「あの時もしも殺されていたら、と思うと、私……」
その夜のこと。
ニキータたちの住処では、大宴会が開かれていた。
自分たちを脅かしていただろう村が自滅し、或いは与していた盗賊『血と魂』も滅んだことは、つまり彼らを脅かすものがなくなったといっていい。
野生動物の蒸し焼きとか、どこから仕入れてきたのか酒精やらが置かれる、ちょっと匪賊っぽい饗宴ではあったものの、何だかんだ言っても楽しげに飲み食いし、歌い踊る姿は人の心を解きほぐす。
尤も主役のアリカは別の部屋で安静になっていたけれど。
「ねえ、リューバ。やっぱりアリカのことが心配?」
エリーナが浮かない顔をしていた彼女を見て問いかける。
「えっ――」
と軽い声を上げてから、遅れて首肯するリュボーフィーだった。
(マンスールを自爆させたあの力は間違いなく『神風招来』……)
彼女の脳裏に苦い記憶が蘇る。
(それに、アリカはウラジドゥラークでも、盗賊ギルドでも、対立するような形で颯爽と登場した……)
まるで世直しでもするかのように。
(私のことに気づいていたのかは分からなかったけど……アリカを剥いだ時に見せたあの表情、普段からのちょっと乱暴な言葉遣い、何より――)
リュボーフィーの息が震えていた。
まだ心の中にあの時の記憶が、喉に突き刺さった骨のように残されていたのだろう。
(何より、マンスールを最後に自爆させた時のアリカの手の光は白色だった。忘れるもんですか――あの光は私を殺した女勇者の光!)
全てのピースが揃った、リュボーフィーの決意は固まり、あとは引き金を引く決断のみ――
(……震えている?)
息だけではない、脚が、肩が、無意識のうちに震えていた。
(私は……まだあいつのことが……怖い?)
嘗ての体験が、まだ未消化のまま自分を傷つけ続けていることを、それでも敢えて否定するかのように、リュボーフィーは自分へと言い聞かせた。
(今の私は、もうあの時の弱い自分じゃない――)
両手を強く握り締めて、再び暗唱する。
(それだけじゃない――今アリカは消耗している)
いつもであればどう足掻いても勝負はひっくり返らないだろう。
が、相手が消耗して、自分は体力を温存し、気力に満ちている。
気になるとしたら、水晶玉に表記されたアリカの持つ資質。
(魔法に関してはプラーナの量はともかく、技術的には私に分があるはず……近接戦闘や武器術では無理だけど)
しかしながら、自分を最高の状態に置き、相手が最も不利な時を狙って行動を起こすのは、兵法としては定石だろう、と。
(私は間違っていない――)
これは復讐なのだ、と。
(復讐が虚しい、相手を赦すことで前に進め? そんなのは、偽善的な部外者の独りよがりでしかないわ……そういう人は、その時になって気づくのよ。復讐は是だって!)
誰だって、自分の置かれた立場になれば、きっと同じことをするはずだし、しないとすれば、復讐に代わる救いがあるからで、では今の自分に救いはあるのか、と。
(ない……第一、この数百年もの間、私はただひたすらこの機会を待ち続けてきた……今やらないでいつやるの? 勇気を出せ私! リュボーフィー・ペトロヴナ!!)
なるたけ平静を装いながら、リュボーフィーがエリーナへと告げる。
「私、ちょっとアリカの様子を見てきますね」
そうして席を立ち、彼女はその場を離れ、アリカの元へと向かったのだった。
アリカは深い眠りについていた。
洞窟で転生をしてからというもの、碌に休んでいなかったのが祟ったのだろう。
その夢の中での話……
『……のね』
微かに聞こえるしゃがれ声、それにどこかで聞き覚えのある口調。
『目を覚ますなのね……といっても、夢の中だけど――』
「うるさい……」
寝返りを打ちながら寝ぼけて寝言を呟くアリカ。
毛布から手足を出して、ほぼ半裸といっていい下着姿でムニャムニャと白河夜船を漕いでいる。
『いや、聞いてほしいなのね! お前のこれからについての、ウチからの忠告なのね! いや、ほんと聞いてよぉっ!!!』
プラーナの消耗が激しく夢の中だとしても聞く気にならなかったアリカだが、しかしあまりにうるさいために、幽体だけが目を覚ます。
おぼろげに黒いものが形を現していく。
「て――何だ、この薄汚い野良猫は!?」
幽体は幼女のなりだったが、それにしても酷い物言いだ。
『薄汚――ひ、酷すぎるなのねっ!? ……いや、間違ってはいないかもしれないけど、でも言いすぎじゃないっ!?』
アリカの目の前には黒い野良猫がいた。
全身を覆う黒い毛と、金色の瞳が、妖しげに光る。
が暴言とも取れるアリカの発言からすぐに気を取り直して口を開く黒猫。
『まあ、ウチがどうとか、そんなくだらないことで時間をとる気はないなのね。単刀直入にいうなのね。お前、ウチと組む気はない?』
「?」
唐突に何を言い出すのかといった視線が黒猫へと返される。
組む理由も、その目的も不明で、正体すら分からない相手と組むほど、アリカも無警戒ではない。
「意味が分からない。お前と何のために――第一お前は誰なんだよ?」
いくら異世界だとはいえ、人語を解し操る猫など怪しいことこの上ない。
『まあ、そりゃそうか……確かにこの姿じゃ怪しいと言われても仕方がないけど、でも今この世界を守るには、何よりも力が必要なのね』
「だから、言っている意味が分からん」
『ウチは元は人間だった……なのね』
「……? 元犬というのなら昔聞いたことがあるが?」
『元犬? よく分からないけど、いや、そうじゃなくてなのね! 今この世界は、大きく塗り替えられようとしているなのね』
「誰に? それに塗り替えるって?」
『この世界は近々滅茶苦茶になる――予定なのね。もっと言うなら、この世界を救うためには、お前の力が必要なのね』
世界は滅茶苦茶になる予定……?
怪しいことこの上ない予言だ。
そしてこの種の予言は、当たった例がない。
「なあ、お前? それって詐欺の常套手段じゃねえか!」
世界が終わるという命題があるとしよう。
詐欺師たちはこう宣う。
曰く、信じれば救われる、と。
で、事態が好転しなければ、『信心が足りない』とほざき、或いは世界が崩壊すれば、『永遠の安らぎに身を委ねた』と嘯く。
『さ、詐欺って――そりゃあ、俄かには信じられない話かもしれないけど……なのね』
言葉を詰まらせる黒猫。
更にアリカにとって受け入れられないのは、世界を救うという語句だった。
一度勇者として、世界を救った実績があるではないかと。
その褒賞として与えられたものが『世界のために死んでくれ』なのだから、二度と世界を救おうなどとは思うはずもない。
そんなアリカを動かすべく、黒猫が言った。
『ウチをこんな姿に変えたやつがその元凶なのね。お前がぶっ壊した、例えばウラジドゥラークの連中も、盗賊たちも、元はと言えばウチをこの姿に変えたやつがわざと残したものなのね』
ウラジドゥラーク……とアリカが声を上げる。
『いくつもの生を得てこの世界へと転生し続ける、悪魔とでも呼ぶべきあの女の遺産なのね』
「誰だそりゃ……ボクの知っているやつか?」
『ほら……トンスラ頭が信じていた奴もその一人なのね』
「あの街の首吊り聖女さんか?」
『そうなのね。あいつの生まれ変わりの一人は、例えば聖女イルザなんて呼ばれていた――』
「――っ!?」
アリカの顔が強張った。
聞きたくもなかった奴の名――そう、斧の勇者と呼ばれた自分を殺した、あの聖女の名だったからだ。
続いて強い動揺と混乱がアリカを襲う。
得も知れぬ感情が胸の中を渦巻いた。
「聞きたくないっ!」
直ちに拒絶反応を示したアリカは、実に不愉快そうな顔をして、そっぽを向く。
『ど、どうしたなのねっ!? お前あいつのこと知っているなのね?』
慌てふためく黒猫に、アリカが声を荒げ言い放つ。
「そんなことはお前には関係ないだろ? お前こそどんな関係だったって言うんだよ?」
アリカの問いに、ウッとなる黒猫だったが、渋々と答えを口にする。
『ウチはあいつに……よりにもよってこの姿にされた被害者なのね。『魔族転生』とかいうものらしいけど……』
同情を誘う気なのか、それとも聖女イルザ被害者の会でも結成するつもりなのか――いずれにせよ、アリカの結論が変わることはなかった。
「じゃあ、それはお前の問題だろ。どうしてボク巻き込もうとするんだ?」
できれば、いや金輪際関わりたくなかったのだ、と。
幼女のなりとはいえ、折角新たに生を受けたというのに、再びあんな頭の螺子がごっそり抜けたキ○○イみたいな女の顔など見たくもない、と。
『……何があったのかは知らないけど、でも他人事ではもうすまないところまであいつの計画は進んでいるなのね。それを食い止めるには、お前の力が必要なのね! 悔しいけど、ウチでは力不足、返り討ちにされるのが自分でも分かるなのね』
「で?」
『いや、でって――あいつに滅茶苦茶にされるであろう世界を救うために――』
「断る!」
はっきりとした拒絶。
確かにあの聖女を、アリカは憎み、且つ恨んではいる。
しかしだから世界を聖女の手から救おうとも思わなかった。
何故なら、この世界も好きではなかったからだろう。
召喚という名の拉致、何のサポートもせずに獣人兵の中に放り込んだり、武器ですら自前で調達しなければならなかったあの日々……自分が倒したはずの魔王からすら哀れみの視線を投げかけられた時の虚しさを、アリカは転生した今ですら許せる訳がなかったからだ。
『ど……どうしてそんなこと言うなのね? この世界が嫌い?』
「嫌いじゃないね」
アリカは言った。
『なら――』
「大嫌いなんだよ」
思わず感情的になって怒鳴ってしまった。
仮にこの黒猫の言葉に従い、『聖女の魔の手』から世界を救ったとしよう。
その後に何が起こるかを、前世で思い知ったはずではないか。
聖女亡き後は、それに替わる危険人物として、世界平和のために処分される未来が待っている、と。
『ウ、ウチを信じてほしいなのね!』
「大体――」
苛立つアリカが声を荒げた。
「お前のその口調だってな、ボクの嫌いな奴にいつも引っ付いていた奴の口調みたいでむかっ腹が立つんだ!」
『そ……そんなこと言われたって』
「用が済んだんならとっとと帰れ! ボクに関わるな、この化け猫がっ!」
『化け猫――ッ!? ひ……酷すぎるなのねっ!?』
「酷くないっ!」
涙目になりながらも、黒猫は言った。
『分かった……今日のところは引き上げるなのね。でももし気が変わったのなら――』
「帰れ、このドラ猫っ!!!」
『ひ、酷いっ!?』
悲痛な声を上げる黒猫の姿が次第に薄くなっていく。
アリカの夢の中では、アリカの意思が絶対なので、本気で拒絶をすれば、侵入者を追い出すことなど容易いのだ。
が、しぶといのかしつこいのか、黒猫は最後に悪あがきとして、言い残した。
『なら、せめてひとつ予言してやるなのね。まずもうすぐこの辺りに怪物がやってくるなのね。不死身だから気をつけるなのね――』
声が掻き消されたのと同時に、黒猫の姿も雲散霧消する。
(やっと眠れる――)
と言う時だった。
再び声が耳へと響いた。
但し黒猫ではなく――
「アリカ、起きてください」
澄んだ声。
それはリュボーフィーの呼び起こす声だった。
「……リューバ?」
手には食器、その上には野鳥の中に具を詰め込んで、石窯で焼いただろう料理と、果実を絞った飲料があった。
「ねえ、少し話さない?」
とても穏やかな口調で、リュボーフィーがアリカの寝ていた床へと腰掛ける。
「今日の主賓は、本来アリカなんだからね……」
ドキリと心臓の音が大きくなるのに気づくアリカ。
(そりゃあ、首吊り宗教信じていた女で、いきなりボクを着せ替え人形扱いはしたけれども……)
よく見れば、人形のように整った顔立ちだし、綺麗な金髪で澄んだ青い目だ。
(こういう場合、何て言ったらいいんだ――!?)
と一抹の不安が生じる。
何しろその手のことに対しては、アリカ……いや元斧の勇者は非常に経験不足過ぎたのだから。
でも、これを肯定的に受け止めるべきだと気を取り直すアリカ。
(女に転生して春が来るというのも、あまりいいタイミングではないにせよ、しかしこの際細かいことは気にしない!!!)
悪夢を見た、それもとびっきりの。
忌々しい聖女の名前が、そいつの取り巻きだったアホみたいな口調の女を思わせる会話から飛び出してきて、最悪に近い気分だった時に、こういうシチュエーションも悪くはない、と。
「ひとまず、乾杯しない?」
コップに注がれるジュース。
何よりも換えがたい時間だ、と雰囲気に酔い始めるアリカ。
と、リュボーフィーが話を切り出した。
「とにかくアリカが無事……じゃないかもしれないけど、殺されなくてよかったよ」
その顔は、心の底から嬉しそうにしている
気遣いがとても嬉しいと、アリカ。
「あの時もしも殺されていたら、と思うと、私……」
だいぶ心配もかけてしまったのだろう。
しょげそうになるアリカに、リュボーフィーは言った。
耳を疑うような言葉を。
「だって、あなたを殺すのは、この私なんだから……」




