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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第三章「ラ・フルト」
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二十二、くすぶり

 平穏にして退屈な日々である。


 空位二十三年初秋の二十七日。前線から遠く離れた砂漠の野営地で、ボリスはそれを享受していた。


 ラ・フルト侯軍と一戦を交えるに当たり、工兵などの非戦闘要員たちは万が一の敗北を危惧して戦場を脱することになっていた。数を増すために歩兵に組み入れる案もあったが、専門の技術屋である工兵たちを不慣れな仕事で無駄死にさせることはないと、次々挙がる至極真っ当な意見が隊長代理に冷静な判断を促した。


 とにかく、その引率を任されたボリスは、ライナーたち騎兵隊が反転攻勢に出た後も変わらず南進を続けた。無理のない速度で五十里余りを駆け続け、当初の予定通りラ・フルト侯領に隣接していながらその支配が及ばない無法地帯、サラサン人の住まう砂漠へ無事に隊を導いた。

 ここまで逃げればラ・フルト侯軍の攻撃を受ける心配は確かになくなる。が、そうなると今度はこの辺り一帯を根城とするサラサン人たちが彼らにとっての問題となった。彼らガルデニア王国人とはまるで文化の異なる得体の知れない民族はラ・フルト侯軍と違って言語も常識も通じないだけに、一層厄介な存在と言えた。


 実際彼らは砂漠に入って一里も歩かないうちに武装した軍勢に囲まれることになった。音もなく現れたサラサン人の数は二千を超える。全周を包囲する布陣に隙はない。もっとも、何の許しもなく四千人に近い集団が自分たちの領域を侵そうと言うのだから、サラサン人の反応はまず自然な行動だった。


 ともあれ頭数だけなら優位な立場にあるものの、戦力として数えられるのは各々腰に剣を帯びた軽装の輜重隊千程度。対して相手は荘厳な具足に身を包んで槍や弓を構える見るからに屈強な戦士が三百騎と二千弱はいる。四方を囲まれた状況的にも、ぶつかり合ってまともな戦になることなどあり得ない話だった。


 ディルクやエティエンヌをはじめ大半の者にとって生きた心地のしない時間だったが、しかしボリスとペペ、何より二人に砂漠へ退避するよう指示を出したエイジにはこの状況を切り抜けられる例外的な(つて)があった。


 ボリスは彼らを包囲するサラサン人の戦士たちの下へ馬竜を歩ませると、下馬して頭を垂れ、エイジに教えられた簡単なサラサン人の言葉で敵意のないこと、そして寛大派の指導者に目通りを願うことを伝えた。


 程なくして現れた寛大派の指導者ラフィークこそが、彼らにとって知己と呼べる存在だった。ボリスとの再会を喜び、その頼みを快く承諾したラフィークによって近くの水場へと案内されたボリスたちは、サラサン人の中でも指折りの権力と影響力を有する寛大派指導者の名の下に、条件付ながら砂漠への逗留が許されたのである。


 それからのひと時は期せずして工兵輜重らの混成部隊に訪れた平和な日々だった。遠く離れているため、また何の連絡もないために、前線の状況がどうなっているのかは分からない。それならば、敵の手の届かないこの砂漠で次の命令を待つことが彼らに与えられた当座の任務なのだ。


 エティエンヌなどは流石に早い切り替えを見せた。身の安全が保障されたと分かるや、告解を聞くためと称しては日課の祈りもそこそこに連日連夜女たちの寝起きする馬車を訪ね歩いて回っていた。


 初めは落ち着かない様子だったディルクとクルピンスキィも日中暑く、夜に冷え込む砂漠の気候に慣れだすと、各々手持ち無沙汰に賭け事などして毎日を過ごすようになった。


 一方一人不満を募らせるのは諜報連絡役のユーリィである。平穏はあくまでもサラサン人の監視下においてのものであり、彼らに提示されたいくつかの注文は取り分けユーリィにとって都合が悪かった。人はもちろんのこと犬まで自由に動き回ることを制限されてすっかり仕事をなくしたユーリィは平素よりむしろ息苦しそうな様子で日々を全うした。


 それぞれがそれぞれのやり方で退屈を紛らわせていた。そしてボリスの場合、それは酒と女だった。


 ボリスは夜毎女を替え、潰れるまで酒を飲む、目に見えて堕落した生活を送っていた。止める者もいなければ、止める理由もないのだから生活は乱れる一方だった。


 しかし、覚醒してから酒が抜けるまでのほんの数刻ばかり、酒と女の途切れた合間に、ふと冷静になる瞬間があった。この日もボリスは絶え間ない頭痛と吐き気を忘れるために意味のない自省を頭の中で繰り返していた。


 こんな調子で良いのだろうか。


 良いわけがないと強く思う自分がいた。同時に、良いじゃねえかと乾いた笑みを浮かべたくなる自分もいた。戦で手柄を立てて金も名誉も手に入れるのが元々の動機である。傭兵として、前線に立っていない現状に不満はあった。しかしその現状に安堵を感じているのも事実だった。弩兵大隊長に就任して以来、目覚しい戦果を上げたことなどなかった。まして一傭兵としての自分自身の力量がどの程度のものなのか、この二年の間に嫌と言うほど理解してきた。槍や剣が扱えるわけでもない。手先は不器用だし、文字は読めないし、計算だってできない。弓を引いてみれば、二十間先の的に当てるのだって苦戦する有様だ。


 自分程度の存在が前線でいくら頑張ったって、高が知れている。それなら、退屈な仕事でも役割があるだけましじゃないか。命を危険に晒すことなくしっかり働いた顔でいられるのだから、楽なもんじゃないか。


 体調が戻るにつれて、冷静な諦めがボリスを諭すようになった。突き詰めて考えれば考えるほど、自身の心を占める空しさの割合が大きくなっていく。取るに足りない自分と言う現実が、いつしか功名心と夢想を粉々に打ち砕いていた。


 やはり、酒と女に不自由しないことだけがボリスにとっては救いだった。ボリスは皮袋から一口ぬるい葡萄酒を呷ると、傍らで寝息を立てている女の尻に手を伸ばした。


 と、


「兄貴、起きてるかい」


 間延びした声と共に天幕が揺れる。現れたのは見るだけで暑さが増してきそうな汗だくの巨体だった。


「話があるって、皆が、――あ!」


 ペペは天幕の中にボリスと、同衾(どうきん)している裸の女を認めるや、慌てた様子で外に出た。


「ごめん、ごめんよ」


 初めて見るもんでもあるまいに。どもりながら謝る弟分に舌を打って、ボリスは立ち上がった。雑に脱ぎ散らかしてあった下服を革帯で留め、天幕の外の弟分に尋ねる。


「何の用だよ」

「あ、だから、呼んで来てくれって頼まれて、話があるって、皆で」

「頼まれたって誰に」

「ディルクと、エティと、プンスキと、あとユーリィ」


 ボリスは眉根を寄せて下唇を噛んだ。上がった名はボリスを除くこの現場の幹部全員だ。特に何が話し合われると言うこともなかったが、ここに陣を張ってしばらくは定期的に集まることがあった。臨時の人事でサラサン人との交渉役を務めることになった彼もこの集まりに顔を出すことになっていたのだが、ここ二日ばかり深酒が過ぎたためにその会合に顔を出していなかったことを、ボリスは今になって思い出したのだ。


 すぐに一応の格好を整え、ボリスはディルクの天幕へ急いだ。訪いを告げ幕をくぐると、彼を迎えたのは重い空気だった。


「やあ、どうも、遅れちまったみたいで」


 頭をかきながら床几へ腰掛ける。叱責も覚悟していたが、一同の態度は思いのほか冷ややかだった。気まずい空気に堪えかねて、ボリスは尋ねた。


「何か、あったんですかい」


 投げかけられた疑問に頭を振って答えたのは、この場の責任者であるディルクだった。


「いや、それが何もないんだ、相変わらず」


 「エッセンベルクの白狼」隊長代理のライナー・ランドルフが敵前での陣払いを敢行し、追撃に出向いたラ・フルト侯爵軍と干戈(かんか)を交えることになったのは空位二十三年初秋の二十一日。ところが、その日から六日を数える今になっても、ボリスたちの元に続報はもたらされていなかった。


「ここで野営を始めて今日で五日目、本隊と分かれてからならもう六日目だ。勝ったにしろ負けたにしろ、何かしらの報せがあったっていい頃合いだと思うんだけど」


 足元に伏せる黒いぶち模様の犬を撫でながら、ユーリィは肯いた。


「正直困るぜ。犬も自由にできないんじゃあ状況も何もさっぱり分からねえ」


 拗ねた様子のユーリィにかぶせる形で、エティエンヌも口を開く。


「犬なんかより、俺としちゃあ女たちの不満のほうが深刻だね。香水がない白粉がない、この暑いのに水浴びもできない、その癖夜は寒いとくる。そんな小言が毎日絶えねえよ」


 陣を払うに際して、集っていた多くの娼婦たちは行商などと共に隊を離れていったが、中には羽振りの良い得意客を見つけて隊に留まることを選んだ者もいた。女が一人で生きていくには厳しい時代である。常勝と名高い傭兵隊の庇護は、彼女たちにしてみればまたと得がたい安住の地であったかも知れない。得意客がそのまま夫になってくれれば足を洗うきっかけにもなるし、そうでなくても勝ち続きの傭兵は財布の紐がゆるいのだ。まだまだ稼ごうと望んで傍を離れないのは正しい選択だった。


 しかし逗留も長期化の兆しを見せると事情が変わった。戦がなければ傭兵としては得るものもない。当初は豪快に飲み食い遊んだ傭兵たちも三日目を迎えるころには遊び方を改めるようになった。


 出て行くばかりで入ってくることのない金の流れは一転傭兵たちの財布の紐を固くさせた。その影響で実入りが少なくなると、女たちにも不満が募るようにった。不自由な集団生活には苛立ち、甲斐性のない男たちには愛想良く接する気も起きなくなる。不意に感じる将来への不安にふさぎ込む者がいたり、こらえ性のない若者や気の優しいお人よしを言いくるめて当人たちがあまり乗り気でない結婚を約束させる者がいたり、それでも解消できない不平の全てを相談役の坊主が請け負わされているわけである。好色で知られるエティエンヌが弱音を吐くくらいと考えれば、苦労のほどは容易に察せられた。


「何とかならないもんかね」エティエンヌはボリスに困り顔を向けた。「いや、勝手な言い分だとは思うよ俺も。けどやっぱり女だけ日中出歩くの禁止なんて理不尽だし気の毒だ。人様の土地で何も悪さしようってんじゃねえし、どうせ泉の周りから離れるようなやつはいないんだから、そのへんもう少し融通利かせるようにさ、サラサン人の偉いさんに掛け合ってもらうとか、なあ」


 珍しく道理にかなった提案にはディルクの他ユーリィ、クルピンスキィも賛意を示した。対して、ボリスは苦い表情で頭をかいて答えた。


「無茶言わんでくださいよ。こんな大所帯で陣を張らせてもらうのだってかなりありがたいことなんですから。余計なこといって機嫌をそこねでもしたら、どんな目に遭わされるか」


 危惧するボリスの頭の中に確たる根拠はなかった。もっともらしい言い訳も矢面に立って交渉する面倒を嫌った故の発言だったが、実際のところ彼らの置かれた状況としては的外れな意見でもなかった。


 一部のサラサン人とガルデニア王国人の間には確かに根の深い確執があった。歴史を紐解いてみればサラサン人はガルデン人との戦争に敗れて国を追われた身であるし、宗教的な価値観の違いも中々両者の溝を埋めさせなかった。


 血を見ることにならなかったのは交渉相手が話の通じる宗派であったこと、何よりその宗派の指導者が開明な人物で、かつ以前から交渉役のボリスと面識があったことが非常に大きい。今彼らが享受している平穏は多大な幸運の上にこそ成り立っているのである。


 事情を理解していればエティエンヌとて引き下がったことだろう。しかしボリスには理詰めで相手を説き伏せる知識も能力もなかった。粘るエティエンヌと承服しないボリスの押し問答はしばらく続いた。


 それぞれに主張があり、一聴してそれらは正否の分からない内容であった。双方に譲る意思がない以上、どちらを受け入れ、どちらを退けるのか、長たるものが総合的な判断を下す必要があった。ユーリィに手で示され、クルピンスキィに陰鬱な視線を投げかけられて、議長のディルクは口を開いた。


「実際の問題として、いつまでこの状態が続くかの見通しが立たないのがよくないと思うんだ」腕を組むディルクは交渉役の方を見て続けた。「だからちょっと行って、様子を見てきてくれないか? 談判するかお暇するかは本隊の状況次第ってことで」


「俺が、ですか?」


 戸惑うボリスにユーリィが続けた。


「他にいねえだろ。サラサン人様はお友達以外信用できねえみてえだ。お前かペペ、どっちかでないと自由に行き来も許されねえってんじゃな」

「ペペに聞いたら、足はお前のトカゲの方が速いんだって? ここ五日の様子からして何が起きるってこともなさそうだし、留守の間の交渉役はぺぺでも務まるだろう。そんなわけだからひとつ頼むよ」


「はあ、まあその」


 ボリスは曖昧な言葉で返答を濁した。心情としては断りたかったが、それを言い出せる雰囲気ではなかった。変化のない毎日に不満を抱いているのは何も女たちだけではないらしい。クルピンスキィもエティエンヌも、口にこそ出さないものの無言の圧力で同意を促している。


 逃げ道に窮したボリスは苦い顔のまま頭をかいて、不承不承ながら答えた。


「分かりました。行きますよ」





 会合から一刻半後には陣を出ることになった。進路を北に向けたボリスは程なく砂漠を抜けるとそのまま飛ばして飛ばして、翌日の昼にはアルボンヌの辺りまでたどり着いていた。


 なるほど、ここらが戦場か。思うボリスの根拠は道端から漂う腐臭だった。敷石に残る赤黒い血痕や、臭気に誘われた無数のハエたち。全ての情報がボリスの推察を肯定している。しかし果たして、敵味方、どちらのものだろうか。不安を抱きつつ、ボリスはルシヨンまで続く街道を急いだ。


 城外市に差し掛かる辺りで、ボリスの不安はあっさりと解消された。通り沿いに点々と立ち上り誇らしげにはためいているのは、すでにして見慣れたエスパラム公軍と白狼隊の旗印に相違ない。七日前に大慌てで撤収した宿営地がほぼそのままの位置、そのままの形で再構築されていた。


 逸る気持ちがボリスを走らせた。真っ直ぐ弩兵の営舎に向かう道々、覚えのある顔が目に付くたび安堵の気持ちは大きくなる。何だよ、皆平気そうじゃねえか。流石負け知らずの白狼隊だ。今度の戦も危なげなく相手を打ち倒したに違いない。誇らしさと、そして一抹の空しさを胸に、ボリスは営舎にしていた旅籠の戸口をくぐった。


 窓を閉めた薄暗い営舎にボリスを迎える声は無かった。軟膏や汗や血の交じり合った臭いとほんの数瞬向けられる視線、そして重く(よど)んだ空気だけが弩兵第一大隊長の帰還を迎えた。


 屋内には負傷の目立つ男たちが屯していた。傷の具合や箇所はまちまちで、手や足の片方がない者もいれば血の滲んだ包帯で顔や体の半分を覆っている者、床に敷いた麻布に伏せったまま動けない様子の者もいる。いずれもボリスにとっては覚えのない顔だった。そして相手にとってもそれは同様のようだった。戸口にたたずむ訪問者には軽く一瞥をくれるだけで、男たちはすぐ雑談に戻っていた。


 その態度は弩兵第一大隊長の自尊心を傷つけた。ボリスはいささか横柄な言い方で男たちに尋ねた。


「おい、ここは弩兵将校の営舎のはずだろう。違うか?」


 男たちは顔を見合わせ、その中から頭に包帯を巻いた若者が代表して問いに答えた。


「ああ、前はそうだったって聞いてるよ」

「前は? 今は違うってのか」

「そうだよ。今いない人もいるし、こういう広いところは怪我人に使わせてやろうって、お頭のお達しでね」


 男はボリスの様子を眺めやり、逆に尋ねた。


「あんたは見たところ元気そうだけど、誰かに用事かい?」


 ボリスが答えるために口を開くのと、戸口に新たな訪問者が現れたのは同時だった。ちょうどボリスの背後に立つ形となった弩兵第一大隊所属のサンドロ・ガスコは、上官の存在に気づくことなく屋内の負傷兵たちに告げた。


「動けるやつは出てきて手伝え。撤収の準備だ」


 急な命令に一同はそろって困惑の声を上げた。もちろんボリスも驚いて尋ねた。


「撤収ってのは、どういう意味だ?」

「どういう意味って」肩をつかむ手を煩わしそうに払ったサンドロは、その時初めて相手の顔を認識した。「あ、大隊長殿、お帰りだったんですか。いつの間に」

「どうだっていい、そんなことは。それよりも、何だ撤収って?」

「陣を払って引き上げるんですよ、ブリアソーレに」


 ボリスは返す言葉に窮した。そんなはずはないと思っていた答えが、サンドロの口から出てきたからだった。少しの間を置いて、ボリスはなおも尋ねた。


「何で、何で引き上げる必要があるんだ? 勝ったんじゃねえのか、俺たちは」

「そういわれても、俺だって上に命令されたから伝えに回ってるだけで」

「上? 誰だ、そいつは? エイジか? 弓兵頭がいってるのか?」

「違いますよ。隊長殿の、我らが総大将直々のお達しですって。ついさっき戻られたみたいで、代理殿たちと少し話し合ってると思ったらすぐに撤収だって」


 二人のやり取りを聞くうちに周囲の熱も上がっていった。ざわめきは非難の色に染まり、サンドロに向かって投げかけられた。


「話が違うじゃないですか」立ち上がって訴えるのは頭に包帯の若者だ。「とりあえず冬までって契約で、それが終わったら地元に帰るつもりだったのに、ブリアソーレに引き上げるなんていわれても」


 そうだそうだ、と多くの声が賛同した。不慣れな戦で傷を負った彼らの多くは新兵だった。常勝不敗の白狼隊の下なら楽に稼げる。甘い言葉に踊らされてのこのこ戦場になど出てみた結果がこの大怪我である。ただでさえ割に合わない仕事だったのに、この上ブリアソーレにまで連れて行かれるなんて堪ったものではない。負傷兵たちの誰もが共通して胸に抱く身勝手な被害者意識が、彼らを団結させていた。


 サンドロは頭をかきながら眉根を寄せて答えた。


「辞めたいなら辞めりゃいいだろ。誰も止めやしねえよ。心配しなくても給金なら今月いっぱいの分を即日で支払ってくれるそうだぜ。後で会計役と事務官が帳簿もって来るからそん時に伝えな」


 その言葉で、一転屋内には明るい声が沸いた。戦争が終わる。つまりは故郷に帰れるのである。望んで集まった立場とは言え実戦の過酷さと凄惨さをその身で味わわされた彼らは、多くの犠牲を払いながらも何とか命だけは失わずにすんだらしいことを素直に喜んだ。


 一方で、その報せを喜べない者も少数ながら存在した。恐らくは従軍の経験があったのだろう。比較的怪我の程度の軽い者たちは予定よりも早く仕事が終わったことに不満げな様子だった。


 歓呼の叫びと低めた声の相談が室内を飛び交い、サンドロの存在は瞬時に空気と化していた。


「はしゃぐのは後にしろよ。早く国に帰りてえなら、とっとと片づけを済ましちまうに限るぜ。分かってんだろうな、おい」


 その呼びかけに返事らしい返事はなかった。伝達を終えたサンドロは軽く溜め息を吐いて踵を返した。しばし呆けていたボリスは慌ててその背中に尋ねた。


「おい待てサンドロ、お前の話じゃ何がどうなって撤収なんてことになったのかさっぱりわからねえぞ。弓兵頭はどこだ? あいつに直接聞いてくる」

「お頭なら、まだ本陣じゃないですかねえ」サンドロは立ち止まり、斜め上に首を傾げながら答えた。「戦が終わってからは何かと忙しそうにしてますよ。事務担当の輜重のやつらがほら、今いねえから」

「ふん、そりゃご苦労なこった」


 吐き捨てるように言って、ボリスは愛馬の手綱を取った。妙な苛立ちに心がざわついていた。と、サンドロは鐙に足をかける大隊長を制止した。


「あ、歩いて行ったほうがいいですよ大隊長殿。大通りはあちこち撤収準備でふさがったりしてますから、馬だとかえって遠回りになるかもしれねえ」


 ボリスは舌打ちして足を下ろした。投げるように手綱を渡して大通りをにらむ。幅の狭い道が入り組んだ造りになっている城外市は、大通りと言っても馬車二台がようやくすれ違える程度の広さしかない。今もまさに入れ違うような格好で数台の馬車が通りを塞いでいるところだった。


 面倒でも歩いて行く方が確かに早いかも知れない。脇道を通って目的の場所までたどり着く自信がボリスにはなかった。


「厩につないで水と飯をやっといてくれ。馬草はあんまり食わねえから、鼠とか虫とか適当に。分からなかったらドメニコかミケーレにでも任せとけばいい」


 簡単に指示を出して、ボリスは混雑する大通りへ足を向けた。依然として急いていた気持ちは彼に足を止めさせないはずだった。


「ああ、あいつら……そうか」


 背後で聞こえる寂しげなつぶやきが、ボリスの足を止めていた。


「何だ?」


 ボリスに問われ、サンドロは困ったような顔で馬竜の首筋を撫でながら答えた。


「あいつらが世話係でしたもんね、こいつの。代わりを見つけてやらないと、ですね」

「どういう意味だ?」

「二人とも死んじまったんですよ、この前の戦で」


 ボリスは不意に耳鳴りを感じた。視界が狭くなり、周囲の喧騒が遠ざかる。サンドロがまだ何かを言っていたが、ボリスの耳には届かなかった。


「死んだって」


 ボリスは繰り返した。声にも出して、心の中でも何度だって繰り返した。


「死んだのか、あいつらが」


 サンドロは言いつけどおりボリスの馬竜を厩につなげに行ったし、撤収を命じられた者たちも各々仕事を求めて通りを行き交っていた。それゆえ、誰にともなくつぶやくようなボリスの言葉に答える者はいなかった。


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