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3/佐伯/未来を見る権利-3

「なんか……すみませんでした」

 食堂で昼食を共にしながら、藤堂が頭を下げてきた。目立ったミスもなく最近では一人前のラクド職員として機能してきているというのにどうしたのかと思ったら、どうやら以前に子供が侵入した事件についての謝罪だったらしい。

「俺が騒ぎ立てたせいで、ことが大きくなってしまったみたいで」

「なんだ、そんなことか。僕はまた君が侵入に関与しているのかと心配になったよ」

「えっ、いや、その」

「君が必要なことをしたおかげで公になったんだから、誇ってもいいぐらいだぞ」

 言い過ぎかなとも思ったが、照れくさそうな顔をしている藤堂のそれを曇らせることもないので、頼んだラーメンと共に喉の奥に流し込む。

 あの後事態が、支部長会議どころか国会での議論にまで発展するとは思わなかった。おかげで忙しさで本当に目が回り、たまりにたまった有給を療養で消化したほどだ。ほとんどを使い果たしたので、しばらく病気はできないなとふんどしを締めてかかる佐伯である。

「でも、いじめの果てにラクドへ侵入させようとしたりっていうの、結構発覚したみたいですね。Aくんみたいな特殊技能もちがいないから、全部失敗に終わったみたいですけど」

 藤堂が感慨深げにつぶやきながら、ゆっくりとカレーを口に運ぶ。無事に無罪を勝ち取った少年はAとして名を伏せられたが、他の悪がきたちは一斉に報道に乗った。ネットの海にも事細かに情報が流されて拡散し、もはやどこへ逃げても汚名はついて回るだろう。

「まったく、ラクドをなんだと思ってるんだろうな」

「お食事中すみません、支部長」

 急に声をかけられ、すわまた事件かと思ったが、どうやら神林が手紙を持ってきたらしい。午前中に配達される分はもう支部長の部屋に運ばれているのにどうしたのかと思ったら、一つだけ他へ紛れていたらしい。

 しきりに頭を下げる事務員から渡されたのは、佐伯への個人的な手紙だった。

「今時封書なんて、珍しいな」

「そうでもないですよ。最近また手書きの手紙がブームになってるみたいです」

「へえ……」

 相槌を打ちながら封書を裏返して、佐伯は遅ればせながら自分の誤解を悟った。

「支部長?」

「名前だったのか……ずっと苗字だとばかり」

 それは少年Aこと日下部長門からの手紙だった。笑い話にしてしまおうと藤堂に話すと、なぜか彼の顔が驚きに固まる。

「どうした?」

「あの……こんなこと聞くのは変かもしれないんですけど」

 何かを想像しているのか、藤堂のスプーンを握る手が微かに震えていた。深刻そうな雰囲気にのまれ、佐伯は手紙を脇に置く。

「もし、知ってる人が来たら……いや、逃げちゃいけないのは分かってるんですけど」

「逃げてもいいよ」

 藤堂の言わんとすることを理解した佐伯は、自分でも驚くほど落ち着いた声音でそう言った。

「規定はないけどね。そういう時は遠慮なく他の人に回せばいい。我慢して顔見知りが死ぬところを見ている必要なんて、ないんだ」

 言いながら、佐伯の体の中を真っ黒い靄が埋め尽くしていくのを感じていた。この辛さを、他の誰にも理解してほしくもないし、味わってほしくもない。

 どんぶりの中に視線を落とすが、半分以上残ったそれを食べる気は失せていた。ラーメンでは藤堂に押し付けることもできない。せめてプリンを買っておくべきだったなと思いながら佐伯は、彼に断って先に席を立った。


 久しぶりに見た長門の素顔はやはり線が細いままだったが、恒常的に彼を脅かしていた脅威が去ったせいか初対面の時の刺々しさは鳴りを潜めていた。

「すみません、手紙なんかで呼び出して。でも佐伯さんの名前と勤め先しか知らなかったから」

「いや、いいよ」

 それは最初に彼を見つけた公園の、あの場所だった。長門にとっては恐怖を植え付けられた場所だと思うのだが、見る限り平気そうだった。これが成長というものだろうか。子供のいない佐伯にはわからない。

「手紙でも言いましたけど、一言、面と向かってお礼を言いたくて。その節はご迷惑をおかけしました。それから、ありがとうございました」

 ぺこり、と長門が頭を下げた。街灯に照らされた影が、妙な形に伸びている。

「元気そうでよかったよ。おじいさんは?」

「許してくれました。でもラクドへ行くのはやめられないからって……見ませんでしたか?」

「いや……僕は担当していないな」

 名前ぐらいは目を通しているだろうが、それが通算何万人ともなると記憶に残る方が珍しいくらいだ。仮に覚えていたとしてもどうすることもできないが。

「遺骨は、俺が引き取りました。おじいちゃん本人は廃棄してほしかったみたいだけど。それから、お母さんも、おばあちゃんも」

「君の周りは敵だらけだな」

「本当に」

 佐伯につられて笑った長門だったが、不意にその笑顔がひび割れた。自分でも制御しきれないと言うように、大粒の涙が零れ落ちる。

「ラクドになんか、行ってほしくなかった。でもそう思ってたのは俺だけで、調査員の人に訴えても同じで、未成年の反論なんかじゃ止められなくて……」

 彼は祖父を愛していたが、その愛は周囲にも本人にも伝わることがなかったのだろう。その悔しさが涙を生んで、今、彼の中から零れ落ちている。

 それは美しい光景だった。そして同じ美しさを孕んだ言葉が、彼の口から零れだす。

「俺、ラクドなんか嫌いです。あんなもの、なくなっちゃえばいい。佐伯さんには、助けてもらっておいて、悪いけど……」

「うん」

 人間らしい感情をむき出しにした長門は、佐伯には眩しかった。頷くことしかできないけれど、目をそらすことなく受け止める。それは彼の中でとうに失われ、そして目にすることもかなわない輝きだ。

「……きっと僕の息子も、君と同じように思っていただろうな」

「息子さん?」

「生きていれば、君と同じ年になる」

 不慮の事故や病気で失われたのかという顔をする長門に、佐伯は首を横に振って否定しつつも、口から飛び出すのは真実ではなくごまかしだった。

「この話はやめよう。君の未来に、影を差したくない。ただのかわいそうな、おじさんの話さ」

 涙に濡れた長門の顔が急に直視しがたいものに変わった気がして、もちろん本人は一切変えていないだろうがそれでも佐伯は、彼と二人でいることに気後れを感じずにはいられなかった。


「僕がこの手で、薬を打ったんだ。ラクドで」

 少年に聞かせられなかった言葉の続きがようやく表に出てきたのは、自宅に帰りついてからだった。

 十四年前、生まれた子供は重度の障害を持っていた。いくつもの管につながれていないと生きることもできなかった。歩くことはおろか喋ることすらできないまま、息子は四歳を迎えた。

 佐伯の妻はそれでも、彼を育てようとした。莫大な医療費がかかったが、ラクドに勤める夫を持っていれば不可能なことではない。

 だが佐伯は、延命は息子自身の苦痛になるとしか思えなかった。だからラクド申請をして、自らの手でその命を絶ったのだ。

 同意を得る資格すら無視された妻は半狂乱になって夫を責めた。離婚は瞬く間に決まり、彼は永遠に伴侶の帰ることのない家で一人、缶ビールを傾けている。

 今でも、あの時の選択は間違っていなかったと思っている。金の問題ではなく、親たちの精神の問題だ。妻はなんとかなると思っていたようだが、この先何十年も喋りもしない寝たきりの息子にかかずらって生きて、それで破綻しないわけがない。

 今でこそラクドができて激減したが、老老介護の夫婦が片方を殺してしまう事案がこの家でも発生しないとも限らない。その殺人者となるのは勤めている佐伯ではなく妻になる可能性の方が圧倒的に高いのだ。

 だがどう説明しても、妻は納得しなかった。息子を殺した夫を詰るばかりで、待ちうけていたかもしれない未来のことなど見ようともしなかった。今ある現実だけが彼女のすべてだった。

「僕が平気な顔で息子を殺したとでも……?」

 歪んだ口元から吐き出された酒臭い呟きは、誰にも聞きとがめられることなく静かで薄暗い部屋の中へと消えていく。

 柴崎が代わってくれると申し出てくれたのを、突っぱねたのは佐伯だった。それが親の責任だと思ったのだ。だが覚悟を決めても実行に移すための勇気を絞り出すのは、途方もない作業だった。歯を食いしばり涙を堪え、息を止めながら心を殺して処理をした後、佐伯は胃の中のものを全部吐き出した。我慢していたものがすべてあふれ出し、歯の根は合わず涙は滂沱となり、荒く吐き出される自分の呼気が気持ち悪くてまた吐いた。胃液しか出なかったけれど。その後、何事もなかったかのように帰宅できたことが嘘のようだ。実際、隠しきれていないことは柴崎に指摘されていたが、妻は気づかなかった。ただ息子が死んだことだけしか見えていなかった。

 そんな二人が別れるのは必然だと言えよう。

 仮に生きていたとしても、長門のように健全な肉体に進化したとは到底思えない。医者は詳しく言わなかったが、むしろ生きて後数年というところではなかったのだろうか。

 あの時、柴崎に任せなかった自分を何度責めたかわからない。けれど任せたら任せたできっと、自分を責めただろう。喋れなくても寝たきりでも、血を分けた彼の息子なのだ。だが、妻の息子でもあったのだ。もしあの時点に戻ってやり直すことができるなら、選ぶことは、妻を説得して同意を得ることに他ならない。

 佐伯は、長門の親たちが彼を無視したように、妻の意思を無視した。彼に罪があるとすれば、そこだ。息子を殺した咎を背負って生きることは、罪滅ぼしにはなるまい。

 すっかりぬるくなったビールを、彼は喉の奥へと流し込んだ。炭酸が彼を鞭打つように、ぱちぱちんと痛みを伴って体内で弾けた。それらをかいくぐって泡として空っぽの臓腑へと落ちていくのは、甘い腐敗臭をまき散らす過去ではない。苦くも輝かしい未来である。


 ラクドへ駈け込んできた佐伯を見て、副支部長が目を丸くした。

「どうしました? 今日は支部長会議では?」

「ああ、忘れ物だ」

 ばたばたと、大人らしからぬ性急さで廊下を駆け抜けて、支部長室に飛び込む。問題のUSBをひっつかむと、また慌てて出て行く。

「まったく、大事な資料を忘れるところだったよ」

「もしかしてここの所、根詰めて作っていたあれですか」

「そう、障碍者の振りして潜り込まれたらアウトだろう? まったく、行政のやることは対策が後手後手で困る。どうしてこれまで問題提起されなかったのかもわからないよ」

 待たせてある無人タクシーに乗り込もうとして、佐伯は出入り口の門のところで口論している男女に気づいた。部外者を追い払うにしては、親密な関係に見える。

「あれ、藤堂くんじゃないか? 堂々とさぼりか?」

「いや、なんでも押しかけてきた彼女を追い返してる最中みたいですよ」

「彼女か。また随分とすさまじい美貌の持ち主だな」

「彼女じゃないです! ……俺がラクド職員だって知ったら中を見せろって、うるさく言われてるだけです!」

 送り返すことに成功したのか、慌てて走ってきた藤堂が顔を真っ赤にしながら否定するが、支部長も副支部長も信じていなかった。副支部長が珍しくにやにやと口元をゆるませているところからすると、あの美女は彼の知り合いなのかもしれない。門のところにはもはや拭い去ったように誰の姿もないが。

「じゃあ支部長、行ってらっしゃい」

「ああ。後を頼むよ」

「仕事、増やさないでくださいね」

 副支部長の最後の声は聞き流した。おそらく佐伯の案が通れば仕事は増えることは間違いなく、行政はといえば実際起こり得なかったとしてももしもの対策のために予算をひねり出すのが大好きだからだ。

 だがそうするとまた、人事に頭を抱えることにはなろう。人手は相変わらず足りない。むしろ真っ先に改善すべき問題点である気がしてならないが、そのことは今は後回しにできる。

 今回は、前回までのような緊急の会議ではない、定例の会議だ。問題を提示した後で、今度は温泉にゆっくり浸かれるだろうかと、早くも佐伯の脳内では脱線事故が起きていた。


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