3/佐伯/未来を見る権利-1
「昇進おめでとう、佐伯支部長」
「やめてくれ。同期に言われると面はゆい」
俺からの祝いだ、おごりだぞと言いながら柴崎がトレイに乗せてきたのはプリンだった。本当に祝われているのか疑いたくなるが、気持ちだと思ってありがたく佐伯は受け取っておく。子供っぽいがプリンは好物だ。
「まあ実際は、椅子が空いて、一番年かさだったから、という理由だろうがな」
「謙遜しちゃって。同じ四十二として誇らしいぞ」
「僕としてはお前の方が適任だと思ってたんだが」
職員用の食堂は、昼時であったが人影はまばらだった。この建物にいたくないのだろう、ほとんどの職員が外へ食べに行く中、佐伯と柴崎は悠々と席に着く。彼らの他には事務員が何人か利用しているだけだ。経営は大丈夫なのだろうか。
「俺なんか無理無理。上に立つ器じゃないよ。こいつも祝いだ、受け取れ」
天ぷらうどんを注文しておきながら、柴崎はメインであるはずのえび天を佐伯の醤油ラーメンの中に寄越してきた。嫌がらせかと思ったが、文句を言うより先に口の中に押し込む。天ぷらの油が汁の中に溶けだすのを阻止したかったし、エビは好物だったためだ。
しかし柴崎は気が変わったとも言わずに、うどんをすすりながらにやにやと笑った。常にそうして笑っている男だが、その顔はろくでもないことを企んでいる時のそれで、実際に彼が言ったのはろくでもないことだった。
「これを機に再婚したらどうだ? 事務の神林さんなんてどうだ」
「どうだじゃない。結婚はもうしないよ。僕よりお前がしたらどうだ」
「そういうのは柄じゃない。それに第一……」
柴崎は軽薄に肩をすくめた。次のセリフは見当がついていたが、止めずに促す。
「ラクドの職員となんて、誰も結婚したがらないだろ」
「まったくだ」
へらへら笑う柴崎とは対照的に、陰気なため息をつきそうになった。直前に、ため息禁止な、と柴崎から釘を刺されたので辛うじて飲み込んだが、おいしく食べていたはずのラーメンがまずく感じるようになったのはそのせいではないかと佐伯は、気を滅入らせた。
結婚願望がもはや強いなんてレベルではない独身四十代女性ですら、ラクドの職員と聞くだけで逃げ出すという。それ以下なら何をいわんや、である。閉ざされた施設の中で恐ろしいことが行われていると思われている節が強いようだが、実際は眠っている対象に薬品を注射するだけだ。
それでも死神であることには変わりない。いくら国が推進し保障してくれようともやっていることは自殺幇助に等しいのだ。こんな仕事が楽しいわけがない。
しかし誰かがやらなければならないのも事実だった。
直接関わらない事務員を除いて、職員は皆、佐伯も柴崎も含めて、死んだ魚のような目をしている。死に関わる以上、そうならざるを得ないのだ。そして回転率も異様だった。
くくりとしては国家公務員だから、定年は六十だ。だが勤め上げた職員は皆無で、今回支部長の椅子が空いたのも神経をすり減らした前支部長が辞職したためであった。年は佐伯より一つばかり上なだけだった。
支部長になるためのルールは至って簡単で、施設内で一番年かさの者が選ばれる。最初こそ国から天下ってきた者が勤めていたが、いずれも続かず、また職員の年齢が高ければ高いほど離職率も高くなるため、結局これが一番無難だということになったのだ。
確かに長く施設にとどまるだけの根性があり、肝が据わっている者がトップに就任するのが妥当だろう。要するにがんばったで賞だ。
「はあ……。……あ」
うっかりため息が漏れて慌てて口に手を当てるも、ここに柴崎はいない。まるで社長室のような支部長室の椅子は、無駄に豪華で落ち着かなかった。支部長になれば死神になる機会は減るが、次々に辞めていく人事の穴をどうにかしなければならない。いくら募集をかけても人員は集まらず、それは今いる職員の負担となって覆いかぶさり、また辞める手伝いをしてしまうのだ。早急にどうにかしなければならない。
そこまで分かっていても、人に来てもらう手立てがなかった。皆、やりたくないのだ、こんな仕事。正社員はおろかアルバイトですら奪い合いの世の中だというのに、ここだけ閑古鳥が鳴いている。こうなったらもうここも機械で埋め尽くしてしまうしか、解決策はない気がした。
だが機械化するには問題があるのも事実だった。さすがに百年前と比べれば格段に技術は進歩しているが、末期の瞬間をたとえ意識がないとはいえ機械に任せることに抵抗を覚える人々の声が根強くては、もはやどうすることもできない。
「支部長~、飲みに行こうぜ」
「ノックぐらいしろ」
いつの間にか終業時間になっていたようだ。一日座っていたので体中が痛かった。支部長になる前はこういった肉体的疲労はなかったのだが。昇進しようとも遠慮会釈のない柴崎の言動は、逆に安心感があった。
「お前は変わらないな」
行きつけの居酒屋のカウンターで酒杯を傾けながら、佐伯はしみじみとつぶやいた。アルコールに強い柴崎はお通しに少し箸をつけただけで、気持ちいいほどぐいぐいとビールを煽っている。
「なんかそれ、成長ないなって言われてるみたいだけど。あ、髪のことか?」
幸いにして二人とも禿げの遺伝子は薄いようで、むしろ抜け毛より白髪の方が深刻だった。それにしたって柴崎は、佐伯と比べても驚くほどそれが少なく黒々としている。その分だけ佐伯の方が老けて見えた。
「悩みがないようで羨ましいよ」
「おいおい、支部長になったからって真面目に考えすぎんなよ。気楽にやればいいんだよ」
陽気にばしばしと加減なく肩を叩かれて、佐伯は顔をしかめる。
「毎日何十人もの命を奪ってる奴が言うことじゃないな」
「奪っても俺のものになるわけじゃないけどな。お前だって前はそうだっただろ。なんだよ、罪悪感でもあったのか?」
「平気でやる方がどうかしてるだろう」
「俺は平気だけど」
許可が出ているとはいえ、他人の人生を終わらせることに抵抗を覚えない人間などいるだろうか。だからこそ耐えられずに辞めていくというのに、柴崎は何のダメージも受けていないと言う。佐伯など支部長になってその業務から外れることで、内心諸手を挙げて喜んだというのに。
以前はというと、必死でそれから目をそらすことでなんとかこの仕事を続けていたのだ。もし支部長の椅子が巡ってこなければ、近いうちに辞めていただろう。彼の限界もすぐそこまで迫っていた。
「割り切ればいいんだよ。むしろ何か感じる方がどうかしてるね。俺らはただ注射一本ぶっ刺すだけ、誰にでもできる簡単なお仕事だろ」
「お前みたいに、誰もが割り切れるわけじゃない」
「なんでだよ。生きるも死ぬも、大差ないだろ」
佐伯は言い返す言葉を思いつけず、柴崎はその先を続ける気がなく、二人の間を沈黙が駆け抜けた。否定できるほどの若さは、佐伯の中から消え去っていた。それでも同意をしかねて、眉間にしわを刻んだまま機械で均等にさばかれた刺身の盛り合わせを無言で口に放り込む。
「俺、この時代に生まれてよかったよ」
「急に、どうした」
今日はこれ以上飲む気がないのか、空になったビール瓶を恨めしそうに睨みながら柴崎が沈黙を破った。
「ラクドがなかったらきっと俺、大量殺人者になってたよ」
「馬鹿なことを。ラクドがあっても大量殺人者はいるだろう。死刑を申し付けられて大概ラクド行きになるが」
「……だな。俺は絶対、ラクドには行かない」
「同感だ」
暗い顔をした職員たちの顔を思い浮かべると、いくら人生に疲れたからといって自分までもがラクドの世話になるつもりはなかった。けれど発作的に、対象者に打つ注射を自分に打ちたくなってくる時がある。薬品はもとより処置する職員も厳しく監視されているから実際にそれは起こりえないのだが、不可能だからと安心せずに大袈裟なほどに見張ることもまた支部長の勤めであった。
本来なら副支部長を務めていた者が繰り上がり人事で支部長に就任するはずなのだが、支部長と仲よく一緒に辞めてしまったので、同じく一新されている。一つ年下の男だが、どうやら柴崎が蹴ったことでお鉢が回ってきたらしく、昨日ちらりと見た時は土気色の顔色をしていたが今日は少しだけマシになっていた。
地位が上がったせいばかりではないらしく、どうやら実家でのもめごとに片が付いたことも関係していると言う。
「なまじ親の実家が資産家だと、相続でもめにもめて大変なんですよ。俺なんかは最初から話し合いの場すら放棄していますから、もらえるものは何もないんですけどね」
代わりに別の兄弟が相続権を主張していると力なく笑う彼は、こんな暗がりに置いておくにはちょっともったいないくらいの美形だった。佐伯と同じに白髪は多いが、四十を過ぎているとはとても思えない若々しさの持ち主だった。
「金に執着する人間がいる一方で、国にとられても構わず命を投げ出せる人がいるのは、不思議ですね」
「お前の兄弟は、おこぼれがもらえたのか?」
佐伯の眼下には、眠る対象者に処置をして回る職員の姿がある。決して俊敏とは言い難い彼らの動きは、まるで深海を蠢く進化前の生物のようだ。館内はわざとらしいくらいに明るいのに、不気味に翳っているように見える。まるで部屋中に、死の靄が充満しているかのようだ。見ていて気分のいいものではない。
だが監視役は本来、支部長の役目である。カメラと機械による監視だけでは有事の際に対応が遅れてしまうからだろう。忙しさを理由に副支部長に押し付けていたのを今日は、そうはさせじと腕を掴まれての強制参加である。手を下さないとはいえ、見ているだけでも疲弊する作業だ。気を紛らわせるために佐伯は、あえて私語を振る。
「いいえ。どうやら遺言書通りに、本家当主の直系の孫娘がすべて相続することになったようです。兄二人は相当に悔しいらしくて遺留分を巡って訴訟も辞さないとか言っていましたが」
「お前に似た男がそこまで金に汚いというのは、あまり麗しくない光景だなあ」
「残念ながら、兄たちと俺は似ていません。どうやら俺だけ本家の血が濃く表れているみたいで」
トップ2が私語をしていても止める人間はいないので、彼らはやりたい放題だった。それでも問題があった時に責を負わされるのは嫌なので、一応目は作業場を見下ろしているが。
「ん……? 柴崎はどうした?」
見知った同期の姿がないことに、佐伯は遅ればせながら気づいた。副支部長が手元のタブレットを操作しながらそれに答える。
「柴崎さんは今日は欠勤ですね。頭が痛いとかで、連絡は入っていますが」
「二日酔いか。珍しいな」
酒に強い男がそこまで飲みすぎることもあるのかと思ったが、単に年齢と酒量が見合わなくなってきただけかもしれない。取り立てて深く考えることもなく佐伯は、無言でのろのろと動き回る職員を見下ろした。
アルコール抜きで帰宅するのも久しぶりだった。一人で一杯ひっかける気にもなれず、途中でコンビニでも寄ろうなどと考えながら、近道のため公園を突っ切ろうとした時だった。
犬が吠えあうような声が公園中に響いて、佐伯はびくっと体を硬直させた。見れば十代ほどの少年たちが騒いでいるようだった。関わり合いにならないよう気配を殺して立ち去ろうとした佐伯だったが、少年の一人が喚いた言葉に思わず足を止める。
「てめえなんかラクドに行っちまえ!」
どうやらガラの悪い連中が、一人を暴行しているらしかった。だが本気というよりは遊びの延長線上という雰囲気で、自らの振るう暴力がどんな影響を与えるかなど考えも及んでないことは明白だった。一方で殴られ蹴られて体を丸めている少年は、痛みと恐怖に耐え、泣き震えながらひたすら彼らが飽きるのを待っていた。
「おい、おっさん。何見てんだよ」
立ち去ろうと言う決意が遅かったためか、気づかれてしまった。関わりたくなかったがこうなっては仕方がない。気づかれないように小さくため息をつく。
「その辺にしておいたらどうだ。やりすぎると死んでしまうぞ」
「はあ? 関係ねえだろうが。引っ込んでろよ」
「てめえも殴ってやろうか? ああ?」
死ぬと言うのがどういうことなのか、まだわからない年頃だ。とはいえ、あまり賢そうには見えなかった。この子たちは将来どんな仕事に就くのだろう。ただでさえ機械に仕事を奪われているというのに、彼らが大人になるころにはもっと技術は進歩しているだろうから、門の狭さも格段に上がるだろうに。
「君たち、医療従事四級は持っているかい」
「はあ? なんだそれ」
「もしものために、取っておいた方がいい。受験費用は少し高額だが、三級以上は格安だし、誰にでもとれるから」
「うるせえよ。死ね」
「あ、ちょっと待って」
遮るように手を前にかざすと、殴り掛かるポーズのまま少年が固まる。その彼の前に、佐伯はカードを掲げて見せた。
「これ、何かわかるかい」
「なんだ、それ」
「ラクドへ入るための職員証だよ。ちなみにこれは、支部長室まで入れる。静脈登録が必要だけどな」
途端に少年たちの顔色が変わったのが、薄暗い公園の照明の下でもわかった。
「こ、こいつ、ラクドの奴かよ!」
「やべえ! 逃げろ!」
一目散に逃げ出したところを見ると、ラクドの中でどんな風に死を迎えるかも知らないようだ。まさかここまで効果があるとは思わなかった佐伯は、苦笑も浮かべられない。いずれにせよ、下手に知識があるタイプでそれがどうしたと開き直られなくて済んだのは僥倖であろう。
「ラクドの人なんですか」
全員いなくなったと思っていた佐伯だったが、一人見落としていたことに声をかけられてから気づいた。それは先ほどまで集団リンチに遭っていた少年だった。見たところ深刻そうな怪我はしていないようだ。
「君は怖がらないんだな」
「おじいちゃんがラクドに行くことが、決まってるから」
線の細い少年だった。こういうタイプは、ああいう荒々しいのに目をつけられやすいだろう。けれどその目に宿るのは間違いなく知性の光で、佐伯は少しだけ未来への希望を見た。こういう子がいじめられるのは感心しないが、いつの世にもあることだ。
「さっき言ってた資格があれば、ラクドに入れるんですか」
「まあ、そうだね。中学卒業レベルの学力は必要だけど」
「それなら、楽勝だ」
「ラクドへ入りたいのかい」
少年は佐伯を見上げて、首を傾けた。あまり表情のない子だったが、それが不愉快さを助長させるタイプとは異なっていた。
「あんまり歓迎しないって顔ですね。大丈夫です、俺、別に人を殺してみたいとか思ってませんから」
「君なら、ラクドじゃなくても優良企業を狙えそうだけど」
「俺のこと何も知らないじゃないですか、おじさん」
少年の唇がほんの少しだけ、持ち上がった。笑ったのだと気付いたときには既に、彼の顔には無表情が張り付いていたけれど。
それよりおじさん呼ばわりされたことに地味に傷ついた。確かにおじさんではあるのだが、さっきいじめっ子たちがおっさん呼ばわりしていた時には何も感じなかったのに。曲がりなりにも助けた者に対して、感謝どころか突き放すような態度が癪に触ったとでもいうのか。見返りを求めていたわけではないが、子供相手に感情を左右される己が腹立たしくも恥ずかしい。
「おじさんか……君、いくつだい」
「十四です。おじさんは?」
「おじさんは四十二だよ」
「おじさんですね。佐伯さん?」
さっきの一瞬で、職員証をきちんと見ていたらしい。抜け目のない子だったが、嫌な感じはしない。
「そうだよ。君は?」
「俺は、長門です」
長門少年はぺこりと頭を下げると、そのまま走り去って行った。もう会うこともないであろう少年の姿が闇に消えていくのを、佐伯は黙って見送った。