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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第三章「ラ・フルト」
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九、期待と不安

 本営と定められた旅籠は最悪の雰囲気と言ってよかった。すでに皆が集まっていた食堂に遅れて顔を出したエイジとライナーは、いつになく重い空気を感じて緩んでいた表情を引き締めさせられた。


 周囲を威圧するようにいかめしい面は旗持ち騎士長のヴォルフガング・ザイファルト。彼から少し距離を空けて魔法士長のヤン、椅子の下に伏せる犬の毛皮をもてあそぶ諜報連絡役のユーリィ、隊長補佐並びに歩兵頭のクラウスに輜重頭のディルクらはそれぞれ神妙な面持ちで着席し、その向かいでは会計役のエンリコと隊付き導師のエティエンヌまで、気まずそうに口を閉じている。


 周りに気を使ってか、一人壁際に寄りかかって憂鬱顔を俯けていた工兵頭クルピンスキィは、気まずそうに入り口で立ち尽くす隊長補佐筆頭と弓兵頭の存在に気づいて空席を示した。


 二人が恐る恐る長机の端の席に腰を下ろすと、やはり不機嫌そうに眉根を寄せる副隊長が同じく機嫌の悪そうな隊長殿の耳に全員の集合を報告した。


 ヴァルターは椅子の背に預けていた体を跳ねるように起こして立ち上がった。一同の前に歩み出るや、単刀直入に切り出す。


「飯が届かねえ」


 隊長殿の言葉に一同は顔を見合わせた。ヴァルターは丸めた羊皮紙の束を卓上に放り投げて続けた。


「ブリアソーレで留守を守ってる軍監殿からだ。野郎出陣前から戦費がどうのと文句垂れて散々足を引っ張ってくれたが、とうとう強攻策に出やがった。七日前のが最後の補給で、以来文の一つも寄越してきやがらねえ。こっちからの催促も全部無視してやがる」


 エンリコは羊皮紙の束から一番日付の新しいものを取り出して目を通した。七日前の補給と共に届いた最後の書簡だった。


「これ以上人と金と時間を費やすつもりなら、ブリアソーレからの補給は出せないから自弁してもらう他ない。それが嫌なら人を減らして節制に努めろと、なるほど、軍監殿は仰せらしい。ご丁寧に細かい指示書きまであるぜ。徴募した兵員は即時解散。五千をブリアソーレに返して残りの七千弱で攻囲を継続すべしって、こりゃあ」


 苦笑顔を上げたエンリコにヴァルターは微笑みかける。無論その目は笑っていなかった。


「ふざけてやがるだろ? だからすぐに一筆書いて送ってやった。馬鹿なこと抜かしてねえで出すもん出せってな」

「で、それに対する返事がこの仕打ちってわけだ」


 ところどころから溜め息が聞こえた。隊長殿の子供じみた行動に呆れる者は多かったが面と向かって批判する者はいない。たったの七千で全周十五里以上に及ぶ大都市を攻囲しろと言う命令がいかに馬鹿げた話か理解しているためだった。


 ただ一人、副隊長だけが意見を述べた。


「軍監殿の申し分にも一理あります。先の野戦にてすでに戦の勝敗は決しました。これ以上の増員は無駄な出費を生むだけです。一部の正規兵員だけでもブリアソーレに返して問題ないでしょう。兵を募るにしても前線でする必要は感じません」


「分かってねえなハインツよ。問題も必要も大有りだっつの」ヴァルターはやれやれと頭を振って続けた。


「俺たちが声をかけなかったら、戦で雇い主をなくした傭兵やら敗残兵やらはどこに行くと思う? 十中八九、元の鞘に戻るぜ。野戦には負けたが大将も城も無事。兵力差だって元から比べれば幾分減ったが未だに敵さんが優勢だ。逆転の目は全く潰えたわけじゃねえ。味方が増えりゃあすっかりなくしかけてた敵の戦意だって回復するかも知れねえな。士気の上がった兵が守る城はお前、厄介だぜ」


「兵が増えれば飯の減りだって増えるだろ」挙手して言うのはクラウスだった。「敵が飢えるのを待ってから攻めるのも一つの手なんじゃねえか」


 常識的で理に適った意見である。ハインツと理屈屋のヤンも同意するように小さく肯いた。しかし、ヴァルターは即座に否定した。


「元々十万近い兵が収容できるほどの大都市だ。いくら収穫前だったと言っても備蓄に不足はねえだろう。大体ルシヨンより北は相変わらず敵の勢力圏で俺たちには手が出せねえんだ。足りなくなったら北側からいくらだって運び込める。そんな状況で兵糧攻めもねえよ」

「なるほど、確かに」


 クラウスは腕を組んだ。横目でヤンを見るが特に反論はないらしい。なおも不満げなハインツは一度閉じかけた口をまた開いて抗弁を続けた。


「ならばそれこそ現有の戦力で出来ることなどないのでは? 敵の眼前にこうして陣を張るより、戦線を下げ、ルオマ寄りのどこかに拠点を設けて本隊の進軍を待つのが賢明と思いますが」

「完全に囲んじまうことはもちろん無理だが、出来ることならあるさ。現に俺たちは今俺に考えられる限り最善の手を打ってる」


 ヴァルターの言葉にハインツは眉根を寄せた。首を傾げたくなったのは彼だけではない。その場にいる大半の者には今正に自分たちが敵の城を攻めている最中だと言う自覚がなかった。ヴァルターは続けた。


「兵糧だけが相手の弱みじゃねえってことよ。もしここで兵を退いたら奴らはきっと安心して胸を撫で下ろす。畑は焼かれたが敵は退いた。もう戦は終わったんだって勝手に区切りをつけて気持ちを立て直すだろう。すればその勢いで再戦だって企んできやがるかも知れねえし、ここは一旦放置して西の戦線に本腰を入れだすかも知れねえ。だが、俺たちが居座ったままならやつらは気を緩めることが出来なくなる」


 ハインツは一瞬だけ目を見開き、すぐに眉間の皺をよりいっそう深くした。ヤンやクラウスら、察しの良い者も隊長殿の言わんとすることを理解した。エイジは向かいで頬杖をつくライナーの口元が、ハインツが軍監の指示に対して肯定的な意見を述べたあたりからにやついていることに気づいていた。


 ヴァルターは微笑して続けた。


「自分たちを打ち負かした相手が目の前で日に日に数を増していく様を見るのはきっと気分の良いもんじゃないと思うぜ。幸運にも命を拾った敵兵はもちろんのこと、街や家族を奪われるんじゃないかって怯える市民連中にとってもだ。いつ敵が攻めてくるかも分からねえ状況じゃあ飯の味だって分からなくなるだろう。そのうち喉だって通らなくなるかもな。そうなりゃ開城は時間の問題だ」


「つまり、敵の心を攻める、と言うわけだ」


 ヤンのつぶやきにヴァルターは肯いて答えた。


「万事が万事上手く運ぶってこともねえだろうが、一戦も交えず、一人も損なわずに城を落とせるなら上出来じゃねえか」


 ヴァルターは一度言葉を切って反応を待った。誰の口からも反対意見は上がらなかった。


「勝とうと思ったらなおのこと、ここで退いて良い理由はねえ」机上の羊皮紙の山に手を乗せてヴァルターは言った。「だってのに頭でっかちな軍監殿にはこんな簡単な理屈が分からんらしい。参るぜまったく」


「で、どうすんだ、隊長殿」


 ライナーに尋ねられ、ヴァルターは良くぞ聞いてくれましたとばかりに口角を上げて答えた。


「話の通じねえ軍監殿とこれ以上書簡でやり取りするのは紙と時間の無駄だ。この上は面と向かって直接物申してやる以外にねえ。もちろん俺が、直々に、な」


 ヴァルターの言葉は最後の部分が強調されていた。ヴァルターは皆が意味を理解するのを待たず矢継ぎ早に指示を出した。


「ハインツ、お前も付き合え。とりあえず騎兵二個中隊を選抜して昼過ぎには出る。馬には荷運びを頑張ってもらわなきゃならねえから、後続を二個大隊。そっちはお前が指揮しろ。人員はディルクと相談して適当に決めればいい。今日中には追いかけて来いよ」


「はッ」ハインツは反射的に答え、すぐに尋ね返した。「しかし、隊長殿自ら、ブリアソーレまで、赴くのですか?」

「相手が目下じゃあ言うことを聞かねえだろう軍監殿は」

「それは、理解出来ますが」


 ハインツは言葉を詰まらせた。その点について異論を挟むつもりはない。気になるのは彼自身の人事についてだった。


「私が随行するとなれば、後の指揮は」


 当然の疑問と言えた。隊長が不在の間の指揮は順当なら副隊長が担う。部隊を三つ以上に分ける場合などは隊長、副隊長以外の者が任命されて分隊を率いるのが通例だが、今回に限ってはその必要もないはずなのだ。人馬の引率などと言う雑用を副隊長に命じた意図が分からず、当人でなくともその人選には首を捻りたくなるものがあった。


 果たしてヴァルターは長机の末席で気だるげに頬杖をつく青年を指差して答えた。


「隊長代理はお前だ、ライナー」


 その一言で場の注目が一斉に集まった。当の本人はと言うと、小指の先で耳の穴をほじっていたせいか自分が何を言われたのかよく聞こえなかったらしい。耳垢を衣服に擦り付けて「え、なに?」と間の抜けた声で尋ね返す。


 ヴァルターはライナーの背後に立ってその曲がった背中を強く叩いた。


「留守の間ここをどうするかはお前に任せるって言ったんだよ。俺が帰るまで、まあ往復七日ってところだろうが、せいぜい楽しめ、隊長代理」


 卓に突っ伏して背中をさするライナーだったが、それでもすぐに起こした顔は喜びの笑みを浮かべていた。握った拳をヴァルターに掲げて答える。


「おう、任された」


 ヴァルターはその甲に自身の拳を軽くぶつけた。俄かに上がる拍手がライナーの抜擢を称えた。お調子者のエンリコが指笛で囃し立てると、さらに調子付いたライナーは卓上に乗り上がって満場の拍手に答えた。ヴォルフなどは主と共に見守ってきた青年の成長に感じ入って豊かな髭を涙と鼻水で濡らしている。


 ヴァルターはお祭り騒ぎを後にして食堂を出た。


「不服そうだな」


 振り向かずに尋ねると、背後でハインツが足を止めた。目をやればやはりその眉間には見慣れた縦皺があった。


「不服と言うより、不安しかありません」ハインツは答えた。食堂の盛り上がりに顔をしかめる。

「他にいくらでも適任者がいると思いますが」


 ヴァルターは苦笑した。歩きながら続ける。


「お前はそう言うが、あいつには才能があるぜ。腕も立つし度胸も人望もあるし、何より俺と同じで勘がいい。理屈じゃなく感覚で正しい判断が下せるんだな。指揮官としては得がたい才能だ。足りねえ理の部分を埋められる片腕をつけてやればきっと良い将になれる」


 ハインツは答えなかった。隊長がライナーのことを兵ではなく将として高く評価していることを意外に思っていた。


「考えてもみろよ。この先どんどん所帯がでかくなってったら、とても俺とお前だけじゃ隊をまとめきれなくなるぜ。そんな時俺ら以外で率先して引っ張っていけるやつがいねえと困るじゃねえか。繰り返すが才能は俺が保証する。あとあいつに必要なのは経験と実績だけなんだよ」


 ハインツは理解した。要するにこの抜擢は隊長が大きな期待を寄せるライナーの立場を隊内に知らしめるための興行だ。それに伴う新編成の試用と披露が目的なのだ。短期間でも一軍を率いた事実があれば、ライナー自身も、その周りも、指揮官としての彼を抵抗なく認めることだろう。ライナー個人の人格に不安はあるが、隊長の構想自体に異を唱える気はハインツにはなかった。


 彼がいまひとつ釈然としないのは隊長の発言だった。


 ライナーを将たらしめるための片腕とやらが誰の事を指すのか、ヴァルターは明言しなかった。


 ヴォルフではないだろう。ヴァルター個人に仕える彼はヴァルター以外の指揮下に入ることを望まない。


 クラウスやヤンも違う。白犬隊としての付き合いが長い彼らはライナーの指示を受けることに慣れ過ぎている。ただ従うだけではライナーの思慮の浅さを補うことは出来ないはずだ。


 エンリコもエティエンヌもクルピンスキィもディルクもユーリィも、個々の得手にこそ光るものがあるものの参謀に向いているとは思えない。


 ハインツは不快感に唇を歪めた。思い当たる人間は幾人も残らなかった。いや、本音を言えば隊長の頭の中にある人物が誰なのか分かっているのだ。


 視界の端を小柄な黒髪が通り過ぎた。楽しげな喧騒を振り返りもせず、青年はそのまま旅籠を出て行った。ハインツは不快を隠さない表情でその背中を見送った。


 エイジが弓兵のまとめ役(白狼隊では頭と呼称される)に推挙された時、あからさまな贔屓に反発する声は少なくなかった。隊長殿の有無を言わさぬ強行採決と新任弓兵頭の今日までの仕事ぶりでそれらの不平もすっかり忘れ去られたが、また隊長の口添えで地位を上げたとなればせっかく鎮火した種に再び火をつけ直すようなものだ。


 隊長が指名すればいらぬ反感を蒸し返すことになる。そうさせないためにはヴァルター以外の者にエイジを支持させる必要があった。頼むに不安のぬぐえないライナーの幕下なら発言や活躍の機会も増え、やがて隊の要職を勤めるエイジの姿も自然なものとなるだろう。そして隊長と隊長からの信任が厚いライナーが推すならその待遇に文句をつけられる者もいなくなるはずだ。


 隊長殿が言うところの「率先して引っ張っていけるやつ」の中にはエイジの存在も含まれている。ハインツは自身の推測を疑わなかったし、エイジに対する評価にしても文句をつける気はなかった。


 ただ、気づかれていないとでも思っていそうなヴァルターの曖昧な言い回しが、彼は無性に腹立たしかった。





 エイジは昼間から飲む酒があまり好きではなかった。非番であればいつどこで飲もうが余程のことがない限りは咎められることもなかったが、しばしば逃避として酒をたしなむエイジには日の高いうちから飲む酒に心理的な抵抗があった。そしてなにより重要なことに今日は非番ではないのだ。


 はや酒宴と化したライナーの隊長代理就任記念集会を林檎酒一口で辞したエイジは、早足で自身の率いる弓兵の訓練場へ向かった。道々掛けられる声に適当な挨拶で返しながら四半刻ほど訓練場を視察したが、探していた二人の姿は見当たらない。


 エイジは通りがかった長弓第二大隊長デヴィッド・ブラウンに尋ねた。


「ぺぺとボリスは?」

「さあ、今日は見てませんが」デヴィッドは肩をすくめた。「また輜重に駆り出されているんじゃないですか。先刻から騎兵が行きかうのをよく見かけますし」

「そうか。ありがとう」


 エイジは答えて踵を返した。ヴァルターは昼過ぎには出ると言っていた。通常の仕事に加えて騎兵千五百あまりの急な出撃が下知されれば、その支度をする輜重隊も目が回るほどの忙しさになるだろう。そんな時は大抵他所の部隊から人手を借りてくるのだ。


 デヴィッドの言葉通り、エイジは忙しなく立ち働く輜重隊の中に見慣れた巨漢を見つけた。


「ペペ」


 呼ばれた巨漢は荷馬車から硬麦餅の入った皮袋を下ろして顔を上げた。


「ああ、エイジ。何してるんだ、こんな所で?」

「それはこっちの台詞だよ。いつから輜重隊に鞍替えしたんだ」

「へへ、忙しそうにしてたから、つい手伝わなきゃって思って」


 ペペは申し訳なさそうに短く刈り上げた頭を撫でた。本来の所属は弩第一大隊長のボリスの下だが、平時のペペはその膂力を見込まれてしばしば輜重や工兵の手伝いを頼まれることがあった。ペペ自身弩兵として十分な戦果を上げられない事を気にしていたのだろう。声を掛けられれば二つ返事で了承してどこにでも顔を出すものだから、今では隊内でも五指に入る力自慢「大食いペペ」の名を知らない者の方が少ないほどだった。


「ボリスは一緒じゃないのか?」


 尋ねられたペペは途端に目を泳がせた。


「ああ、兄貴は」


 あちこちへ忙しなく揺れる視線を何度も近くの幌馬車に向けては逸らす。エイジは溜め息を吐いて幌の中に上がった。すぐに酸っぱい臭いが鼻をつく。顔をしかめて奥を覗けば丸くなった綿布から色の薄い脛毛の裸足が見えた。よくよく幌内を見てみれば皮の靴やら帯やら下服やらが乱雑に転がっている。エイジが布を引っぺがすと、案の定酒瓶を枕に眠りこけるボリスがいた。


「ボリス、起きろ。もう昼前だぞ」


 エイジは肩をつかんで揺さぶった。しかし、うわ言を返すばかりのボリスは一向に起きる気配がない。


「駄目だな」頭を振ってエイジは振り返った。「ぺぺ、運ぶの手伝ってくれ」

「ああ、分かった」


 二人に服を着させられる間もボリスは寝ぼけたままだった。どうにか格好だけ取り繕われたボリスはエイジとペペに肩を担がれて営舎まで帰った。彼が目を開けたのは硬い寝台に転がされる段になってようやくのことだった。


「弓兵隊長どのじゃねえか」ボリスは落ちそうな目蓋をこすって言った。「おはようさん。熱心だな、毎朝毎朝」

「もう昼前だって」エイジは椀に水を注いで小卓に置いた。「ボリス、酒はほどほどにしないと。そんな飲み方してたらいつか体を壊すぞ」

「やめろよ、俺に説教なんか」


 ボリスは震える手で椀をつかんだ。ぐっと飲み干してうな垂れる。縮れた金髪が椀の縁に落ち、規則的な呼吸が後に続いた。エイジは再び眠り落ちそうなボリスの肩に手を伸ばした。


「今日は非番じゃないだろ。大隊長がそんなじゃ示しが」

「うるせぇな、触るんじゃねえよ」


 薄鉄の椀が壁に当たって床に転がった。ボリスは払いのけた手で金髪をかき上げ、澱んだ目でエイジを見上げた。


「偉そうに抜かしやがって。一体いつから、そんな身分になったんだ、え、ベルガ村の奴隷が?」


 ペペは困惑して声をかけられず、エイジも答えないために沈黙は重く立ち込めた。ややあって、エイジは表情を変えずに答えた。


「何言ってんだよ、今更」椀を拾い上げ小卓に置く。「お互い様だろ、卑しい身の上は」


 ボリスは舌打ちして目を逸らした。寝台に寝転がり、背を向ける。エイジも踵を返して戸口に手をかけた。心配そうなペペの視線に気まずさを感じて眉根を寄せるが、ボリスには背を向けたまま言った。


「大隊には病欠って伝えとく。それと、しばらく酒は飲むなよ」


 ボリスは答えなかった。エイジも返事を待たずに営舎を出た。ぺぺは二人の背中を交互に見やるばかりで、結局何も言えずに立ち尽くした。


 ひと際高い嘶きが、眠りに落ちる前のボリスの耳にも届いた。ヴァルター率いる先遣の騎兵二個中隊がルシヨン城外市の陣地を出立した。


 空位二十三年初秋の十七日、正午を過ぎた時刻のことだった。


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