二十五、君主の望みし忠勤
バルティエ子爵領の本城、大鷲城に急な来客があったのは、空位二十三年初秋の二十八日。三分の一ほど欠けた月が、それでも十分な輝きでもって地上に光を落とす夜のことである。
頭巾のついた濃紺の袖なし外套に身を包んだ男は、誰何する番兵に対して自身をラ・フルト侯の使いだと名乗った。城代フレデリク・ドゥ・シャロンはこのような時刻に訪ねて来た使者を訝りながらも丁重に応接の間へ通す。
と、一対一で対面するなり、男は懐から封書を取り出した。宛名はないが、封蝋には確かにラ・フルト侯家の家紋が刻印されている。フレデリクは内容を検めた。文面はまず短い時候の挨拶に始まり、日ごろの勤めに対するねぎらいの言葉とルシヨンの近況を綴った後、本題をこう続けた。
――臣の忠勤を賞し、ビフからエシロン、ヴィルランからシャットの一部の封土と伯爵位を授与す。ガルデニア王家の恩寵によるラ・フルトの領主、並びに臣民の統治者、法を遵守する者にして王家の騎士、シャルル一世。
フレデリクはまず驚いた。次いで使者を見、書状をもう一度頭から読み直し、自分の理解に誤りがないことを確認すると自然に口元をほころばせた。
驚きと、そして喜びには理由があった。
バルティエ子爵家は二年前の「ジャコモ・レイの乱」以来微妙な立場に立たされてきた。発端となったのは乱の折、バルティエ子爵アンゲランが主家の命令に背いてルオマへの出兵を断行したことにある。結果的に反乱平定に尽力した功績が評価され、バルティエ子爵はラ・ピュセル侯の指名でルオマ南部の大都市レノーヴァ総督に任じられることになったものの、臣下が自身より大身となることが主家たるマンス伯にとって面白かろうはずもない。アンゲランのレノーヴァ総督職就任と前後して、マンス伯との関係はあからさまに悪化していった。
アンゲランの側にも言い分はあったが、マンス伯はその言い訳に耳を貸そうとしなかった。主の頑なな態度は、自身の正しさを疑わない子爵の方もまた意固地にさせた。彼は伯の招集や命令を無視することで自らの意思を表明したのである。伯領との境に支城を築き、税は直接ラ・フルト侯に納めるようになった。子爵領からマンス伯領以外へ通じる街道の関税を大幅に減額すれば、本来伯領で取引されるはずだった物品の数々は他所で捌かれることになった。反目と対立は程なくラ・フルト侯の耳にも入り、幾度かの仲裁にもかかわらず両者の関係が修復される兆しは一向になかった。
やがて度重なる小競り合いからついに武力衝突へ至ると、子爵側の思わぬ精強さに手を焼いたマンス伯はラ・フルト侯に泣きついた。事態を重く見たラ・フルト侯は、マンス伯の訴え「バルティエ子爵の忠誠義務違反」を是とし、侯自らの指導の下バルティエ子爵の領地召し上げを決定した。
ところが、時を同じくしてエスパラム公軍の侵攻が始まった。すぐさま対応に追われることになったラ・フルト侯は、領内のいざこざなどにかかずらわっている余裕をなくした。そして戦況の悪化がラ・フルト侯領内の混乱をそのまま継続させ、今以てバルティエ子爵への仕置きは中断されたままなのだった。
そんな折の封土と爵位の授与は、子爵領を守る留守居役のフレデリクにとって正しく晴天に霹靂を見る思いだった。ラ・フルト侯が自ら書状を寄越したと言うことは領地召し上げの処置について考えを改めたと言うことだ。その上、伯爵位を受けマンス伯と同格になれば、彼が大義として掲げる「忠誠義務違反」は全く根拠をなくしてしまう。主家を悩ませる問題の解決を見て、フレデリクはもちろん喜ばすにはいられなかった。
「これは、願ってもないお話。我が主バルティエ子爵もさぞお喜びになることでしょう」
「ふむ、結構なことにございますな」
「早速明朝にでも使いを出し、この旨ルオマに居られるバルティエ子爵の元にお伝え申し上げます。使者殿、遠路ご足労頂きまことに大儀でございました。寝所を用意させますゆえ、今宵はゆるりとお休みください」
「いや、これはかたじけない。ありがたくご好意に与らせていただきます」
使者は一度丁重に頭を下げた。しかし、すぐに上げた顔には感謝や喜びを表現するのとは別の類の笑みを浮かべていた。
「しかしながら、無礼を承知で申し上げるならば、使いをお出しになるのはしばし待たれた方が良いかと存じますが」
言葉の意味するところが読めないフレデリクは率直に尋ねた。
「それは、何故に?」
「今一度封書をご覧ください。おかしな点はございませんか」
言われて、再び封書を検める。文面に不審な点は見当たらなかった。しいて挙げるなら本文と署名とで筆跡が異なるところくらいだが、ラ・フルト侯ほどの身分ならば祐筆が文書の作成を代行することなど不自然でもない。書状以外の何かが収められている様子もないし、封蝋の刻印も、やはり間違いなくラ・フルト侯家のものだ。
フレデリクは顔を上げた。使者の男は変わらぬ笑みで城代の無言の質問に答えた。
「小生がラ・フルト侯より承った任をお教えしましょう。その書状を大鷲城へ届けるようにと、それだけを仰せつかって小生は参りました。何もバルティエ子爵に届け出る必要などないのですよ。封書にも本文にも、宛名などないのですから」
「これは異なことを。大鷲城は代々バルティエ子爵家の本城ですぞ。大鷲城に届けよと仰せなら、つまりそれは、バルティエ子爵に届けよとの意に相違ありますまい」
「それならばそのように記載されてしかるべきでしょう。文面に一度でもバルティエ子爵の名が出ておりましたか? 閣下が忠勤を賞しておられるのは、この万難著しい状況下で、遠く領地を離れて他国での政務などにご執心なされているバルティエ子爵のことだと?」
フレデリクは息を飲んだ。不意の緊張が言葉を詰まらせる。
「いや、しかし、だからと言って、届けなくてよい理由には」
使者の男は口元から笑みを消し、芝居がかった仕草と共に溜め息を吐くと、やや眉根を寄せて切り出した。
「実を申しませば、ラ・フルト侯閣下はバルティエ子爵に対し不信の念を抱いておいでです。ルオマに総督の地位を与えられれば飛びつくように親類共々居を移し、領地のことなど省みないその態度。加えて主家たるマンス伯家との度重なる対立。領内に徒な混乱を招いておきながら一向に改善する兆しの見えない彼の所業には法の下による裁きも必要ではないかと、つい先日まではお考えになられていたようです」
フレデリクは口を挟まなかった。相手の主張する一つ一つに対して、適切な反論を思い浮かべることが出来ないためだった。総督就任の話が出て早々に父母や妻子を伴ってルオマへ転居したことも、そのために領地の経営全般はフレデリクの裁量に一任されていることも、また、バルティエ子爵アンゲラン当人にマンス伯との関係を改善する意思がないことも、全てが何の脚色もない事実である。当事者のフレデリクにはそれを認めざるを得ない実感があった。
男は頭を振り、フレデリクの目をまっすぐ見た。口元には微笑が戻り、続く声は先ほどまでとは打って変わって明るい。
「しかし反対に、シャロン卿、貴殿のことは大層高く評価されております。バルティエ子爵に任された留守居の役を忠実に務め、領地の防衛にあたっては同胞と剣を交えることになっても任を果たそうとする真摯な姿勢は正しく騎士の鑑。出来るならばシャロン卿、貴殿のような方にこそ正騎士の爵位はふさわしいと、ラ・フルト侯閣下はしきりに口にしてはばかりませんよ」
「何と、閣下がそのようなことを」
声を震わせるフレデリクはその感動を分かりやすく態度に表した。アンゲランに忠誠を誓う身とは言え、雲の上の存在とも思っていた相手から悪くない評価をされたのだから嬉しくないはずもない。権威主義の傾向が強い貴族社会において、目上の者からの賞賛は神の言葉に等しい効果を持っているのだ。
感に堪えないといった様子のフレデリクに、少しだけ声を潜めた男は駄目押しの言葉を続けた。
「これはあくまでも小生の推測ですが、いずれ議会の承認が得られればまず間違いなく正式な打診がなされることでしょう。もちろん当家にとってあまり喜ばしいことではございませんが、このところ負け戦続きで正騎士の数にも空きが生じてしまいましたからな。ええ、間違いありませんとも」
「いや、そんな、小生ごときが正騎士など、おこがましい」
「ご謙遜なされますな。貴殿のご活躍はルシヨンでも語り草になっているのですよ。数に勝るマンス伯が一度だってバルティエ子爵の領地を踏めなかったのは国境を守る貴殿が見事な用兵で彼の軍勢を手玉に取ったからだ。そうでしょう?」
これでもかとおだてられて、フレデリクは悪くない気分に浸った。実際にはアンゲランの座すレノーヴァや、密かな協力関係にあるブリアソーレのエスパラム軍からかなりの支援を受けていたので、マンス伯との戦力差はないに等しい、と言うよりむしろバルティエ子爵家側の方が様々な面において有利な状況での戦いだったが、望外の喜びがフレデリクにそれらの事実を忘れさせていた。
しかし、フレデリクの上機嫌も長くは続かなかった。彼をおだてた張本人が、不意に微笑を苦く曇らせて言葉を継いだのである。
「ただそれだけに、此度の一件には閣下もひどく心を痛めておいでのご様子です」
「こ、此度の一件とは」
「まだ聞き及んでおられませんでしょうが、エスパラム公軍とはすでに停戦の調停が進んでおります。早ければ両日中にも話がまとまり、遅くとも来月中には撤兵が完了するでしょう。まあ、いかに好意的な評を下すとしても、我らの敗北は覆りませんでしょうが、いずれにせよ戦が終わればこの戦によって生じた諸々の問題に始末をつけなければなりません。消耗した武器兵糧軍馬等の補充、失った人員の補填、困窮する民草への援助に破壊された街並みの修繕、そして、敗北の責任を追及し、しかるべき者を相応に処罰することも」
上目遣いの視線と同時に口に出された最後の一言が、フレデリクにつばを飲み込ませた。男はつとフレデリクから目を逸らして続けた。
「今現在、ラ・フルト侯家が立たされている苦境の主因は緒戦の敗退にあると、ルシヨンではもっぱら取り沙汰されております。オートゥリーヴでの敗戦がなければ、懐深くまで敵の侵入を許すこともなかったはずだ、つまり、彼の地に敵を招いてしまったことにこそ敗因があるのではないか、と。そう結論付けてしまえば議題は自然一つの疑問へと導かれます。敵がオートゥリーヴまで進攻しようとしているまさにその時、道中の領主たちはいったい何をしていたのか、という疑問へ」
自身の鼓動が早くなるのを、フレデリクは止められなかった。下げたままの顔を上げることもできなかった。今男と目を合わせてしまったら、騎士の鑑などと賞されたフレデリクは話すべきでないことまで洗いざらい話してしまいそうだった。
男は伏し目がちなフレデリクに視線を戻して続けた。
「ルオマと境を接するマンス伯の証言はこうです。敵が動き始めたと思われる昨月の初め、我らはバルティエ子爵家との小競り合いのため国境の警備に人員を割けなかった。しかしながら、もし敵が我らの領地を侵さんと迫れば何をおいても対抗していたはずである。それではその件に関して、バルティエ子爵家としての申し開きはどうです? 敵の軍勢は一万余り。ルオマの国境からオートゥリーヴまではどれだけ急いでも二日はかかります。一万もの軍勢が国境を越えて領内に侵入しているのに、まさか気づかなかったとお答えになるつもりではございますまいな」
男はフレデリクの反応を待つように二呼吸ほど口を閉じた。その間、フレデリクは何も答えなかった。いや、何も答えられなかった、と表現するのが正しい。男がフレデリクに対して投げかけた問いは、バルティエ子爵アンゲランとその命を受けて行動したフレデリクの罪を正しく浮き彫りにしていた。
実際、アンゲランもフレデリクも、エスパラム公軍が自分たちの領地を通過していることにはもちろん気づいていた。そして正に男が疑っているとおり、その情報をラ・フルト侯の元まで届けることをしなかったのだった。
なんとなれば、それがブリアソーレのヴァルターと交わした盟約だったからである。
ブリアソーレ城代ヴァルター・フォン・エッセンベルクは、マンス伯に対抗するための支援を行う見返りに領地の安全な通行を要求してきた。もちろんそれが意味するところが分からないアンゲランではなかった。そしてフレデリクはもとよりバルティエ子爵アンゲランも自身の立場を忘れたわけではなかった。直接的なつながりはなくとも、またマンス伯との仲がどれだけこじれても、彼らがラ・フルト侯家に属する人間であることに変わりはないのである。故にアンゲランは当初その要求に対して難色を示していた。
ところが、状況の切迫に伴って彼は考えを改めた。切迫する状況とはマンス伯の動向だった。バルティエ子爵の反抗的な態度に業を煮やしたマンス伯は、とうとう近隣の領主を巻き込んでバルティエ子爵討伐の兵を募り出したのである。
真面目なアンゲランはすぐラ・フルト侯家に異議を申し立てたが、ラ・フルト侯家はアンゲランの期待する答えを返してはくれなかった。ろくに事情を調べもせず、「臣下が頭を下げるのが筋である」の一点張り。当時のルシヨンはすでに動きを見せていた西方の戦線が忙しく、陪臣の訴訟問題などに取り合う暇がないのだった。
ここに至って他の誰も頼ることができないと悟ったアンゲランはヴァルターとの結託を決断した。この選択がラ・フルト侯家に看過できない害をもたらすであろうことは容易に予想できる。しかし元を糺せば筋を違えたのはマンス伯の方なのだ。もし、これから先、苦境を強いられることになったなら、その責任はマンス伯こそ追うべき義務があるのだ。
客観的に見れば彼の行いは明らかな反逆行為であり、罰せられてしかるべき罪である。しかしながら、決断した当の本人は決して自己の正しさを疑わなかった。要するに彼は、自らの正しきを貫くために、主家に生じ得るあらゆる不利益から目を逸らしたのであった。
その結果がもたらした現実を直視すれば、アンゲランにも自身を責める罪の意識が芽生えたかも知れない。しかし今、アンゲランは遠くルオマの地に赴任しており、ラ・フルト侯の使者から詰問を受けているのは城代のフレデリクただ一人なのだ。
男が問うたまま、フレデリクが答えないまま、長い沈黙が応接の間に漂っていた。さほど暑いわけでもないはずなのに、フレデリクの額にはじわりと汗がにじんでいた。男は再び口を開いた。
「信じたい、とラ・フルト侯閣下は仰られております。シャロン卿、貴殿の働いた利敵行為が、貴殿自身の意思によるものではなく、バルティエ子爵の命を忠実に守ったゆえの行いであると。もしそうでないとするなら、閣下はラ・フルトの統治者、法の執行権を有する者として、貴殿のような得がたき騎士を罰しなければいけなくなります。無論ご承知のことと存じますが、停戦が成ればラ・フルト侯領の統治に関わる問題にエスパラム公は口出しすることなどできません」
再び重い沈黙が戻ってきた。呼気が気流を生んでいるのか、蝋燭の作る薄明かりがゆらゆらと不規則に室内に落ちる影を躍らせる。
やがて、フレデリクは口を開いた。
「……閣下は、私に何を望んでおられるのです?」
「書状に何と記されていたかお忘れですか? 閣下がお望みなのはただ一つですよ。忠を尽くし勤めを果たす、優秀な騎士、それだけです。バルティエ子爵ではなくシャロン卿、貴殿のような」
一陣の秋風が立ち込める雲を運び、俄かに月光を遮った。窓外に響く木々のざわめきは、闇に包まれた大鷲城の一室で交わされた密談を決して外には漏らさなかった。




