4/依田/死神の恋-2
結局堺家は、依田の想像していた通りになった。育児放棄と虐待を罪に問われた夫妻は逮捕、子供は病院を介した後、児童施設へと送られる運びとなった。堺の夫の予告は遂行されることはなく、依田はその結果を噛みしめる間もなく今日も別の家へと赴く。
各調査員にはとりたてて担当が決まっているわけではなく、地区内をくまなくランダムに派遣されるのが普通だった。
だがなにがしかの因果か誰かの意思が働いたとしか思えなかった。依田が次に担当した案件はまたも障碍者の子供を抱える家だった。だが異なるのは、きちんと診断書も提出されているという点である。その代り同意書の取り下げと申請が短いスパンで何度も行われるため、依田が派遣される運びとなったのだ。
彼女が訪問する前から勃発していたと思しき夫婦喧嘩は、訪れてからもまだ火力衰えることなく続いていた。
「だから、その子の障碍は本物なんだからラクド送りにすることは何も間違ったことじゃないんだ。何度も言っているだろう」
「いいえ、障碍なんかないわ。この子は天使なのよ。……大丈夫、お母さんが守ってあげるからね」
後半の言葉は妻が抱きしめる我が子へと向けたものであったが、肝心の子供の方はそれをいささかも理解した風ではなかった。十歳ということだが視線は定まらず、半開きの口からは意味をなさない呻きと共に涎すら垂れている。残念ながら依田の目からも、子供は知的な障害を負っているようにしか見えない。
「わざわざお越しいただいて申し訳ない。妻には言って聞かせますので、どうぞそのまま進めてください」
「何を言うの! あなた、そんなにこの子を殺したいわけ!? 自分の子なのに!」
依田へと冷静に告げた後、ヒステリックに喚く妻をうんざりしたように、夫は宥めた。おそらくこの家の中で幾度となく繰り返されたやりとりであることは、想像に難くなかった。
「自分の子だからちゃんとけじめをつけてやるのが親の務めだろう」
「いいえ、親なら最後までこの子の面倒をみるべきだわ。あなたは現実から目を背けているのよ」
「現実から目を背けているのはどっちだ? どうして障碍があることを認めないんだ」
「あなたこそ、どうしてこの子のかわいさが分からないの。たとえ障碍があったって、手放すべきではないわ! 私はこの子を愛しぬくわ。どうしてあなたはこの子を愛せないの? 我が子なのに」
調査によれば、夫婦の間にようやくできた子のようだ。三十代後半になってようやく恵まれた子宝に見切りをつけるのは、きっとこの母親には難しいことだろう。理論では夫の方が正しいと思うのに、感情で依田は妻の方に同情を寄せてしまう。
しかしだからといって、調査に手を抜いたりはしないが。
「……もう一度、ご夫婦で話し合ってからでも遅くないと思います。ただ、あまり何度も申請と引き下げを繰り返されると、威力業務妨害ともみなされますので」
もちろん夫妻がそんな目的で愚行を繰り返しているのではいことは重々承知していた。しかしマニュアルはこなさなければ意味をなさない。依田も、障碍ある子を天使と称して抱きしめる妻を見下ろす夫と同じくらいにうんざりとはしていたが、顔には出さなかった。
夫婦の家を出た依田は、どっと疲労が体にのしかかるのを感じた。まだ今日のノルマは終わっていないため、すぐ次に行かなくてはならないのだが、動ける気がしなかった。昼食に行くにはまだ早いため、緊急避難と称して近くの公園のベンチにへたり込む。ほんのり肌寒いが構うことなくそのまま横になってしまいたかったが、どうにかしてはしたなさを思い出して堪える。人通りの少ない時間帯とはいえ、まだ気にするだけの体面は持ち合わせていた。さっきの今ではそんなもの、丸めてくずかごに投げ捨ててしまいたかったが。
大して汚れてもいない公園を、掃除ロボットが静かな唸りを上げながら走行していく。いたるところに植樹された桜は今はまだ咲き始めだが、もう少しすればピンクの花びらに彩られた地面を何の感慨もなければ容赦もなく掃除していくのだろう。
つるんとした外見のそれが去ってから依田は、煙突に気づいた。高層のビルやマンションが林立する合間をかいくぐって見えたそれは間違いなく、ラクドに併設している『焼却場』だった。これまで煙が途切れたことはなく、今日ももくもくと粉塵と化した人の死骸を吐き出しては空を汚している。
依田や他の調査員が諾とした人間のなれの果てだ。もちろん彼女たちはそこに犯罪性がないかどうかの調査をするだけで、すべては本人の意思でそうなるのだから、関係ない。だがそれらの死に全く携わっていないと言えば嘘になる。
死神。その言葉はきっと一生ついて回るだろう。自分は呪いを受けてしまったらしいといつの間にか俯いていた依田は、自分の靴の先に自分のものではない影がかかったことに気づいてぎくりと身をすくめた。また堺の夫のように、先刻の夫婦のどちらかが文句をつけに来たのかと思ったのだが、顔を上げた先にいたのは佐伯だった。
「え……どうして?」
「やっぱり、依田さんだ。違っていたらどうしようかと」
安堵したように笑いながら佐伯が差し出してきたのは、今時見かけることも少ない缶コーヒーだった。そういえばラクドの中にはその自動販売機が置かれていたのだと思い出した時には既に、依田はコーヒーを受け取ってしまっていた。佐伯は空になった手を隠すようにポケットに入れる。
「隣、座っても?」
「どうぞ」
どうやら佐伯が自分のために買ったものを、彼の意思であるとはいえ横取りしてしまったらしい依田としては、断れるはずもない。本当はもう少し一人を堪能したかったのだが、受け取ったコーヒーが温かく両手にぬくもりを与えてくれたので、潔く諦めることにする。
「今日は、お休みですか?」
「いいえ、サボりです。……秘密でお願いします」
あまりに堂々と宣言されたのもあって、思わずうなずき返すも告げ口する相手もいなかった。驚いていいのやら呆れていいのやらの判断すらつかない。
「たまにこうして外に出ないと息が詰まってしまうんです。そうしたら今日はあなたを見かけたものだからつい、声をかけてしまいました。迷惑でしたか?」
「いえ……、あの、ありがとうございます」
「お疲れのようですね」
佐伯はそう言うが、彼の方がよほど疲労をため込んでいるように見える。確かに支部長ともなれば、依田などとは比べ物にならないほどの苦労を背負い込むことになるのだろう。サボりたくもなるはずだ。むしろ彼こそ一人を望むのではとも思ったが、じゃあとここで去ってはなんだか依田の方が失礼に当たりそうで、動くに動けない。
「お気遣い、ありがとうございます。でも私より、しぶちょ……佐伯さんの方が」
「僕なら大丈夫です。倒れても誰も助けてくれないので、体調管理には気を付けていますから」
「誰も?」
「お恥ずかしい話、独り身なので。依田さんは?」
照れたように言いながら、どうしてこちらに水を向けるのだろうと依田は内心、暗い思いにとらわれた。もちろん佐伯が悪意をもって尋ねているのでないことは明らかなのだが、結婚のけの字もないことぐらい見れば分かるだろうに、というのが依田の主観である。
「結婚はしません。一生独身です」
「え、なぜ?」
それこそなぜと依田が問いたい。どうしてそんなに無邪気に、人の懐に入ってこようとするのだろう。一瞬引いてしまったものの佐伯相手に嘘やごまかしはためらわれ、結局依田は内心を吐露する羽目になる。何か、そうさせる空気を持った男だった。セクハラの名目できっぱりと拒否することもできるはずなのに。
「母なる存在に、自分がなれるとは思えませんので」
依田は、相手がいる以前の問題に直面していた。齢三十五ともなれば、おそらく生まれる子は障碍を持っている可能性が高い。異なる二人の母親を見て、その思いはさらに高まっていた。
片や障碍者として我が子を処分しようとする母。かと思えば、障碍を認めず申請の取り下げを繰り返す母。どちらも、依田からすれば恐ろしい化け物にしか思えない。あんなものを見て、どうして自分が同じものになろうという希望を持てるだろう。
自分の容姿では、もともと生涯の伴侶など見つかるはずもないと諦めていた。だからその諦念が、絶対にするもんかという決意に変わる日が来るとは、よもや思いもしていなかったことだ。
「……母親になるだけが結婚ではないと、僕は思いますが」
絞り出された佐伯のそれは、安易な慰めには聞こえなかった。何か表に出しずらい経験を乗り越えてきた人の重みが、その節々から感じられた。さびしげに伏せられた横顔を見ていると、久しく忘れていた感情が芽生えるのを止めることができない。けれどそれは、生まれたからとてどうすることもできないものだ。
依田は握りつぶそうとするように、手の中の缶を強く圧迫した。憎たらしいことに缶は、彼女程度の握力では形を変えるどころか音すら立てることはなかったけれど。
図ったわけではないのだろうが、昼食を摂るために立ち寄ったカフェで依田は、再びあの二人を見つけてしまった。すなわちラクド職員の藤堂なる青年と、ラクド反対派のすさまじき美女の取り合わせである。
「もう十分だろう。俺は君のラクド苦情窓口じゃない」
先日は押され気味だった藤堂が今日は、はっきりと自分の意思を提示していた。彼女との間で交わされる会話のすべてがラクドに支配されているのが、彼には我慢ならない様子だった。
「確かに、あなたを利用しようとしたのは認めるわ。でも、心配なのよ。藤堂くん、日に日にやつれていくし、全然楽しくなさそうだし、そのくせ愚痴一つ言わないし」
美女は柔らかそうな下唇を軽く噛んだ後、以前の強気さは一切まとわずに告げた。聞き耳を立てるのはよくないなと思いながらも依田は、頼んだサンドウィッチで気づかれることを恐れるように静かに咀嚼しながら、耳を傾ける。
彼が愚痴をこぼさないのは我慢強いからというよりは、規定があるから言えることの方が少ないのだろうというのは、似た立場の依田には理解できた。しかしそれを抜きにしても美女が真実、彼を心配しているのは表情を見ずとも声だけでも十分伝わってくる。
だがそれでも結局ラクドの呪縛から抜けられない会話を巡らせてしまうことが、藤堂の苛立ちを助長させているようだった。
「ほら、またそうなる。とにかく君とはもう、ラクドの話はしたくないんだよ。君はそれで、楽しいと思ってんの?」
「……楽しいわけないでしょ?」
美女は立ち上がると、そのままカフェを出て行った。怒りよりも悲しみを含んだ声の主は、かつかつと靴音を響かせていなくなった。残された藤堂は、ため息。伝わってくるのは後悔だった。
食べ終わってしまった依田が迷ったのは一瞬だけだった。彼女は席を立つと、美女が座っていた席に移動する。
「え、何? ……誰?」
「失礼。私、調査員の依田と申します」
名刺を差し出すと、同業者であることが幸いしたのか藤堂はほっとしたように硬化させていた顔を緩めた。だが警戒心の方まではそうとはいかない。
「えっと……何の用? ……ナンパ?」
「差し出がましいようですが、追いかけた方がよろしいかと」
「……何聞いてんだよ、趣味悪いな」
渋面を作る藤堂に、依田はにこりともせず、また謝罪の一言もなく淡々と告げる。
「あの女性はあなたを真剣に心配しておられましたよ。彼女のことをなんとも思っていなくとも、それを理解しているということを伝えた方がよろしいのでは」
「なんとも、なんて……」
お前には関係ないと、藤堂は彼女の言い分を切り捨てることもできたはずだった。けれど音がひねくれてはいないのか雰囲気に気圧されているのか、彼が否定した部分は予測してはいなかったものの想像通りだった。
「いえ、これでいいんですよ。俺になんて、彼女は関わるべきじゃないんだ」
「なぜですか。死神だからですか」
頬杖をつくように顔を覆った藤堂は、依田の言いざまに少しだけ笑ったが、それは心からの笑顔ではなかった。だがそうして笑うことができるならば、この青年はまだ間に合うと彼女は思った。
「死神は恋をしてはいけないなんて、誰が決めたんです」
「恋なんて、俺は別に……」
「つらくない仕事なんてありません。でも誰かがやらないといけないんです。あなたがしているから彼女はしなくて済んでいると考えてはどうです」
納得しかけた藤堂はけれど、頑なに恋じゃないと自分の感情を否定した。年増女に指摘されて恥ずかしがっているのか、しかしあまり追い込んでもかわいそうなので、依田は席を立った。
「それはあなたの大切なものです。その辺に捨てたりせずに、大事にすべきものですよ」
「え」
「駆け足は得意ですか」
ぽかんと顔を上げた藤堂に、依田は無表情で提案する。もっとも最初から感情なるものは鞄の奥底に押し込めて出す暇もなかったが。
「え、いや、全然……」
「じゃあ、がんばって。駆け足!」
つられて立ち上がった藤堂は、号令と同時に背を叩かれ思いがけず走り出した。きっと本人はなぜ走らなければならないのか理解が届いていないだろうが、きっと追いつく頃には分かるだろう。勝手に納得して、残された伝票を掴む。
まったく、お節介なことをしたものだ。人のこととなればこんなにも簡単に言える。苦笑しながら余分な会計を済ませて、依田はカフェを出る。
今しがた藤堂に告げた言葉は、全部自分に当てはまることだ。それは骨身に染みるように彼女の内側へと浸透していったけれど、だからといって藤堂のように走ることはできなかった。彼女と同じ役目の人に発破を掛けられたとしても、同じにできるかどうかすら怪しい。
それでももう、公園のベンチにはしたなく横たわりたいとは思わなかった。きっと桜が綺麗だろうけれど、今年じゃなければ駄目ということもないはずだ。百年前だって咲いていたはずだし、それならきっと百年後だとて咲いている。
藤堂を叩いた掌を眺めて、そこにわずかな勇気が宿っていることを祈り、依田は綺麗に清掃が行き届いた道を靴裏で勇ましく蹴った。