二十六、二通の文
古来より勇武は騎士の誉れなれば、卿らが戦にばかり逸りたる様も君とて知らるなり。
然れど騎士たるの勤めは唯勇武のみを以て誇るものにあらず。古人曰く、勇武のみを持ちて忠を持たざる狼、忠のみを持ちて勇武を持たざる犬に及ばず、と。過ぎたるを咎むるは詮無き事と雖も、眼前の首級を誇るより前に、騎士たらん、臣たらんを欲すれば如何とすべきか、今一度思うべけん。
幸いにして君危地を脱したるも、機運すでにして我が手を離れたるを悟りける。征途半ばにして絶えざるを得ず、遺憾ながら来る冬を期しての合一叶わず。
再起を来春に期すれば、卿らの任自ずから知らるべし。敵地にて留まり、自在に考え、過ごして、以て君の来着を待つべし。槍の功を誇りたしとぞ思いたりければ、陣中にて冬を越すこと、卿らの勤めと心得るべし。
空位二十三年初秋の二十八日。ブリアソーレに在任している軍監、カリスト・デ・ベレイマは文面を目で追いながら自然に眉根を寄せた。内容が理解できないわけではもちろんない。彼にとって不可解なのはエスパラム公がこの文を出した意味だった。
机上には同じような封筒に入れられていた同じ相手からの文がもう一通。それが彼の元に届けられたのは、今しがた目を通した封書より一刻ほど前のことだった。
何かの手違いでどちらかの飛脚が遅れたのかとカリストは考えた。しかし、文面を見ればその線はなかった。先に届いた文と後のものとでは内容がまるで違うからだった。
先着の方の内容は短く簡潔なものだった。遠く領地を離れての勤めをねぎらい、戦働きを賞賛して、引き続き勤めを果たすようにと、ありきたりでよく見る類の業務連絡である。
カリストは改めて双方を見比べてみた。筆跡は同じ。蝋印も間違いなく、エスパラム公家のものだ。宛ては双方ともブリアソーレ執政府にとなっており、後着の方にのみ書面に城代と軍監の名が明記されているが、文面の内容を鑑みれば蝋印だけで事足りると判断したのは不自然ではない。試みにかざして見るも、やはり違いは、
「……?」
不意の違和感がカリストの手を止める。彼は注意深く紙面に顔を寄せた。
ほんの微かに、違いがある。異なっているのは匂いだ。今一度すがめて見ると、理由がわかった。使われている墨が違うのだ。先に届いた方の光沢は、彼の審美眼が正しければ高級品のはずだった。
カリストはエスパラム公と言う人物のことを思い返した。元々商家の出である彼の主君には無駄を厭う性質があった。平素から手間と資源の浪費を惜しんで印章の使用を推し進めてきたような人が、まして戦場から出す文に高級品の墨をわざわざ使うものだろうか。
先着した封書はエスパラム公によるものではない、とカリストは仮定した。紙も封蝋も広く流通しているありふれたものだ。公家の刻印とて長らく使われているものだから偽装するのにそれほどの労は要さないだろう。特徴的な筆跡はかえって偽装を巧妙にする助けになっていた。見慣れた字でエスパラム公の名が書かれていれば、よほどおかしな内容でない限りは疑いを持つこともないのである。
偽書と思われる方を机に放り、カリストはすぐさま筆を手に取った。エスパラム公から連絡があったこと、そして作戦計画が来春まで延期となったことを前線に伝えなければならない。非難の調子も明らかなエスパラム公の書状を添えれば、城代殿も口答えなどせんだろう。一息に簡潔な報告文を書き上げると、主君からの書簡と共に封に入れる。
後は封印して使いの者に渡すだけでいい。それだけなのに、カリストは何故か封筒を持ったまま手を止めた。今一度エスパラム公からの文を取り出してその文面を再度検める。心に降って湧いた疑問は、よりはっきりとした形を伴って彼に自問を促した。
何故、エスパラム公は我々を非難しているのだ?
カリストは不意に思い立って書棚をあさった。引き出しを開け、目当てのものを取り出す。それは開戦の前後まで頻繁に届いていたエスパラム公からの書状だった。几帳面にも日付ごとに整理されたそれらを一枚ずつ確認する。紙面を睨み、鼻を寄せ、一枚一枚より分けていった手は、晩夏の半ばで止まった。晩夏の十二日。この日を境に墨は高級なものへ変わり、十七日付けの文を最後に、以降はぱったりとエスパラム公からの連絡が途絶えている。
脳裏をよぎる恐ろしい可能性にカリストは戦慄した。連絡が途絶えた、いや、途絶えたと思っていた一月あまりの間も、実際のところエスパラム公は書状を送り続けていたのではないか。公が書状の中で言及している危地とは、それを知らずに一月もの間我々ブリアソーレ方面軍が勝手な行動を取り続けてきた結果なのではないか。
もしそうだとしたら、彼らはこの書状を偽造した人物の掌の上でまんまと踊らされていたことになる。作戦計画の遅れもブリアソーレ方面軍、より正確には書状を直接目にすることが出来る立場にあった軍監カリストの失態と判断せざるを得ない。なんとなれば城代ヴァルターは前線に立ち、指揮官としての勤めを果たしている。偽書の可能性に気づけなかったのは明らかにカリスト一人の不手際だった。
カリストは歯を軋らせた。自身の経歴に、取り繕いようもない汚点がはっきり記されてしまったことを痛感する。何よりも職務を過たず全うすることに誇りを持っていた彼にとって、それは堪え難い屈辱だった。
明晰な頭脳が早くもこの作戦の長期化によって生じる損失を試算する一方で、カリストにはどうしても解せない点が二つあった。
この文書を偽造した相手は何故墨の品質にこだわらなかったのか。そして、何故今更になってエスパラム公からの本物の書簡をこちらの手に渡らせたのだろうか。
筆跡にも印章にも紙にもこだわるような人間が、墨の質にだけ抜かりを見せるとは考えにくい。また同様に、本物の書簡が偽書と同じ日に届いたことにも相手方の作為が働いていると見て間違いなかった。
何故、自ら種を明かすような真似を?
カリストは考えたが、一向にその疑問を解決することはできなかった。その疑問について考えることが、自身の失敗から目を背ける逃避行為でしかないと彼自身気づいているためだった。
その間にも彼の頭の冷静な部分はすでに本来すべきだった試算を終えていた。予想される損失はナバーリャの税収に換算しておよそ十年分。エスパラム公領全体のそれと比較しても二年分に相当するほどの額だった。
さらに言えば、出費はそこで終わるわけではないのだ。仮にルシヨンを落とせたとしても、その損失を取り返すのにどれだけの時間を要するのか、ラ・フルト全土を征服するのに一体どれだけの時間が掛かるのか、カリストには想像もできない。今冬の包囲が完成していればさしあたっての損失だけでもその半分程度で済んだことを思えば、彼の過失は決して軽くはないのだった。
どうして気づけなかった。いや、どうして、今頃になって気づかせるようなことをするのだ。
歯噛みするカリストは、長い時間をかけてようやく理解の糸口を見つけた。
気づかせた、と言うことは、こちらが気づくことによって相手は何らかの利益を得られると言うことだろうか。ならばその利益とは何だ。相手が求めるもの、こちらが与えられるものとは……。
再び長い沈黙と思考の末、残った心当たりは一つだけだった。まさか、いやしかしと、カリストはその結論を何度も否定しようとした。導き出したその答えが、自身の誇りをいたく傷つける未来を彼に想像させたからだった。
しかしながら、一度見出してしまった解答は、彼の中から決して消えることがなかった。まるで他の選択肢などないかのように、その決断こそが彼の運命だとでも言うかのように、いつまでも彼の心に居座り続けるのだった。
不意の訪いが、彼を現実に引き戻した。軽快な音が数度響き、木戸の向こうから声が続く。
「軍監殿、よろしいですか?」
「どうぞ」と答えると、すぐに戸が開いた。現れたのは白狼隊事務役兼ブリアソーレ執政次官のアマデオ・ルッフォだった。アマデオは何やら難しい問題を抱えているといった様子で頭をかきながら、言いにくそうに訪問の理由を告げた。
「あー実は軍監殿に客というか、使者が見えてるんですが」
歯切れの悪い言いようにカリストは眉根を寄せた。重要な考え事を邪魔されて、苛立ちも露わに尋ねる。
「何だと言うのです」
「それが、その、相手っていうのが、ラ・フルト侯の使いだと名乗ってまして」
その言葉を聞いた瞬間、カリストの表情に現れた微かな変化が、アマデオには意外だった。軍監は軽く咳を払い、「なるほど」と答えた後でアマデオに命じた。
「お通ししてください。こちらまで」
「は、はぁ、じゃあ、そうしますが」
答えて退室するアマデオは腑に落ちない思いで使者を待たせている応接の間まで引き返した。
戦争状態にある敵国の使者がいきなり訪ねて来たにしては、いやに冷静だな。
胸中に抱いた小さな疑問を、アマデオはさして気に留めなかった。本質的に善良な人間である彼には、その意味するところは理解の外だった。




