3/佐伯/未来を見る権利-2
月に一度、支部長会議なるものが設けられている。首都に各地方の支部長が集まって報告会をするのだが、これといって重要な案件が取りざたされることもなく、どちらかというと懇親会に近いものへと変貌を遂げていた。月一であっても地元のラクドを離れて羽を伸ばせるとあって、集った誰もがやつれた顔にほんの一時明るさを取り戻すためには欠かせないのだ。欠席者は体調不良者を除くと毎回ゼロである。
佐伯がその報告を聞いたのは、一泊の支部長会議を終えて帰るための高速列車にちょうど乗り込んだ時だった。座席に荷物を置いた佐伯はデッキに出て、聞こえてきた内容に絶句する。
柴崎が死んだ。自宅で首をくくっていたという。最初に休んだ日以降、連絡なしの欠勤が続いており、不審に思った事務の神林が訪ねてみたところ、発見に至ったという話だった。
電話を切った佐伯は呆然と、列車のシートに身をうずめた。頭の中は真っ白だったが、心のどこかでは、ああとうとうその時が来たのか、と納得する部分もあった。
命を奪うことに何も感じないと言っていた柴崎。その対象には自らの命すらも入っていたのだ。生きるも死ぬも同じこととはつまり、生に意味を見出していなかったということだ。いつ踏み外してもおかしくないロープの上を歩いていた彼がこうなってしまったのは、必然ですらある。
だがそうは思っても佐伯は、喪失感を紛らわすことはできなかった。仲が良い同期というだけでは彼をこちら側にとどめることは叶わない己の無力さを、噛みしめていた。
手で目元を覆うが、涙は出ない。ただ、悔しかった。
葬儀はささやかに行われた。喪主側の、疎遠になっていた柴崎の親類たちと、職員の何人かが参列しただけの、あまりにも規模の小さいものだった。その中で泣いているのは事務の神林だけだった。職員は相変わらず仕事によって麻痺させられた神経のためぼんやりしていたし、親類らに至ってはまるで血のつながらない他人の葬儀にでも参列しているような顔をしていて、悼む気持ちがあるだけに佐伯はいたたまれない気分になる。
火葬場までついていくことなどとてもできず、泣きすぎてメイクがボロボロになった神林を連れて、佐伯は葬儀場を後にした。
彼女のように泣くことができたらどれだけ楽だろう。けれど支部長として、佐伯にはしなければならないことがある。新しい補充要因の確保だ。
人が死んだばかりだというのに、感傷に浸りもせずこんな風に安易に切り替えていける自分が恨めしく、もう何も悩まなくてもいい柴崎が少しだけ羨ましかった。
新しく入ってきた職員は、二十二という年齢にはそぐわぬ稚さを持った童顔の青年だった。履歴書に記されていた空白期間と最終学歴が気になったが、有資格者ではあるし面接でも問題はなかったため、採用に至った。喉から手が出るほど人材が欲しい身とあっては、ここはよほど人品卑しい人間でない限りはクリアしてしまうのだが。
早急にリタイアしないことを望むまでだ。
「すべての行動をあらゆる角度からカメラが監視しているから、無意味な動きはしないように。レンズの向こうで監視しているのは生身の人ではなくパターンを熟知した機械だからね。不審な動きはすぐに通報されるシステムになっている。もちろん知らされる先はこの僕だけどね。ここまでで質問は?」
「ありません」
今日は新人を案内するために監視モニタのレベルを最弱にしてある。そのためいつもより職員の間に緊張が走っていて、それがまた彼の緊張を煽っているらしい。佐伯はぽんと真新しく何の匂いも染みついていない白衣の背を叩いた。
「そこまで固くなることはないよ、藤堂くん。最初の内は僕か副支部長が傍についているからね。ミスはしないにこしたことはないが、過度の緊張は逆にミスを招きやすい」
「は……はい。すみません」
「何、仕事自体は至って簡単だよ。難しく考えなくても大丈夫」
ただしある程度の精神の強度を必要とするとは、佐伯は言わずに腹の底へ仕舞い込む。それにこの緊張も、作業に慣れてしまえばほぼ感じなくなってしまうものだと思えば、今はできるだけ緊張していた方がいいのかもしれない。
「人によっては睡眠薬の効きが遅い人がいるから、意識がある場合があるけど、特に気にしなくていい。感じる痛みは注射のちくっとしたものだけだ。それから注入する薬品も効きにばらつきがあって、最低でも一時間は見なくちゃいかないからね。生命活動が完全に終わったことを執拗に確認して……」
「あの……敷地内に隣接しているあの建物って」
「うん、火葬場だよ。だから息があったらまずいのはわかるだろう?」
佐伯としては当たり前のことを、必要性を感じているからこそ話しているのだが、聞いている藤堂の顔色は早くも優れないものとなっている。彼のそれこそが普通の感覚で、自分はもはやそれを遠い忘却の彼方に置き去ったのだと、改めて痛感する。
苦痛を覚えてはいても、柴崎と同じ側の存在なのだと。掃除の行き届いたリノリウムの床に、細いロープが張られている気がした。
「……木製の板なのは、そのまま棺桶に組み立てられるように、ですか?」
しかし、決して気が強そうなタイプには見えない新人は、一度は引いたものの再びこちら側へと踏み込んできた。負けてたまるかという気概が見て取れて、なかなかに根性があると感心する。彼が指し示すのは、歯科で診察待ちをしている患者のような状態で均等に並んで仰臥する人々の寝台部分のことだった。
「ああ。底から側面をスライドして引き出して組み立てるんだ。蓋は別だけどね。寝心地は相当に悪いけど、文句を言われたことはないな」
二人の傍を、薬品を注入し終わった対象者を乗せたストレッチャーががらがらと通り過ぎていく。この先の部屋で死亡が確認された者から火葬場送りになる。遺骨は遺族の申し出がない限り国で合同葬儀の後に処理されるが、最初の申請書に項目欄があるため、だいたいの人の骨は国に召し上げられることがほとんどだ。
「少ない時には十数人、多い時は数百人。だけど最近は落ち着いてきて、そう多い人数を捌くこともなくなったから、慌てることはないよ」
「はい」
ラクドを利用する数も、当初と思えば減ってきている。ただしそれは希望が減ったのではなく人口が減ったのだ。この施設が不要になるのが先か、尻すぼみの人口がゼロになるのが先か。超高齢化社会の時代には批判を受けてでも必要だったものだが、動けない老人よりも健康面ですら何の問題も見いだせない六十代男性、五十代女性が絶望と共にやってくる現状を思うと、未来は真っ黒に塗りつぶされているようにしか思えないのだった。
申請書の受理までにかかる時間は、最短でもひと月。受理からお迎えの日が決定するまで一週間でかかる。日によってばらつきはがないように調整され、一日に処理する人数が極端に多かったり、または少なすぎたりする場合は前後に振り分けられるのだが、その日はやけに多かった。もちろん支部長がそれを把握していないわけではないので、わかってはいたのだが実際にこなすとなると忙しさに目が回りそうになる。監視レベルは最大まで上げておいて、副支部長のみならず支部長も処理係りに配属しなければ帰宅することもかなわないほどとなると、もはや事務方の人為的采配ではないかと疑いたくなる。
「支部長、こっちお願いします」
そんな中、判断に困る度に佐伯はあちこちから呼ばれる羽目になる。支部長とはいえ、ついこの間までは同じ職員として働いていた身で、これといって自分の中の知識が増えたとも思えない。多くは何の助言も必要のない、個人で判断できるレベルなのだが、数の多さが不安を助長させているのだろう。彼らが落ち着くための材料としてたらい回しにされているような感覚に陥る。
「すみません、支部長、ちょっといいですか」
そんな中、普通なら真っ先に呼んできそうな新人から声をかけられて、佐伯はその顔色から特殊な事例にぶち当たったことを感じ取った。藤堂は途方に暮れたように、横たわる対象者を指した。
「この方なんですけど」
やたらと老人斑が多く目立つ男性だ。眠っていることを示すため胸が上下している。肌もくすみ痩せて骨ばっていて、どこからどう見ても完璧な老人だったが、佐伯には藤堂がためらった理由もはっきりとわかった。
「いいよ、これは僕が見るから、君は次を頼む」
「わかりました」
立ち去る藤堂を見送って、佐伯はストレッチャーを押して移動する。周囲の職員はこれといって彼に興味を示すでもなく作業に集中している。佐伯も気にせず、死亡確認を待つ待機室へと向かった。
「……」
一歩その部屋に踏み込んだ佐伯は顔をしかめた。いつ来てもこの部屋に充満する匂いは、生きた者にはきつすぎる。死へ向かう腐敗の匂い。この部屋の担当者はガスマスクをつけることを許可されているが、実際には慣れてしまって平気な顔で各棺を見て回っている。
「おや珍しいですね、支部長が運んでくるなんて」
声をかけてくる待機室担当者は、実は佐伯よりも五つも年上だった。実は前々支部長より先に支部長の椅子をすすめられていたものの、この部屋から出たくないという理由で蹴ってから彼の昇進は永遠に失われているのだ。とはいえこの部屋の担当を彼以外に任せるのも、今となっては難しい気がしてしまうほど、彼はここになじんでいた。おそらくラクドに定年まで勤め上げた最初の人となるだろうとすら言われている。
「気にしないでください。別件です」
「了解しました」
佐伯はなるべく口だけで呼吸をしながら、ストレッチャ―をさらに奥へと運んでいく。そこまで行くともはや生きている者はおらず、火葬を待つ冷たい死体ばかりが並ぶようになる。もっともすべての棺の蓋は閉じられているため、目だけで確認することはできないが。
「寝心地も悪いし、匂いもきついだろう。我慢比べをする必要はないぞ」
佐伯は連れてきた対象者に話しかけた。しかしそれでも彼は目を開けない。こんなところで寝たふりを続けても楽しくもないだろうにと、佐伯はため息をついた。
「このまま火葬場に連れて行ってほしいのか? 生きたまま焼かれるのは、つらいぞ」
もちろんそれは法律違反なのでラクドの職員とはいえども不可能なことだ。しかし脅しとしては効いたらしく、目を開けた。
「どうしてわかったんですか」
その声は、明らかに老人のものではない。年端もいかない少年のものであり、佐伯はその声に聞き覚えがあった。驚くよりも先に、呆れてしまう。
「君は……長門くんだね」
「……覚えていてくれたんですか」
「名乗っておいて、それはないだろう」
どれだけ忘れっぽいと思われていたのか。おじさんではあってもおじいさんというほど老けているつもりはないのに。確かに髪だけ見れば、おじいさんではあるかもしれないが。
「体中が痛いです。全然楽土じゃないじゃないですか」
「本当の楽土へ行く人にはこんなもの、屁でもないさ」
体を起こした長門は不満そうに、棺になる予定の台から降りた。腕をひっぱって手伝った佐伯は、彼の手が細部にわたって老人のものになっていることに戸惑いを隠せない。
「特殊メイクかい、これ」
「はい。こういうの、得意で」
「特技を生かす方向が間違ってるな」
「でもここまで気づかれなかったのに」
「君からは老人の匂いがしない。騙し通すのは無理だ」
死の絶望に憑りつかれた周囲のラクド行き希望者たちが彼に気づかないのも無理はない。もはや他人など目にすら入っていないのだ。だがまだぎりぎり生の淵にかじりついて、死者と生者を見慣れた者にとって見破るのはたやすいことなのだ。ただし柴崎のような針を振り切った者に当たると、見破っても関係なく処理してしまうだろうが。
「藤堂くんに当たって正解だったな」
「匂いって……おじいちゃんが昨日着てた服を着てきたから、匂いついてるはずですけど」
「体臭の強さも、人に寄るからな。君のおじいさんは薄い方なんだろうし、それを君の体臭が凌駕してしまっているから、服を着た程度でごまかせるものではないよ」
「え、俺、臭い……ですか?」
「いや、そういう意味じゃなく」
佐伯は否定したが、長門は特殊メイクの下で顔色を曇らせた。まるでその単語が彼を傷つけてしまったかのように。
「やっぱり、あいつらに言われる通り臭いんですね、俺……ちゃんとお風呂にも毎日入ってるし、歯磨きだって欠かしてないのに」
あいつらとは、あの晩に長門を暴行していた悪がきどもだろう。臭いという言葉は単にいじめのときの常套句のようなもので意味などないに違いないが、柔らかい少年の心を傷つけるには効果を発揮してしまったのだろう。
「ここへきて、どうするつもりだったんだ? 申請したおじいさんに成りすましたんだろうが、それは権利の侵害だよ」
自殺をしたいならもっと効率のいい方法があるだろうに、こんな手の込んだ手段をとったからには何かしら理由があるはずだ。長門はじっと俯いていたが、観念してぼそぼそと話し出す。
「あいつらに、ラクドへ行けって、言われて……毒薬を盗んで来いって。俺が、特殊メイクを趣味にしてること、知ってるから」
言いながら長門が握ったままだった片方の手を開いた。薬品注入前に服用するはずの睡眠導入剤が握られていた。佐伯が差し出した手に長門は、素直にそれを乗せる。
「これで死ぬと思ったのか? まあたくさんあれば死ぬだろうが、こんなものを持ち出されたと知れたら僕の首が飛んじゃうよ……。……まさか、それが目的?」
「ごめんなさい」
やれやれと、佐伯は今日何度目になるかもしれないため息をついた。子供の考えることは単純だが恐ろしい。もっとも一般企業とは異なるため、辞めることになっても万々歳かもしれないが。
「行かないと家に火をつけてやるって言われて……本当に、すみませんでした」
「君のおじいさんは、その事情を知ってるのかい」
涙声で頭を下げた長門は、その首を横に振った。
「おじいちゃんには、嘘を言いました。迎えは明日だって」
無駄な仕事を増やしてくれた少年に、かけられる言葉を佐伯は持たない。綿密に計算され調整を重ねた日程がたった一人によって狂ってしまった。しかもこうして施設内侵入されては、責任追及を免れまい。次の支部長会議は懇親会ではなく本当の会議になりそうだった。
だが感情のままに叱り飛ばすこともできない。彼は不運ないじめの被害者なのだ。
「おじいさんの迎えは、一週間以上来ないことになる。下手したらひと月先かもしれない。君のせいでね。そのことを君は、おじいさんにちゃんと謝らなくちゃいけない。わかるね?」
「はい……」
「君にラクドに忍び込むことを強制した子たちの名前はわかるかい」
「え」
長門が、俯けていた顔をあげた。その顔を見れば、知らないはずもないことはわかった。舐めた真似をしたガキどもには、今後類似犯が現れないようにきっちりときつい罰を与えておく必要があった。
「彼らを権利侵害で刑事告訴する。命を扱うラクドを敵に回して、ただで済むと思われては困る」
昔は十四歳では刑事罰の対象外だったらしいが、法改正を繰り返して今では対象外は十歳未満にまで引き下がっている。同じ年の頃に見えたし、十分対象内だろう。権利侵害だけでなく、脅迫に暴行、放火未遂に不法侵入と、その罪は枚挙にいとまがないほどだ。
今後表社会では日の目を見られることはなく、ドロップアウトして益々ひねくれた人生を送ることになるだろうが知ったことではない。ピラミッドを形成するには底辺を這いずる人間も必要なのだ。そんな者達でもラクドは平等に最期を与えてくれるから、これ以上優しい社会保障もあるまい。
「君にも罰は及ぶだろうが、悪くて執行猶予、よければ無罪が勝ち取れるだろう。僕の友人が弁護士をやっているから紹介してもいい」
「……どうしてそんなにしてくれるんですか」
長門には、佐伯が単にラクドとしての不利益を被ったから強制措置に出たようには映らなかったようだ。実際そうだったし、彼のその観察眼には感服するばかりだ。
「君に未来を見たからだよ」
「……?」
「おじさんのたわごとさ。聞き流してくれていい」
佐伯は老人用の鬘をかぶった少年の頭をぽんぽんと軽く撫でる。こんなことをこの年頃の時分にされたら業腹だろうが、長門はくすぐったそうにしただけだ。