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小説 日航機123便 不明飛翔体が垂直尾翼に衝突

作者: 山内清清

今日は2016年年8月12日である、日本航空123便が御巣鷹山に墜落した日である。1985年頃は太平洋戦争が敗戦で終わり40年経って、日本の経済成長が真っ盛りであり、皆が青かるい明日を信じてはつらつと毎日を生きていた。音楽会だ、演劇鑑賞だ、誰かれの結婚式だ、夏の北海道だ、沖縄の海に行くのだと幸せ一杯で、不幸なことなぞ誰も何も思いもつかなかった。楽しく愉快な希望に満ちた明日の道を突然無残に断ち切られた大事件であった。

テレビのニュース画面を見ると、この大事故の遺族はもう31年も経ったのに、今だに号泣し、悲しさと悔しさと無念さを訴えている。31年前の過去のことにして記憶の底に収める・仕舞込ことが出来ないという。

このことに疑問を抱きアマチュアパイロットとしてこの大事故・事件を解明し、遺族の慰めとしたい思いで筆を執った。これは推理小説であり、いかなる第三者を批判するものでもない。


小説 日航機123便

 日本航空123便ジャンボ機は1985年8月12日午後6時10分頃、晴天の下、羽田空港の南北方向滑走路をほぼ南に向かって滑走し、その後サーと離陸し、一路大阪の伊丹空港に向かった。

日本の関東は地球上で中緯度にあり、8月12日は、日没が18:35午後6時30分頃であり、晴天のため空は午後7時ごろまで、明るい。見上げれば上空を飛ぶ大型ジェット機はよく見ることができる。

東京湾を上昇しながら浦賀水道上上空に出て、館山と三浦岬との中間上空を通り、次第に高度を上げて、大島上空を通り本州沿いに西南西に航路を取る予定である。しかしながら巡航高度24,000フィート(7,315メートル)に到達する直前、伊豆半島東岸に差しかかる18時20分頃に異変が起きた。

ジャンボ機は4発の大型ジェット機であり馬力が充分にあるので、相模湾で高度をサッサと24,000フィートに上昇し、更に上昇を続けながら一路大阪空港(伊丹空港)に向う予定である。

当時はまだ格安航空会社はなく、航空運賃は比較的に高く、日航機123便の乗客は、殆どがやや裕福な人々が乗り込んでいた。

 そのうち相模湾上空で、コクピットの正・副操縦士が機体後方で「パ-ン」という軽い衝撃音を聞いた直後、後方の大きな垂直尾翼(方向舵)が原因不明で破壊され消失した。垂直尾翼ほぼ全体が破壊され消失したので、方向制御が通常操舵(左右の足踏み操作)では効かなくなった。平和時の民間機では絶対にあり得ないことであり、正・副操縦士が共に驚愕したことが想像できる。B747は、機体長が70m前後あるので、前方の操縦席では機体最後方での何が起こったのか把握できなかった。ただ方向制御が通常操舵(左右の足踏み操作)では効かなくなったことに度肝を抜かれたに違いない。


 インターネット上の生存者の手記により機内状況を表示すると、

「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。・・・ 「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。」


JA8119号が巡航高度24,000フィート(7,315メートル)に到達する直前であれば富士山の高さ3,315メートルの約2倍であり、気圧は地上の1/3で酸素も極めて薄い。「パーン」という衝撃音と機体異常振動により、酸素マスクが自動落下したと推論できる。座席に座った乗客が、機内の空気が後方に急激に流れた・噴出したとか、長い髪が後方に吸い出されたという報告はない。


 しかし左2発の大型ジェットエンジンと右2発の大型ジェットエンジンの合計4発のジェットエンジンを備えている。これら により、左右の各エンジン出力を調整すれば困難であるが、進行方向はどうにか制御できる、筆者は双発機の経験もあるので、そのことを理解している。

 訓練では、方向制御・直線飛行中に、通常操舵(左右の足踏み操作)を止めて、左右のエンジン出力を変える。左に向けたいときには、左エンジンの出力を絞り、右エンジンの出力を上げる、すると機体は次第に左を向くようになる。反対に右に向けたいときには、右エンジンの出力を絞り、左エンジンの出力を上げる、すると機体は次第に右を向くようになる。

 これを証明するかのようなニュースが過去にあった。1971年のベトナム戦争真最中に、嘉手納基地に戦地から舞い戻った戦略爆撃機巨大なB52が垂直尾翼なしで、着陸し地元新聞では写真入りで報道され大騒ぎしたことがある。

B52は確か左に4発の大型ジェットエンジンと右に4発の大型ジェットエンジンを備えている、左右の各エンジン出力を調整して遥かなベトナム上空から辛うじて嘉手納に向かって飛行を続けて帰還できたのだろう。

垂直尾翼を失った戦略爆撃機B52の遠距離飛行が、米国宇宙航空安全研究会により1964年、米国空軍隊員に対して高度操縦教育用に公開されている。

 このB52は米国中部のカンサス州ウィチタ空港を出発し西に約1,000Km離れたコロラド州向かった。

カンサス州ウィチタ市は日本人に馴染みの深い小型飛行機セスナを生み出した航空機製造の町である。市の東方には巨大なマクコーネル米空軍基地があり、   B52はここを、何らかの機上搭載機器の試験と操縦士の訓練を兼ねて西方のコロラド州に向かって離陸した。巡航は高度14,000フィート(約5,000m)で速度360ノット(時速約650Km)で何時もの通りであった。


コロラド州の中心部に位置する大都市コロラドスプリングスのすぐ西方には、ロッキー山脈が横たわっており、14,000フィート級の山々が聳え立っている。このB52はロッキー山脈超えの飛行計画がなく、コロラドスプリングス市から400Km南方の小都市アギラールでUターンし、ウィチタ市に帰る予定だった。

さて、カンサス州を離れてコロラド州に入り、暫くして軽い乱気流タービュランスに遭遇した、おそらくロッキー山脈からの吹き下ろしの風のせいだろう。途中小都市アギラールまでに幾度か軽い乱気流があって、正・副操縦士と航空士は多少の揺れを座席シートに感じたが大したことではなかった。

しかし小都市アギラール上空で予定通りUターンした直後、猛烈な乱気流に9秒間揺す振られた。飛行高度14,000フィートで速度360ノット(時速約650Km)であった、その後正・副操縦士は突然両足で受ける方向舵ラダーの感覚がスカスカになっていることに驚愕した。2人は目配せ同一異常を同時に認識し、機内電話で航空士に伝え、マクコーネル米空軍基地に緊急通報を送るよう指示した。方向舵ラダー異常の緊急通報は、マクコーネル米空軍基地近くからコロラドスプリングス航空管制本部にも即時に知らされた。

機長は速度を360ノット(時速約650Km)から160ノット(時速約300Km)に落とした、そして機首を離陸したカンサス州ウィチタ市に向けた。低速にしたので、帰空港まで2時間以上飛行する予定だ。機体の揺れは少しで、機首が上がったり、左右に揺れたり、飛行方向が左方に向いたり右方に向いたりしたが、左右のエンジン出力調整で最小限に抑えることができた。コロラドスプリングス市北方60Kmにある空軍アカデミー飛行場から、訓練用・偵察用のF100機が2,3機飛んで来た。大きな尾鰭を失ったB52を1機は並行飛行しながらウィチタ市方向に誘導し、もう2機がやや離れて飛行し、B52の機体全体を観察し、撮影してマクコーネル米空軍基地とコロラドスプリングス航空管制本部に通報し、写真データを無線で送信した。

外部からの観察により、方向舵ラダーを担う巨大な垂直尾翼が吹き飛んで失われていたことが判明した。たった9秒間の猛烈な乱気流は、機体後部にある大きな尾鰭をもぎ取ったのである。マクコーネル米空軍基地では即時にB52の整備士、待機パイロット、設計技術者、気象担当者、流体工学専門家が一堂に呼び出されて、対策会議が開かれた。 機体速度を安全飛行上最小の160ノット(時速約300Km)にすること飛行姿勢及び飛行方向安定のために着陸車輪群を降ろすこと(gea down)をB52に伝える結論を出した。当該B52の垂直尾翼が90%近く吹き飛されていることが観察機F100のパイロットから正・副操縦士に報告された。緊急飛行中であったがB52は安全姿勢及び飛行方向の許容範囲内でウィチタ市に向けて飛行した。マクコーネル米空軍基地は、当該B52を東隣のオクラホマ州を超えて、アーカンソー州のリトルロック市北30Kmに位置するリトルロック空軍基地に着陸させるようにし、そのような指令を当該B52とリトルロック空軍基地に出した。その後当該B52はリトルロック空軍基地に無事着陸した。垂直尾翼が乱気流ごときで簡単に吹き飛ぶものかと疑問がのこるが、垂直尾翼は飛行方向を制御するだけで、翌面にそれほど荷重はかからない。主翼は機体全体を支えるので、構造的に強固に作られているが、それに比べてなんら機体荷重負荷はなく単に空気流の方向を変える 機能さえあれば充分である。その後世界を長時間飛ぶ戦略爆撃機B52の搭乗員には、この1964年の垂直尾翼無飛行の教訓が徹底されている。かくして1970年前後のベトナムからの尾鰭無のB52による嘉手納への帰還がなされた。


 不幸にも日本航空123便は近い羽田に向かうこともなくまた滑空に近い飛行状態で浜松の航空自衛隊基地に向かうのでもなく、迷い迷って、山また山の中の御巣鷹山に接線接触して墜落爆破してしまった。

 遺族を含め我々飛行機野郎も悔しくて残念な思いが今も心の底に重く押し掛かっている。


不明飛翔体が日航機123便の垂直尾翼に衝突し、垂直尾翼を吹き飛ばしたが、不明飛翔体は小惑星の欠片による隕石、ゴルフボールより小さいビー玉程度の隕石の残り物体か、地球を周回している無数の宇宙ゴミの破片か、試験中の迷走ミサイルかの断定は容易ではない。晴天の18時20分頃は夕日が西にあり、夕焼けで空が赤茶けていれば、ビー玉の隕石の細い光は見え難い。宇宙ゴミも同様であろう。

 

さて、杉山馨は若い時トヨタインターナショナルの海外営業部長として、インドに3年滞在した、最後は南米ブラジルに5年間駐在した。

彼は大阪豊中市の1940年代のエリートサラリーマンの家に生まれた。父はラサ工業に勤め、沖縄南東400km余に位置する沖大東島に派遣された鉱山技師であった。彼も5,6歳のころ両親に連れられて沖大東島、別名ラサ島でしばらく生活した。

その後戦争になり、危ないと両親と共に沖大東島を離れた、戦後は豊中市に戻り、小学・中学・高校と地元で学び、大学を神戸市で学んだ。

現在の沖大東島、別名ラサ島についてインターネットのから引用し、沖縄県の東南480km余の海上にある、興味ある「島」を紹介する

沖大東島おきだいとうじまは、大東諸島に属する小さな孤島である。別名ラサ島(ラサとう、Rasa Island)。「ラサ」とは、ラテン語で「平坦な」という意味の rasa に由来し、行政区画は、全島が沖縄県島尻郡南大東村に属する。  住所は郵便番号 901-3900、沖縄県島尻郡南大東村大字ラサであり、遥か南東に浮かぶ沖ノ鳥島から一番近い島でもある。

東京から1,500km弱、沖縄本島の南東408km、南大東島から南約150kmの太平洋上に浮かぶハマグリ状の隆起珊瑚礁の無人島。周囲は珊瑚礁に囲まれている。北大東島や南大東島によく似た地形だが、これらの島に見られる中心部の盆地状の起伏は見られず、沿岸は岩礁で囲まれている。島のほとんどが過去数百年の間に、鳥の糞と珊瑚の石灰質とが化学変化してできた糞化石質燐鉱石グアノから形成されている。そのため、衛星写真もしくは航空写真を見ると地表が白く見える。ところが面白いことに人工的な巨大なX印やV印が複数個あることがわかる、異星人による描画のようだ。これらX印やV印の各辺は黒と白に部分的に塗られて描かれている。

住民が古くから住んでいる南大東島や北大東島と異なり、ラサ工業株式会社が日本国からこの島の払い下げを受けた1937年以来、一貫して同社の私有地である。沖縄返還時には誤って国有地とされてしまったが、翌年にはラサ工業の所有権が確認された。1970年代には、ラサ工業による再開発計画もあり、残存しているとされる燐鉱石を採掘しつつ、島内に石油備蓄基地を設ける計画もあった。

しかし、戦後に米空軍による空対地爆撃射撃場として接収された、沖縄返還になっても射撃場が返還されないことになり、同社建設員や現地社員の身の安全が保証されないといった理由からこれらの計画は消滅している。1980年には、射撃訓練の合間をぬって、同社により燐鉱床の探鉱が行われ、燐鉱石が約300万トン残存していることが確認された。けれども、ラサ工業は1983年に燐酸肥料を含む化学肥料事業から撤退したので、無人島のままである。全島がラサ工業の所有であり、また在日米空軍の沖大東島射爆撃場として提供されていることから安全面からも、この島に一般人が上陸することはできない。かつて大日本帝国海軍の気象台があり、1945年の米軍空襲により焼失するまで、日本の台風観測上重要な位置を占めていた。1972年沖縄県の復帰に伴い施設・区域提供される。ここで重要なことは、このラサ島が「在日米空軍の沖大東島射爆撃場として利用されている」ことである。

 以下はあくまで小説として、不明飛翔体が迷走ミサイルかであったと仮定した物語である。繰り返すがこれは推理小説であり、いかなる第三者を批判するものでもない。

厚木基地から発進した3機の戦闘機F15が日本時間16:00にラサ島に向かった、射撃訓練のためである。上空から前方下方に見える目標島を目指して30度の急角度で急降下し、上昇反転ができるぎりぎりまで目標に接近してミサイルを発射する。30年前はミサイルの誘導性能が今ほど高くなく、従来の機関銃射撃のようにパイロットが目標を目視で捉えてからミサイル・弾丸を発射する。もちろん発射はボタン式で、電子式発射である。F15は3機編隊で、時速1950kmで45分後にラサ島上空に到着し、20分程度射撃訓練をして、日本時間18:00頃厚木基地に帰る。訓練とは言え実弾ミサイルを使用する。搭載ミサイルはF15の両翼の下に各2基づつ計4発が標準であり、各ミサイルごとに発射ボタンが時分割で対応している。ミサイル発射主マスタースイッチがあり、その後時分割発射ボタンが順番に操作される。

マスタースイッチが閉(導通)だけでは発射されず、パイロットが目標を捉えた後につかさず時分割発射ボタンを押すとミサイルが飛び出す。

 F15の両翼の4発のミサイルは電子式発射装置であり、時にはまれに電気故障で、発射しないものが発生する。訓練や実戦では不発が起っても特に問題にならない、同僚機が次々に発射できるし、また自己機でもまだ複数ミサイルが残っているから。従って兵器装置整備兵も不発発生を余り気にしない。

 不発ミサイルを装着したままでも、マスタースイッチが開(非導通)であれば、このミサイルを基地に持ち帰り不具合を点検・修理できる。

 射撃訓練を終えた3機編隊のF15には、その日1機だけは、不発ミサイル1基を残した者がいた、しかもこのパイロットはたまたまマスタースイッチを開(非導通)・切ることを実行していなかった・忘れていた。

 彼らが帰途相模湾の上空で、大阪に向かう日本航空123便と交差した、交差してもお互い高度差2千メートル以上あるので、航空交通としては全く安全である。ジャンボ機は4発の大型ジェット機であり、相模湾の上空ではすでに6千メートル上空を飛行し、厚木に帰る3機編隊のF15は着陸前で、速度を時速400kmに落とし、高々1千メートルの高度で飛行していた。

ところがたまたま低い高度1千メートル当たりで狭い範囲ながらやや強い乱気流が発生し、3機編隊のF15は短時間だったが激しく揺す振られた。その時、不発ミサイル1基を搭載し、且つマスタースイッチを切ること忘れられたF15では、操縦席のミサイ時分割発射ボタンが押されもしないのに、この乱気流の激しい揺れで、あたかも押された状態になり、残っていたミサイルが発射されたのである。乱気流の影響でF15の機首が発射の瞬間上を向き、その上空を通過中の日本航空123便の航路に向かってミサイルが飛び出した。

 この発射は、幾らかの反動力を発生するし、上方向にミサイルは飛んで行ったので、パイロットはその飛翔を目撃している。しかしこれが日本航空123便垂直尾翼に当たったことは見ていないし、まさか命中するとも夢想だにしなかった。当然肉眼で目視することができなかった。彼はただちに不用意なミサイル発射を横田の緊急空軍監視部と厚木基地に報告している。このミサイルが辛くも日本航空123便が通り過ぎようとした時、もう少しで、ミサイルは外れる軌道であったが不幸にも垂直尾翼に当たってしまった。


*日航展示室より*引用

「JAL123便JA8119号機は、・・・巡航高度24,000フィート(7,315メートル)に到達する直前、伊豆半島東岸に差しかかる18時24分35秒、同機に「ドーン」という音と共に飛行の継続に重大な影響を及ぼす異常事態が発生しました。・・・機体後部圧力隔壁が破壊して、客室内与圧空気が機体尾部に噴出し、・・・以後、同機は激しい上下・蛇行運動を繰り返しながら約32分間飛行を続けましたが、・・・標高1,565メートル、御巣鷹山南方の尾根)に墜落しました。本事故の原因は、・・・捜査・救難活動は・・・翌朝となりました。乗客、乗員524名のうち520名の方が亡くなられ、4名の方が重傷を負われながらも救出されました。」


ジャンボ機は巨大であり、垂直尾翼程度の破壊ならそれほど反作用を感じない。しかし、方向制御・直線飛行中の、通常操舵(左右の足踏み操作)がスカスカになったことに正副操縦士は驚愕した、通常ではありえないことだ。そこで、上昇飛行は止めて全エンジンの出力を落として・下げてスローフライト・失速はしないが低速飛行に、切り替えた。

一方厚木に着陸した(不発ミサイルを、乱気流との思わぬ遭遇で、発射してしまった)F15のパイロットは地上点検でミサイルが消えてしまった現実を見て恐怖に慄いた。

 しかしその時点では、方向制御が困難であってが日本航空123便にも、横田 の緊急空軍監視部と厚木基地にも、羽田管制塔にも対応に時間的な余裕があった。

これら全ての者の結論は、横田基地に日本航空123便を緊急着陸させることであった。そのためスローフライト状態でもあったし、早くもギアダウン・着陸用車輪を下げて空中待機するように指示したであろう。


 しかし日米両国政府は、この緊急着陸の理由を日本国民に上手く説明する必要があった。素直に射撃訓練場・ラサ島からの帰途、F15の不発ミサイルが、偶然上空で発射されて、日本航空に着弾したとなると日本国内が大騒ぎになる。今後横田・厚木・ラサ島の継続使用が困難になるだろう、これを避けるために何か別の理由が急ぎ必要だ。

 まだ35分の余裕がある、在日米空軍は急遽日・米の運輸当局と日航整備部と製造元のボーイング社に無線電話をかけ、秘密通信を出して理由つくりに血眼になった。こうしてあと20分、15分と着陸までの時間猶予は刻々と少なくなっていった。垂直尾翼なしの4エンジン操作で、日本航空123便は横田空域北西の関東上空を飛び続けていた。

横田空域北西の80km地上は、関東平野を西に通り越して、本州の真ん中辺の長野県近くの上空まで飛行し、もう山また山で、南に高天原山 南南西に三国山 南に甲武信ケ岳 北に品塩山 東に諏訪山 御荷鉾山 西に御座山 蓼科山2,530m等に囲まれている。これらの山々に囲まれた地域は、更に標高4,000フィート(1,200m)程度の山々が林立する本州の山また山地帯である。御巣鷹山は秩父市の西方30kmにある。

関東平野上空で、待機させると、万が一不時着したら地上の多くの民家に二次災害が及ぶので、敢えて民家がない山々が林立している上空で空中待機させたと考えられる。林立する山々から安全高度さえ保持していれば、且つ着陸許可があれば・時が来て横田基地にどうにか着陸が可能な状況であった。


在日米空軍は日・米の運輸当局と日航整備部と製造元のボーイング社に、どうでもいいから理由を早く挙げろと怖ろしいまでに、戦時下のごとき圧力をかけたのではないか。日本航空123便の飛行時間がもはや20分も残されていないというのに。

これらの山に囲まれた地域の上空で待機させられていた当時のJA8119号機のエンジン調整による、方向舵によらない無理した方向制御で現れる、飛行行動・姿勢制御下において、その機内の状況を下記の生存者による手記は如実に表わしている。

 インターネット上に公開された生存者の手記により機内状況を再現すると、

「音は、私のちょっとうしろの天井のあたりから・・・天井を見上げました。しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。 お客様からは、「うわっ」という声がした。女の人だと、「きゃっ」という、一瞬、喉に詰まったような声・・・ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。・・・ 「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。・・・、マスクが、・・・、とバウンドするような感じでした。ひっぱると、酸素が流れだして、・・・アナウンスで「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」と日本語と英語で流れました。・・・、禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。・・・ やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。・・・その霧のようなものは、数秒で消えました。・・・機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、・・・きょろきょろあたりを見まわしていました。 ・・・、私は、トイレの上の横長の壁がほとんど全部、はずれていることに気がつきました。・・・破壊された、というふうではなく・・・感じでした。・・・全員、酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。・・・とても不安そうにして、きょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。・・・「EXIT」と「非常口」を示す、エマージェンシー・ライトはついていました。・・・。 こうしているあいだも、飛行機・・・ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。 「パーン」という音から、たぶん10分くらいして・・・、酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。・・・。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。 ・・・。 お客様は窓の外を・・・スチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいまし。・・・、まだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。・・・

 そのうちに酸素が出なくなりました。・・・、そのままマスクをしていました。・・・スチュワーデスが、お客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください」という指示を出しました。・・・。ライフ・ベストをつけるように、・・・スチュワーデスの口頭で行っていました。まず、・・・ 私は羽田に戻ればいいな、と感じていました。・・・とだんだん不安になってきました。

 しかし、・・・私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、・・・、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。・・・Kさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。とても冷静な方でした。座席から手を伸ばして、前後のお客様の着用を手伝ってくださったのです。 ・・・、スチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。・・・。 しかし、このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。・・・、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席の下のベストをひっぱって、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。」

この証言によると、上空7,315メートルで「パーン」という音の発生後で、急激な気圧低下による、予測される機内空気の後方への流れや、乗客の耳の痛みについては何も述べられていないのである。


日航機123便事故から3年後、1988年4月28日にアロハ航空243便はアメリカ・ハワイ州ハワイ島ヒロ空港から次のアフ島ホノルル空港に向かい約24000フィート (7300m)を飛行中、機体・胴体の屋根の一部が剥がれ落ち、乗務員一名が 機外に内圧により吹き出されて洋上に落下し死亡した。

事故調査結果によると、原因は機体・胴体外板に使用されていた銅板の疲労と腐食により、 鋼板との継ぎ目が剥がれ孔沿いに発生したマルチプル・サイト・ダ メージが複数結合し、機体・胴体外板の継ぎ目から屋根部分を胴体側壁を引き剥がしたと結論付けた。

 アロハ航空243便は機体が、ボーイング737であった、アロハ航空はハワイの島間の短距離航空便を主に提供しており、世界で最も飛行回数の多いボーイング737を数機使用していた。この事故が生じた機体は飛行回数が第2番目に多いもので、製造会社やFAAからも疲労によるひび割れなどの検査を充分行うよう、指示が出ていた。シートベルトを外していた乗務員は機内空気圧により機外に吐き出されて空中に飛び出し、機外から放出され洋上に落下して死亡している。


日航機123便は、高度7,315メートルで「パーン」という音の発生時にはまず垂直尾翼が、不明飛翔体により破壊され消失した。

隔壁が自己破壊して、その勢いで垂直尾翼が吹き飛ばされたのであれば、この高度では機内空気圧により、機内の荷物・人間・膝上に置いた衣類等が激しい勢いで、機内後方の隔壁方の外気に吸い出されて行くだろう。生存者の証言では、このような報告がない。巨大なジャンボ機の胴体は体積が大きく、これに比べて機内後方の隔壁の面積は小さく、噴出流空気の速度はベルヌーイの法則により、極めて高速であり、乗客に与える気流は激しいものになったであろう。


 着陸までの猶予時間5分前に、垂直尾翼欠落の別理由情報がボーイング社と日航整備とから同時に在日米空軍の横田基地に届いた。内容はこの日本航空123便機体番号JA8119は、2年前に伊丹空港で、着陸時に機種を上げて設置し、先に胴体後方・お尻が滑走路に当たり、垂直尾翼下方で胴体後方内部にある、隔壁にひびが入り修理を受けていたことが修理日誌で発見された。でっち上げ理由が見つかったので、日本航空123便を、横田基地に降ろす決定を、在日米空軍は下した。

 しかし既に時遅しで、ギアダウン状態でスローフライトを30分近く続けていたJA8119は高度を失いもはや上昇する力がなかった。横田基地西北方向の群馬県地域には標高1,500m級の山々があり、この時点に御巣鷹山周辺の上空から横田基地までこれらの山々を超えて飛行できる程の高度を維持していなかった。

 JA8119は御巣鷹山に機首か突っ込んだのではなくまた傾いていずれかの主翼で山肌に衝突したのでもない、見事に山頂に水平方向に接触した事故になった。もしも御巣鷹山山頂に500メートルの滑走路でもあったなら、見事に着陸成功したであろう。そう思わせるように機体は山頂を水平に掠めるような事故になったのである。


 平和時に幸せ一杯で生活していた多くの日本国民にとって、別理由探しで時間を失い、不時着水や緊急着陸が遅れて、520名も命を無駄死にさせたのは許せないのではないか。事故原因を圧力隔壁欠陥として、日・米・日航・ボーイング全員が合意してこの事故を終わらせたことが、延々と続く悲しみの元ではないだろうか。 


方向舵の制御不能が絶対的に確定したら、相模湾上空なら機長は自己判断で洋上に着水した方がよかったのではないか。または羽田か横田に緊急発信をだして、割り込みによる緊急着陸を強行・実行した方がよかったのではないか。一般に機長にはこのような権限が国際法上与えられている。

この事故から24年後、USエアウェイズ1549便が、こともあろうに、ニューヨーク市マンハッタン区のハドソン川に不時着水した。

この不時着水事故は、2009年1月15日午後3時30分頃(東部標準時)に、ニューヨーク発シャーロット経由シアトル行きのUSエアウェイズ1549便であった。

この航空事故では、乗員・乗客全員が無事に生還したことから、ニューヨーク州知事のデビッド・パターソンは、この件を「ハドソン川の奇跡」と呼んで機長の適切な勇気ある行動を称えた。


 この種の事故予防策では米空軍は、射撃訓練機に不発ミサイルが残った場合、発射系統の電子回路を完全にオフにすることの教育を徹底する。更に洋上飛行中であれば、人的対応では、不発ミサイルを廃棄する、機体から離脱させて、海中投棄することをシステム化し決定し、明確化する。

隕石の落下や各国による人工宇宙ゴミに関しては、国際観測所やNASA等はいち早く、地上落下の可能性のある国の航空管制部に対して注意情報ノータムを通知するよう徹底すべきである。


テレビニュースや新聞記事や雑誌に載らない人々について、520名の方々の中からいくつかの例を取り上げて以下に記載しその方たちの冥福を祈りたい。

 これら犠牲者が123便に乗らずに、生存しその後の人生を全うしていれば、辿ったであろう物語も以下に記したい。

 これから話す物語は我々の思い出にまつわる大切な人々のことであり、親戚・縁者・友人・知人に末永く受け継いでいきたい。


桑田暁昭当時56歳は、長女が結婚して大阪市に住んでいたので、子や孫と久しぶりに会うことを楽しみに夫婦で大阪行きのJA123便に乗ったのである。

職業が初代11管区長、沖縄県海域保安庁区間長で、神戸大学夜間部経済学部卒業である。1972年米国から沖縄の施政権返還があった直後、最初の勇気ある海上保安庁11管区長である。

功績:沖縄本島中部西海岸の残波岬に燈台を建造し、「残波岬燈台」の標識・燈台名を揮毫し、この文字が金属に写されて刻まれ、現在まで燈台の門柱に掲げられている。

兵庫県龍野市出身でお寺の次男坊、龍野市では国家公務員試験に合格したと戦後の田舎社会では誇りとなった一人である。

日本酒好きで、部下思いで、優しい管区長であり、そのせいか当時の東シナ海は平穏であった。彼は就任するやいなや巡視船「与那国」を仕立てて早速尖閣列島を調査し、ボートに乗り移り上陸した。当時は中国は建国中で忙しく何か言う余裕がなかった、台湾も経済再生に忙殺されて黙っていた。

同行した沖縄タイムスの記者照喜名は「尖閣列島波高し」という名文を書いた。桑田は部下と地元民との交流を図るために、頃合いを見てはパーティー:軽い宴会を官舎のホールで開いた、当時としては珍しく本人も部下も家族:奥さんたち同伴で参加する開かれた宴会であった。

 3年間11管区長を務めた後、神戸港にある第6管区長を2年努めその後、海域保安庁東京の総務部長になって3年勤めて定年を迎えた。そして横浜の高級住宅地に終の住処を定めて、以後港湾近代化事業団等の国策団体を数箇所歴任し幸せであった。

大きな退職金を頂いて裕福であったので電電公社民営化の際に、株を数株買い取りその後この株が300万円まで跳ね上がり、その後売却して更なる資産を形成した、しかしビジネスへの気配・欲はなく、独立し結婚している子どもたちに分け与えて更に幸せであった。

 

小谷孝一当時65歳、彼の弟が家庭を持って、京都に住んでおり、娘の一人が白人ハーフの孫を設けたので、その報告を兼ねて弟一家との食宴会を楽しみに大阪行き飛行機に乗った。

小谷孝一はアメリカ人が大嫌いである。日米安保をダシにアメリカが日本を蹂躪しているからだ。彼には双子の娘がいる、二人とも優秀である、男女共学の私大をそれぞれ卒業したが、二人とも珍しく理工系である、小谷孝一からしてある著名私大の、近代数学の教授だから、娘たちが理工系に進んだのは当然の成り行きだった。

娘たちは別々の大学を卒業したが、たまたま一人は父が勤め・教える東京理科大野田校舎で学んだ、彼は代数学講座では直接自分の娘にも講義している。

さて、その後一人の娘は秀才で、国土地理院に採用された、勿論国家公務員試験に合格したのだ、そこで早速筑波研究都市にある国土地理院に勤務した。 よかった、女性で現役活躍できて、生活が安定し、結婚後も勤められるからだ。そこからが人生の面白さが展開する。

ところが、その一人の娘美穂子ちゃんは、理数と論理学をマスターして満足したが、英語には疎かった、だから知識欲が旺盛のため知的には英語に飢えていた。筑波研究都市には学生と若い研究者を対象にした有料の英会話学校が沢山開かれていた。

美穂子ちゃんは、初月給を貰うと父小谷孝一に臆することなく、早速ある英会話学校に入学し飢えた英語への学習にのめり込んだ。当然である、そして見る見るうちに英会話上が達した。

そして英会話学校の若い白人アメリカ人の講師と親しくなり、事もあろうについに恋に落ち入ってしまった、もう二人は止められない関係に急速に接近したのだ。

程なく美穂子ちゃんとアメリカ人講師とは、正式に結婚した、この講師はミッドウェストのカンササス洲出身で、親ミスタージョーは地元に広大な農園と牧場を経営していた。

その後千葉県安食市に住む小谷夫妻はミスタージョーに招待されて、初めてアメリカ大陸のど真ん中に旅行した。安食市は田園地帯にあり、周りには田と畑が広がり緑豊かなインテリ向き静かな住宅地である。

しかしどこまでも続くカンサス農園と牧場を見せられて小谷は今まで抱いていたアメリカへの不信感を払拭した、彼が反対していた日米安保の主体とは、アメリカの軍需産業と軍隊が一体化した組織であって、普通のアメリカ人と全く別であることが身を持って理解できた。彼の50年近い米国嫌いが一気に溶解した瞬間であった。小谷夫妻はミスタージョーに案内されて彼らの農園と牧場をゆっくり見学し、アメリカン・ビーフを堪能し、軽くケンタッキーバーボンを味わい、長閑な中西部のアメリカを楽しんだ。

帰国後は美穂子とジュニアジョーとの間に生まれてくる、新時代のニューハーフの孫を待ちわびた。孫は可愛い女の子であった。インターネットで送られて来る孫の動画に小谷は初めて人生の幸せを感じた。


20年程前に双子ちゃんが中学3年生のころ小谷は胃潰瘍を患って、松戸病院に入院した、診察の結果初期の胃がんであった、これから高校受験を迎えるかわいい双子のことを彼は病床の身で深く案じた、小谷は奇跡的にがんを克服した。しかし胃の3分の2を切り取られて、医者から飲酒を禁止されかつ一度の大食いも禁止された。その後は食事は一日少食を5回程度に分けて取るようになり、アルコールを一切断った。学生時代から痩せ気味であったが更に痩身となった。食事に気を使うようになった小谷は、屋外スポーツにと登山を始めた、高度の山を目指すのではなく極端に体力を消耗する登山ではなく、ハイキングを少しきつくした登山である。学生がよく実行するワンダーホーゲルのようなものである。この長期人生一貫運動は最後まで続けることにより彼の寿命を長くした。しかしJAL123便は彼の命を奪った。

 

河宮治当時36歳は、東京で年に一度の全国弁理士会会議に参加し、神戸市の自宅に帰るため飛行機に乗った。

 この会議で、来年度の日本弁理士会会長には、大阪在の国際特許事務所の所長河宮治氏に決定された。この話を虎の門の日本料理店で、東条は矢島国際特許の副所長高木さんから聞かされた。東条は大きな驚きの表情を隠せなかった、高木氏にはその理由を聞かなった。弁理士同士は互いに名声を競っているから、その河宮治氏が東条とどのような関係にあるか知りたくなかったのだろう。今晩の酒宴の支払は高木氏であるから、招いた東条から自慢話を聞かされては料理がまずくなるだけである。


 河宮治はロマンに満ちた波乱万丈の人生の持ち主である、東条の身近にいる数少ない60年安保の闘争の志士の一人である。また旧制高校の学舎で学んだ形而上学的な科学者であった。旧制姫路高校の伝統が受け継がれた新制神戸大学姫路分校に学び、その後神戸市にある神戸大学理学部に進んだ。戦後の姫路分校では学生たちは各科目の勉学より、哲学と自治と青春の思いが充満した学舎生活に明け暮れていた。

姫路分校は60年安保闘争の大渦の一つを形成し、全学の多くの学生は教養部に在籍し反安保運動にのめり込んで入った。そこには後に治氏の妻になる智子さんが文学部に在籍していた、若者らは岸内閣との闘いに情熱を注ぎながらも疲労困憊し、激しい疲れに陥ることもあった。その中で、治氏と智子さんは激しい政治闘争に比例して互いの愛情が深化していった。

打倒岸政権闘争は、国会前でその最大実力闘争となり、樺美智子さんがデモの渦と警官隊の混乱した揉み合いに押圧されて死亡した。その故樺美智子さんの岳父が故樺俊雄で当時神戸大文学部の哲学教授であった。

その後60年日米安保は強引に成立されて、治氏と智子さんを含む安保世代は次第に挫折感に苛まれつつ教養部時代を終了し、姫路を旅立ち・後にして東に100キロ離れたて神戸市にある神戸大学の理学部と文学部にそれぞれ進んだ。治氏の挫折感は底なしに深かった、そこで学業を1年遅らせて、東条と同学年となって、彼は理論物理学を学ぶことになった。一方智子さんは女性の本来の強さで、順調に進級し近代東洋史の勉学に励んだ。


河宮氏と神戸市で合流して2年後、東条はそのまま4年生で大学を卒業し、東京市ヶ谷にあるダイヤ印刷に技術屋として仕事に就いた。当時の河宮治氏にはまだとても就職する気が無かったし、また頭脳明晰であったので、大学院修士課程に進んだ。1,2年後大学院生のまま治氏と智子さんとは、結婚した。誇らしげな治氏と幸せそうな智子さんの写真が、何処からか東条に送られてきた、初めて見る写真の智子さんは東条にとっても理想の女性である素晴らしい人であった。写真の2人の背景には、いかにも学生結婚らしい質素な風景・置物が見えた。


河宮治氏は修士コースを無事終了して、工業立国日本が全国に工業大学を増設した時代に迎えられて無事に姫路工業大の教職に就いた、この姫路工業大はあの神戸大学姫路分校を文部省が改装し整備し再出発させた工業専門大学である。その後暫らく2人の生活が安定し、治氏と智子さんは幸せそうな社会生活を送り、子供ができたりして一見平凡な市民になった。

一方、東条の方は新宿駅周辺で反ベトナム戦争が激しくなり、街頭での反ベトナム戦争とこれとリンクした沖縄返還運動にのめり込んで入った。今度は。河宮治氏に代わって東条が政治闘争に熱中していった、しかし皮肉なもので、ベトナム戦争のために東条はニューヨークに同業種で勤務することになった、1969年の後半であった。


その後、河宮治氏は平凡な市民になりきれず、なにを思ったか姫路工業大の助教授職を投げ捨てて、今度は弁理士試験に挑戦した、頭脳明晰の治氏は2年で当時難関の弁理士試験に合格した。その後大阪市の本山国際特許事務所に勤めた。


一方ニューヨークで東条はアメリカの高等教育を受けた青年たちがいかに強くベトナム戦争に反対しているかを知った、もう平和や世界秩序のために戦場に行くのではなく、ひたすら産軍共同体の繁栄のために利用されていることをアメリカの若者たちは悟っていた。当時は徴兵制であり、優秀な学生も音楽家も無差別にベトナムに送られて、戦死し傷つき発狂していった。ベトナム戦争の最中N.Y.C.に居たたまれず、東条は1971年終わりごろ帰国した。それから5,6年歳月が流れた、その間河宮夫妻と東条は時々年賀状を交換した。


仕事のことや親しかった同窓生との交歓で東条はしばしば大阪・神戸を訪れたが、河宮治氏との再会はならなかった、当地で電話するたびに忙しいとの返事である、外国特許出願とアメリカやドイツとの特許権争いで時間を詰める仕事が山のようにあるとのこと。

その間河宮と東条の同窓の一人(灰谷さん)が癌に罹り、40代で早死にした、その時御花代・線香代を集めようと東条からの須磨の彼の自宅に夕方電話した。そのときは智子さんが出てくれた、「うちの人はまだ帰宅しないのよ、何時も夜中帰りだわ」と優しい声の応答であった。


彼に再会することなく、また歳月が流れた、お互い元気であればまた逢えると楽観していた。その後阪神淡路大震災があった、再会が果たされていなかったので、東条は心配になった。長田区の火災が収まり、電話通信が回復した時に、須磨の河宮治氏の自宅に夕方電話した。

震災の直後であったため、今度はやっと自宅待機中の河宮治氏と電話ながら直接話すことができた。須磨の自宅も大丈夫で家族にもけが無しとのことであった。しかし一言「激しい揺れとゴーという不気味な音と家具の倒れる音で目覚めた、死ぬかと思った」と言った。かれはその後また国際特許競争の激務の只中に舞い戻っていた


この超多忙の事実を東条は後で知った、アルファ薬品の特許部長で産学連携の全国トップであった平山浩氏から、そのことを日航機事故の後、河宮治氏の没後に聞いた。

東条は親しい仲間とのんびりした関西旅行をした、今度こそは河宮治氏に会おう、こっちには時間余裕があるし、忙しいと言ったら彼の事務所に押し掛けるつもりだった。それは、日本弁理士会会長に、河宮治氏が決定されたとの話を聞いた後でもあった。

梅田駅から東条は元気な声で、期待に胸を膨らまして「もし もし 河宮所長お願いします、神戸の同窓生 東条です」、電話の相手は一瞬戸惑ったようで、沈黙があり、「電話代わります しばらくお待ち下さい」と言う。

次に出てきたのは「総務部長の大林です、・・・実は河宮所長は123便の乗客でした、事故で死亡しました」との返事であった。東条は一瞬眩暈がした、その部長は手短に河宮治の死亡の経緯を簡単に説明した。

当時東条は東京電機大でTLOの位置に居て、時々産学連携の研修会や全国会議で、議長の平山浩氏と交歓があった。その後東条はある小さい会合で平山浩氏とゆっくり話す機会があった、そこで、大阪基盤であるアルファ薬品の特許部長の平山浩氏に軽く聞いてみた。

「次期日本弁理士会の会長予定だった故河宮氏について何かご存じですか、仕事の関連がありましたか」と、すると平山浩氏はビジネスライクの表情から、急に内輪同士の真剣な顔になり、「どうして河宮治さんをご存じですか」と一気に問いかけられた。


平山浩氏は言った「河宮治氏は東京から大阪に帰る途中で123便に搭乗し犠牲になりました」とのことだった。

平山氏はぽつりと「彼はお酒(日本酒)が大好きだった、仕事で対アメリカへの書面を2人で遅くまで詰めた後は、よく梅田や難波の料理屋で最終電車まで飲みか交わした」と東条に告げた。

「実に残念だ、ドイツとアメリカに対するアルファ薬品の現在の特許勝利状態は彼:河宮の力の貢献が大きい」と語った。東条は河宮治の日本弁理士会会長の姿を見たかった、また彼のそのような地位をビジネスに活用しようと言う欲もあった。日本弁理士会会長とは世界の知的財産会議の議長でもある、世界的に利用価値があったと想像した。

しかし、東条が一番言いたかったことは、安保世代の挫折感を克服した彼:河宮の姿を多くの後輩と一般の人々に見せたかったのである。惜しい人を航空事故は失わせたのである。


電気主任技術者の当真嗣信当時54歳は宝塚市に住む電気技師の山田栄健を訪問する予定で、JA123便に乗った。

朝霞の公団住宅に、この変人が住んでいた、東京に貧乏学生が多かった1965,6年ごろに早稲田大学の夜間(二部部)経済に入学した。

 この当真嗣信氏は卒業後小企業でサービス業界のとあるキャバレーに勤め、経理仕事中心であったが経営まで手を伸ばし、このキャバレーを新宿界隈で著名にし、そこソコの黒字を10年以上維持させた。その後このキャバレーを辞めたが、同業キャバレー仲間からその腕を買われて・誘われてあちこちと移りながらその後20年ばかりその世界で過ごした。その間に静岡生まれの嫁さんを娶り、2人の息子をもうけた。

 豊かであったが生活は質素で、マイホームを買うことなく貯金は2人の息子の教育費に注いだ、これまでは平凡人生である。

50歳ごろになって何を思ったか、電力系の技術職を目指し1年間猛勉強して中型発電所を監督できる電気主任技術者第三種を取得した。その資格を活用して、彼は大口電力を食らう大学の電気安全指導員・監督になり、東京工業大学を電力面から監督・管理。指導することになった。

 2人の息子は段々成長して、一人は日本大学にもう一人は明治大学に入学した、今回は二人とも普通学生として経済学部と法学部に相次いで進学させた、もう戦後の貧乏学生は少なくなっていたからである。

 彼が住む朝霞の公団住宅である晩に自治会の懇親会があった、そのころの自治会では戦後を終えて、日本の経済成長の真っ盛りであり、婦人がたの会員も少なくなかった。

会議が終り懇談会になり自然に自己紹介となり、誰彼と無く自分の故郷話に話題が移った。

 一人のご婦人は隣棟に住む、共産党員で活発で昔の岩手美人である、このご婦人が当真さんは沖縄出身とのことですが、どちら方面ですかと聞いてきた。

当真嗣信氏は何だろうと思ったが、沖縄本島の読谷ですと答えた。するとこの昔の岩手美人は、あっうちの姉の旦那は正しく沖縄の読谷の人ですと反応が返ってきた。

ご婦人の話では、姉夫婦は二人とも北大の医学部に学び、学生時代道内奥地への医療訪問を繰り返すうちに、恋愛して結婚し、夫の名前が安田という。当真嗣信氏はびっくりした、安田とは安田慶秀であり、読谷高校の2期先輩ですと答えた。

堀は、この話を当真嗣信氏から聞いた、そのときはエッ!こういうこともあるのかと軽く受け止めていた。後でよく考えて見るとその活発なご婦人はひょっとしたらあの50年ほど前の釜石市のあの可愛い女の先生・小学校の先生ではないか。少なくとも当時堀が独身で、まだビジネスで渡米する前、はるか昔に、釜石の三陸鉄道で1日旅行でご一緒した。あの時の古い写真がどこかに残っているようだ。


堀は当真嗣信氏に、オ社が茨城県下にソーラー発電所を増設することが近いとの話をしたことがある。電機主任技術者を探している、だから電検三種資格証をコピーしてオ社のエネルギー部門に出した方がいいと堀は彼のために考えた。早速当真に電話したが、繋がらない、携帯の応答なしで、ロボット音声から、呼び出しましたが「繋がりません」の対応である。

これで堀はあの昔の岩手美人を紹介して貰える機会を失ってしまった。


30年前に、堀は大学を卒業し、神戸から東京に移った、就職のためである。市谷駅近くのダイヤ印刷の仕事にありついた、その会社は米国のタイムライフ社とダイヤ印刷との合弁企業で、今で言う先端技術小企業で、色刷り印刷の基本的な色分解・合成用コンピュータを国内大手の印刷会社にリースしていた。

堀は4年制の実験科学系の卒業であるが、安田はまだ札幌のある北大医学部のインターン生の身であった。しかし安田は早熟で学生のまま同じ医学部の智子さんとさっさと結婚してしまった。安田の母親と長兄が札幌での結婚式にいくというので、堀は羽田空港で待ち受けて、上野まで案内し旅館に同行した。安田の母親と長兄は翌朝早く、寝台特急オリオン号で札幌に向かった。当時航空交通はまだ開発途上で便数が少なくまた割高であった。一人身の堀は2日後の日航機で千歳空港に向かった。安田と堀は小学校依頼の親友であり、よきライバルであったので、一足早い結婚式に参加したかった。

札幌での質素な結婚式であったが結構愉快で楽しかった、参加者は殆ど安田と花嫁智子さんの北大学友であった。

さて、そこにあの昔の岩手美人が、花嫁智子さんの妹として出席していたのである。

早速堀は彼女に接近して語り合った、彼女は釜石市に住んでいて、実際は叔父さん夫婦に養子に出されて、姉の智子さんとは少女時代一緒に生活をしたことが無いという。そのうち釜石市に観光でいらっしゃいという。嬉しくなって安田の結婚式はそっちのけで彼女に夢中になって話し込んだものだ。半年後夏の終りの三陸鉄道の旅に行きそのついでと偽り堀は彼女を訪ねた。


この安田は、西宮市の武庫川河畔にある武庫川医大にいる先輩の福地実教授に会いに、東京経由で関西に向かって、帰らぬ搭乗客となった。安田は沖縄県読谷村で、「長い生き健康講演」を村長の叔父から頼まれており、その前に高校の先輩で、学者医者である福地実教授に挨拶するためであった。

こうして堀のあの昔の岩手美人の消息を聞く最大の手づるをまたも失ってしまった。


 知花清当時32歳、ボリビアから帰国した知花清はリチウム精製に詳しい大阪府堺市にある三角伸銅工業の辻孝博を訪問すべくJAL123便に搭乗した。

 安次嶺・フェルナンテス・隆氏は、駐日ボリビア大使であり、知花清は沖縄出身の電子技術者である。安次嶺駐日ボリビア大使の両親が沖縄系移民とのことで、知花清は彼を東京麻布のボリビア大使館をしばしば訪れて親しくなった。

ボリビア大使が交代となり、安次嶺氏が帰国したので、しばらくして知花清は南米ボリビアに彼を追って首都ラパスに訪ねた。

ラパス市内の交通分離帯に茂った緑のある大通りには、植民地からの独立を目指してポルトガル本国と戦った騎士ボリビアーノ将軍の巨大な馬上の銅像なえどが至るところにある。またカソリックの聖母マリア像もある、これらの石像・銅像は大地主、鉱山経営者、外国資本導入者、資本家などの富裕スペイン系白人の支配を連想させる。そため、目覚めた先住民政治家や一般国民にとっては目の上のたん瘤であるが、しかし決して引きずり倒したりはしていなない。 これらの石像・銅像は、註ボリビア日本大使の椿氏によると、日本の明治村のような大きな歴史公園を準備してそこに徐々に移しているという。そうすることで、今後先住民の子孫とともに、この国の未来を作る白人系子供に自分たち祖先へ誇りを持たせて、共生国家への教育財産としているという。

 市内ではここ数年急速に自動車交通が発達し、車の洪水が日常化して、排気ガスの充満はひどいものである。特に輸入中古車の乗用デイーゼル車は、黒煙を吐き出し、更に大型バスと作業用トラックの排気筒から真っ黒の煙が出ているので見るだけ3で息苦しくなる。

 残念ながら道路を行きかう先住民の市民は老若男女ともこの黒煙に無関心で、顔もそむけず黒煙雰囲気をそのまま呼吸している。3.4年後にかっての日本のアスベスト人体公害のような工業化病にならないか心配である。

 知花清は千葉大学発の理科実権の器具一部を大学と系列の大学院大学で実演説明を行った、その日は新学期の学生登録に日であったので、担当者の教官の部屋がある建物にいくまで、学生の人ごみを掻き分けて目的の所までたどりつくことが大変であった。登録学生は大学構内から溢れて校門から街中の道路をぐるぐると取り巻きその熱心さには恐れるばかりである。

 安次嶺と知花清は翌日鉱山冶金省を尋ねた、稀金属直轄の大臣と面会する目的である、入口でパスポートを提示し、預けて入館する、大臣は会議中とのことで、広い廊下のソファーで待っていた。天井からつるされた電子掲示板には希少金属亜鉛、鈴、ダングステン、白金、マンガンなどの国際価格が米ドルで表示されていた、世界の相場の変化をリアルタイムで表示しており、なるほど資源国家の中枢に来たのだと自覚した。

 しばらくして会議場のドアが開き、白人の中背の50代の背広姿の紳士が書類をいっぱい抱えて出てきた、そして安次嶺を見つけたこの紳士は感嘆の声を出して、書類をそばの秘書に渡し、安次嶺を抱きしめた、当地の親しい間の挨拶であるようだ。

熱がこもっていた。安次嶺とともにオルド鉱山大学の同級生で、1年ぶりの再会という。鉱山大臣サチヤこそが、日本の新聞で報道された、ウユニ湖の試験工場で、リチウムの試験精製に成功して、モラレス大統領とともに製品を掲げて大喜びした鉱山大臣である。今回の内閣改造で大臣を離れ、新大臣には先住民から鉱山組合出身のP氏が任命された。この新大臣は国内対策が重点であり、リチウムの国際戦略には引き続きこの直前大臣のサチヤが担当するように、大統領から直接依頼されているという。

安次嶺はすばやく知花を紹介し、手早く2人並びの写真を撮ってくれた、彼らは若き時代1970年代にボリビアの輝く未来を夢見てオルド大でともに学んでいたが、突如軍部右派の将軍による軍事革命が起こり、大学から命からがた逃走した仲とのことである。

安次嶺は日系人で、先住ボリビア人の人権向上に加担、この鉱山大臣サチヤは白人系でありながら国有資源の利益を人種に関係なく全ボリビア国民に還元すべきとの思想のゆえに、軍事革命軍から追及された。

サチヤはスイスに亡命し、ついに軍事政権が崩壊するまで、帰国できず、スイスで学業を続け卒業し、就職し、スイス婦人と結婚した。

その後先住民の目覚めが著しくなりやっと帰国した。帰国時は未だ軍事政権時代であった。安次嶺は牢獄からかろうじて抜け出だし、サンタクルスにある沖縄系住民の広大な農園に身を潜めて独裁政権からの難を逃れた、圧政に共に抵抗した仲とのことである。

今回モラリス政権の出現は、安次嶺とサチヤにとって、苦しい時代に命をかけて生き延びた青年たちと多くの逞しい原住民たちによる新建国の時代を求める国民の力が結集したものである。


清水千波さん当時55歳、フェリー(飛行機空輸)パイロット、重慶爆撃の調本人の一人が清水千波さん、通称「千波さん」であった。

旧日本帝国が意気盛んに 中国本土を侵略していた時代、日本陸軍は取れるだけの国家予算を使って、アメリカに負けない重爆撃機を製造できたそれがことあろうにDC3の改造型輸送機であった。清水は昭和の初め頃、空に憧れ空に適合できた幸せな男であった、身長180cm(6尺弱)筋肉質、やややせ形で、肉体的には理想的な飛行士の体型である。

1940年時代の若いパイロットは軍が命ずるままに重慶の市街に爆弾を継続的に投下・市街を焼き尽くす・散らした、彼らは何らの精神的な責めを抱かずに爆弾を投下した、眼下の地上には無数の中国・重慶市民が生活していることには思いが及ばなかった。一方ではその時以来米空軍の志願兵が、蒋介石に組みしてフライングタイガーを設立し、以後フライングタイガーは日本空軍と空中戦を開始した。


 戦後結婚した仙波は、重慶重爆への罪の意識が消えず、意識的に子供を持たないようにした。夫婦で静かに・子孫繁栄をさせず、子供なしで生き・そしてJAL123便に乗り、この世を去った。

 清水千波は日本人が植民地侵略という残酷な決めつけを意識しない時代、アジア共栄圏形成を理想に生きた、古き良きパイロットであった。

 千波は現在生きていれば95歳だろうか、船本の家の母親よりは5歳以上若かったが、1973年には年を取っていた。米国製の双発機スーパービーチH18で那覇空港を宮古空港に向けて離陸したとき翼面フララップと着陸ギア(車輪)とを間違えて操作しようとしていた。船本は副操縦士席にいたので、すく離陸操作の手順を判断し、まず着陸ギアスイッチを上げに操作し、その後に翼面ラップスイッチを操作するように進言した。仙波も納得して船本のするように任せた。

 機体が地上を離れたので、空気抵抗を減らすように機体下方外に飛び出している着陸車輪を早めに機体内に格納して抵抗を減らし、機体束度を上げて、離陸を促進し、しかしまだ離陸揚力が必要なので、翼面フララップはまだそのまま広げたまま・下げた状態での上昇飛行状が望ましいのである。

又はその逆だったかも知れない、即ち着陸時に、既に車輪は降りているので、滑走中には翼面フララップを上げる操作が必要、揚力を無くして、機体重量が車輪に架かり機体が重くなり、滑走面を車輪が転がり、なるべく早く確実に地上に着陸するように操作する。


その時、さすがの飛行機の大先輩も、少し年を取ったなと一瞬船本は思った。翼面ラップと着陸ギアの小型のスイッチレバーは、左右操縦席の中間やや下方に配置され、機長と副機長と両方から操作容易である。これら小型のスイッチレバーはともに硬めの煎餅を水平にしたような四角い形状で、将棋駒の王をやや大きくしたもので、互いによく似ていて配置もやや近くしかし、少し位置が単に異なっているだけで、要するに見間違いそうである。米国製の飛行機にしては珍しく混乱しそうな操作ボタンの配置である。

 戦後清水の奥さんが小田急の下北沢駅で洋服店・ファッション店を営んでいるとのことで、遊びにおいでと誘われた、しかし、飛行機野郎は晴天ならどこかの飛行場に出かけるので、よっぽどでなければ訪問できなかった。曇りや雨の日は、休日はこの日とばかり自分の家庭の些事で一日が暮れるものだから。そのため、船本は何時かは何時かはばかりで、ついに清水の奥さんに会い見舞えることができなかった。

 しかし一度どこかの何かの会場で目礼したような気がする、細見だが昭和53年当時としては背のスラリとした貴婦人様であった。

 清水千波は大阪八尾にある第八航空を訪問するために伊丹行きのキップを買った。


小島良夫当時32歳は、韓国女性と偽装結婚をした、小島は整備と操縦をこなす飛行機野郎の一人である。

航空整備専門学校、現代の単科高専を1956年に卒業して、当時若者の夢だった日本航空の整備部門に入社した。

その後JALの整備職で12年間真面目に働き、毎年技術発展してやまない大型ジェット機の上級整備士にまで上り詰めた。

 しかし後から日本航空に入社した若い剰員部門の連中が自分達を差し置いて、昇給していくのを見て我慢がならず、操縦士部門への転換を図った。しかし当時は入社当時の人員配置の関係から現在のように一般社員による部門間転部希望を受け入れる組織体制になかった。

ならと勇気を出して、一度退職し調布にある民間の操縦学校国際航空で、自費で操縦練習を受けることにした。まだ独身であり、JALの整備職の給料もまあまあ良かったので、退職金でその授業料を賄うことができた。


更に、小島はグライダーの操縦指導教官の免許を所有しているので、木曽川沿いの滑空場にあるグライダークラブで社会人のグライダー操縦指導を請け負った。このグライダークラブに、地元の青年が居た、なんとこの鎌田青年はこの木曽川・流域を選挙地盤とする岐阜の大野ばんぼくの秘書である。

 この秘書君は鎌田祥司と名乗った、彼は理由は別にして空を飛ぶことが大好きな元気青年であった。小島は彼をグライダーの初歩から教育した、小島も教習免許を取ったばかりで張り切って教育に専念した。鎌田はメキメキ操縦操作に成熟しついに試験直前まで進歩した。

大野ばんぼくは、日韓平和交渉の前準備政治折衝で韓国の朴政権と頻繁に交渉していた、従って鎌田君も韓国との事務的な交渉では大いに係っていた。大野事務所には多くの韓国青年たちと在日の男女が出入りした。

その中に影山達夫がいた、韓国名を李慶徳といった、影山は秘書の鎌田君と親しくまた政治的にアクの強い在日青年であった。影山は足繁くソウルと大阪とを行き来していた。その状況を踏まえて日韓間の各種仕事を法に触れない範囲で目いっぱい実行して荒稼ぎをしている様子である。

小島は鎌田にグライダー教育をしているうちに、鎌田を介して影山に会う機会が多くなっていた。さて、小島は32歳でまだ結婚していなかった、更にまた飛行機操縦免許も取ったが、事業欲が出てきていまさら日本航空の乗員になる気持ちがなくなっていた。

それより、整備免許と航空機免許とグライダーと飛行機の教習免許を持っているので、自由に航空業界で生きていけるという自信が湧いてきた。

この自由な時を可能な限り継続したいと思った。そうこうしているうちに、小島は独身同士で、飲み会等で影山と鎌田君と深い付き合いとなっていった。ある日影山から、金儲けがある、違法・脱法ではないという、成人男性が堂々とできる合法的な仕事だという。詳しく聞くとソウルにいる韓国女性と国際結婚をしてくれという。

韓国女性は日本国籍を取りたい、そうすれば日韓間を自由に往復できるので、大いに稼げるとのことで、お礼は充分出すという、ほとぼりがさめたら離婚すればいい、即ち偽造結婚である。

戸籍に証拠が残るが、男性にとってはたいしたことではない、広いアジア的な仕事を目指すなら問題ないだろうとのことである。

話がトントンと進んで、小島はソウルに行きその女性と面会した、容貌は普通以上で27才の朴槿恵パク・クネと名のった。特に愛情や親しみがあるわけでもないで、帰国後小島とその朴槿恵は、影山と鎌田君を証人にして結婚届を調布市役所に提出して国際結婚は成立した。

小島は影山からお礼として50万円を受け取った、その後朴槿恵は関西方面に出向いた、彼女が大野ばんぼくと何らかの関係・諜報者として雇われたのかどうか小島は知らない。

秘書の鎌田君から朴槿恵に付いては以後何の報告もない、この偽装結婚は小島と影山が勝手に朴槿恵を日本に呼ぶために仕掛けたことになっている。

事実そうである。その後鎌田君が中古のグライダーをどこからか購入した。その機体を小島と鎌田が使って木曽川滑空場で飛ばし馴らししているうちに下降気流に会い機体が急に降下し高度を失った。

木曽川滑空場に戻るには高度700mが必要である、これは危ない、ぎりぎり近くまで飛んで藪の多い河原に降りるか田圃に不時着するしかない。不時着だとその後の機体移動が大変だ、また機体を壊すおそれもある。

その時鎌田君が言うには、この近くに愛知県警のヘリコプター基地があり、傍の空き地は芝地で、長い所は150mのあり、周りに立木がない。そこに着陸したらいいという。小島はそこにグライダーを降ろした、安全に着陸でさえすれば、陸上移動では2枚の主翼を外してたたみ、木曽川滑空場から運搬トレーラーを持ち込んで折り畳んだグライダーを乗っけて普通に運ぶことができる。県警には大野ばんぼくの秘書だと言えば大目に見てくれる。事実そうなった。

その後小島は千葉県関宿で社会人向けのグライダー教官をしていた、久しぶりに関西で影山と梅田で落ち合うことになり、伊丹行きの日航機123便に搭乗した。


川畑敏子1931年2月22日琉球列島徳之島の天城町生当時53歳は、戦場の花嫁であり、戦後の初期の国際結婚で、幸せなご婦人であった。 

1945年6月23日に沖縄戦場では、日本軍全滅・米軍完全勝利で終わった、敏子は15歳だった。敗戦後の徳之島には米・麦・イモなどの食料が底を尽いて食べ物が殆どなかった。親の半強制的な勧めで、食べ盛りの敏子は叔父を訪ねて沖縄本島に渡った。そこでは米軍による住民対策で、缶詰やお菓子チョコレートなど軍事食料が配られているとの噂があった。

敏子は、無理を通してオンボロ船に乗り込んで沖縄本島に向かった。叔父サンだけが、泊港に迎えに来てくれた、「明日から自分で働いてメシ代は自分で稼げ」と言って、寝るための屋根下だけは貸してくれた。敏子は早速翌日から那覇市郊外の米軍キャンプ前に行きメイドになりたいと受付の日系米兵に日本語で申し出た。最初は沖縄方言ウチなーグチで申し出たが、この日系米兵にはウチなーグチが伝わらないので、無理して標準語で同様なことを話した。幸いなことに早速その日から米兵の宿舎回りの清掃仕事をさせてもらった。夕方の帰宅時間になると駄賃として、牛肉缶詰とビスケットを受け取った。お腹がすいていたので有り難がって、急いで叔父の家に戻った。


こうして敏子の米軍キャンプメイドの生活が開始した、1年後立派なメイドさんに成長し、女性としての風貌を備え多くの米兵からか可愛がられた。そのうちの一人が夫のジョージ22才であった。1年後夫ともに渡米し、オクラホマ州タルサの郊外に広い庭付きの大きな家を構えて住むようになった。子供は2人とも娘で、1985年には25才と26歳であり結婚したので、孫をそれぞれ2人と3人で合計5人もいる。幸せな戦場の花嫁 戦争花嫁 国際結婚の今日の姿であった。

1945年に海兵隊で沖縄読谷の浜辺に上陸したジョージは、19歳で徴兵された軍人であった。郷里オクラホマ州タルサ市のカレッジ学生であったがアジア方面海兵隊に配属されて沖縄に上陸した、戦いは既にアメリカの戦勝状況下にあり砲弾による生命の危険は感じなかった。彼は古代中国史を研究志望していたので、仮名や漢字文化に違和を抱いていなかった。

ただ敏子は中学にもろくに通ったわけではなく、尋常小学校を終了しただけであり、この国際結婚には二人の間に大きな学歴差があった。


 しかし敏子は奄美群島徳之島の生まれである、奄美は今から約400年前に1604年の薩摩の琉球侵略時に、時の首里王朝から分割され、薩摩に切り売りされて長い苦しみの歴史がある。

奄美群島の人々には強い反骨精神があり、そう簡単に根を上げる島民ではない。従って若い敏子は学者肌のジョージからプロポーズされたとき、何ら動じることなく受け入れた。そして2人はジョージの故郷オクラホマ州タルサに向けて旅立った。

沖縄那覇港から軍用船でサンフランシスコに行き、サンフランシスコからクラホマ州タルサにはパシッフィックユニオンのアメリカ横断鉄道に乗った。太平洋横断の船旅は1月近くかかったが、琉球列島海洋民族末裔の川畑敏子にはむしろ楽しいハネムーン旅行であった。戦勝国の輸送船であり、牛肉・豚肉・大きなカルフォルニアオレンジやジャガイモなど食事は途轍もないご馳走攻めであった。


タルサ市に到着後暫らくして、ジョージは軍役終了の無料奨学資金で、セントグレゴリーカレッジに復学し勉学を継続した。その間敏子はウォールマート百貨店のレジ係りとして働き、二人は幸せな新婚時代を過ごした。その後二人の間に可愛い娘が年子で相継いで生まれた。

 敏子は1985年にアメリカから羽田に一時帰国し、羽田で大阪行きのキップを買った。尼崎市にいる親戚を訪ね、その後、伊丹空港から沖縄那覇市に空路向かう予定であった。


 1964年東京オリンピックでボクシングのチャンピオン久米井孝雄当時45歳、久米井は、日本の元アマチュアボクシング選手・プロボクサー。千葉県佐原市(現・香取市)出身。中央大学卒業。東京オリンピックのバンタム級金メダリストで、元OBF東洋バンタム級王者であった。

 久米井には、ファンのパン産業界に後援者がいて、銀座と八重洲口との中間の番地は銀座の地に、ボクシングジムを運営していた。元唯一のアマチュア世界ボクシングのチャンピオンの名誉があり、ジムは若いボクサー達で繁栄していた。ところが今ではハングリーなボクサー志願者は全くすくなく、クラブメンバーはほとんどが健康維持と美容のために練習していた。

 男女が3対1の割合で、女性の美容健康クラ部部員も多く、ややリッチな若者の社交の場なっていた。久米井会長曰く、ここからも沢山のカップルが生まれ結婚しましたよ。猛烈なファイターを排出しなくていいです、経営もこれで安定していますと、にこにこしていた。

澤田が映像ソフト開発ベンチャーの製本を贈提したら、動体視力強化の映像ソフトと聞いて、喜んで受け取ってくれた。聞けば息子さんが大学生で、ボクシングに挑戦して選手を目指して猛練習をしているので、有り難いと言ってくれた。

そこで澤田はもう一歩踏み込んで、我々の「アイパワースポーツ」社のカタログに推薦文か久米井氏の写真を載せて欲しい、お礼金をジムに支払ますと、申し出たらともうこういう話には関わりたくない。CMに出たり、商業宣伝に出ることは全てやめている。要するにもう余計なことはしたくない、過去の栄光の恩恵で十分生きていける。国民からも尊敬されている、国や都のスポーツ関係にイベントや公式会合や国際パーティーがあれば、日本体育協会から招待状が送られてくるので、気が向けば出席し、しかも上座に着くことができる。もう久米井はスポーツ界では最高の地位にあり、久米井は人生に充分満足そうだった。久米井は大阪のボクシング大好きのタニマチに呼ばれて伊丹空港に出かけようとして事故に遭遇した。


ロッキー竹下当時37歳は大金持ちの気まぐれ屋であった。

ロッキー竹下はレスリングでオリンピック日本代表、父親から受け継いだ日本橋の洋食屋「赤花」をアメリカで展開し成功、冒険家としての側面も持つなど才人で、日本ではアメリカンドリームの体現者として知られている。

ロッキー竹下氏がアメリカで焼き肉店「赤花」を展開するにあたって、料理人が剣術パフォーマンスをしながら調理するなど独特の演出を取り入れ、かなりアメリカ人受けする手法を使った。

慶應義塾大学経済学部在学中にはレスリング部に所属した。1959年、レスリング日本選抜で米国遠征し、そのままアメリカに残った。ニューヨーク市立大学シティカレッジ (CCNY)に入学し、レストラン経営学を学んだ。

その後ロッキー竹下は、時々帰国し一番長い帰国は、35年前に名古屋の長島温泉敷地から、大気球をアメリカに向かって離陸した時である。東条はニューヨーク滞在中に、彼の「赤花」で殆ど毎晩食事をしてロッキー竹下と親しくなった。帰国後は彼の太平洋横断の熱気球大冒険に感激し、名古屋の長島温泉の準備室を訪ねて、いろいろと激励した。その時の写真が、当時の冒険者たち、同行者の白人2人とともに写った写真が東条の手元に残っている。

ロッキー竹下は何時もの気まぐれで、道頓堀の夏祭り見学に大阪に向かって日航123便に乗った。

 御巣鷹山航空機遭難事故ではこのように、人間味が濃く、精神力豊かで限りなく愛すべき人々が犠牲になった、ここに書ききれない更に沢山の人々が突如として尊い生を失った。


御巣鷹山墜落の21年後2006年12月5日に不可解なことが起こっている、

航空小説家 内田幹樹 元ANAジャンンボ機長 の著作 「機長からのアナウンス」定期航空ビジネス物語(随筆風)2004年7月新潮文庫94ページから95ぺージに下記記載がある。

「異常が起きた相模湾の海底を何故探査しなかったのか」、「事故原因の特定を日・米・日航・ボーイングともしていない、放棄している」と指摘した。これらの発表後翌年ガンであっけなく死亡、前立腺癌のため死去となっている。

事故から1年後1986年3月に日本の事故調査委員の一人が、シアトルにあるボーイング社を訪問した。そこで技術部に隔壁の修理に関する技術上の問い合わせをした。しかしボーイング社からは何の返答も得られなかった、当然である、123便の垂直尾翼破壊・紛失は彼らの整備・修理ミスではなかったから応えようがなないのである。事故から1年も経っていて、応えなくて済ませたいのである。担当当時の整備士は引退しているし、この事故で騒がれるのが組織体のボーイング社には迷惑で、123便事件と係りたくないのが本心である。

ではここで、単純に修理の一般の技術的な話をしよう、ある厚さDの板Pがあり、幅lで高さがhであり、この板に長さLの亀裂が生じたとしよう。この亀裂Lを繕うため同じ厚さDの板片で修理する場合、長さを十分な2L、幅をWの板を重ねて修理する。この幅Wが充分広ければ満足な修理となる。ところが幅Wが狭いと、この板Pへの垂直圧力応力対応が亀裂Lの近傍で膨らむことになり、今後外部からの力に対して亀裂Lの近傍応力集中が起こり破棄の原因になる。

しかし幅Wが広いと、この板Pの垂直圧力応力対応が亀裂Lから広い範囲に分散され、今後外部からの力に対しても、もとの一枚板Pのようになり、狭い範囲に極単に集中しないので、破棄には至らない。

123便では垂直尾翼の破壊は外部からの未確認飛翔体が原因であり、初期破壊で隔壁膜(板)が原因ではないので、ボーイング社の技術員も答えようがなかったのである。

JAL123便の後部隔壁の修理は、ボーイング会社の作業指示書により上記技術要点通り適正であった。

しかし、米軍部の命令で、現場指示の初歩的な施工ミスが有ったと専門家に間で言われるようにされている。

日本の事故調査委員のTさんが米国ボーイング社に出向いて、

施工ミスの現場指示を出した経緯について当事者の聞き取り調査を申し入れたが、当時もまた30年後の現在まで応じてくれなかった。この申し入れは2015年8月12日付の新聞記事となっている。

 基本原因が隔壁破壊なら、ハワイ航空のように、低い機外気圧に向かって機内の高圧空気が機体後方に高速に流れ出て、乗客も後方に引き寄せられた事実がるべきである。しかし、帽子や頭髪が急激に後方への吹き出し風で吸い出されたような報告は、依存者の女性によってもなされていない。ボーイング社も政治的な原因を引き受けさせられ、修理ミスを押し付けられただけである。従って修理経過ご1年が経過しており、わざわざ修理ミスだったと弁明する必要が無かった。

 修理ミスという作られた原因を追究する日本の調査委員会の学者・技術者に付き合うことにボーイング社は躊躇していたと推測できる。

彼らとしても事故原因を押し付けられて迷惑であり、日本の学者・技術者は垂直尾翼の損失が角膜壁の破壊によるものと決めてかかって修理工程・経過を詳しく知ろうとしているので、これ以上係りを持ちたくなかった。米国の軍事系の職員は職業上日本を今も植民地国家日本と思っているが、民間の企業、ボーイング会社等の社員関係者は日本を最も優秀で技術レベルの高い国民だと認識していて、ここはダンマリと決めていたのだろう。

 今回の123便の事故では未確認飛翔体を追究されることを米軍は元も恐れているようである。日本側はボーイング社に正すよりも、当事者として相模湾の海底にある事故関係物体を早急に回収し分析することが重要である。


次に、24年後2009年8月9日にもまた不可解なことが起こっている。

「御巣鷹山の真相」を追っていたワールド・フォーラム代表・佐宗邦皇氏がビデオの月例会(8月8日)で話している最中に倒れ、突然亡くなった。

 佐宗邦皇氏によると「JAL123便は米国による宣戦布告無き日本局所攻撃である」と公衆の前で発言した。

米国がプラザ合意で日本の対応に不満になり、日本を脅して戦闘機F15から意図的にミサイルを発射したと発言した。


 従って、佐宗邦皇氏による「JAL123便は米国による宣戦布告無き日本への限定局所攻撃である」との指摘は、局所攻撃を単にミサイル攻撃と解釈すると、技術的・機械的・物理的な事実はその通りであるが、人間的な・社会的な・政治的な指摘は正確ではないのではないだろうか。

内田幹樹 の主張「異常が起きた相模湾の海底を何故探査しなかったのか」と「事故原因の特定を日・米・日航・ボーイングともしていない、放棄している」の指摘が具体的で重要である。         終



その後、内田幹樹の主張が偶然に実現したかのようなニュースが、御巣鷹山事故30年目に流れた。「123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース」である。

 乗客乗員520人が犠牲となった日本航空機の墜落事故から12日で30年です。墜落した123 - Yahoo!ニュース(テレビ朝日系(ANN))

2016年8月現在でもこの遭難事故への国民の関心は高い。


しかしながら、戦争時代 戦時下の兵士となって去りゆく若き息子たちの命は、自らからもまた産み育て可愛がった老母たちも、運命として受け止めて、想い出として心の底に大切に仕舞い込むことができた。

皆が明るい明日を信じてはつらつと毎日を生きて、音楽会だ、誰かれの結婚式だ等と、幸せ一杯で、不幸なことなぞ誰も何も思いもつかなかった時代、123便は若い男女が命を突然無残に断ち切られる大事件であった。何年経っても、父母や親友は悲しさと悔しさと無念さを心に滲ませたままてある。

しかし命の重さの比較はできないが、命の尊さを現代人に強烈に訴えたのは、この123便遭難者の事実である。123便遭難者の遺族の皆さん決して悔しさと悲しみで落ち込まないで下さい、命の無限の価値と重い尊さを結果的に多くの日本人に再確認させたことは、123便犠牲者のお蔭であり、この意味は大きい、生きている我々は人生の重要さを教えられて今日を幸せに生活しています。




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[一言] 無知でないと書けない文だと思いました。 もう少し調べてから推理するべきですね、特に軍事に関することはガバガバすぎて。
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