十五、聖アルテュールにあやかって
エイジの説明を聞いたヤンは腕を組んで肯いた。
「なるほど、考え方としては戦車に近いね」
「なんだいその戦車ってのは、ヤン先生」
問いかけるライナーに、ヤンはしたり顔で補足する。
「今のように、騎士が戦場の主役となる前の時代に野戦の主力だったものだよ。二頭引きの簡易な馬車に御者と槍手と弓手を乗せて、突撃と射撃と高い機動性によって歩兵陣を翻弄した一昔前の決戦兵器だ」
「突いて良し撃って良し走って良しか。便利そうじゃねえか。何で今じゃ見かけねえんだ」
ライナーが尋ねると、ヤンは待ってましたと言わんばかりに語りだした。
「簡単な話さ。機動性も突撃力も弓による射撃も、全身を甲冑に包んだ騎士に敵わなかったんだ。加えて戦車は金銭の面でも騎士に劣った。騎士一人を仕立てるなら馬一頭騎手一人に各種兵装で済むけど、戦車一台だと馬二頭馬車一台、御者に槍手に弓手各一人ずつとそれらに与える装備が必要になる。それだけ揃えて騎士に負けるんじゃ割に合わないだろ。決定的になったのはそんな戦車が実際の戦場で半数以下の騎士相手に大敗したからなんだけど、流石に皆知ってるかな、タンジーの戦いは? ルイ一世統一王がまだガルデン人の王ルイだったころ、彼の家臣で後の聖アルテュールことアルテュール・ナタン率いる四千の騎士隊が一万台の戦車を誇るゲルジア・アグソン連合軍を破った大会戦だ。この戦が今も史家の間で語り継がれているのは戦闘の推移もさることながらその後に与えた影響においても多大だったためで」
「いい、いい、ヤン先生、今そんなご高説は」
終わりの見えないヤンの歴史講義を打ち切って、ライナーは場の主導権を取り返した。
「で、要するに弓兵頭は、その時代遅れの道具を使ってちょっと遊んでみてえってわけだ」
見上げる視線の先で、エイジは組んだ手の指をもじもじと動かして答えた。
「いや、遊んでみたいって言うと語弊があるけど、その、できれば試したいなって。もちろん、勝算と言うか、それなりの成果はあげられると思うんだけど」
話を聞くライナーは机に頬杖をついて苦笑した。自主的な意見を述べる時、エイジはいつもこんな調子だった。あれをしろ、こうするべきだ、しなければならない、などと強く主張することはない。万事はっきりしない態度でもいつもは隊長殿がその意見を受け入れていたものだが、今はその最大の味方が不在だった。
徐々に声を小さくする上官を見かねて、同行していたデヴィッドが付け足した。
「各分隊の指揮にはいずれも腕利きを配置します。一分隊あたり十から二十の首級は堅いでしょう。もっとも、そうなれば隊長代理殿の獲物が減ることにはなるかも知れませんが」
助勢を受けたエイジはいくらか自信を取り戻した。
「うちで一番の名人もこう言ってる。それに時代遅れの戦車を再現しようとしてるんじゃない。ちょっとその、発想と言うか、知恵を借りてみようって話で……とにかく、試させて、もらえ、ないかな」
エイジが結ぶと、少しの間もおかずライナーは肯いた。
「いいぜ。面白そうだ。やろう」
あらかじめ結論が決まっていたかのような迅速な回答だった。返事を理解するのにエイジの方が少しの時間を必要としたくらいである。
「そ、それは、願ってもない話だけど、良いのか、そんな簡単に決めて」
「言ったろ、面白そうだって」ライナーは口角を上げて立ち上がった。「俺は理屈こねくり回すのは苦手だからな、直感を信じることにしてる。その直感が面白そうだって言ってんだ。なら試してみるのが一番だろうぜ」
作戦図に落とす視線が思い描いた戦場を脳内に再現する。エイジの案を容れて修正を加えた作戦はライナーの求める結果を変えなかった。ライナーは悪戯っ子の笑みでエイジを見た。
「やってみろよエイジ。けつは俺が持つから」
「ああ」
エイジは肯いた。答えてから、自然に浮かぶ笑顔は隊長代理につられたものだった。
「ありがとう。やってみるよ」
「その意気だ」ライナーは激励の意味でエイジの肩を叩き、隊長代理の顔に戻って続けた。「さしあたって必要なものがあればディルクを頼りな。金が絡む話ならリコに相談すりゃあいい。おう、それからヤン先生、重大な決定があるぜ。全軍に通達してくれ」
ヤンは不吉な予感に眉根を寄せながらも「何かな」と尋ねた。ライナーは口角を上げて答えた。
「この戦、鬨の声は聖アルテュール、エスパラム、ライナー・ランドルフでいく」
「理由を聞いても?」
「聖アルテュールといえば、騎士と知恵の守護聖人だろ、たしか? その知恵にあやかろうって話よ。それにその戦車ってやつは聖アルテュールに縁があるらしいし、うってつけだ」
「君は僕の話を聞いてなかったらしいね」ヤンはやれやれと頭を振って続けた。「確かに縁はある。けど聖アルテュールは戦車を過去の存在にしてしまった張本人だ。そんな人物の名前を唱えて戦うなんて縁起が悪いと僕は思うけどな」
「ものは考えようさ、ヤン先生。聖アルテュールが終わらせちまった戦車を俺たちが上手いこと再利用してやろうってんだ。こんな使い方もあったのかって、俺が聖アルテュールなら関心してやるところだぜ」
それじゃあかえって聖アルテュールの不興を買うことになりはしないか。自信満々で語るライナーを尻目に、ヤンの不安はぬぐえなかったが、かくして作戦の最終決定は下された。
世に言うアルボンヌの戦い。激突する両軍の命運は聖アルテュールの加護に託された。
矢尻が風を切る音と、弾かれた弦の奏でる不規則な旋律が、戦場に不気味な演奏を響かせる。視界一杯に広く展開するエスパラム公軍の馬車は、楽団よろしく扇状に幌を並べて、劇場に殺到する観客へ死の調べを披露した。
逃げる敵の背中を突くはずが、いつの間にか攻撃を受けている。当初困惑していたラ・フルト騎士たちは、敵の全容が知れるや揃って歯噛みした。前を行く馬車の荷台には整然と並べられた弓兵の姿が見える。前列に伏射する弩兵が三、四人、後列に弓を構える弓兵が二、三人。馬車一台あたり五、六の飛び道具が、今にも肉迫しようとするラ・フルト騎士を狙っているのだ。
それはまことに意地の悪い攻撃だった。ひっきりなしに繰り出される射撃は、ほとんどが外れることなく追手の弱点を正確に捉えていた。がむしゃらに撃った矢が襲歩する騎士の鎧の間接部に刺さることは稀である。徒歩であれ騎乗であれ、またどれだけの弓の名手であっても、普通逃げながらこれほどまでに正確な射撃を行うのは不可能なはずだった。
機動力において騎兵に勝るものはいない。故に騎士の追撃の前では何者も無力。この時代の真実に近いその常識を覆したのは、何の変哲もないあの馬車である。逃げる足を御者に一任してしまえば、なるほど多少の困難はあれ、敵に追いかけられながらでも射撃は可能だった。縦横無尽に走り回るでなし、向こうの方から近づいてくるなら、小さな的でも狙い撃つのはさして難しくなかった。
加えて、それに対するラ・フルト侯軍の行動が状況の悪化に拍車を掛けていた。あと少しで追いつけると迫れば絶好の間合いで反撃を許し、今さら引くわけにはいかないと距離を詰めるほどさらに被害が増える。いっそ足を止めてしまえばこしゃくな攻撃に頭を悩まされることもなくなるだろうが、彼ら騎士にとってその選択は敗北だった。
どれだけ命が惜しくとも、やはりおいそれと退くわけにはいかない。いかなる困難に直面しようと決して挫けない不退転の姿勢こそ、人々をして賞賛せしむる騎士のあり方に他ならないのだ。頑なな信念が彼らを走らせた。そして誇りが彼らの身命に犠牲を強いた。
一方で、弓兵と弩兵による二重奏は観客との距離が近くなるにつれて当然苛烈さを増した。次々と上がる短い叫び声は、そのまま射手の技量の高さを物語っていた。風が鳴るたび馬が倒れ、弦が震えるたび騎士が倒れる。嘶きと悲鳴に伴奏された戦場音楽には、さしものラ・フルト騎士も恐怖を無視したままではいられなくなった。
「うろたえるな!」
と、一人の騎士が声を張り上げた。飾り彫りの細かい具足に派手な陣羽織。風に遊ばせた羽毛の頭立てから指揮官級の貴族であることがうかがえる。腕に自信もあるのだろう。矢の雨をいくつも甲冑で弾きながら、乱れた隊列を叱咤している。
「矢など恐れてラ・フルトの騎士が務まるか! 槍を構えて拍車を入れろ! 憎き敵はすぐ目の前にい」
大きいだけによく通る声は、突然勢いをなくして途絶えた。声を発する騎士自身が、脱力するまま鞍上から落ちて、走り続ける隊列から置き去りにされてしまったためだった。後続する無数の蹄によって粉砕される直前まで、彼の眼窩には深々と矢が突き刺さっていた。後ろに向けていた目を敵に戻す、ほんの一瞬の隙が彼の運命を決めたようだった。
「やった、やったぞ! 見てました、デヴィッドさん? 今の騎士を射落としたのは、俺の矢だった! そうでしょ?」
少年らしいあどけなさの残る声が、追手と正対する馬車の中に響いた。話を振られた当の本人はすげなく吐き捨てる。
「知るか。無駄口叩いてないで手を動かせ、ウィル。どれだけ手柄を立てたところで、死んだら一銭にもならないぞ」
デヴィッドの言葉で状況を思い出したウィルは慌てて仕事に戻った。あたふたと番え、再度放った矢は、緩やかな放物線を描いて迫る敵の数間手前に落下する。
「馬鹿、そんなでたらめな射ち方誰に教わった! せめて相手までは届かせろ」
「す、すみません」
ウィルことウィリアム・ケラーは今年十五になるばかりの新兵である。戦場での経験などない全くの素人だが、父親が北西公領クルトで猟師をしていたという出自に期待してデヴィッドが自身の馬車へ配属させたのだった。
彼を見出した者として、本来なら初めての手柄を誉めてやってもいいところだったが、険しい表情のまま敵勢に視線を留めるデヴィッドにその余裕はなかった。
予定よりも数が多い。
経験の浅い新兵ですら騎士を仕留められた。弓兵の戦果は上出来のはずだった。それなのに、射っても射っても一向に敵は減らなかった。
五千、六千、いや、もっといるのか。
デヴィッドは矢の不足を予感して一人冷や汗を流した。彼の観察は正確な数字を見ていた。事実ライナーの予想よりはるかに多い八千弱の騎士がオートゥリーヴ伯ガストンの後には続いていた(反対に歩兵の数は予測を下回る一万五千程度だったが、この時その事実を知るものは一人としていなかった)。クラウスらの歩兵隊の活躍と今まさに奮闘する弓兵たちの働きによってそれなりの数を減らしたものの、士気の高い七千弱の騎士たちは勢いをなくすことなく眼前まで迫っていた。
初めは百間の距離があった。撃ち出してからその距離は一時百二十間ほどにまで離れたが、すぐに持ち直したラ・フルト騎士たちの執念は、今や彼我の距離を七十間まで縮めていた。
間合いが近くなるにつれ当然命中も増えてはいる。しかしながら迫る騎士たち、殊に先頭集団の数は当初からほとんど減る様子がなかった。
あるいは矢の雨による選別が、敵の軍勢から選りすぐりのみを残させたのかもしれない。容易には崩れない精鋭の盾に守られて、後から続く騎士の群れは無限に湧いて出るかのようにデヴィッドには思えた。
ともあれ、悲観している場合ではなかった。一人でも多く数を減らさなければならない。決意も新たに矢を取るデヴィッドは、そのためにこそ苛立ちを覚えて顔を上げた。
風にたなびくのは飾り気のない紺の陣羽織。格子状の古風な面甲に縁を淡い青で飾った肩甲がまばゆい陽光を照り返す。胸部に彫られた家紋は両翼を広げて羽ばたく猛禽が描かれ、襲歩の最中にあってもその紋様が見て取れる。正面で騎馬槍を構えるその騎士こそ、今のデヴィッドにとって最も大きな障壁だった。
「あれは」
手強い。相当の手練れだ。口髭の下でデヴィッドの唇が歪む。すでに二度、デヴィッドの矢はあの騎士に弾かれていた。一度目はさらに後ろにいた高価そうな具足目掛けて射ったものを腕甲で、二度目は兜の細隙を通そうと射ったものを横に払った騎馬槍で、しっかりと防がれている。おそらくは、デヴィッドが危惧していた隊長殿に匹敵する剛の者。正騎士級の実力の持ち主と見えた。
「デヴィッド、調子は」
不意の呼びかけにデヴィッドは顔を向けた。幌の一部を切り取った窓から覗けば、疾駆する馬竜に跨った彼の上官が馬車に併走していた。
(変り種とは言え)馬を所有するエイジは馬車にかかる荷重を少しでも減らすために部下たちとは別行動を取っていた。実際は射手としての能力に期待ができない故の処置だったが、戦力外の自覚があるだけエイジはよく働いて各隊の鼓舞と状況の把握に勤めていた。今はようやく全弓兵隊への指示を終え、指揮中枢と定めたデヴィッドの馬車まで戻ってきたと言うわけだった。
「よろしくありませんな」デヴィッドは苦い顔で答えた。「厄介なのがいます。あれの勢いに引っ張られて、やつら足を緩める気配すらない。今すぐにでも代理殿に来てもらうべきでしょう。このままじゃ、うちの本命の反転を待たず食いつかれますよ」
誰を指して言っているのかはエイジにも一目で分かった。なるほど、あの堂々たる姿には矢など雨風と大差ないことだろう。二人が話す間にも、先陣を駆ける騎士ギイは六十間の距離にまで迫っていた。両の側背に数騎を伴って、鋒矢の陣形で弾幕を割り進んで来る。まさしく驚異的な速度だ。
「確かに、あれはよろしくないな」
エイジも苦くつぶやいて、頭を働かせた。反転攻撃の完全な成功を期するには、絶好の位置まで敵を引きつける必要があった。距離が離れ過ぎていては敵にこちらの動きを悟られ、対応される恐れがある。近過ぎれば反転している間に最後尾が攻撃を受け、敵味方入り乱れての乱戦に発展してしまうかも知れない。敵の視野が狭まり、かつこちらの機動が間に合う距離。三十から二十間だとライナーからは言われていたが、今の敵の勢いを見れば、それが危うい間合いだとエイジには思えた。
判断を迷っていられる猶予はなかった。先鋒の勇姿に励まされて、ラ・フルト侯軍全体が矢の脅威と、そして死への恐怖を再び忘れようとしていた。
運が悪ければ死ぬこともある。だが、それが何だと言うのか。戦場に散る名誉をこそ誇らずして、何で騎士が名乗れよう。
鎧が硬くなったわけではない。命が軽くなったわけでもない。自身への強い陶酔が彼らの感覚を麻痺させて、ラ・フルト侯軍の士気はいよいよ最高潮にまで高まろうとしていた。自己の犠牲を厭わなければ、五十間の距離など一息の間合いだった。
その時、エイジは決断した。
「俺が注意を引き付けてみる。敵が四十間まで近づいたら、予定より早いけど合図を出してくれ」
言ってしまってから、エイジは自分自身の発言に驚いていた。そして驚いたのはデヴィッドも同じだった。
「危険ですよ、お頭」
諌める口調のデヴィッドに、エイジはいくらか冷静さを取り戻して答えた。
「戦争してるんだ。危険なのは皆一緒だよ」
自身の口からこれほど大胆な提案が出てきた理由に、エイジは気づいていた。戦場に立ちながら、弓兵を率いる立場でありながら、戦力的には何の貢献もできていない自分の存在が歯痒かった。一度食らいつかれたら逃げ場のない馬車に部下を立たせながら、自分一人だけは身軽な馬竜にまたがって、危なくなればいつでも離脱できる、そんな状況にいるのが心底申し訳ないのだった。
自らを危険にさらさない指揮官のために、兵は決して身命を捧げない。
その昔戦史の授業で幾度も耳にした警句が、エイジの大きくはない勇気を奮い立たせていた。
「ウィル、合図頼む。四十間だからな」
ユーリィから預かった犬笛を投げ渡すと、エイジは愛馬に速度を落とさせた。デヴィッドの馬車の左脇から隣の馬車の射線に気をつけて、慎重に敵前へ。すぐ横を通り過ぎていた矢は、慌てて出されたデヴィッドの指示で程なく軌道を変えた。エイジの頭一つ分上を通過する矢でも、体高に差があるため普通の馬の騎乗者には当たるはずだ。
馬車と敵の先鋒とのちょうど間に割って入ったエイジは、その距離で肩に掛けていた弓を取り出し、騎乗のまま矢を番えた。
内藤流で教える武術の中には弓術もあった。が、流石に維持、管理費の問題から騎乗射撃の技術は教えられていなかった(過去に内藤流の継承者たちが研究の対象に考えていたこともあったがいずれも実現しなかった)。エイジ自身、十五の歳まで馬に乗ったことは両手で数えられるくらいしかなかったし、馬に乗って弓を射ったことは中学時代の流鏑馬体験の折で、おそらく練習を含めて五十回もなかった。
そんな腕前だったから、まず走る馬竜の背中で弓を構えられただけでも上出来で、さらに引き絞った矢を狙ったところに飛ばせたことは奇跡と言って良かった。流鏑馬では行われない高度な背面射ちの姿勢から奇跡的に放たれた矢は、ウィルも苦笑するほど緩い放物線を描いて騎士ギイの兜に当たり、マナの膜に弾かれて明後日の方向に飛んでいった。
狙われた騎士ギイはその珍妙な生き物に乗る敵の存在など歯牙にもかけなかった。追いかけて槍の錆にすることは造作もない。ただ、それすら値しないほど取るに足らない存在として認識していた。ギイに随行する他の騎士たちも同じ心境だった。
しかし、集団の中でただ一人、その珍妙で脆弱で、ただ目障りな弓騎の存在を看過できない者がいた。彼らの主、オートゥリーヴ伯ガストンである。ガストンは怒声を張り上げて命じた。
「クレボール、左へ寄せろ! そこの小賢しい騎士のまがい物を蹴散らせんではないか!」
「恐れながら、閣下」ギイは馬車から放たれる強烈な矢を兜の曲面で受けながら答えた。「今は少しでも早く敵に追いつくのが先決かと思われます。どれだけ至近で撃たれようと、あれの放つ矢に、小生は特段の脅威を感じません。捨て置いてもよいでしょう」
「ならん!」
ギイの進言は正しいはずだったが、彼の主はそれを受け入れなかった。隊列を崩すのも厭わず無理やり進路を変え、人を乗せた大きなトカゲに槍先を合わせた。ガストンは許さなかった。妥協も容赦も一切考えなかった。その呪わしき道具を使うものは誰一人、全くの例外もなく八つ裂きにしなければならない。執念が、彼の思考と視野をどこまでも狭くしていた。
一方で慌てたのはエイジである。もとより敵の気を引くつもりでの行動ではあったが、五、六騎からなる、デヴィッド曰くの厄介な騎士たちが、突然そろってこちらに向かって来る。射った矢は容易く弾かれて何の抵抗にもならない。
「やっべ!」と、遅ればせながら馬腹を蹴れば、主の意を得たハナは跳ねるように地面を蹴り、咄嗟に右方向へ跳躍した。尾の先を槍が掠める。急に射線へ飛び込んできた弓兵頭の馬には掩護するデヴィッドたちも肝を冷やしたが、寸でのところでエイジは命を拾った。
しかし安堵する余裕はなかった。先走るガストンを守れと、騎士ギイら五騎ほどが次々に逃げるエイジとそれを追う主を追いかけた。
飛んだり跳ねたり激しく入り乱れる敵とエイジの様子に、デヴィッドは一時射撃を止めざるを得なかった。ウィルを除けば精鋭でそろえたデヴィッドの馬車でも、誤射の可能性を考えずに撃てる状況ではない。
「慎重に狙え。獲物は一人ずつ、確実に、だ。何をどう間違えても、絶対、頭にだけは当てるなよ」
指示を出しつつ、デヴィッドは自身の目標を見定めた。狙うはやはり紺の陣羽織か。この状況なら、あの騎士でも多少の油断くらいはしているだろう。いや、それより誰でもいいからとにかく数を減らすべきなんじゃないのか。落としやすく、かつそれなりに地位がありそうな騎士。馬装、具足、陣羽織、頭立て、デヴィッドは注意深く観察し、これと思う標的を見つけて弓を引き絞った。
時を同じくして、執拗な追撃を続ける騎士たちの猛攻は半包囲の形をとってついにエイジを仕留めようとしていた。度重なる騎馬槍の突きを巧みに捌くハナは実際見事な大立ち回りだったが、あまりに数が多過ぎた。槍にぶつけ続けた長い尻尾は鮮血を滴らせながら半分ほど千切れ、腿や鼻面にいくつもの裂傷が目立つ。荒げた息で上げる威嚇の奇声にも覇気はなく、まさに手負いの状態である。この有様でも騎乗者にはほとんど傷を負わせなかったのだから、賞賛されるべき大活躍と言えるだろう。
しかし、その奮闘もこれまでだった。騎士ギイとその僚友たちが追い込んだ馬竜の退路を塞ぐように、オートゥリーヴ伯ガストンは手綱を操った。悲願の復讐、その第一歩目がようやく始まる。ガストンは歓喜と憎悪とがない交ぜになった複雑な感情の赴くままに、右手の騎馬槍を高々と振り上げた。
四十間の先でその瞬間を待っていたデヴィッドは、小さく口端を上げてつぶやいた。
「悪いが、絶好機だ」
短く鋭い一音と、たちまち巻き起こる風圧が幌を一瞬だけ躍らせた。全身全霊のマナを込められ、限界まで引き絞られた弓弦を、解き放ったのだ。
解放された矢はマナの残滓を煌かせつつ一直線に突き進み、吸い込まれるようにガストンの、大きく開かれた脇下に飛び込んでいった。途中に何があったとしても貫ける自信がデヴィッドにはあったのだから、内に着込んだ鎖帷子などまるで意味をなさない。オートゥリーヴ伯ガストンは、射抜かれた衝撃で横倒れに落馬した。
そして長く尾を引く遠吠えが、喧騒にまぎれて幾つも続いた。




