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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第一章「エスパラム」
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六、神-1

「馬鹿野郎めが」


 村の中央通で弟ジョエルの亡骸を見たとき、領主ギョーム・デ・ベルガは吐き捨てた。


 思えば子供のころから馬鹿な弟だった。短気で思慮に欠け、気に入らないことがあればいつも暴れた。やれお気に入りの靴がない、やれ俺の鞘に泥が跳ねた。くだらないことで機嫌を損ね、誰彼かまわず喧嘩をふっかけては自慢の怪力で叩き伏せる。


 領民はおろか親類縁者にすら煙たがられてほとほと扱いに困る弟だったが、不思議とこのギョームには懐いていた。兄貴、また戦か。兄貴、先陣は俺だろ。戦と聞けば目を輝かせて飛んで来るこの弟をギョームも憎からず思っていた。


 じっとしていることができないジョエルはことのほか学問が苦手だった。人の話を聞かず、家庭教師を何度も変え、公用語の読み書きを覚えたのは二十歳になってからだった。


 そんなことだからエスパラム語で書かれた文書も読めなかったのだろう。陣羽織に縫い付けられていたのは隣村への救援依頼を託した書状だった。

 屋敷を盾に篭城し、ギョームが魔人を引き付ける。その間ジョエルは隣村で兵を借り、体制を整え屋敷の内と外から魔人を挟み撃ちにする。これがギョームの思い描いていた作戦だった。直接弟に声を掛けなかったのは群衆に知られて余計な混乱を招きたくなかったからだ。あのまま屋敷を囲んでくれればいい囮になる。ギョームにはもとよりジョエル以外の命など守る気はなかった。ギョームはこの世でたった一人の血を分けた弟を、見捨ててなどいなかったのだ。


 誤算だったのはジョエルの馬鹿さ加減だった。突撃ばかりが能じゃないと、何度注意してもあの愚弟は態度を改めることをしなかった。貴族の名誉だ、騎士道だと、形のないものばかり誇って(はばか)らなかった、挙句がこのざまである。


 本物の大馬鹿野郎がここにいた。ギョームは人知れず羽織の袖で涙をぬぐった。ジョエルは大馬鹿野郎だ。誰がなんと言おうとその事実に変わりはない。


「だが、なにも死ぬことはなかったんだ」


 村の南北に走る中央通と東西を横切る用水路、その交差点にあたる広場でギョーム・デ・ベルガは言った。床几(しょうぎ)に腰掛け、立てた長剣の柄頭に両手を乗せ、石畳を見やる様は物思いに(ふけ)っているようである。


「そうは思わんか、ええ、おい?」


 充血した目が振り仰がれた。問いを投げかけられたのは取り巻きの従者たちではない。用水路の(へり)に据え置かれた檻の中で身を縮こまらせている奴隷たちである。


 領主の問いに答えるものはいなかった。無理もない。領主の行いには脈絡がなかった。


 ベルガ村への襲撃から半日、魔人の一団は休むことなく侵攻を続け、隣村リポルにて守備隊との激戦を一晩中繰り広げた後、夜明け前には忽然(こつぜん)と姿を消してしまった。戦闘にあたった兵士の実に半数が討ち死にを遂げ、ベルガ村の被害と合わせて百余名の死者を出した。行方の知れない者も含めればその数は更に倍近くにも膨れ上がる。


 魔人の脅威から命からがら逃げおおせた奴隷たちは、敵の消滅から程なくしてギョームの発した追捕隊に捕まり、一様にベルガ村へと引っ立てられた。逃亡の咎は当然罰せられてしかるべきであるが、物を盗ったわけでなし、武装した貴族ですらまるで歯が立たない魔人の凶悪さを(おもんばか)れば、情状酌量の余地があってもいいものである。


 しかるにギョームの仕打ちは非情で不可解だった。最早逃げる気力もない奴隷たちを炎天下の檻の中に閉じ込め、この上何を欲しているのか要領を得ない尋問には酒気を伴う意識の混濁も認められる。


「なあ、おい」


 不幸にも目が合ってしまった奴隷はひざまずいたまま頭を下げて「へ、へえ」と応じた。


「俺の弟は、ジョエルのやつは確かに馬鹿だったよ。酒癖も女癖も悪くてな。結婚もしてねぇのに、へ、俺よりガキが多いなんて噂もあった。パテーのお屋敷で女中が暇を請うのはみんなあいつの子を孕んだからなんて、あの辺りじゃあよく聞く笑い話だった」

「は、はあ、左様で」

「おまけに手癖も悪くてな、よく人の物をかっぱらった。あの馬鹿は借りてきただけだって言い張ってやがったが、返す気がないんじゃ強盗と同じだ。借りた物だけで屋敷が立つなんて、これもよく聞いたな。全く救いようがねぇ。お前もそう思うだろう?」

「そ、それは、なんと申したら」


 その瞬間、(なご)やかにも思えたギョームの表情が一変した。血走った目が奴隷のひしめく檻を(にら)み、鷲鼻の付け根に寄った(しわ)がひくひくと震える。


「だがなぁ、こんな所で死ぬことはなかった。それもあんな、あんな無残な死に方を」


 ギョームは激怒していた。刺すような空気で全てを威圧し、長剣に乗せた手は今にも鞘を走らせそうであった。


「誰か見たやつがいるはずだ。あいつは戦っていた。最後まで戦っていたんだ。貴族らしく堂々と、敵に向かっていったんだ」


 ジョエルの遺体を検分したギョームは、その有様が往来に転がる他の者とは異なることに気づいた。鋭利な刃物で分断された首の根元には、他の死体にはない突起があったのだ。鎧の内側に血溜まりを作る、突起の正体は鎖骨の内側に突き立てられた短剣だった。右の肩口を握り締める胴体に、切り離された首は苦悶の表情を刻んでいた。


 魔人の仕業であろうはずもない。なんとなれば、ギョームは村中全ての死体を調べさせていた。ジョエルのように剣を指された死体は一つとして見つからなかったのである。


「答えろ。弟は何故死ななければならなかった? あいつの戦を邪魔したのは誰だ?」


 ここにきてようやく話の向きがわかった。ギョームは疑っているのだ。剣を刺した何者かに足を引っ張られ、弟ジョエルは命を落としたのではないかと。ギョームは覚えていた。屋敷に詰め掛ける村人と奴隷をけしかけて意気盛んに気勢を上げる馬鹿な弟の蛮勇を。


「あの馬鹿に付き合った者で今も生きているのはお前ら奴隷だけだ。お前らは見たんだろう? 俺の弟は立派に戦っていたんだろう? え、どうなんだ?」


 その時、檻の中で息を呑んだものが三人いた。誰あろう、ジョエルの最後を知る当事者のフェデリコ、ぺぺ、ボリスである。


 フェデリコは、この男にしては珍しく黙秘を貫いていた。無我夢中だった。示し合わせたわけでもない。しかし、自分の逃亡がジョエルの死のきっかけを作ったことには間違いがないのだ。正直に話せば、あるいは自分だけは助かるかもしれない。一瞬脳裏をかすめたが、ギョームの据わった目を見て甘い考えを捨てた。


 ぺぺは顔を伏せたまま下唇を噛んだ。もし、ギョームと目が合えば、この素直な巨漢に嘘を吐き通す力はない。何か聞かれたら必ずそうしろと、兄貴分に言われたことを忠実に守っているのだ。


 そしてボリスは焦燥(しょうそう)に駆られながら神を思った。自由はほんの束の間だった。やはり奴隷は一生奴隷でしかないのか。わかりきった事と、とうの昔に結論をつけた非情な現実に、しかし納得できないのは、いまだ心のどこかで奇跡を信じているからに他ならなかった。


 まだ、諦めるには早い。隙を見て檻を出ることはできないか。武器を持った取り巻きは四人。全員で抵抗すれば太刀打ちできない数ではない。あるいはまた魔人が来てくれれば、騒ぎに乗じて逃げられるかもしれない。今度こそ上手く逃げてみせる。そうしたらお祈りだってお布施だって文句言わずに頑張るから。だから神様、どうか、どうかもう一度。


 思惑はそれぞれ異なりながら、当事者の彼らに真実を語る意思がない以上、ギョームの問いかけはむなしく響いた。


「恐れながらあっしは逃げることに必死で」因縁をつけられた奴隷が平伏すると、他の者も同調して自らの潔白を主張し出した。おらぁ長屋でずっと隠れてたから。旦那の指示で市場の辺りを固めてたんでさ、あそこは狭くて守りやすいからって。俺たちは職人町に武器を取りに行ってやした。鍛冶屋の倉に使えるもんがあるって聞いて、なあ。


 思い思いの言い訳は一時檻の中に活気を取り戻したが、表情を変えないギョームの視線に気圧(けお)され、やがて再び静寂が訪れた。そのまま長らく沈黙が続き、むせ返るような暑さが長い鼻面に一滴の汗を落とさせると、やおらギョームは剣を引き抜いた。


 剣身に照り返された陽光に、奴隷たちが思わず目を閉じる。次の瞬間、彼らは目蓋の向こうに甲高い金属音を聞いた。


 鼻先に風圧を感じたフェデリコは恐る恐る目を開いた。最初に映ったのはギョームに振り抜かれた長剣だった。目を閉じる前には確かに上を向いていた剣先が、今指しているのは地面だ。鋼鉄の格子を眼前に、ギョームの立ち姿はあたかも横薙ぎの一閃を思い起こさせる。


 直後、すぐ隣でひれ伏していた仲間の体が崩れ落ちた。びしゃりと不可解な水音を立てて、脱力したその体が起きる事はない。右の頬から左目にかけて、切り取られた男の頭半分だけが転々と血の跡を残しながらフェデリコの目の前を転がっていく。水音の正体は男の脳漿(のうしょう)だった。


「ひゃあああ!」情けない悲鳴を上げてフェデリコは男の亡骸(なきがら)から這い逃げた。頬に滑りを感じる。触れればそこには一条の斬り傷があった。フェデリコの頭がもう少し男に寄っていれば、傷は確実に彼の命も奪うものとなっていたことだろう。


 狭い檻の中を恐慌が駆け巡る。鋼鉄の檻をある種砦のように感じていた奴隷たちは一挙に現実を思い出した。領主様はお怒りだ。自分たちは今、俎上(そじょう)にいるのだと。


 恐慌は傍観を決め込んでいたボリスも同じだったが、彼の場合のそれは淡い希望を打ち砕かれた恐怖だった。


 ボリスは見ていたのだ。ギョームの長剣が鋼鉄の檻をものともせずに格子ごと男の頭を斬って捨てる様を。


 マナの扱いに長けた者の中には、拳で岩を砕く、木で鉄の剣を折るといった常人離れの技を体現する者がいる。自然に干渉する『魔法』、生命に干渉する『法術』と区別して身体に干渉するこの力を人々は『闘技』と呼んだ。

 戦場で名を上げる貴族にはこの『闘技』の習熟者が多いのだが、ボリスの置かれる状況からして見ればそれは絶望の宣告に他ならなかった。


 鉄格子に切れ目も残さぬ薙ぎ払い。奴隷とはいえ人一人を殺しておいての堂々たる態度。さすがは武門の男だ。檻を囲む取り巻きたちもこのギョームの従者とあっては相応の手練(てだれ)であると見るのが自然だろう。素手の奴隷精々十人ばかりがどれだけ抵抗したところで抗いようもない。


 充満する死の臭いにボリスは唇を噛んだ。端から信じてなど、当てにしてなどいなかったが、いよいよボリスの前に神は現れないようだった。鼻先に突きつけられたのは、微かに血の赤が残る長剣だけだ。


「お前はどうだ? 知らんか、ん?」


 (よど)んだ目で見下ろされ、ボリスはふるふると頭を振ることしかできなかった。口を開けば殺される。逸らせば眼を(えぐ)られる。圧倒的な力量差を直感し、ボリスは祈ることも忘れて固まった。


 神がいるなら剣を突きつけるこの男がまさにそれだった。手首を軽く(ひね)るだけでボリスの十八年の生涯は容易(たやす)く幕を閉じるのだ。今一度問われればボリスの口は全ての罪を洗いざらい話してしまうことだろう。


 不意に溜息を吐いたギョームは、重たげな目蓋を下ろして剣を納めると肩に羽織る外套を(ひるがえ)した。足元の床机を蹴り飛ばし、側に控えていた小姓の手から皮袋を奪い取る。中の葡萄酒を一息に飲み干し、檻を見ることもせずにギョームは吐き捨てた。


「もういい、片付けろ」

「よろしいので?」取り巻きの一人、イニゴが尋ねる。


 ギョームは答えず、千鳥足で水路の縁を歩いた。小姓が慌ててその肩を支える。

 疲労と喪失感が、ギョームに酒を求めさせた。弟の死について、奴隷が何を知っていようが、何を隠していようが、また本当に何も知らなかったのだとしても、何もかもがどうでもいいとギョームは思った。

 彼にとっては弟ジョエルの死だけが真実なのだ。八つ当たりに剣を振るってみても気は晴れなかった。


 遠ざかる主の態度を了承と受け取った取り巻きの三人は互いに目配せをした。下卑(げび)た笑いを口に浮かべ檻の中に押し入った小柄の男ピオは、隅で縮こまっている女二人の髪を鷲づかんで外へと引きずり出した。


「な、何なんですか」困惑した女たちは恐怖と不安を内包した目で男たちを見上げた。


 取り巻く男たちは痩せ衰えた子犬を見るような目で女を見下ろして答えた。


「片付けろとの仰せだ。悪いが生まれの不幸を呪ってくれ」


 かわいそうにと素直に思う。だが、どうにかしてやろうとは思わない。奴隷の一人一人に逐一斟酌(しんしゃく)していては、この村では生きてゆけないのだ。この不幸な生き物たちを(なぐさ)み者とすることに、なんらの罪悪感を抱くことも当然ない。


 女たちの腕の中で赤子が一斉に泣き出した。それすらも、彼らの心を変えることはなかった。


「コブつきかよ。他にいねえのか?」ひげ面の大男トニが鼻息を吐く。言葉とは裏腹にがちゃがちゃと音を立てながら皮の鎧を外している。その表情は喜色だ。

「贅沢いうなよ」おそらく一番の下っ端なのだろう、ピオは文句をたれつつも再び檻の中へと入った。


 鳥でも数えるように一人一人を指差していく。と、指の動きが一点で止まった。妊婦ではない。子供もいないようだ。母親と思しき女に抱きしめられて震える体は、一見すれば少年のように貧相だが、間違いなく若い女性のものだった。ピオは迷わずその短い栗毛をつかみ上げた。


「チキータ!」母親が苦痛にうめく娘の名を呼んだ。


 虚空をさ迷うその手をピオは無下に振り払った。檻の外では赤子を抱きしめる女たちの服が無残にも破り捨てられようとしていた。


「待ってくれ。こんなのはあんまりだ。俺たちは、本当に何も知らないんだ。だから――」


 勇気ある奴隷の抗議は中断された。鼻面を捉える拳に慈悲は無かった。


「何度もいわせるな。ギョーム様の御下命だ。抵抗しなければ楽に殺してやる。黙って順番を待ってな」


 これから(なぶろ)うという少女のあごに手を添え、ピオの饒舌は止まらない。


「お前らが天国へ導かれるように、俺たちが祈っといてやるよ。死んじまった坊主の代わりにな」


 チキータは恐怖に言葉も出せなかった。助けて、と救いを求める眼差しに、しかし応える者はいない。ボリスも、ペペも、フェデリコでさえ、誰もチキータを見ようとしなかった。暴れるチャロを(なだ)めるのには共に逃げた女たちも加担している。矛先が自分たちへ向くことを恐れているのだろう。


 所詮彼らは奴隷だった。抵抗して苦しむより楽な死を選ぶ。そんなことにしか希望を見出せないのだ。


 チキータも歯を食いしばって恐怖を堪えようとした。いたずらに騒げば母を泣かせるだけだからと、健気な娘の献身だった。


 それでも抗いきれない恐怖心は、絶望の檻の中にたった一つの例外を見つけた。


「ふざけんな」


 つい今しがたまでぼんやりと虚空を眺めていた少年は小さな声でつぶやいた。ゆっくりと立ち上がり幽鬼のような足取りで奴隷の波をかき分ける。チキータ達との距離は眼前だった。


「クチナシ」


 チキータに呼ばれた英二は黒い双眸で小柄な男を見下ろしていた。


「おい、聞こえなかったのかテメェ」いぶかるピオがチキータの顔から片手を放した。

「ふざけんなよ」返事の代わりに英二は続けた。

「なんだよこれおかしいだろなにいってんのか全然わかんねぇなにが奴隷だよ馬鹿じゃねぇのあり得ないってそんなのいまどき小学生でも知ってるだろ基本的人権の尊重はどうしたんだよ人権団体なにしてんだよサボってないで働けよ」

「うるせぇ」ピオの拳が少年の顔面を殴り飛ばした。「気でも触れたか? 黙ってろって」


 よせという周りの制止も聞かず、英二は()りずに立ち上がった。


「意味わかんねぇ。意味わかんねぇよ。天国なんてあると本気で思ってんの? 神様がいるって? 世界作ったって? 頭おかしいでしょやばいよあんたら。馬鹿馬鹿し過ぎて逆に面白いわ。超笑える」


 ピオはとうとうチキータを放し腰の長剣に手をかける。それでも英二は黙ろうとしない。どころか英二の口は笑んでいた。暗い瞳を向けたまま、鼻血に濡れた口角だけがつり上がっている。

 その乾いた笑いはピオにとってこの上ない挑発だった。即座に抜剣し、ピオは抜き打ちで少年の首を薙いだ。


「神様なんて」英二はなおも続けていた。


 脱力するように体を沈め逆袈裟の軌道の下へ潜り込むと、振り抜いた右の手首を捕らえて体の外側へ捻り上げる。


「いないんだ。天国も地獄もないんだよ。もし違うっていうなら教えてくれよ。何で俺がこんなところでこんな目にあってんのか」


 連休が明ければ中間だった。大会も間近に迫っていたし家業では手裏剣と居合の免許認定も控えていた。来年には受験で、進路はまだ未定だったが、可能なら進学先でも百合原真菜と同じ教室で授業を受けたいなどと、淡い希望を抱いてもいた。


 骨の軋む音が聞こえた。もがく左手が英二の髪をつかむが、捕らわれた手首の痛みは激しさを増す。ピオの右手は堪らず長剣を手放していた。


 誰からの答えもないまま英二は続けた。


「何でアントニオが、死ななきゃいけなかったのか。何で救ってくれなかったのか。なあ神様、頼むよ」


 アントニオは誰よりも神を信じていた。清貧に努め、女色を絶ち、神の教えを説くことこそ、あまねく生命の救済に他ならないと、信じて疑うことはなかった。


 神の不在が証明された世界で生まれ育った英二の目には、その無垢(むく)な姿が滑稽(こっけい)であると同時に、まぶしく輝いているようにも見えた。もしも神がいるのならば、ただひたすらに存在を信じ、純粋に救いを願い続けたアントニオを、気にかけないはずがない。


 鈍い音の直後にピオの絶叫が響いた。開放され膝を折ったピオの右手首があらぬ方向に曲がっている。その苦痛の叫びは英二の求める答えなどではけしてなかった。


 外の連中がようやく檻の異常に気づいた。


 檻の中で、奴隷の少年は胸元を強く握り締めた。血の滲むほどに強く握られた手中にあるのは、アントニオが今際(いまわ)の瞬間まで放さなかった六芒星の首飾りだった。こんな理不尽はない。こんな酷い仕打ちはない。


「帰してくれよ神様。俺を、家に。返してくれよ。アントニオを、ここに」


 満ち足りていた。幸せだった。家があって、友がいて、好きな異性と話ができる。平和の代償に多少の退屈を抱えることになったとしても、それをかなぐり捨ててまでの刺激を求めようなど英二は一瞬たりとも望んでいなかった。

 故郷を忘れ、奴隷としての人生をせめて前向きに生きようと思った矢先、運命は英二からこの世界における安らぎすらも奪っていった。責任の所在がわからない怒りにやり場を探して、神という存在に落ち着くのは、英二がこの世界で過ごした時間を思えば至極(しごく)当然な帰結といえた。


 何が全能か、何があまねく生命の救済か。英二は今、心の底から理不尽な運命とそれを強いる神とやらを呪った。もし本当に存在するなら、殺してやりたいとすら思った。


「クチナシ」


 チキータは泣きじゃくる少年に再び呼びかけた。


「誰だよそれ。俺は、そんな名前じゃない」


 英二の怒りと嘆きは誰の心にも届かなかった。彼の孤独を真に理解できるものは、おそらくこの世界に一人としていないのだろう。なんとなれば英二の発した一連の言葉は全て日本語だった。彼の訴えを理解できるものは神を除いて他にいないというのに、英二自身がその存在を信じていないのだ。


 もしも本当に神がいて英二に神の加護があるのならば奇跡のひとつでも起きるところだが、世界は相も変わらず常の姿を保っていた。青い空と白い雲、まばゆい太陽の光の下、身勝手な理屈で不当に命を奪われることになった奴隷たちに、救いの手は差し伸べられない。


「おい、何してんだ」

「やる前にイッちまったんじゃねぇだろうな」


 外の二人が女を放り出して檻の側までやって来た。檻の中でうずくまる仲間に苦笑しつつ革帯を締め直す様は完全に油断している。


 故に英二の動きを止められなかった。英二はうずくまるピオを気遣うかのように身をかがめると、おもむろに長剣を拾い上げ至極自然な動作で檻の外に出た。


「待て、こいつ!」


 その段になってようやく二人は事態に気づいた。慌てて抜いた長剣を左右から挟むようにして英二に突きつける。


 剣を抜いても油断は変わらないようだった。英二との距離が近過ぎる上に示威(しい)で事足りるとでも思ったのか得物は片手持ちだ。伸ばしきった右腕を狙わない手は無い。


 英二は右膝を脱力させて右側に立つイニゴの懐に倒れこんだ。ほんの一瞬の間に刃の間合いから逃れると逆手に持った長剣の柄で相手のあごを強打する。そのままひるんだ敵の右腕を取り石畳に引き倒した。


 取り落としたイニゴの長剣が地面を滑る。軽い脳震盪(のうしんとう)を起こしたイニゴは頭を抱えて転がった。


 英二の動きに一拍遅れて左側から飛び込んだトニは、進路に投げ出された仲間の体をすぐさま飛び越えて大上段から斬りかかる。反応速度は見事だったが判断としては誤りだった。大きく振りかぶった兜割りは外した場合のことを一切考慮していなかったのである。


 二歩下がった英二は相手の着地を待たず左側面へと回り込み下段に構えた。


 上段を空振りすると、トニは即座に長剣を振り払った。軌道は逆袈裟から、さらに返して袈裟斬りに続く。さすがに貴族だ。速度は申し分ない。しかし勢いそのままの連撃は思慮に欠けていた。当然のこと届かない。加えて逆袈裟、袈裟斬りから再び大振りの逆袈裟を繰り出す単純な軌道は罠を疑ってしまうほど簡単に見切ることができた。


 自らの長剣を逆袈裟の刃の下に滑り込ませ、ほんの少し上方に押してやれば、だらしなく開いた脇腹が(あら)わになる。英二はそこに長剣の柄を突き刺した。





 仲間の呻きを頭上に聞いて、イニゴは目を見開く。同時に慌てて自身の得物を探した。

 長剣は檻の側近くまで転がっていた。立ち上がって取りに行こうとした直後、頭のすぐ上をトニの剣が薙いだ。怒りのあまり周りが見えていないようだった。イニゴは地を這ったまま「ピオ」と叫んだ。


 呼ばれて初めて目と鼻の先にある剣の存在に気づいたピオは、震える左手を格子の間に伸ばした。途端右手に激痛。振り返れば不遜(ふそん)にも彼の右手を踏みつける汚らしい足が見えた。

 ピオの口が貴族にあるまじき悪態を吐こうとした次の瞬間、その薄汚れたかかとは彼の口に(ふた)をした。





 脇腹を抑えるトニの正面二間の距離で、英二は正眼に剣を構えていた。視界の外が騒がしいのはさして気にならなかった。相対する敵の双眸も憤怒(ふんぬ)に燃え、最早英二以外を見ていない。


 吸って吐いての呼吸を二回。両肩を同じく二度上下させて、トニは脇腹を抑える手を剣の柄に移した。


 上段か、思うと同時に英二は半歩前に出してある右膝の力を抜いた。全体重が前へと傾き、それを追うようにして足裏が石畳を滑る。


 トニが持ち上げた自らの腕でほんの刹那(せつな)視界を塞いだ間に、英二の剣先はトニの胴体を間合いの内に捉えていた。


 英二が大男の脇をすり抜ける。同時に剣先がその脇腹を抉った。


 トニは地に膝を着いて(うめ)いた。


 三間ほど駆け抜けた英二は背後にその呻きを聞き、慌てて残心をとった。脇腹を赤く染め膝を折った大男は、未だ見失った敵の姿を探して首を巡らせている。


 鼓動が高鳴った。全身が熱い。血液が沸騰しているかのように。

 不意の違和感に口元をぬぐった。手にこびりついているのは気が遠くなるほどの赤だ。あの大男の脇腹と同じ。そして自らが持つ長剣の先端とも同じ。


 トニが敵の姿を認めた。憤怒の表情をそのままに、雄たけびを上げて英二を睨む。よろめきながら立ち上がり、片手に剣を振り上げて再び咆哮(ほうこう)した大男は、突然胸から角を突き出して動きを止めた。


 見開かれた両目が自らの内から生じた異物に落ちると、陽光に(きら)めく鋭利な突起はぐるりと旋回する。


 口から血溜まりを吐き出して、トニは石畳に突っ伏した。


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