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待合室で

さあ、信ちゃんの登場だ。


 日曜日午後、思い立って音楽教室に行った。自習室に二台、待合室に一台ピアノがある。

「うちで練習できないときはいつでも弾きにおいで」といわれている。

 普段の課題はうちで、親のいるときに弾いても構わないけれど、自分の好きな曲、自分の実力ではまだ弾けない曲に挑戦するのは両親に聞かれたくない。今こっそり練習しているのはリストの「愛の夢 第三番」だ。


 音楽教室の近代的な建物の中に入った。玄関ホール右手にご案内カウンターがあって、そこだけちょっと美容院みたいだ。カウンターの奥の壁に、どの先生が来ていてどの部屋にいるか名札が下がっている。ピアノ室は普通、第一が後藤さくら先生、第二が渋谷みのり先生、第三はその時々で替わる。今日は阪口と出ていてビクっとした。


 自習室の二台のピアノには高校生のおねえさんがいた。日曜日は年上の上手な人が多い。二人とも真剣そうだ。

――学校の音楽室では優等生でもここでは私はひよっこ。

 待合室に戻った。玄関ホールと待合室の仕切りはないからたまに人が通り過ぎるけれど、知らない人に下手だと思われるのは構わない。

 

 残念ながら、さっきは空いていたのに大人の男の人がピアノについている。「運ワル」とつぶやいて沙紀はソファに座った。

 何か難しそうな曲を弾いていたのにその人は急に曲を変え、子供っぽい発声で歌い出した。

 

 順番来い

 はやく来い

 練習しに来たピアノには

 ヘンなオジサン座ってて

 可笑しな歌をうたってる

 

 沙紀はぶっと吹き出して笑ってしまった。演奏者はくるりと振り向いて、

「笑えたー?」と訊いた。

 笑いが止まらない。その人は答えも待たずにまた弾き始めた。

 さざ波のような優しい曲だった。今度は笑いも忘れて、水色の薄手のセーターに包まれた大きな肩幅を眺めていた。


 また振り向いた。

「小学生の部で一番上手だった人でしょ?」

 おじさんのハズなのに唇に人差し指を当てて、首を傾げている。

「お行儀のいいショパンのエチュード。僕だったらもっと飛んだり跳ねたりしちゃう」

 あ、これが、この人が阪口君のお父さんだ。大人のくせに子供っぽい、ヘンだけどピアノがメチャ上手(うま)いカッコいい人。

 近くで見るとよっぽど美形だった。阪口君よりがっしりしてて、目がくりっとしているからハンサムだけど、愛嬌がある。


「あなたの『月光』すごかったです」

 沙紀はやっとの思いでそう口にした。

「聴いてくれたんだ? 嬉しい。えっと、名前……夏樹に聞いたんだけどな。渡辺さんじゃないよね?」

「それは音楽の先生の名前です」

 バカ丁寧に答えてしまった。


「じゃあね、何かSの名前。僕がさかぐちで、夏樹もさかぐちで、みのりちゃんがしぶやでしょ、Sの苗字ばっか。何だっけ?」

「瀬川です。瀬川沙(せがわさ)()

「ほらね、上も下もSの名前、僕と一緒」

 あ、イニシャルのことをいってたのか。


「えっと、信也先生……ですよね?」

「えー、僕先生じゃないよぉ」

「でも第三ピアノ室の名札、阪口って」

「ちょっとカッコつけてみただけ。第三室でひとりで弾いてたんだけど、つまんなくなって降りてきた。誰かお友達いないかなって。さあ、沙紀ちゃん弾いて。今何やってるの?」

「あ、今日は好きな曲練習したくて、リストの『愛の夢』」

「え、もう? すごいね。弾いて弾いて」


「信也先生いたら弾きにくい」

「どうしてさ、みのりちゃんの前だったら弾くくせに」

「そうですけど」

「いいよ、じゃあ僕ここで弾くから沙紀ちゃん第三室のピアノ使って」

 信也さんは口をとがらせた後、ぷいっとピアノに向かってしまった。

 

 聞こえてきたのは沙紀が言った曲だ。でもキーが違う。

 レ、シ、シ、シ〜?

 絶対音感に鍛えられている沙紀はト長調の旋律に驚いた。原曲はフラットが四つもつく。でもそれだからこそ黒鍵をたくさん使って運指がしやすいのだとみのり先生は言っていた。

 ト長調では物悲しさが足らない気がした。和音のアルペジオも減らしてある。それでも大好きなメロディには違いない。

 ピアノに近づいて信也先生の指使いを眺めた。主旋律は全部右手で弾いて、和音は左手、低音伴奏だけ。


 ――ああ、それで。

 腑に落ちた。オリジナルは旋律と思える部分が左手右手、両方で作られている。両手が同時にちゃんとできないと、無残にギクシャクする。そういうことだ。

「ほらね、僕が弾くとこんないい加減になっちゃうんだ。だから沙紀ちゃんの番」

 信也さんは全部弾きもせず立ち上がってしまった。そして階段のほうへ数歩遠ざかった。 


「待って、聴いてくれないんですか?」

「聴いていい?」

 また小首を傾げた。

「お願いします。左手がまだまだなのでみて下さい」


 本気で弾けばちゃんと弾けるって分かってる。この人はわざとシンプルに弾いて見せた。

 信也さんはご案内カウンターに置いてあるキャスター付きのイスを転がしてきた。沙紀は楽譜を開いた。

 隣に座った信也さんは先生という感じでもなく、中年のおじさんという雰囲気も全くない。なんだか、同級生が目を輝かせてピアノを聴いてくれてる時みたいだ。

 沙紀はドキドキもせず弾き始めることはできたのに、右手ですることが忙し過ぎてテンポよく左手が入って来ない。二節ほど弾いてだめだと思って手を止めた。


「僕も弾く! もうちょっと近付いていい? 左手で左手やりたいんだ」

 え、それは困る。同じ鍵盤を沙紀の右手と信也さんの左手が交互に弾くところがある。

 ――抱き合うみたいに身体密着しちゃうじゃない!


 信也さんは事務イスを後ろに転がせて沙紀の背後に立ち上がり、左手を伸ばした。

 まるで二人羽織だ。でも身体のどこも触れていない。当たらないようにしてくれているらしい。


 弾き始めた。右手はかなりイケてるのに旋律が聞こえてこないことに()れていた。今は必要なところに必要な音を信也さんが入れてくれる。気持ちよかった。どんどん弾き続けた。


 そろそろシャープが五つ出てくる転調がくる。その直前の超高速部分で信也さんは

「だつらく〜」

 と指を止めた。

 でも転調後を弾き始めるとまた入ってくれた。中腰なのか、不安定な姿勢なのだろうに、左手のほうが忙しいパッセージなのに。

 左手担当部分が沙紀の右手より高音になるところは、「右も!」と囁いて右手で弾いた。瞬時後ろから包まれたけど、気にならなかった。

  ふたりで最後まで行き着いた。

 ――やっぱり、すごい。

 

 終わった途端信也さんはイスを引き戻してへたり込み、

「気持ちよかったねー!」

 と両手両足を伸ばした。沙紀は笑っていた。


「こんなの、弾けるようになるのかなぁ」

 つい、素が出てしまった。

「なるよ、ゼッタイ。ある日ね、パチンって指を鳴らしたみたいに弾けるようになるの。いっつもそうだよ。トンネルの中えんえん迷っててもある日、ふと」

 信也さんは実際に指を鳴らして見せた。


 何かすごく説得力があった。似たような経験を沙紀もしてきたからだ。

 もうだめ、自分のピアノはここまでだと思っても、日を置いて弾いてみるとなぜか前できなかったところが弾けるようになっている。逆に弾けたところが弾けなくなったりもするんだけれど。

「僕ね、頭の中で神経が繋がるんだろうなって思ってる」

 ああ、そうなんだ。脳の中で何か起こってるんだ。

 沙紀はまじまじと隣のハンサムなピアニストを眺めてしまった。


 ふっと我に返った。

「あの、さっきのト長調のほう、教えてもらえませんか?」

「えー、あんなズル教えたらみのりちゃんに怒られちゃうよ」

「でもあれなら転調部分以外は主旋律が片手で弾けるから気持ちいいし、それ練習してから原曲に戻ってもいいかなって」

「だめだよ、沙紀ちゃんDマイナー知らなかったって夏樹言ってたし。さっきのは和音の名前知らなかったら弾けないアレンジだから」


「阪口君、告げ口したんだ」

「告げ口かなあ? 先生と沙紀ちゃんにメイワクかけたって言ってたよ」

「メイワク? 迷惑だなんて。渡辺先生がドファラ間違えたのレファラだったねって言ったんでしょ?」

「そうそう。でもカッコつけてDマイナーなんて言ったから沙紀ちゃんを混乱させた、ドの代わりにレに指がいっただけって言ってあげればよかったって」

「そんなこと気にしなくても」


「『気にしぃ』だよね、夏樹は。僕だったらCGF、Dマイナー全部に振りつけて踊ってあげるのに」

「ほんとに?」

「ほんとに。『きらきら星』弾いてくれたら今ここでやってあげる」

「きらきら星? 幼稚園みたい」

「モーツァルトじゃん」

 信也さんはまた口をとがらせた。


 沙紀がゆっくりドドソソララソと弾き始めると、ドは両手を腰、ソは床に片手片膝つき、ラは立ってバンザイした。ファはバンザイでミは腰でレは片膝、ついでにCGFと声をあげた。ソはGのこともCのこともある。

 自分が小さい頃に憶えた左手の伴奏にぴったり合っている。分かってしまった。

 

 二番は信也さんの振り付けがくねくねになった。笑いながらピアノを弾いた。終わる前にドアが開く音がして声が響いた。

「父さん、何踊ってんの?」

 別館のほうから歩いてきた阪口君だった。

「ダンスCGF」

「え、うそ」

 阪口君は沙紀を見て赤面した。


 動揺したところを初めて見た気がした。ジーンズの私服も初めてだ。沙紀だって焦った。

 頭を掻き掻きピアノに近付いてくる。

「今日は自主練?」

「ええ、ちょっと気分転換。信也先生にいろいろ教わって」

「ありがと、この人の相手してくれて」

「相手って夏樹、ひどいんじゃない? 頑張って踊ってたのに」

「この人の言うことは話半分に聞いたほうがいいよ」

 阪口君は抗議する父親を無視して、沙紀に話した。

「楽しく弾けたからいいの」

「そうだよ夏樹、ピアニスト二人が楽しんでたんだからいいの」


「さあ、父さん、帰るよ。今日は料理するんだろ?」

「うん、のりちゃんのためにお料理する。日曜日なのにお仕事だから」

「たまには奥さん孝行してよ?」

「はぁい。じゃ、沙紀ちゃんありがと、またね」

 沙紀が頭を下げると信也さんは玄関に向かって歩き出した。


「瀬川さん、できたらあの人のこと学校で黙っててくれないかな?」

「何で? ステキなお父さんじゃない」

「ステキ、かなあ? いいとこも悪いとこもケタ外れで説明がめんどくさいんだ。子供過ぎてうんざりしなかった?」

「表面は子供みたいでもちゃんと大人の先生してくれた。私の硬さ取るためにしてくれたんだと思う」

「うそだろ?」

 阪口君の顔色が変わった。沙紀は何かまずいことを言ったみたいだ。


「もう、夏樹まだなの?」

 信也さんが自動ドアから顔だけ出している。

「父さん、先帰って片付けのほう始めてて。フォローが要る」

「えー、僕また何かやっちゃった?」

「全部分かっててやったくせに」

 初めて聞く阪口君のイラついた声だ。


「仕方ないじゃん、沙紀ちゃんは本物だよ。音楽家同士じゃ隠しごとできないもんだよ。夏樹も正直にね。じゃ、バイバーイ」

 親子の会話は沙紀には理解できなかった。でも地雷を踏んだらしい。

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