二十三、反省会とこれからの話
ヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルクは空位二十三年初秋の二十八日にブリアソーレより帰還した。くしくもディルクの命を受けて戻ってきたボリスと同じ日であったが、隊長殿の帰還はそれよりほんの二刻ほど早かった。
部下たちの歓迎に上機嫌で応えたヴァルターは、すぐに本陣へ赴いてまず大役を果たした隊長代理を激賞した。「この野郎」と太い腕で相手の首をがっちり脇の下に捕らえながら、乱暴にその無造作な頭を撫で回す。
「随分楽しんだらしいじゃねえか。俺が会いたくもねえやつとしたくもねえ話してる間に」
「隊長殿がいったんだろ、楽しめって。俺は命令に従っただけだぜ」
「生意気いいやがって、こいつめ」
手荒く褒められるライナーとてまんざら悪い気分でもないらしい。抵抗らしい抵抗もせず、されるがままに髪をかき回されている様はまさしく犬のようだった。
ひとしきりいじり終わったヴァルターは、それから代理を支えた幕僚たちを一人ひとり労って回った。よく頑張ったな、大変だったろう、と声をかけ、肩を抱き、まるで自分のことのように喜んで、その働きを称えた。
すわ祝勝の宴としゃれ込もうかと言うところで会計役に渡された帳面は、そんな隊長殿の表情を俄かに曇らせた。すぐさま浮かれ心地のライナーを呼びつけ、ついでに急変した雰囲気を察知できずに逃げ遅れたエイジも捕まえて、どかりと椅子に腰掛けたヴァルターは切り出した。
「首級二千、捕虜三千。敵に与えた損害は概算で一万弱、その内半分が騎兵ときた。こいつは中々、立派な手柄だ。文句のつけようもねえよ」
「まあ、うちもそれなりにやられてるけどな」屈託のない笑顔で頭をかいて、ライナーは答えた。「死んだやつと逃げたやつ、それに大怪我で戦えなくなったやつも合わせれば軽く四千近くいるもんな」
能天気な問いかけは並んで立たされているエイジに対するものである。ライナーはまだ自分が説教をされつつある立場だと言うことを理解していないようだ。
もちろんエイジはそこまで鈍感でもなかった。留守中に発生した問題の中で、何が隊長殿の気に障っているかを考えて予防線を張っておく。
「うちの損害には作戦前後の逃亡もかなり含まれてるから、相手ほど深刻じゃないと思うけど」
「そんなのはいいんだよ、許容範囲だろ。俺が知りてえのはこっちだ」
言ってヴァルターは帳面を突きつけた。帳面には上から下までびっしりと数字の羅列が記されている。目にした瞬間「そっちかー」と心の内で声を上げて、エイジは天を仰いだ。それは隊の軍資金と糧食を記録した一枚だった。
「俺が発つ前、うちには細く長く使っていけば二ヶ月くらいまでは持つ飯があったはずだ。それが何で今こんなに減っちまってんのか、理由を聞こうかライナー君」
「何でって、売っちまったから」
ヴァルターはがくりと肩を落として溜め息を吐いた。
「お前なあ、俺がいったい何のためにこの忙しい中ブリアソーレまで戻ることになったと思ってんだよ」
「飯の催促だろ? もちろん分かってるけど、隊長殿が行って補給が元通りになるなら現地で分捕った分はそんなに大事にしなくてもさ、足りなくなったら買い戻すなり適当に徴発するなりでなんとでもなるし」
「考えが甘ぇ」ヴァルターは大きく頭を振った。「もしまた補給に不備が出たらどうすんだ。敵方が俺たちより高値つけて商人たちを抱き込んだら? 徴発たって無限に飯が沸いて出てくるわけじゃねえんだぞ。俺たちがそこら中から食い物集めて回りだしたら、住んでるやつらは獲られる前に皆逃げ出しちまうかも知れねえじゃねえか」
ライナーは何も反論しなかった。彼にしては珍しい神妙な顔は素直な反省の表れだった。その様子はエイジにも反省の念を抱かせた。諌められる立場にありながらそれができなかったのは彼ら幕僚の落ち度だった。
ヴァルターはいくらか声の調子を和らげて続けた。
「気前良く売りさばき過ぎなんだよ、お前は。縄張りを一歩でも出たら飯のことは常に気を配ってなきゃならねえ。大所帯になったらなおのこと死活問題になるんだぜ、こいつが」
ヴァルターがひらひらと振ってみせるたった一枚の紙が、ライナーとエイジには重かった。目に見えて気落ちする二人に、ヴァルターは帳面を丸めて続けた。
「まあ今回は、そのおかげで勝てたってところもあるみてえだし、幸い飯がなくて困るような状況でもなくなったからいいけど」
その言葉にライナーは顔を上げた。同じ部分が気になったエイジと顔を見合わせ、尋ねる。
「どういう意味だい、そいつは?」
ヴァルターは丸めた紙の束を面白くなさそうに机上へ投げて答えた。
「戦は終いだ。後片付けして、ブリアソーレに引き上げるぞ」
二人は再び顔を見合わせた。思いもよらない答えが彼らの理解を遅らせた。ややあってライナーが尋ねた。
「随分急だな。そりゃ軍監殿の命令か?」
「大筋はな」
ヴァルターは机に肘をついて口角を上げた。鋭い眼光は旅籠の床の染みに不愉快な面相を思い浮かべているようだった。
「あの野郎、俺らのことがよほど気に食わないらしいぜ。散々説明してやったのにまだ居座るのは金の無駄だとのたまいやがった。数を減らして後退の方針を変えるつもりは、どうあってもねえってよ。しかし、金の話をするなら落とせない城のために半端な兵力をいつまでも留めて置くのこそ無駄金だ。得るもんは十分あったし、これ以上何も得られないならすっぱり止めちまうのがよっぽど財布に優しいってもんだぜ」
ヴァルターは立ち上がり、大きく伸びをしながら続けた。
「だから引き上げる。癪だがけつは軍監殿が持ってくれるってんだから駄々をこねるのも大人気ねえだろ」
話し終えたヴァルターはなお不満げなライナーの肩を軽く叩いた。折角勝ちが続いていたのに、軍監の言い分を直接聞いていないライナーにとって突然水を差された怒りはヴァルターより大きいようだった。
一方、エイジの関心は軍監への怒りに向いていなかった。近く予想される面倒な事態を思ってヴァルターに尋ねる。
「引き上げるのはいいけど、簡単に帰してくれるかな。散々悪さしてきた俺たちを」
「終いだっていったろ」ヴァルターは意地悪く微笑んで答えた。「正式に停戦してから帰るんだよ。背中から刺されるような目には遭わねえさ」
「それなら良かった」
エイジはほっと一息を漏らした。が、すぐに眉根を寄せてつぶやいた。
「けど停戦か。本領軍の方面は相当苦戦してるんだな。あのエスパラム公がこうもあっさりラ・フルト侵攻を諦めるなんて」
「どうなんだろうな。特に聞いてねえけど」
とぼけた反応はこの現場の責任者から返ってきた。若干の間を置いてエイジは尋ねた。
「え? だって停戦するんでしょ?」
「おう」
「軍監、というかエスパラム公の意向で」
ヴァルターはそっぽを向いて答えなかった。口角は意地悪く上がったままだ。
「もしかして、独断なのか」
「おいおい、そりゃまずいんじゃねーの流石に」
驚きのあまり言葉をなくすエイジに、ライナーも同調して声を上げた。対してヴァルターは悪戯を自慢するような顔でうそぶいて見せた。
「さあ、どうだろうな」
現場の判断による勝手な停戦は、事実、軍規に照らせば明らかな問題行動である。しかしヴァルターは今回の場合のそれが大きな問題にはならない、むしろエスパラム公を助けることになると読んでいた。
確たる情報はなかったが、エイジのつぶやきは真実に近い状況分析だとヴァルターは思った。まず、先に進軍を開始したエスパラム公から、これだけ待っても何の連絡もないのはやはり不自然だった。もし優勢ならとっくに合流を果たせている時期であるし、その逆ならばラ・フルト侯軍の側にそれらしい兆候が現れてもおかしくはないはずである。そのどちらも現実になっていないと言うことが、そのままエスパラム公の微妙な立場を表しているのではないか、とヴァルターは考えた。
確かな情報のみから判断しても、想定になかった二勢力に介入されては当初の予定通り事を運ぶのは困難なはずだった。仮に上手いこと全てを蹴散らして軍を進めたところで、ルシヨンにたどり着けるのは冬の初め頃。そこから敵が音を上げるまで包囲を続けるとしたら、少なくとも陣中で冬を越すことくらいは覚悟しなければならない。そのまま春を迎えれば、力を取り戻した同盟勢力がラ・フルトを救援しにやって来るのはまず間違いないだろう。冬の間に英気を養い万全な状態でやって来る同盟諸侯の軍に、対してこちらは越冬によってすっかり疲弊した兵員でそれらを迎え撃たねばならないのである。想像しただけで溜め息が出る未来だった。
当初の戦略構想は別勢力の介入を許した時点ですでに破綻している。しかし、大将首こそ取れなかったものの、ラ・フルト侯の兵力、財政、統治に対する信頼に少なからぬ打撃を与えることには成功したと言って良い。この上でまだ戦略的な成果を望むなら、このあたりで一度手打ちにする方が賢明なのだ。
ヴァルターは多くを語らなかった。戸惑うエイジとライナーが、彼ら自身の頭で答えを見つけ出すことに期待しているためだった。
「とにかく、方針は以上だ。敵さんに使者立てて引き上げの仕度といこうぜ。ほら、ひとまず全将校に伝達。急げ急げ」
手を叩いて促すと、ライナーはすぐ指示に従った。納得のいっていない表情は変わらず、どうやら頭を切り替えたようだった。
エイジはと言えば、その場に立ち尽くしたまま何かを真剣に考えている様子だった。ややあってうんうんと二度ほど肯き、顔を上げる。
ライナーに遅れて出て行くエイジを、ヴァルターは満足げに見送った。




