十七、執念の剣
耳障りな風切り音を伴う矢の雨は少し前から止まっていた。代わって聞こえるようになったのは無数の悲鳴と怒号、そして絶えず大地を揺らし続ける地響きだった。
詳しい状況こそ知れないが、その悲鳴の大半が自軍から上がっているものであることに、ラ・フルト騎士ギイ・ドゥ・クレボールは気づいていた。一刻も早い状況の把握と態勢の立て直しが必要だった。そのためには、冷静な判断力によって的確な命令を下せる総指揮官の存在が不可欠だった。
客観的に見れば、彼にはその資格が十分にあるはずだった。優秀と評して良い部類に入る指揮能力に他者からの信頼を裏付ける武勲と実力。誠実な人柄には身分の上下にかかわらない人気があり、やや堅苦しい風のある目鼻立ちも彼の性格なら魅力となった。彼が命じ、率先して指揮を執れば、従わないラ・フルト騎士はきっと多くはないはずだ。
然るに、ギイの頭には主君に代わって指揮を代行しようなどと言う考えは毛頭なかった。「騎士たるもの臣下の分を越えるべからず」とは、先ほどからしきりに敵が叫んでいる聖アルテュールの残した格言、騎士道として定義された文言の一つである。あまねく騎士が理想とし、正しいあり方と信じてやまない騎士道に則れば、どんな状況であれ、主君をないがしろにして行動するべきではない。
この期に及んでも頑なに信じ続けるギイは、乱戦の中何とか身柄を確保した彼の主を鞍上からそっと下ろした。
「閣下、オートゥリーヴ伯閣下」
ギイの腕の中で苦悶に呻くガストンの目が開いた。ギイは続けた。
「我が方は大変な混乱に陥っております。速やかに指揮を回復し、敵に対抗しませんと」
騎士ギイの進言に、オートゥリーヴ伯ガストンは何かを答えた。ギイがその口元に耳を寄せると、血の混じった呼気は「放せ」と言っているようだった。
聞き間違いかと疑うギイを押しのけて、ガストンは改めてはっきりと拒絶を口にした。
「放せ、クレボール」苦しげに息を吐いて、かすれた声は続けた。「仇が、アモーリの仇がいるのだ」
激しく咳き込みながらも、苦痛と疲労で霞んだガストンの単眼は臣下の姿を見ていなかった。執念の命じるままに立ち上がり、大きなトカゲの傍に寄り添って遠ざかろうとしている小柄な背中を追いかけた。
背後には必死で制止するギイの声が続いていたが、ガストンは足を止めなかった。鉄靴を鳴らして街道を駆け、重傷を思わせない動きで腰の長剣を抜き放つ。振り上げた剣は大上段から相手の背中を狙った。
間一髪のところでエイジは気づいた。即座の抜刀で鉄篭手を弾き、なんとか剣の軌道を逸らした。
と、すぐに続けられると思われた二撃目が来ない。見れば相手は先刻矢に射抜かれて落馬した騎士だ。相当の深手を負っていることは疑いない。マナに守られていないエイジの剣でも容易に軌道を変えられたのがその証拠だった。
エイジは相手と向き合ったまま徐々に後退した。負傷の著しいハナを走らせるわけには行かない。今度はエイジが彼女を守る番だった。
くず折れるほど激しい咳には血が混じっていた。短く何度も繰り返す呼吸は正常な音ではなかった。立っているのもやっとだろうに、頼むからもう諦めてくれ。
エイジの祈りは届かなかった。手負いの騎士は血走った目でエイジを睨み、震える長剣でエイジを薙いだ。力のない一振りだった。間合いからも外れている。それでも、頼りない足取りは相手を追いかけ、決して諦めようとはしなかった。
エイジは下唇を噛んで左手を腰に伸ばした。長剣の間合いまであと四歩。騎士の歩みは負傷したハナの足よりわずかに早いようだ。半歩、もう半歩と距離が詰まる。
ガストンの目も今度ばかりは見誤らなかった。あと半歩で剣が届く。その間合いで再び上段に振り上げた。
片足が地面を蹴る、その直前にエイジの左手が動いた。腰から抜き打ったのは針のように先端を尖らせた棒状の手裏剣だった。下手投げから放たれたそれは、落馬の際面頬が取れてしまってむき出しとなっているガストンの顔面、その眼球を正確に貫いた。
呻き声を上げるガストンはとうとう足を止めざるを得なくなった。相手が苦痛で立ち上がれない間に、エイジは心苦しく思いながらハナを急かした。
獣のように叫びながら闇雲に剣を振るい続けるガストンを残して、エイジは乱戦の喧騒から脱した。




