二十四、希望も救いもなくても
ボリスはほんの一刻ほどの間、撤収の準備で慌しい白狼隊陣地を徘徊した。すれ違い、行き交う人々の半分くらいは見知った顔だったが、もう半分は全くの他人だった。そしてそのどちらにも、所在無さげにさ迷っているボリスに声をかける者はいなかった。
結局、ボリスが足を向けたのは厩だった。彼の愛馬アマニだけが、彼の存在を喜び、歓迎してくれるはずだった。
ボリスの予想は外れた。彼が厩を見つけた時、そこにいた先客はボリスの姿を見て自然に優しい笑みを浮かべたのだった。
「ボリス」旅装のエイジは水桶を下ろして大きく手を振った。「アマニがつながれてたからそうじゃないかと思ってたけど、いつ帰って来たんだ? 輜重の皆は」
「さっきだよ」ボリスは平板な声で答えた。「つい、さっきだ。連絡がないから俺一人で様子を見に来た。他の連中はまだ砂漠にいる」
「そうか。ちょうど良かった。入れ違いになるところだったな」エイジはなお屈託のない笑顔で続けた。「あ、停戦することになったって聞いたか? それで、もう避難する必要もなくなったから呼びに行こうと思ってて」
エイジの言葉はその内容の半分もボリスの耳に入らなかった。暗く沈んだボリスの視界には、ただ嬉しそうに語るエイジの姿だけが映っていた。片や憂鬱な仕事の終わりを喜ぶエイジは、そんな友人の様子に気づかなかった。
「で、帰ってきたばっかりのところ悪いんだけど、代わりに行ってくれないかな? この前の戦でハナが少し怪我しちゃって、平気そうに見えるんだけどあんまり無理させたくないんだ」
「怪我」ボリスは抑揚のない声で繰り返した。「大変だったんだってな」
「ん?」
「やられたんだろ、うちの隊のやつらも」
「ああ、まあ」エイジは微かに表情を曇らせた。「でも仕方ないよ。傭兵ってのはそういう仕事だろ」
その声に暗さはなかった。努めて明るく振舞っているわけでもないようだった。出かける予定のあった朝に屋根を叩く雨音でも聞いたような調子で、エイジは続けた。
「急な編成で対応することになった歩兵に比べればうちはまだマシな方だよ。その歩兵にしても、古参の中に戦死はなかったみたいだし上出来でしょ」
あの戦闘からすでに七日。彼の中で、仲間の死を悼む時間はとうに終わっているのだった。無理にでも気持ちにけりを着けなければ前には進めない。冷酷かも知れないが、場慣れしている者ほどエイジと同じように上手く気持ちを切り替えていた。祈りを捧げ、埋葬も済ませてしまえば、白狼隊にとってすでに仲間たちの死は過去のものだった。
戦いが日常の傭兵なら自然に身につく割り切り方である。相応の時間を必要とするが、エイジですら身近な死を受け入れることにはすっかり慣れていた。
故に、エイジは気にかけなかった。
「それより、別働隊を呼び戻す件、頼まれてくれるか」
「ああ」ボリスは躊躇するそぶりもなく答えた。「いいよ。俺が行ってくるよ」
「ありがとう、助かるよ」エイジは安堵に吐息を漏らし、ハナの隣につながれているアマニの首筋を慈しむように撫でた。「ラフィークによろしく言っといてくれ。停戦の間に暇があればまた会いに行くって」
曖昧に答えて、ボリスは愛馬の手綱を取った。鞍にまたがり空を見上げると、日はすでに傾き始めている。
野宿を厭うなら急ぐべきだろう。遠路やって来たばかりなのだから、陣中に一泊してから出ても良いはずだった。
しかし、ボリスは愛馬に歩みを止めさせなかった。次第に喧騒が遠くなる。響く足音が惨めに思えた。
「マシな方、か」
ボリスは一人つぶやいた。確かに、そうなのだろう。ドメニコもミケーレも入隊してからまだ日が浅く、特別腕が立つ方でもなかった。彼らに付き合って死んでいった者たちとて、替えのきかない人材というわけではなかったことだろう。白狼隊全体から見れば、また弓兵、弩兵の被ったものに限定しても、上げた戦果に比した場合の損害は極めて軽微なはずだった。
しかし、その軽微なはずの損害は、ボリス個人にとって決して軽くなどない喪失感をもたらしていた。
ドメニコとミケーレの二人はどちらもブリアソーレ生まれブリアソーレ育ち。元は小さな商家の次三男坊でボリスの飲み友達だった。同年代のボリスに聞かされる(虚実入り混じった)武勇伝に憧れて傭兵となった彼らは、ボリスの口利きでその指揮下に入って以来、幾度かの戦闘でささやかながら手柄も立ててきた。
ボリスに比べて才能があり、また向上心もあった二人である。焦らずとも順調に実績を重ねれば遠くない未来に将校の仲間入りを果たしていたはずだったが、神は彼らにその機会を与えたくなかったらしい。
もし、俺がいたら、とボリスは想像した。俺が指揮を執っていたなら、あいつらを死なせずに済んだのだろうか。
そんなことはない。ボリスは即座に否定した。あまりに都合が良くて馬鹿馬鹿しい空想には怒りすら覚えた。あるはずがないのだ。何故って今までの仕事が全て証明しているじゃないか。俺は道具だ。指示されたことを上から下に伝達するだけの、大隊長とは名ばかりの、道具でしかないのだ。その存在が、仲間の生を助けることもなければ、死につながる理由にもならない、ただの道具。
悲しいことに、ボリスはことごとく現実を直視していた。彼の自己評価が正しいからこそ、七日ぶりに見える白狼隊内はいつもの光景を取り戻していたのだった。彼がいなくても勝利を収めることができたし、彼がいてもきっとドメニコとミケーレは死んでいた。多大な戦果と多少の犠牲。同じ隊に属していながら、そのどちらについてもボリスの存在は関わりがないのだった。所詮弓兵頭の伝で今の地位を授けられた、お飾りの大隊長でしかないのだから。
近しい仲間の死が初めてと言うわけではなかった。自身の無力さに空しさを覚えることもこれまで幾度も経験してきた。ただ、偶然その二つが同時に訪れた時、彼の心を苛む虚無感は計り知れないほど大きかった。
何が出来るわけでもないのに、いったい何故生きているのだろう。いっそこのまま消えてしまおうか。
いつの間にか愛馬の足が止まっていることにボリスは気づいた。見るとアマニはしきりに後ろを気にしているようだった。背後から、誰かが近づいてくる気配がする。ボリスは振り返った。
「よぉ」男は息を弾ませながら親しげな様子で話しかけてきた。「あんた、弩兵隊長だったんだって?」
ボリスはまず相手の顔を見、次いで頭の包帯に目をやって思い出した。それは負傷兵の宿舎にいた若者だった。
「じゃあ、俺にとってはかなり上の上官ってことだな。悪かったよ。あんまり立場が違うから知らなかったんだ。いや、すいませんでした、か」
若者が「俺は」と続けようとしたところで、ボリスは馬腹を挟んだ。素直に命令を受けたアマニが歩き出す。若者はすぐに追いかけて続けた。
「俺は弩兵隊所属のアダム・ガレです。この前の戦じゃ歩兵に配属されたけど、本当は弩兵の所属で、って、あ、ちょっと待って」
アダムは慌てて馬竜の横に並んだ。鞭をいれるか馬腹を蹴れば振り切るのは容易だったが、ボリスはどちらもしなかった。無視していればその内諦めるだろうと思ったからだった。アダムは馬上のボリスを見上げて続けた。
「待ってくれよ。あんたに、聞きたいことがあるんだって」
ボリスはアマニを歩ませたまま、視線だけをアダムに向けた。
「あんたと弓兵頭と大食いのペペさん、兄弟ってのは本当なのか?」
「……血がつながってるわけじゃねえ」
白狼隊の入隊には姓名の申告が必要だった。親の代から奴隷のボリスとペペにはもちろんそんなものはなかったから、二人はエイジの名乗る姓を借りて入隊の手続きをした。そのため二年前から、ボリス・ナイトー、ペペ・ナイトーが彼らの公的な名乗りとなっていた。
何も負い目を感じるようなことではなかった。名を貸したエイジが恩着せがましく振舞ってくるわけでも、もちろんなかった。ただ、ボリスにとっては苦い経験であり不快な類の質問であることは間違いなかった。それでも無視出来なかったのは、彼自身どこか投げやりな気持ちになっていたためだった。
「じゃあ義兄弟ってやつか。やっぱそうだよな。見た目も性格もばらばらだし」アダムはしきりに肯いて再び尋ねた。「どういうつながりなんだ?」
「同じ村で暮らしてた。一緒になって村を出た。それだけだ」
ボリスが答えると、アダムは少しの間口を閉じ、何かを考えるそぶりを見せた。そして不意に尋ねる。
「変な事聞くけど、あんたの親父かお袋は、ひょっとしてラ・フルトの生まれなんじゃねえのかい?」
アマニの足が止まった。ボリスが無意識に手綱を引いていたのだった。
「何でそう思う?」
尋ね返すボリスに、アダムは自身の頭を指して答えた。
「その髪とか目とか肌の色見て、なんとなくさ。金髪碧眼と言やあガルデン人の特徴だろ。統一王の征討後、当時辺境だった各地の領主に王家の血筋が納まったから、どこの公爵領でも位の高い貴族ほど金髪の割合が多い。ところが早い時期からガルデン人の移住が進んでた侯爵領じゃ平民の中にだって金髪も碧い目も珍しくねえんだ。顔立ちもそうだし、瞳の色も肌の色も、なんか見覚えがあるって言うか、見慣れた感じがしたんだよな」
ボリスの反応は乏しかった。アダムは気まずさをごまかすように頭をかいて微笑んだ。
「まあ、そうは言っても征討戦争から二百年は経ってるし、今日び戦やなんかの影響で血の入り混じりも多いからそんなに当てになる話でもねえけどさ」
「親父は知らない」ボリスは答えた。「お袋はそうだと聞いている。本当かどうかは知らねえけどな」
何故正直に答えたのか、分からなかった。彼自身、聞かれるまですっかり忘れていたような話である。アダムの弁を聞き、母のことを思い出した。たったそれだけのことで、初め相手に対して抱いていた悪感情が、いつの間にか好感に変わっているのが不可解だった。
思いがけず返ってきた答えに安堵したアダムはまた尋ねた。
「名前は、お袋さんの?」
「エマだ」
間をおかずにボリスが答えると、アダムは聞いたばかりのボリスの母の名前を幾度か口の中で繰り返して、何かを思い出そうとするように頭をかいた。「たしか」とつぶやいたかと思えば「いや、でも」と頭を振る。小声の独り言は次第に大きくなり、やがてアダムは顔を上げて切り出した。
「もしかしたらだけど、俺、あんたの出自を知ってるかも知れない。あんた今いくつだ?」
「二十歳だ」
ボリスは眉根を寄せて答えた。アダムはすぐに続けて尋ねた。
「エスパラムの生まれなんだろ? どの辺りだい? 都市部か、田舎の方か」
「田舎も田舎、南の最果てなんていわれてた場所だよ。それがどうした?」
「やっぱり間違いねえ」アダムは喜びに目を輝かせ、何度も肯いて続けた。「あんたの父親はラ・フルトの貴族だ。俺の地元に領地を持ってた、ベルナール・ドゥ・シャット男爵に違いねえよ」
困惑するボリスに喋る隙を与えず、興奮気味のアダムは早口でまくし立てた。
「二十年前、俺がまだ三つか四つくらいだったころ、あの男爵家でちょっとした悶着があったんだ。何でも御当主様が奥方以外の女との間に子供を作っちまったらしくて、それを知った奥方様がかんかんになってって、まあ大筋はよくある話だよ」
それがよくある話で済まなかったのは、当時結婚して数年を経ていたシャット男爵と奥方との間に子供がいなかったためだった。石女なのではないかと言う噂がしきりに囁かれていた家中では、家令や臣下がそろって意見を合わせていた。
もし、その妾との子供が男だった場合、将来のために引き取るべきではないか。
男だけの話し合いに反対者はいなかった。近く正式に具申しようと、満場一致で話し合いが終わった矢先、事態は彼らの望まぬ方向へ急転した。
「ところが困ったことに、ある日偶然その相談が奥方様の耳に入っちまったらしい。大層お怒りになった奥方様は『不義の子供を家に入れるなんてありえない』と大激怒さ。これを聞いた妾の方が無理やり堕ろされるのを恐れて姿を消しちまったことでこの件は一段落したんだけど、気になるのはその女の消息だよな」
怒れる本妻の手から逃げたい一心の女は領外に安住の地を求めた。男爵の領地を出ても同じラ・フルト侯爵の支配地では安心できないと思ったのか、対エスパラム遠征を控えていたシャット男爵の手引きなのかは定かでないが、とにかく身重の女は西へ向かう隊商に紛れてエスパラム方面へ逃れていった。
その頃のラ・フルト侯家は今よりもずっと勢いがあった。現在エスパラム公が支配しているモンテマリールからランゴーニュの辺りまではラ・フルト侯の領地だった。女は恐らく、その辺りで子供を生んだのだとアダムは推理した。
「あんたの故郷が西でも東でも北でもなく南の最果てだってんなら合点がいくぜ。そのままそこで暮らすつもりだったのか越境してエスパラムに入るのが目的だったのかは分からねえが、その辺りに腰を落ち着けて子供を生んだその女は、エスパラム公の逆襲で領地が取り返されるのをきっかけにエスパラムで暮らすことになったんだな」
そこまで話し終えると、アダムはようやく口を閉じた。返答を期待する好奇に満ちた眼差しでボリスを見上げる。ボリスは内心に大きな高揚を感じながらもすげなく答えた。
「馬鹿馬鹿しい。くだらねえ与太話だな」
信じてみたくなる話ではあった。神の使いだとか王家の血筋だとか、そんな規模の大きな話よりはいくらか真実味があるとボリスも思った。確かに子供の頃、彼の母は御伽話にしばしば聞かせてくれたものだ。「あんたの父親は貴族なんだよ」「戦で何人も相手を倒したすごい騎士なんだよ」と。舞台は決まってラ・フルトだった。その物語の中で彼の父は、悪い竜を退治し、囚われの姫を助け、大きなお城に住んでたくさんの人に尊敬されていた。幼いボリス少年はその勇姿に憧れ、何度も何度も母にせがんで聞かせてもらった。次第にその英雄譚が現実のものなのではないかと思うようにもなったものだった。
現実が分かる歳になると、ボリスはその妄想をしなくなった。まず客観的に見て母は貴族に見初められるような美人ではなかったし、いくらそんな妄想をしたところで厳しい現実が変わることはないからだった。
何よりボリスを覚めさせたのは、周りに自分と同じような物語を聞いて育った者がたくさんいるのだと知った時だった。母親と言うものは、とかく子供に明るい未来を思い描かせたくなるものらしい。自分が勇者や貴族の落胤と言う設定で語られる御伽話は、母親を持つ全ての子供たちが通る道だった。
結局は愉快な妄想でしかない。急激に高まった気分は同じくらいの速さで冷めていった。
しかし、アダムはまだその心を焚きつけようとしていた。
「そんなことないさ、間違いねえって。その女の名前はエマだった。俺はガキのころあんたのお袋によく飴をもらった記憶があるんだ。信じてくれよ」
「どうでもいいぜ、そんな話はよ」ボリスは大きく頭を振った。「大体、もしそれが本当だとしたらどうだってんだ。お袋はとっくの昔に死んじまったし、親父だって、二十年も前に生まれてたかも知れないガキのことなんか覚えてねえだろう。生まれが何だって、今の俺はエスパラムの傭兵でしかねえんだよ」
それも取り立てて長所のない、平均以下の傭兵だ。ボリスは口にしかけた事実を思って余計に空しさを覚えた。もし万が一、今の与太話が全て真実だったとしても、それがボリスの人生を変えることはない。突き詰めた先に救いがないなら、どんな空想も空しさを大きくするだけだった。
アダムはそんなボリスの考えを読んでいたかのように頭を振った。
「そうでもないぜ。確かに、あんたの父親であるベルナール卿はあんたの存在を知らなかっただろう。あんたが生まれてすぐの戦で戦死しちまった時、何も遺言なんかは残さなかったらしいから、そこは間違いない。だが、事実としてあんたは由緒ある貴族の種から生まれた男だ。法があんたの相続を味方してくれる」
眉根を寄せるボリスに、アダムは唇を湿して続けた。
「ベルナール卿が死んだ後、シャット男爵家には当主がいなくなっちまった。未亡人になった奥方様が法に基づいて三百日だけ領地を守ったが、結局その間に新たな領主を見つけられなかったから、シャット男爵領は丸々主家筋にあたるオートゥリーヴ伯が管理することになったんだ。しかし、良い経営振りで領民からも人気があったそのオートゥリーヴ伯も、ついこの間の戦で跡目を残さないまま死んじまったそうだ。オートゥリーヴ伯の命でシャット男爵領を管理していた代官は、あんたらがオートゥリーヴを焼き払った時に死んじまってる。そうなるとシャット男爵領は誰のものになるのか? 簡単な話さ。オートゥリーヴ伯のさらに主君であられるラ・フルト侯閣下がその裁量権を得るんだ。もしラ・フルト侯閣下が法と伝統を重んじる公正な御領主なら、正しい血統による相続を認めないなんてことはないはずだぜ」
ボリスは生唾を飲み込んだ。アダムが何を言おうとしているのか、彼には想像出来なかった。ただ、何故だか無性に胸が躍った。自分が考えもつかないような可能性を、この男は与えてくれるのかも知れない。それは希望ではなく、救いでもないのかも知れなかった。しかし、自身が渇望する何かではある、そんな気が、ボリスにはしていた。
果たして、アダムは誰もいないのに声を潜め、口角を上げて続けた。
「耳を貸しなよ。いい話があるんだ」




