十三、騎士と長槍
折からの雨が上がり、ルシヨン近郊では夜明けと共に濃い霧がたち込め出していた。不明瞭な視界は『法術』による索敵の精度に影響する。相手のいる凡その方向に見当をつけなければ居場所や規模を正確に感知するのに時間を要するためだ。
無論偶然の産物ではない。雨はライナーの指示でヤン・ヴェンツェルら魔法士隊が人為的に引き起こしたものだった。季節柄の南風に乗った雨雲は、発達を続けながらラ・フルト侯領中部全域に降り注いだ。家々や地面を濡らした雨の名残が朝の兆しと同時に霧へと変ずるのは自然の摂理である。
この天候のためラ・フルト侯軍の動きは遅れ、エスパラム公軍はその間に街道を南へひた走る。泥を跳ね上げる鉄靴と馬蹄と車輪は、程なく乾いた地面を踏んだ。ルシヨンからは二里ほど離れた辺りだった。
クラウス・クラマーは耳慣れた騒音の中に違和感を覚えて振り返った。白狼隊の精兵も幾人か、彼に倣って足を止める。クラウスは舌打ちした。
「っ、もう来やがったか」
クラウスの五感は正確だった。霧もはや薄まりかけた視界に無数の旗を掲げる騎士の群れが確認できる。地響きに混じって聞こえる声は、力と勇気の守護聖人に加護を求めて止まない。
クラウスは深く息を吸い込み、大きな溜め息と共に吐き出した。絶望しているのではない。あらかじめ与えられていた課題に対して、いよいよ手をつけなければいけない事実を痛感し、覚悟を決めたのだった。クラウスは肩に担いでいた長槍の石突を街道に突き立てて指示を出した。
「歩兵全隊止まれ。回れ右して、お客さんを迎えるぜ」
歩兵頭の命令は程なく全隊に行き渡った。集団の半数近くが徐々に足を止め、がちゃがちゃ得物と甲冑を打ち鳴らしながら振り返る。そうする間に、敵は一里の距離にまで迫っていた。
続けてクラウスの指示は飛んだ。
「手筈通り、各中隊単位で“いがぐり”を組む。どんだけ怖くても、死にたくなけりゃあ戦列を離れんなよ。足並み揃えて、騎士様方をお出迎えだ!」
エスパラム公軍は緩慢にではありながら指揮官の命令を実行に移した。一万五千余り、手に手に長柄の武器を持つ歩兵たちは一分隊あたり二百ほどの小集団に分かれた。形としては方陣に近いが、列を成す足並みにはばらつきがある。互いの鎧が擦れ合うほどに身を寄せ合い、四方八方へ雑然と伸びる得物の穂先は文字通り栗の毬だった。
ちょうどその時、霧中を抜けたラ・フルト騎士の先鋒も敵の存在に気づいた。ようやっと見つけた獲物を逃すまいと、構える騎馬槍の鋭利な先端がクラウスたちに据えられる。
間合いはすでに指呼の間だ。両集団の上げる鬨の声が、遠く天上の彼方まで轟く勢いである。
聖ブロワ、ラ・フルト、ガストン・ドートゥリーヴ!
聖アルテュール、エスパラム、ライナー・ランドルフ!
南へと伸びる街道上、群がる鈍色の針山は、猛る騎士の行列を正面から迎え撃った。
オートゥリーヴ伯ガストンは臣下の強い勧めで足を止めた。本人にとってはまことに不本意なことである。面頬を上げ、怒りに充血した目で彼を諌めた壮年の騎士を睨んだ。
「何故止める、クレボール」
問われた騎士、ギイ・ドゥ・クレボールはその鋭い眼光から逃れるように視線を転じて答えた。
「恐れながら閣下、敵は密集陣形を組んで我らを待ち受けております。あの布陣に対して正面から挑むのは少々分が悪いかと、小生には思われます」
密集陣形。俗に“いがぐり”や“ヤマアラシ”などと呼ばれるこの陣形は、戦場において無敵を誇る騎士に対して非力な歩兵が取れる唯一の防御手段だった。
互いの肩を密着させ一塊となった歩兵は、五間を超える長柄の槍や戟、矛槍を一斉に並べて騎士の突撃に対抗する。武器とするのは単純な数の論理だった。一頭の馬と一人の騎士による攻撃を数十の人間の連携で押し止めようと言うのである。一本二本の長槍を払い、三本四本の戟を撥ね退けても、なお騎馬槍の間合いには届かない。立ち向かう騎士にしてみれば、気圧されることなくこれを蹂躙するのは容易なことではなかった。
現に、血気に逸ったラ・フルト騎士が数名、“いがぐり”の針に騎馬槍と鎧を絡めとられ、落馬の憂き目に遭っていた。馬から引き摺り下ろされた騎士に逃げる以外の選択はない。蛮勇を奮って立ち向かおうものならたちまち針の壁に全身を貫かれ、無数の鉄靴でもみくちゃに踏み荒らされて終わりだろう。優美を誇る板金鎧も、そうなっては形無しである。
逃げを良しとしない勇気ある者は決して多くなかったが、単に離脱に手間取って、あるいはすぐ眼前に迫る無数の針山の勢いに竦んでしまって、戦列を離れることになった者は少なくなかった。このまま考えなしの攻撃を続ければ、被害の拡大が深刻となるのは明らかだった。
ために、騎士ギイは冷静な判断で進言した。
「まずは兵を左右に分け、敵を包囲してはいかがでしょうか。周囲を囲みながら素早く駆け回ることで陽動をかけるのです。そのまま敵の疲弊を待っても良いでしょうし、陣形に綻びがあればそこから一気に懐へ突入することもできましょう。密集陣は守りにおいて堅固ですが、正面以外を突けば必ず崩せます。閣下、お命じ頂ければ、小生が陣頭に立って指揮をとりますが」
ギイが説くのは密集陣形への正攻法だった。いかにも槍を並べた正面以外は必然的に無防備とならざるを得ず、騎兵の本領である機動力で翻弄してやれば相手の疲弊を誘うこともできるはずだ。
しかし、その真っ当な進言をオートゥリーヴ伯は良しとしなかった。一団の総指揮官は、その暗い単眼に騎士ギイとは異なるものを映していた。
「少ない」
「は?」
「見たところそれなりの数はいるが二万には到底届かぬ程度だろう。それに目に付くのは槍兵ばかりでその他の兵装は見当たらない。これで全軍ということではないはずだ。どういうことか、クレボール」
「はッ! 直ちに確認いたします」
不意に問われて、ギイはすぐに責任者を呼んだ。伝令が斥候隊へ飛び、程なく答えが知れた。
「どうやら、徒歩の者をここに残して、変わらず南下を続けているようにございます。あの歩兵たちは、ライナーなる敵の指揮官が我らの追撃から逃れるための時間稼ぎに使われたのでしょうな」
敵のことながらギイは憤りに眉根を寄せた。仲間を捨てて逃げ続ける敵の指揮官には軽蔑を覚え、そんな役回りを押し付けられた歩兵たちには同情すらする思いだった。
しかし、さりとてここは戦場である。勝敗がつく前の敵に情けをかけるなど、相手を侮辱する行為に等しい。ギイは心を鬼にして敵の殲滅に当たる覚悟だった。そんな家臣にオートゥリーヴ伯ガストンは事もなく告げた。
「ならばすぐに追いかけるぞ。続け」
手綱を繰って馬首を傾ける。敵の集団から顔を背けた彼の馬は、群がる針山を迂回する進路で街道脇の草原を駆け始めた。騎士ギイは慌ててその背中に声をかけた。
「お、お待ちください閣下、目の前の敵はどうなさるおつもりで」
「構うな。捨て置けばよい」
オートゥリーヴ伯は鞍上で答えた。無論振り返りもしなかった。ギイは追いすがってなおも尋ねた。
「捨て置くとは、何故にございましょう」
「卿の洞察を正しいとするなら、今そこに立ち止まって槍を振るっている雑兵どもの眼目は我らの足を止めることにあるのだろう。雑兵と言えど死に物狂いとなれば片付けるのに手間も取る。そのために敵の本隊を逃がすようなこととなれば、それこそ奴らの思う壺ではないか」
「し、しかしながら、このままあの歩兵を放置していくのは危うきことと存じます。もし先行する敵の騎兵が反転すれば前後を敵に挟まれることになりますぞ」
オートゥリーヴ伯ガストンはわずかに顔を傾けた。顔の半ば近くを覆う黒い眼帯が、並走するギイに向けられる。
「間の抜けたことを言うな。敵が反転したとしても挟撃されることはない」
「何故、そのように言い切れるのですか」
「そこの雑兵どもがもし後背から我らに襲いかかろうとすれば、後続となるこちらの歩兵にその背後を晒すことになる。卿が奴らの指揮官なら背後から敵が迫る状況で、速さにおいて到底敵わぬ騎兵を追いかけるような命を出すのか」
問われてギイは押し黙った。鎖帷子の下で耳が赤くなっているのを感じる。彼は今の今まで後続の存在を忘れていたのだった。
ガストンは部下の失態をいちいち責めたりはしなかった。油断なく右手に展開されている“いがぐり”を見やり、五十間以上の間合いを取って馬に駈歩を続けさせた。
「敵が反転すると言うなら望むところだ。真正面からこの槍で、ねじ伏せてくれる」
ガストンは握り締めた騎馬槍を高く掲げて、声を張り上げた。
「者共我に続けぇ! 死兵と化した殿にかかずらわっている時間はないぞ! 雑兵の相手などは雑兵に任せて、我らは敵の本陣を突くのだ!」
乱れかけていた統制が、総指揮官の大音声で元に戻りだした。そうだ、放って置けば良い。より強き敵との戦いこそ、騎士の誉れじゃないか。口々につぶやく騎士たちは下賎な歩兵などに手こずっていた事実を過去のものにして、我先に“いがぐり”の群れから離れて行く。
力と勇気の守護聖人に加護を求める鬨の声は、音を揃えて南へ向かった。
クラウス率いる歩兵第一大隊は派手な陣羽織を矛槍の鉤に引っ掛けて、ちょうど二十人目の騎士をその槍の餌食にしていた。首級の確認は必要ない。捕虜にとる余裕とて今の彼らにはないのだ。殿の最前線を守る責務として、貪欲に次の獲物を求めて蠢く。
二十人とは五百名からなる一個大隊の戦果にしては少なく聞こえるが、クラウスはその数字に満足していた。直接の攻撃は彼の大隊の仕事ではない。他の隊よりやや多く、颯爽と白狼旗をなびかせていかにも指揮官がここにいるぞと誇示することで、彼らは囮となっているのだ。餌におびき寄せられた騎士たちを手にかけるのは、周りの中隊の仕事である。全体の戦果としては軽く見積もって五百は削れているはずだ。相手が騎士なら十分誇っていい戦果と言える。
ところが、その矢先にラ・フルト侯軍の動きが変わった。まとまりのない小競り合いを止めて、騎士たちは突如馬首を返した。
エスパラムの長槍は各中隊長の指示で一斉にその動きを追った。彼らの穂先が向いた先は、例外なく南だった。ラ・フルト騎兵は右に左に隊列を分け、立ち塞がるエスパラムの“いがぐり”を大きく迂回して行く。
密集する槍の間からその様を見て、クラウスは一つ息を吐いた。
「まずは予定通り、か」
ライナーの企図した作戦の第一段階が完了した。敵の誘引も足止めも、これまでのところは概ね立案者の思惑通りに推移している。緊密に連絡を取り合うのが困難なため被害状況のほどは知れないが、少なくとも彼の大隊に関しては無傷と言って良い。決して多くの時間を稼いだとは言えないまでも、最低限の仕事くらいはこなせたはずだとクラウスは思った。
と、一瞬緩みかけた気持ちをクラウスは改めて引き締める。彼らにとっての正念場はここからだ。ライナーが作戦通りに反転挟撃を成功させ、敵の主力騎兵を打倒するまで、彼ら歩兵は戦列を維持して耐えなければならない。ライナーの見立てでは敵の総勢は三万弱、その内クラウスらが引き受ける歩兵の数は二万そこそことされていたが、それも正確な数字ではなかった。遠からずやって来る少なくとも同数以上の敵と、歩兵だけでやり合わなければならないのだ。
もちろん勝つ必要はないが、負けないためにと密集陣で防御を固めても、騎兵に対する時のような効果は期待できない。もとより数を力と頼む戦法である。同じ陣形で押し合いとなった時、頼りになるのは彼ら自身の肉体と精神力のみであり、必然数の多い方にこそ分があった。
遮る物とてない平原に、小細工なしのぶつかり合い。切り抜けられるか否かは、率いるクラウスの指揮能力にかかっている。やりがいと同じだけ、いや、それをはるかに上回る重圧が、クラウスの喉を平素以上に乾かせた。
仮にライナーが作戦通りに騎兵を殲滅させても、歩兵の損害がそれを上回ってしまったらこの戦は負けと同じだった。また、クラウスが首尾よく歩兵の損害を抑えてもライナーが敗れれば全ては無意味となる。
もし、両方が失敗したら……?
クラウスは頭を振って最悪の想定を思考から追い出した。始まっちまったら、後はやるだけだ。とにもかくにも最善を尽くす。今の彼にできるのはそれだけなのだ。
強いて迷いを振り払えば、前向きな気負いがクラウスを微笑ませた。槍兵だけだが一万五千の大軍勢。真っ当な軍隊なら、これほどの数を率いることができるのは貴族の生まれでもごく一部の高家に限られる。元帥位など望むべくもない一介の傭兵には、またと得がたい機会だった。
前の戦でも一万二千。クラウスは武者震いする手を揉み解しながら思い起こした。ひょっとしたら、こんな戦いは隊長殿でも経験ないんじゃないか。考えるだに心が躍る。この状況で恐怖が勝たないのだから、良識派を自称する彼もしっかり白狼隊に毒されているのだった。




