音楽室で
将来の夢、勉強、異性、身体の成長、恋、ティーンエイジは大変です。
教科書一冊だけ持って音楽室に向かう。B棟2階からA棟4階の端っこまで、かなた遠くだ。女友達に囲まれてお喋りはしていても、沙紀の気分は晴れなかった。
唯一の得意科目なのに。六年になって初めての授業なのに。
大好きだった河野先生は産休。赤ちゃんが生まれるのはいいことだ、喜んであげなきゃいけない。きっと先生に似て可愛い。
でも、問題は。
後任の先生は新卒の講師だそうだ。男だったらサイアクだ。
顔見知りの校内の先生ならまだいい、沙紀が真面目にピアノに取り組んでいることを皆知っている。小学校の先生なんだから誰でも、ある程度ピアノは弾けるはずだ。
――私より下手でも。
心の中で言葉にしてしまって沙紀は後悔する。
「ステキぃー、先生もっと弾いてぇー」と可愛らしく接することができればいいのに。これでは「ピアノができると思ってお高くとまってるヤな女」だ。
一度男子にそう罵られてグサッときた。それ以来男子とは極力関わらない。
男兄弟がいればもっと違ったんだろうに沙紀は一人っ子で、親の目に映る自分ばかり気にしながら大きくなってしまった気がする。
音楽室についた。
出席番号順に座らされた。男女入り乱れて居心地が悪い。
渡辺美佳と自己紹介した先生はあがっているせいか、頬が赤く落ち着きがない。普段は上手いのに発表会では失敗してしまうピアノ教室の知人を思い出させた。
まず校歌を歌った。
次に教科書の最初の歌、「海」〜松原遠く消ゆるところ〜というやつだ。先生は一回ピアノを弾きながら自分が歌った後皆に歌わせようとしたけれど、生徒は歌詞を拾うので精一杯。教室に響いた合唱は、音は不安定、歌詞はいい加減で悲惨だ。
クラスの大半が歌う努力をしたところは上出来なんじゃないかと沙紀は肩をすくめた。
「上手くなくてもいいのよ、今日はほんの手探りだから……」
という美佳先生は自分を慰めているんだろうなと思った。
「ではこれからちょっとテストをします。ドミソ、ドファラ、シレソの和音を弾くので、どれだか分かる人は手を挙げて下さい」
――え、それって幼稚園レベルじゃないの?
沙紀は即座に思ってしまい、皮肉屋の自分が嫌になる。でも嘘は言っていない。今通っている音楽教室の学童前クラスがやっていることだ。
先生は三つの和音を何度も何度も、たまにはオクターブ上げたり下げたりして弾いている。たまに指名して答えを言わせ、生徒の名前を憶えようとしているようだ。クラスメイトの中には全く手を挙げない子もいる。ドファラだけ自信がある子もいるようだ。
沙紀がもうずっと手を挙げっぱなしでいいかと思った途端、先生がミスタッチした。素早く手を下げた。
「きゃ、間違えた、ごめんなさい」
美佳先生は小娘のようにうろたえている。沙紀は自分がミスしたかのようにバツが悪く感じた。いたたまれない。
ふと隣の男子がひとりだけ手を挙げているのに気付いた。
サラッとした黒髪に細い黒縁の眼鏡をかけている。
――この子、名前何だっけ?
「阪口君かしら? ごめんなさい、今のは先生の間違いね」
先生は出席番号表で名前を確かめてから言った。その子は、挙げていた左手で頭を掻いて下ろしながら、何かつぶやいた。
「でえまいなあ」
と聞こえた。「かなわんなあ」とか「困ったなあ」とかって意味かと思った。
笑ってごまかしてるんだと思ったのに、阪口君は先生に向けてにっこりと笑いかけてから眼鏡をはずした。
沙紀はその笑顔に見入ってしまった。
先生は「海」の歌詞を一度朗読してからピアノを弾き始めた。その後また歌わされた。
隣から聞こえてくる声は小さいけど上手い。
と思ったらハズした。
違う、合ってる。低音部だ。でも教科書の楽譜通りじゃない。
――何、この人?
横を見ると、阪口君は目を閉じていた。歌詞は憶えているらしい。こんな古い日本の曲、音楽の教科書にありがちな小学唱歌と呼ばれる曲なのに。
――睫毛が黒い。
長くもあるけれど印象に残ったのは黒さだった。
美佳先生は日本の古い歌を集めたレコードをかけて授業を終わりにした。
阪口君はその間、ずうっと歌を口ずさみながらほとんど目を開かなかった。
沙紀は「でえまいなあ」と聞こえそうな単語をずうっと考えていた。そして思いついた。
「ひでえ、まいるなあ」と悪態を吐いたのだったとしたら?
でも隣の男子の横顔からそんな言葉が出てくるようには到底思えなかった。
授業が終わるや否や、男子が阪口君を取り囲んだ。
「ハッズかしいの、夏樹、ひとりで間違って」
「ほんとだね」
笑いながら立ち上がり、がやがやと六年三組の教室に戻り始めた。
沙紀はその後ろについて会話を聞いていた。
「何でも屋の夏樹のくせに」
「みんなが勝手にそう思ってるだけ」
今はもう眼鏡をかけて、楽しそうな声。
背は自分より高いけど他の男子よりは低いほうかもしれない。痩せている。体重は同じくらいだったりして。
クラス替えをした途端だから、沙紀は男子全員のフルネームを憶えているわけじゃない。去年か四年のときに一緒だった子以外は、同学年の男子というひとくくりに把握していた。前を歩いているグループもよく知らない子が多い。
沙紀が阪口君と同じクラスになったのは今回が初めて、阪口夏樹というらしい。
「私立の中学いくんじゃないのか?」
「僕が? いかないよ。中学はみんなと同じところでいいよ」
「同じところでいいってどういう意味だよ――」
沙紀から見ればガザツな男の子たちに肩を組まれたり拳を寸止めされたりしながら、阪口君は教室に着いた。そして、何故か扉の前ですっと身を引いて仲間を先に通した。
「入らないの?」
次が自分の番になってしまい、沙紀は阪口君を見上げた。
「あ、何か他人に譲る癖がついてて、ヘンだよね、僕」
と、屈託なく笑った。
今がチャンスだと思った。
「ねえさっき、もしかして『ひでえ、参るなあ』って言ったの? 和音間違えたとき」
「え? あれ?……瀬川さんがそんなこと訊く?」
阪口君は眼鏡の向こうの瞳を丸くしてから微笑んだ。
「僕は間違えてないよ。嘘だと思ったらさくらさんにでも訊いてみて」
阪口君はそれだけ言って、「夏樹、次の算数あたりそう〜」と叫ぶ悪友のほうへ行ってしまった。
沙紀は自分の席についてから思い巡らせた。
――まずは名前を呼ばれたことに驚いた。私が誰だが知っていた。視野に入ってないと思っていた。
そして、男友達にからかわれた時にはうやむやにしたのに、自分には「僕は間違えてない」と断言した。まるで私にだから本当のことを言ったかのような印象だ。
それから、「さくらさん」。私の知人でさくらという名前なのは音楽教室の校長先生、後藤さくらさんだけだ。直接には習っていない。美しいグランドピアノのある第一ピアノ室にいる、銀髪のレディ。発表会前には試演としてさくら先生に聴いてもらい、OKが出ないとやり直しとか、選曲変更になったりする。若い頃は、「みなづきさくら」という名前でピアニストとして活躍したそうだ。
阪口君は私が「後藤音楽教室」の生徒だと知っている。私は彼のこと、何も知らないのに――
頭が良くて眼鏡をかけていると、クラいとかガリ勉とか思われるのに、彼にはあてはまらない。影も薄くなくて人気がある。男子は皆一目置いているみたいだ。休憩ごとに仲間が阪口君の机の周りに集まる。誰にでもすぐ、にこっとする。
その日のうちにもう一度話しかけるチャンスはなかった。近づけない。いや、沙紀に勇気がなかっただけかもしれない。
うちで父親に聞いてみた。両親が共働きで、今日は先に帰ってきた父が夕食を作るらしかった。
「お父さん、『でえまいなあ』って言葉ある?」
「テレビで時代劇か歌舞伎でも観たのか? 物の怪なぞ出〜るまいなあ、テンテンテンテン……」
キッチンで炊飯器をセットしていた父の返答は全く意味不明だった。
やっぱり音楽関係者に訊かきゃだめだ。阪口君がさくら先生と言ったのだから。沙紀の父親は、ショパンを弾いていても「お、ベートーベンか?」なんて言うような人なんだから。
思春期まっただ中の皆さんへの応援歌です。