
『『ふ、ふははははは――』』
と勝ち誇ったように勝利の声を上げる二頭竜。
尤も弱っちいと見下し蔑んできた人間の、その中でも最弱の部類である幼女に勝ったところで何の自慢にもならないのだけれど。
『『返り討ちにしてやったぞーーーーーーーーー!!!!』』
そうだ、たかが人間ごときに、最強種族のひとつであるドラゴンが、その中でも多頭に分類されるだろう自分が、負けるはずなど無いのだから、と。
敗者は勝者に傅き、弱者は強者に事えるのが、世界の真理なのだ……二つの首はそう改めて自分のその思想に頷いた。
そして圧倒的強者であるはずの自分に、吹けば飛ぶような弱者でしかない人間どもが暗殺者を差し向けた。
目の前の幼女がドラゴンへと牙をむけることは真理への反逆であり、絶対に許されることではないのだ――とドラゴンは怒りの矛先を暗殺者を送り込んだ村人たちへと向ける。
あの村はこの業火によって焼き滅ぼす――真理に刃向かう者に生きる資格など無いからだ――そう、ドラゴンが羽を広げようとした時だった。
背中に違和感を感じたのだ。
『『え――!?』』
次いで体勢が大きく崩れ、地響きとともに巨体が洞窟内へと叩きつけられたではないか。
『何が――!?』
ともう一方も驚きを隠せないとばかりに目を見開く。
遅れて気づくことになる自身の惨状。
『えっ!? は、羽が――!?』
『俺の羽がああああっ――!?』
竜の羽が根元から無くなっていた。
傷口はまるで引き千切られたみたいになっている。
『な、何が起きた――!?』
『こんなことって――!?』
狼狽するドラゴンが混乱のあまりに洞窟内を暴れまわる。
岩壁や地面や天井に角や尻尾、鋭い爪が食い込んで、或いは吐き出された炎によって洞窟は崩れ去っていった。
『なんなん――!?』
と何の前触れも無く、片方の頭に衝撃が走った。
鋭利でいて、しかし鈍い痛みは矛盾するような力だったが、それを受け、ドラゴンの頭が岩壁へと音を立てて叩きつけられたのだ。
だが仮にも相手は竜、その鱗は非常に強靭であり、物理的な衝撃などあまり意味を成さない。
そう、物理的な衝撃は。
圧倒的な魔力、強靭な肉体、高い知能、だから最強種族などと称され、恐れられて、生物の頂点であるとして、誰しもが傅き首を垂れる、それは一度も反撃をされたことが無かったとも言える。
何しろ弱肉強食を真理とする相手に牙を向ける愚か者など、この世界にはいなかったし、本来なら現れようが無い。
いつも一方的に、時に気まぐれに、自らの気分次第で他者を弄ぶことが許されていると錯覚したとしても、それはある意味仕方が無い。
だって、本当に強いのだから。
力こそ正義な世界では、竜は強いが故に正義であり、だから黒でも白く出来る力がある、と。
異を唱える者などいなかった。
況してや自分に対し牙を向けるなど、初めてのことだったのだ。
だからこそ、この竜の精神的な衝撃は計り知れなかった。
しかも羽を傷つけられるなどという、体験と共に!
恐怖……この言い知れぬ感情は、恐らく自分が他者へとそれまで与えてきたもの、そして竜は力こそ正義の思想、許せる訳がないではないか!
『……あっては――』
『――あってはならないことなんだ!!!』
ドラゴンは生物の頂点、そして多頭竜はその中でも上位種――嘗て伝説上には八つだの九つだのという多頭の竜がいたというが、幸か不幸かこの竜は自分より上位の存在に遭遇したことが無かったのだ。
言い換えるなら、敵のいない戦場で無双していたようなものだ。
格下ばかりを狙い続けていけば、やがて自身の危機意識を鈍らせる。
『――ぐふぅっ!?』
再び立ち上がろうとした頭が、悲鳴を上げて地面へと埋め戻される。
『な、何故――!?』
人間は弱かったのではないのか?
そんな疑問と混乱がドラゴンを襲う。
これが同等か上位の存在を知っていたなら、また違った対応を取ることが出来たかも知れないが、その意味でこの竜は非常に経験不足と言わざるを得なかった。
そんなドラゴンの首を、プラーナがまるで鎧のように体を覆っている足が踏みつけた。
『――ぐふぅっ!?』
首がおかしな方向へと捩れ、頚椎の砕ける嫌な音が聞こえてしまう。
途端に白目を剥く相棒に、恐怖心を覚える残った頭。
踏みつけた足は、痩せっぽっちの、年端も行かない幼女でしかないと言うのに。
恐怖はそれまでの竜が当然とばかりに享受してきた自信全てを喪失させてしまうには十分過ぎた。
傲慢なまでのプライドも、今まで築いてきた世界観も、そして自分が弱いのではないかという疑念……アイデンティティクライシスに陥ったのだ。
残った頭が、狂ったように業火を吐き出し、辺りは炎に包まれる。
炎は幼女へと降り注ぎ、彼女を包み込んだ。
どのくらいの熱を持っているだろうか、測りようがない炎――こんなものに襲い掛かられたら人間などひとたまりもないはずだった……にも拘らず、顔色一つ変えないで衣服を焦がして裸に近い格好となった幼女が、鋭い視線で残った首を突き刺した。
動きが全く見えない。
だが、最強種族が――ドラゴンが――その中でも上位種であるはずの多頭竜が――たかが幼女などに負けるはずがない――牙を剥き出しにして、幼女へとドラゴンは一騎打ちに臨んだ。
『そうだ――オレは強い――世界最強――』
それが竜の最期の言葉となった。