二十八、望外の喜び
感覚でやっちゃ駄目だよ、しっかり考えてやんなきゃ、とエイジは言った。
「全部意識して体を動かすんだ。呼吸、立ち方、構えから柄の握りまで、一つ一つを明確な意思の元に操作しなきゃ、武術の動きにはならない。何故なら」
「日常の動きを突き詰めた先に武術の動きはないから、だろ? 何度も聞いたって」
木剣を正眼に構えたまま片目を閉じて、ライナーはおどけて見せた。苦笑するエイジは頭を振って続けた。
「先祖代々言い伝えられてきたありがたいお言葉だ。まだまだ、何回だって聞いてもらおうか。少なくとも武術の動きが日常の動きに取って代わるくらいに染み付いちゃうくらいまではね」
「そんなの、お前だって出来てねえじゃんか」
「その通り。だからこうして自分に向かっても言い聞かせてるんだよ。さあ、無駄話はいいから、とりあえず前後の輪太刀から」
正眼に据えられていたライナーの剣先は、彼の体を中心とした円を描いた。腰の旋回と共に腕を上げ切り下ろす、前後に向きを入れ替えての反復運動が滑らかに描き出す円は、それぞれが全く逆の軌道を辿りながら早くはなくとも等しい径で中空を斬り続けた。
しばしその様子を眺め満足げに肯くと、エイジも自身の木剣を取り、同じ動作で素振りを始めた。音のない静かな素振りがしばらくの間繰り返される。
のどかな昼下がりは空位二十三年初秋の三十日、オートゥリーヴより南へ三十里下ったアレイラック伯領北の玄関口ヴァロンスと、そこからさらに南に位置するアンマリテルの間にある宿場街での風景である。昼食の支度が整うまでのちょっとした空き時間、エイジはライナーに請われて久しぶりに稽古をつけることになったのだった。
やがて額が軽く汗ばむ程度に体が温まると両者は自然に動きを止めた。準備運動としては十分だ。深く呼吸したエイジは大きく伸びをするライナーに向き直った。
「さて、じゃあ次は基本の型でも一通り」
「あー待った待った、エイジ。俺、やりたいことある」
不意に挙手したライナーはエイジの言葉を遮って続けた。
「この前お前が見せた型、応用型だっけ? あれ、試したいから受けてくれよ」
エイジは眉根を寄せて首をひねった。
「俺が受けるの? そっちが取りで? 逆じゃなくて?」
内藤流の型稽古における取りとは主体的な術技によって受けの動きを誘導し型を完成させる役割のことである。本来なら師範や高弟が取りを実演し、教えを請う弟子たちは受けの立場から十分にその型の性質を理解した後で初めて取りとして型を実践することを許されるものだった。
故にエイジはライナーの言い間違いを疑ったが、片やライナーは頭を振ってその誤解を否定した。
「逆じゃねえよ。いいから構えてくれって。完璧に取ってみせるから」
「……分かったよ。やってみようか」
自信満々で譲らないライナーに結局エイジが折れた。
エイジは間合いを取って正眼に構える。一方のライナーは数度しか見たことがないはずの応用型叢雲を見事に構えて見せた。突き出した肘、寝かせた刃、左足を踏み出す半身には自信を裏付けるだけの正確さがあった。
エイジが感心する間もなく、対峙する両者は一歩、また一歩と間合いを詰める。
あと半歩の距離でライナーが動いた。右足の踏み込みと同時に剣が起きる。突き出た左肘は剣を起こしながら正眼の位置へ。
相対するエイジは目を見張った。ここまでの動作は完璧だ。しかし問題はこの先にある。ライナーはこの後取りが行うべき動作を知らないはずだった。
エイジはためらいながらも受けとして余計な動きはしなかった。分からなければここで終わるだろう。だが、ライナーなら教えなくても正しい動きを導き出せるのではないか。そう直感したのだ。
次の瞬間、ライナーの身体はエイジの期待する通りの動きを見せた。不意の正眼から左足を半歩踏み出す剣先が、受けの眼前数寸まで迫る。
刀身が月ならそれを隠す身体は雲。隙だらけの身体が華なら不意に現れる刀身は風。消えては現れ、現れては消える取りの動きが、当然の心理として受けるエイジを半歩下がらせる。同時に構えを上段へと転じるのは、半歩の後退で身を入れ替え、相手の突きをかわしながら次の一動作で切り下ろすためだ。
エイジは型に従って、間髪入れない剣を上段から振り下ろした。刃が風を切る。その先に取りの姿はない。
エイジが狙っていたライナーの左半身は振り下ろしよりも速い動作で右前の半身へと転じられていた。至近での体の入れ替えは当然攻撃も伴っていた。寸前で止めたエイジの両腕のすぐ下に、右半身から切り上げたライナーの剣がぴたりと据えられている。真剣ならば、エイジが振り下ろす前にライナーの剣がその身体を胸元から分断するのは容易なはずだった。
しばしの間。そして、両者は剣を納め、ライナーが口角を上げて尋ねた。
「どうよ?」
エイジはすぐに返事が出来なかった。絶え間ない興奮と喜び。感動が胸を打ち震わせている。ライナーはなおも得意げに続けた。
「この前の作戦会議の時ふっと閃いたんだよ。斬るか退くかのどっちかじゃなくて、退きながら斬るから隙がなくなるんじゃねえかってな。正眼からすぐに斬りにいかねえのは、型にまだ続きがあるから、だろ? 相手がある程度使えるやつだったら今みたいに退くし、そうでなきゃこの前の俺みたいに喉元突かれてお終いってわけだ。一連の動作で三回も身を入れ替えなきゃならねえんだから、確かにこりゃ応用型なわけだよな」
「完璧だ、ライナー。本当にすごい」
それはうそ偽りのない本心から出た言葉だった。内藤流を習い始めて二年、剣を学んでわずか半年足らずでここまでの術技を修めることが出来たライナーのことを、エイジは正しく天才だと思った。まだ幼かったとは言えエイジ自身数年を要した基本型をたった半年で、散々苦戦した応用型に至っては叢雲から華風の変化までしか見ていないにもかかわらず、型の終わりからその術理までを完璧に会得してしまった。昔から尊敬してやまなかった兄に匹敵する才能をライナーの中に見出したとしても、それは無理のない話だった。
「ライナー、もう一回やろう、もう一回! 今度は俺が取るから」
エイジは興奮のままにまくしたてた。体がうずいて仕方ない。祖父に初めて素振りを誉められた時に味わった、似たような感覚が思い出された。
「どうした、張り切って? いつもだったら受けの方ばっかりやりたがるのに。あんまり綺麗に決まったもんだから悔しくなったか、先生」
「違う違う。両者叢雲から始めて今の形で終わるのがこの型の本来のやり方なんだよ。取りと受け順番交代でいいから、正しい形で今の型やってみよう、な! 完璧にものにできれば、始めて半年でもう目録だぞ、目録! そんな話聞いたこともない!」
ライナーの軽口など一切意に介さない。ますます熱を上げるエイジは、今、剣が振りたくて堪らなかった。元より型稽古は一人で上達出来る類の修練ではない。型とは術技を用いれば必然的にそうならざるを得ないように作られた動作の記録である。取りの行う術技を正確に導く受けが存在することで初めて完成する、共同作業の芸術作品と同じなのである。ライナーが同等の能力を持つまでに育ったからこそ、エイジの術理に対する理解もより鮮明なものとなった。してみれば更なる高みを望んで気持ちが昂ぶるのは自然な感情と言えた。
それに何よりもエイジは嬉しかった。文化も価値観も全く異なる世界で生きてきた相手が、父祖伝来の武術をこれほどまで深く理解してくれることが、エイジに望外の喜びをもたらしていた。辞めないで良かった。剣を取り続けて良かった。やはり武術は、内藤流は無駄なんかじゃなかったんだ。目録相当にまでたどり着くことが出来たライナーの存在そのものが、エイジの努力を、武術の意義を、確かに肯定していた。
一方、興奮冷めやらないエイジとは対照的に、ライナーは眉根を寄せて尋ねた。
「いや、喜んでくれてるとこ悪いんだけど、何そのモクロクって?」
「ああ、それはあれだよ。よく頑張りましたの証明書みたいな……とにかくすごいんだって! っていうかさっきから何で引いてんの?」
「引くだろ普通、そんな急に元気になられたら」ライナーはエイジの背後を指差して続けた。「見ろよ、犬だって引いてるみたいだぜ」
エイジが振り返ると端正な顔立ちをした灰色の犬が所在なさげに石畳で伏せていた。と、そこへちょうど良くその犬を使いに出した張本人もやって来た。
「いつまでやってんだよお前ら」エンリコは伏せている犬の首根っこをつまんで言った。「昼飯もうとっくに出来てる、つーかお前ら以外はほとんど食い終わってんぞ。せっかく呼びにやったのに全然動かねえから“母”が困ってるじゃねえか、なあ」
「おっと、いけねえ」言うやライナーは駆け出した。
「ごめん、ごめん」と“母”の頭を撫でて、エイジもすぐに続く。
弾かれるようにそんな二人の後を追って走る灰色の毛並みを見送りながら、エンリコはやれやれと軽く溜め息を吐いた。




