4/依田/死神の恋-1
「どうして私のこと避けるの?」
仕事の合間に立ち寄ったカフェでそんな声を聞いて、依田は場所を移そうかと考えたがもはや体は店に入ってしまって今更方向転換するのも悪かったので、諦めて席に着く。テーブルに設置された液晶パネルからコーヒーを注文して、依田はわざとらしく肩をほぐしながら店内に視線を巡らせた。
先ほどの声の主であるすさまじいほどの美女が、童顔の青年に詰め寄っているところだった。他の客も気になるらしくちらちらと視線を寄越しているが、美女は全く気にせず目の前の青年だけを見つめている。一方で疲れた顔の青年は、そんな風に衆目を集めることに辟易している様子。
(けっ、リア充爆発しろ)
三十五歳の独身女には劣等感を苛まれる場面だった。どうせいちゃいちゃしているだけだろうに、それなら他へ行けとも思ったが、どうやらカップルというには不可欠な甘い雰囲気が欠落しているようだった。神の寵愛を一身に受けたような美女を前に、ただただ青年はたじたじしていた。美女からのアタックにうんざりするとは何事か、という男性客の恨めしい視線が青年に突き刺さる。
「別に避けてるわけじゃないよ……。ただ、君が見たがってるものは何度言っても見せられないんだ。どうしたら分かってくれるんだ?」
「どうして見せられないの。やましいことがあるのね?」
「そんなものはないし、君の魂胆も分かってる。ラクドの弱点を探って潰してやろうとしてるんだろう」
給仕ロボットによって運ばれてきたコーヒーを飲もうとしていた依田は、思わず吹き出しそうになった。もう少しタイミングがずれていたら危うかっただろう。内容が内容だけに青年は声を極限まで潜めていたが、近くの席を選んでしまった依田にははっきりと聞こえてしまっていた。
「ラクドなんか必要ないのよ。藤堂くん、あなたまさか楽しくて仕方ないとか思ってないでしょね」
藤堂と呼ばれた青年はラクドの職員らしい。疲弊した様子はあってもまだ健全な部分を残しているということはおそらく新人なのだろう。しかしラクド職員と知っても怯えもせずに向き合う美女は、底にラクドへの怒りを抱えてはいるものの大したタマだと言える。
依田はそっと、顔を伏せた。地味なスーツ姿で、取り立ててそれとわかる目印をつけているわけではないが、彼女の正体を知ったら美女がこちらにまで突撃してきそうな気がしたからだ。
依田は、ラクドから派遣された調査員である。
親族から同意書が添えられているものの、それが本物である証拠はどこにもないため、無理強いをさせられてはいないか、または犯罪の可能性はないかという確認を取ることが、彼女の仕事だった。正式にはラクドの職員ではなく、ラクドと契約を結ぶ派遣会社の登録員なのだが、ラクドという単語を持ち出すだけで一般人は引いてしまう。中にはあの美女のような根強い反対派もいて攻撃対象にされたりするので、会社から口外しないよう言い含められていた。
これまでに依田が担当した中では問題という問題もなく、至極まともな案件ばかりで、滞りなく受理のためのゴーサインを出せていた。即断できなかった例外は唯一、対象者がまだらボケの老人の時ぐらいである。完全に痴呆と断定されるには診断書が必要で、それさえあれば同意親族がいなくとも本人の同意すらも必要なくなるのだが、ボケていない時ははっきり自分の意思を示すも、一度ボケてしまうともうそんなものは知らん何かの間違いだと強硬に言い張るものだから、最後は絶縁状態だった親族を探し出して頼み込み、診断書の発行に至ったのだった。
その手の老人に対するマニュアルは一応名目上存在するのだが、実地で役に立ったことはなかった。まだらボケと一口に言ってもやはり個々によって違うので、調査員のその場の判断にゆだねるしかない。
そんな、ほぼトラブル知らずの依田だったが、今抱えている案件はいつものようには進んでくれなさそうだった。
「ちょっとぉ、いつになったらうちの子連れてってくれるわけ?」
お前の仕事がとろいせいだろうノロマ、とは今日は言わなかったが、そう思っていることはありありと表情からうかがえた。べっとりと口紅のついたタバコを、吸殻が山となった灰皿に押し付けながら、まだ二十代前半のその女が対面に座る依田に煙を吐きかけた。そのせいというわけではないだろうが、一瞬目の前の女が誰かを忘れてしまった。煙いのを我慢して記憶を探る。確か堺といった。できれば永遠に忘れていたかったが、そういうわけにもいかない。
「ですから、お子さんが障碍者であるという医師の証明をですね……」
「そんなもんなくたって分かるでしょ!?」
マニキュアのはがれかけた爪で堺が指さす先にいるのは、件のラクド行きを親より推奨されている彼女の実子だった。今年で五歳になったということだが、がりがりに痩せて骨と皮になった手足を縮めてひっそりと存在を消そうとしているその姿は、どう見ても三歳未満の欠食児童である。山と積まれたゴミの間に隠れて、怯えたまなざしで依田と母親を見ている。
「障碍があるのよ! この年になって分かったの! だからラクドへ送るのは当然じゃない! なのになんで、いちいち難癖付けてくるわけ!?」
「難癖ではありません。必要な確認作業です」
「じゃあさっさとしなさいよ! どうして親のあたしが同意してんのに許可が下りないのよ!」
「ですからそれは」
狭く、暗く、煙草臭くて汚いアパートの一室で、もう何度同じやり取りをしたのか分からない。一言も喋らないとはいえ、依田の目にはどう見ても、子供は障碍者には見えない。証拠、つまり診断書を出せば済む問題なのに、堺はそれに応じず喚くばかりだ。確かに診断書の発行にはいくらかの料金がかかり、低所得者向けのアパートに住み逆立ちしても裕福には見えないこの家にとっては家計の圧迫にもなるかもしれない。しかし、払ったら今月一粒の飯も食べられないとか光熱費や家賃が払えないとかいうほどの値段ではないのだ。煙草や、趣味の公営カジノで使う分を少し我慢すればいい。だが死ぬのが決まっている子のために我慢を強いられるのはまっぴらだと、堺は頑として譲らない。
「生死にかかわることですから、はっきりしたものが必要なのです。どうしても診断書が出せないということでしたら、一度児童施設へ預けていただいてから我々が病院に連れて行くこともできますが」
「駄目よ!」
依田はすぐさまどうこするといった素振りはわずか足りとて見せなかったというのに、堺ははじかれたように立ち上がると子供の前に立ちふさがった。
「そんなこと許さない、あたしの子よ! この子をどうこうする権利はあたしにあるはずよ!」
それはいっそあからさまなほどに利己的で、わが子を守る母の行為には到底見えなかった。子供はそれに特にこれといった反応も見せず、着古したジャージの背をぼんやりと淀んだ瞳で眺めているだけだ。
もちろん子供は障碍者などではなく、調べられたらすぐに健常者と分かってしまうからであろう。しかし堺は強硬に言い張り、なんとかして背にした我が子を自分の手を汚さず処分してしまいたいようだ。
「……今日はこれで失礼します。どうしてもラクドへと望むなら、診断書の提出をお願いしますね」
「だから見たら分かるでしょって言ってるのよ! あんたの目、節穴なの!?」
きんきん喚く堺の声を背後に玄関の戸を開けようとした依田だったが、戸の方が勝手に開いたため思わずつんのめりそうになった。開けたのは帰宅した堺の夫だった。
「おい、うるせえぞ。外まで聞こえてんだろうが」
堺の夫は依田を一顧だにせず、妻に向かって怒鳴った。耳をふさぎたくなるようなだみ声に、体中から酒臭さと暴力性が漂ってきて、依田は急いで堺家を飛び出した。一番苦手なタイプの男だった。閉じていく戸の向こうに、夫婦が言い争う声がフェイドアウトしていく。
堺が住むアパートから己が遠ざかるのを待って、依田は大きくため息をついた。これはもう上に相談する物件として処理してしまうしかあるまい。もう彼女個人としては扱いきる自信がなかった。
調査員に上司はいない。経験の差はあれど皆横一列で、そして情報の流出を防ぐためつながりも持たないように言い含められているから、相談するとしたらラクドの職員しかおらず、それは一般職員では話にならないため当たり前のように、上と言ったら支部長または副支部長ということになる。
相談といってもメールを一本、送信するだけでいい。具体的な指示が送られるなり、もうタッチしなくていいという任務譲渡命令が来るなりするのを待つだけだ。ほとんどの場合後者となるので丸投げになってしまうことが、力及ばなかった証となり少しだけ悔しいのだが仕方ないことだ。
依田のメール内容によっては堺家は、警察の強制捜査を受けることになるだろうがそれもやむを得まい。そんなことを考えながらとぼとぼ歩いていた依田は、後ろから猛烈な勢いで近づいてくる足音に気づき振り返って、ぎょっと目を向いた。
「おい、てめえ! どういうつもりだ!」
怒りで顔を朱に染めた堺の夫は、逃げ腰になりつつも咄嗟に竦んでしまった依田の胸ぐらを容赦なしに掴んできた。住宅街ではあるが通行人の姿はなく、閑散とした道路には彼女と彼だけしか存在しない。そのため依田は助けを求めることもできず、酒臭い堺の夫のだみ声を一人で聞かなければならなかった。
「聞いたぞ、てめえがぐだぐだ言ってるせいでラクド行きが先延ばしになってるんだってな! とっととしろよ、オラ! こっちはもうあんなガキの面倒見たくねえんだよ!」
「ら、乱暴は、やめてくださ……」
「うるせえ! さっさと連れてけよ! それがてめえら死神の仕事だろうが、ああ!?」
殴られはしなかったが、胸ぐらをつかまれたまま怒鳴りつけられ揺さぶられるのは、それとほとんど変わることはなかった。その態度からわずか足りとて子供への愛情など感じられるはずもなく、あの欠食児童が常態的に疎ましがられているのは明らかだった。
しかし死神と言われ、依田は殴られるよりももっとひどいショックを受けていた。実際に死に導くのはラクド職員の仕事であるはずなのに、受理サインを出す調査員すらもその範囲から逃れられないことを改めて知らされるのは、彼女の精神を打ちのめすのに十分だった。
確かに彼女らの調査を経てからでないと死出の道を歩めないとなると、死神の手下と言われても否定はできないのだ。それでもどこかで、直接手を下すラクドの職員と自分は違うと、健全な世界にいると思っていたのに、それはたやすく打ち壊されてしまった。
「ガキ一人連れてくぐらいで適当やってんじゃねえぞ! 聞いてんのかよ! なんとか言えよ、ゴラァ!」
怯えることも抵抗することもやめてしまった依田を、堺の夫は投げ出した。力なく地面に伏した彼女をさらに殴ろうと馬乗りになった彼はけれど、突如割り込んできた制止に振り上げた拳を下ろすことはなかった。
「やめろ! 何をやってる!」
「……てめえ、次うちに来たときは覚悟しとけよな」
舌打ちして、捨て台詞を吐いた堺の夫はあっさりと去って行った。その獰猛な足音が遠ざかってもなお地面に伏したまま動かないでいた依田を助け起こしたのは、先ほどの仲裁に入った男性だった。
「大丈夫ですか? 救急車、呼びますか?」
心配そうに覗き込むその顔に見覚えがあり、ぼんやりと意識をぼやけさせていた依田は正気を取り戻す。
「佐伯支部長?」
「え」
彼が意外そうに目を見開いたのは、なぜ知っているのかという当然の疑問を浮かべたゆえであることは明白だった。依田は彼に抱えられるような状態にある自分に気づき、慌てて自力で体を起こす。
「入社した時、一度だけお顔を拝見しました。私、調査員の依田と申します」
「ああ、そうでしたか」
佐伯の方が依田の顔を覚えていないのも道理だ。集会のときしか全校生徒に相対しない校長が、毎年入れ替わる生徒一人一人の顔を識別できているはずもないのと同じ原理である。
「それにしてもあんな乱暴な輩がいるなんて。警察を呼んだ方がいいですよ」
「いえ、別に、どうということもありませんから。それより支部長は、どうしてここに?」
顔をしかめて堺の夫が去った方を睨んだ佐伯は、困惑顔をこちらに向けた。
「その呼び方はやめませんか。外ではあまり呼ばれたくないので」
「……すみません」
「いえ、僕の方こそついお節介を焼いてしまいました。たまたま支部長会議の帰りで通りかかったんですが」
「そんな、助かりました」
佐伯の手を借りて立ち上がりながら、依田はこのまま勢いに任せてお礼に食事か何かに誘おうかと考えたが、それは一瞬で泡のように彼女の中で音すら立てずに弾けて消えた。ほとんど初対面の相手にそんなことを申し出られても迷惑だろう。佐伯は偶然助けたに過ぎないのだし、それをとっかかりにするがつがつした独身女だと思われるのも嫌だった。
「問題のある家なので、おそらくそちらに報告することになるかと思いますが、よろしくお願いします」
「……わかりました」
急に事務的な態度になった依田を不審に思ったわけでもないだろうが、その会話で佐伯との距離が開いたような気がした。しかし考えてみれば感情を介する必要もないほど最初から、偶然が引き合わせたにせよ事務的な関係でしかないのだ。
頭を下げた依田は、そのまま佐伯に背を向けた。彼の背後に止まった無人タクシーのランプが、早く戻れと言わんばかりに点灯を繰り返していた。