僕はトマトが食べれない
僕は、トマトが食べれない。
トマトにまつわる最初の記憶で残っているのは、幼稚園の頃弁当に入っていたトマトを食べることができずに、帰る直前までずっと泣いていた場面だ。周りには、先生たちの困り果てた顔。
「大きくなったら味覚も変わるし、大丈夫」と親からは言われ続けてきたが、社会人となった今でもトマト嫌いは変わらなかった。味覚で変わったといえば、しいたけがよりおいしく感じられるようになったことくらいか。
「これ、今日近所でおいしいって評判のトマトなんです。是非召し上がって下さい」
営業の訪問先で、トマトが目の前に差し出された。この方は、自宅にわが社のウォーターサーバーを設置してくれており、月に一度、顔つなぎをかねてメンテナンスなどに伺っている。いわゆるお得意様だ。清潔感のある和モダンを呈した部屋で、木目調の長机が落ち着いた雰囲気を醸し出している。そこに置かれた皿の上に敷き詰められているトマトたちが、こちらを睨んでいる。
「いえ、そんな訪問先で食事をごちそうになるなんて…そこまで気を遣ってもらわなくてもいいですよ」
一刻も早くこの家から出たほうがいい。僕の心がそう警鐘を鳴らしていた。
「気なんか遣ってないですよ、ほら、一個だけでもどうぞ」
なんて押しの強いクライアントだろう。本当は、トマト嫌いなオーラを思いっきり出してこの和モダン空間いっぱいに広げてやりたいが、相手は客。そのような子どもじみた行いはできない。僕にはすでに、トマトを食べるより他、道が残されていないようだ。
「では、一つだけ」凶暴な赤みとみずみずしさを身にまとったトマトを口の中に運ぶ。ひんやりとした皮の触感に、一瞬噛むことを躊躇してしまった。
-ぷっちゅ。
トマトの酸味とジェル状の食感が、口の中を満たす。少し遅れて、特有の青臭さが喉の奥を刺激する。えづきそうだ。しかし、えづくわけにはいかない。クライアントの前では、たとえ喉をつぶしたとしても、トマト嫌いを悟られるわけにはいかない。口から下の器官は、もう別の生き物のように感じてしまう。
「ごちそうさまでした、今後ともよろしくお願いいたします」
今日一番の笑顔で、クライアントの家を後にした。車に乗り込んだとたん、水筒に入れてきたポカリを半分ほど飲み干してしまう。まだ残る喉奥の青臭さに、思わず嗚咽が漏れてしまった。
今日はまだ3件ほど得意先を回る予定がある。早速次の訪問先に歩いて向かう。夏の厳しい日差しを浴びて歩きながら、空を仰いだ。お願いだから、もうトマトは出てこないでほしい。決して、もう…。
「こんにちわ!夏野です!いつもお世話になっております。」
「あら、丁度よかった!さっき家の畑でおいしいトマトが採れたのよ!お一つ召し上がっていったらどう?」
僕は、トマトが食べれない。




