二十七、停戦
「今陣を張ってるルシヨンの城外市を基点にして、そこからルオマとの国境までにある領地全部だ」
空位二十三年初秋の二十九日。停戦協定を結ぶために設けられた話し合いの場にて、エスパラム側の代表者ヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルクは、開口一番にその要求を告げた。
対してラ・フルト側の代表者である宰相ジルベール・ドゥ・リュペ伯爵は、当然のこと首を縦には振らなかった。ルシヨン以東の全領地など、そんな要求を呑めばラ・フルト侯家は領地の五分の一近くを、何より侯家の台所を支える大穀倉地帯、オートゥリーヴ平野を失うことになる。劣勢によって募る臣民双方の不満はいよいよ抑えられないほどに爆発し、領内は敗北するのとさして変わらない危機へと陥ることになるだろう。まず常識的に考えて呑めるはずのない条件なのである。
故に宰相は毅然として答えた。
「そのような要求は呑めませんな。もし今述べられた無理難題が停戦の条件と仰るなら、此度は双方にとって実のない会合であったと判断せざるを得ません。貴殿らの方に剣を納める意思がなければ、我々にも城と民を守るため五年、十年と戦い続ける覚悟があること、よもや忘れているわけではございますまい」
ジルベールは髭をいじる手で口元を隠しながら、緊張に乾く唇を湿した。嘘ではない。確かに覚悟はあるし、現状を維持できればルシヨンが落ちることはないとフランシェヴィル伯も言っているのだ。
しかし、現に城の眼前まで攻め上られている立場でありながら、それも歴戦の武将を相手に、いささか強気が過ぎたのではないか、と不安になる気持ちも正直なものだった。戦場で幾人もの兵士を屠り、その度に勲と死体の山を築いてきたと噂される傭兵隊長の鋭い眼光に射竦められて、指先は自然と震えてしまう。根の合わない歯で声まで震えてしまわなかったのが、むしろ上出来と言えた。父祖の代から文官家系の宰相にとって、対座する相手の存在は人を食らって糧とする聞くも恐ろしい魔獣と変わらないのである。
本音を言うならそんな恐ろしい相手と直接対峙しなければならない交渉役になどなりたくはなかったが、それでも宰相は折れるわけにはいかなかった。決して下手に出ないことがこの会見に臨むに際してアレイラック伯が出した命令の一つであったし、それが主君の代理を預かり、ラ・フルト侯家の全てを背負う役目を仰せつかった者の意地でもあったからだった。
果たして、白狼ヴァルターは少しの間を空けて答えた。
「じゃあ、シャットから東でいいぜ」
「え?」
卓上に用意されている地図を指差して、ヴァルターは続けた。
「シャット、メオドール、エシロン。この三つの街とその一帯がうちの取り分。それ以外はこれまでどおりあんたらの領地ってことでどうだい」
ジルベールが思わず目を丸くしてしまうのも無理はなかった。聞き間違いでなければ、今相手は最初に要求したものの半分以上を取り下げたことになる。加えて、シャット以東の三市だけならアレイラック伯が許容する譲歩の条件も十分に満たしているのだ。宰相は何度も地図上に視線を走らせ、次第にその顔を健康的な色へと変えていった。
「んん、なるほど、それならば了承できないこともありませんな」
答える声が自然と弾んでしまうあたり、彼には本当にこの手の交渉が向いていないようだった。ただ相手の出した条件を鵜呑みにしたに過ぎない事実も、ジルベールの中では敵の手に落ちかけたラ・フルトの領地を五分の一も守ったくらいの達成感に変わっていた。オートゥリーヴ平野が取り返せるならこれ以上を望む必要はない。欲をかいて交渉そのものが白紙になってしまうかも知れない危険より、今の有利な条件で手を打つ方が賢明ではないか。
駆け引きに長けた者なら更なる好条件を引き出そうと試みて良い場面だったが、ジルベールにそのような考えは毛頭なかった。あまつさえ、満足げな宰相は白狼の要求してきた三市がルオマとの国境からオートゥリーヴまでを最短の距離で結んでいる事実に気づかないまま上機嫌で話を進めにかかった。
「それで、停戦の期間についてですが、とりあえず二年ほどということで宜しいですな」
「こういう場で冗談は関心しねえな、宰相さん」
口角を上げる傭兵隊長は、可笑しさなど微塵も感じていない目で初老の宰相を見据えた。
「そんなに長い間休まされたら俺の商売上がったりだ。二年も待つ必要はねえ。半年だよ、半年。秋冬休んで次の春にまた再開といこうや」
有無を言わさぬ迫力に、一転ジルベールの顔は血の気を失った。
「い、いや、待たれよ。そういうわけには」
いかないのである。戦争によって乱れた領内に秩序を取り戻し、来るべき再戦のための体制を整えるのに少なくとも一年、可能なら二年以上の時を要するとは、対エスパラム作戦の全権代理者たるアレイラック伯と、未だルシヨンに留まり主都防衛の陣頭指揮を担う北方元帥フランシェヴィル伯に共通する見解だった。
折角領土を守っても、ろくに準備する間もなく戦争が再開されては意味がない。ジルベールは緩みかけていた気を引き締め直して身を乗り出した。
「半年というのは、余りにも性急過ぎるのではござらんか」
「さっきといってることが違うんじゃねえか? 五年でも十年でも戦い続けるんだろ」
自身の弄したはったりに首を絞められ、宰相は言葉が継げない。ヴァルターは畳み掛けるように続けた。
「幸いこっちもそんくらいなら付き合える蓄えはあるぜ。そもそものきっかけが何だったかなんて忘れちまったが、この際だからお互いに納得がいくまで、とことんやり合ってみようじゃねえか、なあ宰相さん」
「む、いや、その、確かにそれも一興ではござろうが、しかし」
しどろもどろに異を唱えるジルベールの顔は、途端滝のような汗に覆われ出した。あくまでも強気な姿勢を維持したまま、相手の要求を取り下げさせるにはどうしたら良いのか。過去に経験のない困難とそれに伴う緊張とが、平素決して無能ではない宰相の理解力を幼児ほどにも低下させる。
助け舟を出したのは意外にも交渉相手だった。
「それも困るってかい? 我がままだね、あんたも」
相手のわかり易い狼狽振りに苦笑したヴァルターは、一見親切な風を装って宰相に提案した。
「都合が悪いってんなら、一年で折れてやってもいいぜ。もちろん条件付きだがな」
「その、条件とは」
藁にもすがる思いで尋ねるジルベールに、ヴァルターを指を一本立てて答えた。
「なに、難しい話じゃねえさ。停戦の間、エスパラム公の邪魔をしないこと。うちが要求すんのはそんだけだ」
なんだそんなこと、と安堵するジルベールに、ヴァルターは一転目元から朗らかさを消し、凄みを利かせたやや低めの声で続けた。
「想像力を働かせろよ。邪魔をしねえってのはエスパラム公の敵の手助けもしちゃいけねえってことだぜ? もし破ったら一方的な協定の破棄ってことで、俺たちはすぐまたここまで飛んで来る。今度も無事逃げおおせるなんて、甘い考えは捨てるこった」
ジルベールは肯いた。ヴァルターの要求する内容について深く考えることも抗弁することもせず、ただ肯くことしか出来なかった。
その後いくつかの細かいすり合わせを行い、誓約書の作成と署名、押印が行われると会見は終了した。
時間にして二刻あまり。急遽設けられた話し合いの席は、終わる時もまた迅速だった。
話がまとまると白狼隊の行動は早かった。会見の最中にも撤収作業と隊を離れる者たちへの給金の支払い等の事務処理は進められ、同日の夕刻には長らく我が物顔で占拠していたルシヨン城外市をすっかり後にしていた。
急ぐのには理由があった。ルシヨン城外市並びにオートゥリーヴ平野からの即時退去。それが停戦に際してラ・フルト側が通すことが出来た数少ない要望の一つだったからである。
これが適わなければまたぞろ膝突き合わせてしち面倒臭い話し合いの場に出向かなければいけなくなるだろう。それも今度は相手の要望を叶えられなかったことを詫びる立場で。折角都合の良い形でまとまった停戦をこちらの怠慢で棒に振ってしまうのも馬鹿な話だ。思うからこそヴァルターは全軍に速やかな撤退を指示したのだった。
空位二十三年初秋の二十九日の夜はルシヨンから十里ほど離れたオートゥリーヴ平野に野営し、翌三十日の昼前には平野を発ってシャット男爵領内の宿場街まで、白狼隊は急ぎ足で駆け抜けた。同日の夕刻、事前の連絡を受けてその近隣に待機していたハインツの率いる輜重隊と合流すると、エスパラム公軍ブリアソーレ方面部隊の大半(総数一万弱)は、ここに至ってようやくここ一ヶ月あまりの間傍若無人の限りを尽くした荒んだ戦場の空気から解放されることになった。
大半、と表現するのは、その面子の中にライナー・ランドルフをはじめとした白犬隊の面々やその他百名ほどの姿がないためである。同日の同時刻、彼らはヴァルターの命を受けてラ・フルト侯領を南に向かってひた走っていた。その隊列の先頭には弓兵頭エイジ・ナイトーの姿もあった。




