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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第一章「エスパラム」
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六、神-2

 こんなものか、とボリスは思った。


 トニの巨体から剣を引き抜き、長く、深く、息を吐いて倒れ伏した男たちを見回す。檻の中のピオ、水路に上半身を投げ出しているイニゴ。どちらもすでに息をしていない。ただの(しかばね)と成り果てていた。


 こんなものか。こんなものなんだ。いくら貴族といったって、正規の騎士でもなければ、戦って勝てないことはないんだ。


 興奮と高揚が混ざり合い、ボリスは「へへへ」と間の抜けた笑いを漏らした。血に(まみ)れた長剣を返り血塗れの服でぬぐう。トニの亡骸から長剣と鞘をもぎ取って立ち尽くしているペペに投げ渡した。


「ほら、持っとけ」


 ぺぺは長剣を取り落とした。拾おうと慌てて何もない石畳につまずく。


「ごめん」立ち上がろうと体を支える腕は小刻みに震えていた。

「何をやってんだよ」


 笑いが収まらない。身をよじって自らの膝を叩くと股間が濡れている事に気づく。笑いの止まるはずがなかった。二人して小便を漏らしていたのだ。


 度の外れた高揚は恐怖の裏返しに他ならない。本当に狂ってしまわぬために、彼らは笑うしかないのだった。


「何てことを、したんだ、お前ら」


 ボリスとペペは何とか笑いをこらえて声の方に向き直った。檻の中から格子を握り締めた奴隷の男たちが彼らを睨んでいた。


「こんなこと、領主様がお許しになるはずがない。俺たち全員、どんなむごたらしい目に遭わされるか」

「ならあのまま黙って殺されてりゃ良かったってのか? この屑どもの(なぶ)り者になって? 俺はごめんだねそんな死に方」


 ボリスはようやく笑いを収めトニの死体を足蹴にした。


「お前らこのままでいいのかよ。やつらに死ぬまでこき使われて、物扱いされて、挙句八つ当たりでこんな理不尽に殺されることになって、それで納得できんのかよ」


 返事はない。ボリスはなおも泡を飛ばした。


「はっきりいうぜ。こんな好機は二度とやってくるもんじゃない。まさしくこいつは神の与えたもうた奇跡ってやつだ。どこ教のなに神か知らねぇが、お優しい神様が俺たちに機会をくれたんだよ。やろうぜ。一丁派手に暴れて、やつらに目に物見せてやろうぜ、なあ?」


 ボリスは長剣を振りかざした。刃が風を切り、さながら並みいる敵をばったばったと切り倒さんばかりの気迫だった。極度に興奮したボリスは、皆が一致団結すれば反乱も不可能ではないと信じていた。


 しかし、檻の中はどこまでも冷静だった。息巻くボリスの熱弁に誰一人応えようとはしなかった。その陰鬱な無言はボリスの夢想を容易く否定した。


「正気かよ、お前ら。俺の話聞いてたか? 黙ってたって殺されるだけなんだぞ。何とかしようって思わねぇのかよ!」

「今更何いってんだ。理不尽なのはわかりきったことじゃねぇか。税を納める必要もない。金を稼ぐ権利もない。死ねといわれれば黙って死ぬ。俺たち奴隷は生まれたときからそういう物じゃねぇか」


 男の言葉は檻の中の総意だった。元平民のフェデリコですら口を挟もうとしない。ボリスは不意に目眩を覚えた。


「反抗して罰を受けるくらいなら、正直に話して俺たちだけでも仕置きを軽くしてもらうさ。

 つまりなボリス、こういうことだ。奴隷が三人、恐れ多くも領主様の決定に逆らった。止めようとした俺たちを奪った剣で脅し、下命を受けた従兵を殺した。手助けを持ちかけられたが俺たちはそれを拒んだ。罰を恐れた下手人はどこかへ姿を消した、と」


 無実を訴えたところで量刑が変わるとは限らない。奴隷たちの言い訳を信用してもらえるとも思えないし同調を拒んだとはいえ身内が領主の家臣を殺したことに変わりはないのだ。


 穴だらけの筋書きは語る本人ですら重々理解している。それでも彼らは檻を出ようとしなかった。積極的な諦めこそが彼ら奴隷たちの持つ生来の性質だった。


「兄貴」不安げな声でぺぺが呼んだ。


 振り返るとすぐボリスは違和感に気づいた。


 従兵三人を相手に大立ち回りを見せた黒い髪の少年が、広場から消えているのだった。





「待てよ、クチナシ」


 中央通を南に歩いていると背後から声をかけられた。


 英二は構わず歩き続ける。行く手に見えるのは貧民区へと通じる歩き慣れた小路だ。右に折れれば奴隷長屋。左なら――


「待てって。どこに行く気だよ、一人で」


 肩をつかまれた。泣きはらした目を向ける。ボリスと、大分後に遅れてペペが手足をばたつかせながら追いついてきた。


「どこに」うわ言の様に英二は返した。


 英二自身にもわからない。頭にもやでもかかったような心地だった。思考が定まらず、時間の感覚がひどく希薄で、さながら水中を歩いているかのように体が重い。だのに体は動くことをやめようとしなかった。柄を握り締めた手からは血がにじんでいるのに、長剣を手放すことができないのだった。


「村を出るんだろ? ここから逃げるんだよな? なら俺たちと一緒に」


 英二は答えず小路を左に折れた。すぐに見えてきた建物に、ほうとため息を吐く。


 清潔な白塗りの壁。飾り気のない鐘楼(しょうろう)。小さいながらも二階家の天辺(てっぺん)に高々と掲げられた六芒星は、過日の騒ぎなどどこ吹く風と誇らしげに鎮座している。


 急に胸を締めつけられた。村で唯一の教会を前に、収まらない英二の動悸は限界を超えてなお速まった。


「おい、クチナシ」


 目を閉じれば目蓋の裏に浮かぶのは導師のことばかりだった。早朝でも夜半でも、訪ねる度変わらない笑顔で英二を迎えてくれた。内緒だぞといたずらに微笑んで、腹を空かせた英二に麦餅を焼いてくれた優しい笑顔。


 暖かい思い出の反芻(はんすう)は、最後に血の臭いで終わった。今この扉を叩いても、導師アントニオが英二を迎えることはないのだ。そう思えば思うほど、英二の胸は深く鋭い痛みにさいなまれた。


「兄貴、早く、早く逃げよう」

「るせぇな、わかってんだよ」


 雑音が遠くに聞こえた。いよいよ呼吸が困難になっていた。助けてほしいと英二は思った。それを願ったのはもう二年も顔を見ていない祖父ではなく、存在すら信じていない神などでもなく、この教会に住まうただ一人の師に対してだった。


 不意に両開きの扉が開かれた。


 英二は顔を上げる。


 そこに立っていたのは赤ら顔を千鳥足で支える肥満気味の男だった。





 ギョームの酔い方は躁鬱(そううつ)を繰り返す厄介なものだった。機嫌よく飲んでいたかと思えば些細なことでかんしゃくを起こし、ひとあたり静かになるとまた寂しくなって人を呼ぶのである。面倒を見させられる周りの者たちからすれば災難以外の何ものでもない。


 殊に今回は鬱が長かった。弟の死は、ギョームの心にぽっかりと大きな穴を開けた。鬱に入ったギョームには、何もかもが許せなかった、気に入らなかった。


 少しの間飲酒を止め、ようやくのこと落ち着いたギョームは教会に来ていた。広場での鬱々とした己を反省し突然敬虔(けいけん)な聖教徒に変貌したのは、わかりやすい躁症状であった。


 主のいない教会で、ギョームは六芒星の前にひざまずき、祈った。弟が安らかに眠れますように、神の御許に導かれますようにと。ついでに、この二日あまりで死んでいった全ての者たちについても祈った。思えば領主としての自分は、いささか勝手に過ぎていたかもしれない。例のごとくギョームは、ひとあたり静かになって寂しくなっていたのだった。


 もしもまだ間に合うのなら女子供だけでも助けてやるべきなのかもしれない。屋外に人の気配を感じたギョームは立ち上がって扉を開けた。


 目に映ったのは濃い血の臭いを身にまとわせた三人の奴隷だった。(あか)にまみれた浅黒い肌にはそこかしこに赤い飛沫(しぶき)。手に手に長剣を(たずさ)えて、(おび)えた目でギョームを見上げる。

 戦場で死体を(むさぼ)る野犬よりも汚らしいとギョームは思った。


「何をしている」


 両側の二人が腰を引いて後ずさる。ギョームは一歩近づいた。その手は自然と腰の長剣にかけられていた。


「こんなところで何をしている」


 答えはなかった。代わりにまた一歩、距離が離れた。ギョームは左手に持っていた経典を捨て、静かに鞘を走らせる。


「誰の許しを得て、こんなところにいるのかと」


 半ばほどまでを抜剣しながら、さらにギョームは間合いを詰めた。逃げ腰の二人は腰が抜けたのかとうとうその場に座り込み、呆けた様子の三人目はギョームの投げ捨てた経典を凝視している。どの口からも返事はない。


「聞いているだろうが奴隷どもォ!」


 長剣が唸った。風圧が砂塵を巻き起こし、怒声に驚いた小鳥が慌てて空へと逃げていく。


「薄汚い奴隷が、その剣で一体誰を殺した」


 距離にして五間は離れている。刀剣の間合いではけしてない。しかし、ギョームの身からほとばしる殺意は必殺の威力を有していた。射竦(いすく)められた後方の二人は、はや戦意を喪失していた。


「俺の弟も殺したのか。卑劣な手段で罠にはめ、ジョエルの命を奪ったのかァ!」


 鉄の長剣が石畳を抉った。砕かれた地面が円形に窪む。衝撃に周囲の家屋の屋根瓦が落下し、音を立てて砕けた。


 状況証拠から連想した当てずっぽうの八つ当たりは、偶然にも的を射ていた。ギョーム本人は知る由もないが、今目の前で腰を抜かしている二人はジョエルに死をもたらした主犯だった。


 そして、すぐ横に長剣を振り下ろされながら食い入るように経典を見つめ続けているもう一人は――逃亡の罪を別にすれば――全くのとばっちりだった。


「答えろ!」ギョームは経典を蹴り飛ばした。


 ()じられていた紙の束が羽毛のように宙を舞う。


 散り散りに落ちていく紙片に何を見たのか、先端を微かに赤く染めた抜き身の剣を携えて、その奴隷は立ち上がった。


 呼吸が荒い。両の眼が見開かれている。だらりと右手にぶら下げた長剣は小刻みに震え、幾度も剣先が地面をこする。


 不敬にも怒りを向けるかのような目が不快だった。ギョームはひどくぞんざいに、その目元を剣で薙いだ。


 ギョームの剣は奴隷の目を潰さなかった。代わりにいつの間にか八双気味に構えられていた奴隷の剣を三分の一ほどの長さに斬り折った。


 甲高い金属音を立てて薄赤い剣先が石畳に転がる。奴隷の目はなお変わらずギョームを見ていた。


 ギョームの剣が風を切る。鋭い角度で正中を断つように、死んでしまっても構わないつもりの振り下ろしだった。


 しかし、ギョームの剣が切ったのは風だけだった。相手の体はおろか、今度は剣にすらかすりもしない。気づけば奴隷は三歩も後方に下がっていた。


 歯の(きし)む音が聞こえた。無論ギョーム自身のものだった。

 ギョームが一歩を踏み出せば、奴隷は一歩後退する。二歩、三歩と前進を続け、とうとうギョームは跳躍した。集中したマナが足の裏で爆発する。福々しい体格に似合わぬ俊敏さだった。一足で二間強の距離を詰め、さすがの奴隷も後退が間に合わない。


 怒りのままに腕をしならせ、ギョームは片手に持った長剣を叩きつけた。


 音を立てて、剣が地面を転がった。当然奴隷のものだとギョームは思った。全霊をかけた一撃だ。手応えも感じないほど容易く、ギョームの脳内では奴隷の体が両断されていたのである。


 しかるに奴隷は健在だった。折れた長剣を両手持ちで握り締め、五体満足に剣を構えて居ついている。それもギョームの目の前、密着するような至近距離で。


 いかなギョームといえど危険な距離だ。慌てて身を引くと、右手に燃えるような熱を感じた。


 ギョームは右腕を抑えつけて腰を折った。改めて石畳に転がる長剣を見る。刃渡り三尺あまり。猛禽の爪を模した鍔、飾りに旧領の地名を彫った樋は間違いようもなく彼のものだった。柄を握る手も見慣れたものだ。短い指の背には微かに毛が生え、五指を余さず金銀宝石の指輪がはめられている。

 間違いない。そこにあるのは他ならぬギョーム自身の――


 ギョームは叫んでいた。妙に軽くなった右腕が耐え難いほどの激痛を訴えた。地面に赤い点の模様がいくつも生まれた。それを描いているのは無残にも切断された彼の右腕だった。


 馬鹿な。何で。一体、いつの間に。


 苦痛に身を焼かれながらも原因を(かえり)みようとする姿勢はさすがに騎士だった。しかしながら、敵を眼前にしてとるべき行動ではなかった。顔を上げたギョームは折れた長剣でも十分に届くわずか一歩の間合いに、相も変わらず立ち尽くす幽鬼のような奴隷を見た。


 逃げたほうがいい。逃げなければならない。分かっているのにギョームはその場を動かなかった。


 今まさに死地でくず折れているギョームは心のどこかで楽観していた。死ぬようなことはないのではないか、なんとかなるのではないかと、都合よくも考えていた。


 甘く考えてしまう理由は相対する奴隷の表情にあった。圧倒的な優位に立ちながら、不思議なことにその奴隷は怯えていた。恐怖していた。両手で握り締める長剣の柄は震え、見開かれた両目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。失った右腕の痛みは激烈なのに、奴隷の顔は追い詰められた獲物を思わせた。


 故にギョームは錯覚した。未だ自分が優勢で、自分は他者から全てを奪う立場にあるのだと。現実失われた右腕だけが、鋭い痛みを発しながらその甘い逃避を否定していた。


 一歩の距離。恐怖を貼り付けた奴隷の顔が近づいた。同時に異物感が腹部を走った。


 ギョームは己の腹を見た。みぞおちの下に長剣の鍔が生えていた。柄を握るのは薄汚い奴隷の手だった。


 口を開こうとした。待てというつもりだった。喉の奥から何かが逆流し、言葉に代わって奴隷に吐きつけられた。


 奴隷はギョームの見ている前でその柄をぐるりと捻った。


 逃げようと後ずさる。突然体が重くなった。抗えない力で大地がギョームを誘惑した。

 ギョームは仰向けに倒れた。呼気とともに血を吐き出し、やがて瞬きをしなくなった。





 早鐘を打つ心臓の鼓動は理性からの警鐘だった。理性は止めろと警告していたのだ。何度も、何度も。


 本能はその訴えを聞かなかった。死にたくないという恐怖。殺してやりたいという怒り。それと、恍惚(こうこつ)にも似た開放感。気づけば握る長剣が男の体に飲み込まれていた。


 男は切なげな顔で何かを訴えようとしていた。開いた口から出てきたのは言葉ではなく真っ赤な血だった。


 取り返しがつかないのだと思った。一生逃れられない大罪を犯したのだと。別種の恐怖が英二を(さいな)んだ。犯した罪から、この男の目から逃れるためにはそうするしかなかった。


 肉を抉る感触が(てのひら)を通して伝わってきた。男は苦痛の呻きを漏らした。怨嗟(えんさ)の言葉ではないことに安堵する自分がいた。


 やがて男は倒れた。二度と起き上がることはないのだと、本能的に理解した。


 動悸は収まらなかった。こみ上げる吐き気に口元を押さえた。涙と汗で顔中が濡れていた。それが恐怖のためか興奮のためかは、英二にも判断できなかった。


 英二は立ち上がった。走り出した。ともかく、その場に(とど)まっていることができないのだった。


 ぬるい風が頬を撫でた。すぐに血の臭いを感じなくなった。晴れ渡る青空に小鳥のさえずりが微笑ましい。いずれも胸の内の不快感を消し去る力は持っていなかったが。


 もつれた足が石につまずき、英二は赤い大地に顔面から飛び込んでいた。疲労困憊の顔を上げる。どこをどう走ったのかも分からぬまま、英二は村の外へと出ていた。塹壕(ざんごう)のように連なる(うね)は村外南部に広がる(きび)畑に間違いなかった。


 やってしまった。やってしまった。体が止まれば思考は次第に鮮明になった。すぐにでもまた走り出したかったが、一昨日の夜から何も口にしていないのでとても立ち上がれそうにない。


 殺してしまった。俺は。止まらない思考は事実を何度も繰り返した。俺はこの手で、人を殺してしまった。


 仕方がなかった。本能は擁護した。正当防衛だ。自分を守るためだ。殺されるところだったんだ。死にたくなかった。


 はん、と理性の嘲笑が聞こえた。正当防衛というなら、相手の腕を落とした時点で終わっていたじゃないか。敵を無力化できたなら止めを刺す必要はなかったじゃないか。


 仕方がないんだ。あのまま放っておいたら仲間を呼ばれたかもしれない。あの折れた剣であれ以上戦うことなんてできなかった。


 どうして戦う必要があるんだ。何故そうまでして生きようとするんだ。家には帰れない。アントニオだって死んでしまった。これ以上この世界で生きて、いったい何の意味があるんだ。


 まこと理性は正論だった。本能は何も答えられず、思考は理性の独壇場となった。なるほど、奴隷の皆は賢いよ。地獄を感じながら生きるより、天国を思いながら死ぬほうがよほど幸せじゃないか。(みにく)執着(しゅうちゃく)するなよ。こんな人生もう終わりにしてしまおう。大変だったろう。辛かったろう。ここで終わりにしたところで、誰も俺を責めたりはしないよ。俺は精一杯頑張ったんだ。


 理性の声とて小さくなっていた。終わりにするとは今の英二にとってなんと甘い誘惑だろう。目を閉じればすぐに、深い眠りに旅立てそうだった。夢の世界がどれほど優しいか英二は知っているのだ。


 その時、本能が叫んだ。


 死にたくない。


 唐突だった。英二自身にすら理解できないほどの大声だった。本能は繰り返した。


 こんなところで死にたくない。まだ、死にたくない。


 胸に痛みを感じた。なんとか起き上がって麻服の中を確認してみる。勢いよく地面を滑ったためだろう、首飾りの形に内出血ができていた。


 神聖なる象徴。万物の創造主を(かたど)る偶像。


 その六芒星を眺めていると、胸についた(あざ)の下、体の深奥の部分にいい知れぬ熱を感じた。不思議と理性は沈黙していた。


「おいって、クチナシ」


 声に顔を上げる。呼びかけてきたのはやはりボリスだった。百間ばかり離れたかなり後方に、必死に向かってくるペペの姿も見える。


「お前、どこまで行く気なんだよ」息も絶え絶えにボリスが尋ねた。

「どこまで」自問する英二は南の空を見た。


 晴天だった。世界の果てまで見透かせそうな快晴だった。なればこそ一本の線が、一面に広がる青の美観を損ねていた。


 それは黒い塔だった。見上げる限り果てなく、蒼穹(そうきゅう)を分断する一本の塔、司竜。この世界を支え監督する神の使い。

 それはさぞかし、神に近しい存在なのだろう。ことによれば誰かの提唱どおり魔人の親玉であったりするのかもしれない。あるいはあれこそ、神の存在そのものだろうか。


 英二は立ち上がった。胸の熱がいっそう(はげ)しく高ぶった。ふつふつと燃え(たぎ)るように湧き上がるその感情は烈火のごとき怒りだった。


「なあ、ボリス」英二は尋ねた。

「神がどこにいるのか、知らないか」

「天の国ってやつじゃねぇのか。坊さまがよく言ってただろ。んなことより」


 ボリスは話題を変えたが英二の耳には届かなかった。まっすぐに見つめる瞳には天の(いただき)まで通じていそうな塔だけが映っていた。


「そうだよな。俺もそう聞いてる。天の国ってやつがどこにあるのか、具体的なことはわからないけど」


 神なんて信じたことはなかった。旧時代の人々の無知と薄弱が生み出した空想の産物、文化の形態、政治の道具、それ以上の意味も価値もないはずだった。


 しかしそれは、英二が生まれ育った世界での常識だった。ところ変われば常識は変わる。(しか)らば神は存在するのかもしれない。竜がいて、魔法があって、不死の怪物が現れて、剣と血とが人を支配するこの不条理な世界になら、神がいたとしてもおかしくはない。


「もし本当に存在するなら」


 ならばと英二は思った。ならば文句の一つでも言ってやりたい。言う権利が俺にはある。この理不尽な運命を何故俺に強いたのか、問い(ただ)さずにはいられない。


 英二は理解した。まだ死にたくないと強く思うのは生きたい理由があるからだった。神様なんて馬鹿馬鹿しいと、いまだ心のどこかで思ってはいた。信じてもいない神に生かされるなんて、なんだか(しゃく)に障る話だった。


 それでも英二は生きたいと思った。今度ばかりは理性も文句をつけなかった。


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