七、表裏
二十人掛けの小会議室には空席が目立った。七日前ならそれでも半数を埋めていた座席が、日を追うごとに一人減り、二人減り、今日は数えるのに片手で事足りる有様だった。
欠席の理由は様々で、一番多いのが病欠、そしてその次が不在である。敵の包囲が緩いことと味方の統制が乱れていることを理由に、戦意を喪失した貴族たちは先を争うようにしてルシヨンを離れていった。人手不足で空いた席を埋めるための人事もままならず、がらんとした室内には重苦しい雰囲気がただただ立ち込めるばかりであった。
静かな一室に開き戸の取っ手を捻る音が響いた。現れた青年、ラ・フルト侯の侍従長を勤めるアルフォンス・ドゥ・ロンジュ伯爵が憂い顔を左右に振ると、後に続くいくつもの溜め息で議場の空気は一層重くなった。
「閣下はやはり、今日もご体調が優れないようで」
「明日も明後日も一年後も、だろう」ラ・フルト侯爵軍北方元帥エルヴェ・ドゥ・フランシェヴィル伯爵は吐き捨てるように言った。
わざとらしい咳払いの後で、宰相ジルベール・ドゥ・リュペ伯爵がその発言を諌めた。
「フランシェヴィル元帥、無礼であろう」
「無礼なものか。現に我らが殿はあの敗戦以来一歩も寝室をお出にならないではないか。そのような重病なら侍医が放ってはおかんはずだ。やつらは何と言ってる、え、侍従長殿」
「時間に任せる他ない、と」
侍従長の正直な答えには流石の宰相も言葉を返さなかった。会議室は再び重い空気によって静まり返った。率先して難局に立ち向かうべき指導者を欠いているのでは、士気の上がろうはずもない。
我先に逃げた連中は、こうして居残っている彼らに比べればまだしも賢明な判断をしたのかも知れなかった(主君に忠誠を誓った臣下の振る舞いとしては褒められたものではないが)。敗戦の痛手は誰もが等しく痛感している。しかし、だからと言って現実の窮状から目を背けたところで敗北の事実がなくなるわけではないのだ。
ぱん、と乾いた音が二度響いた。後に続けられた声は、室内の様子など一切気に留めていないかのように朗らかだった。
「まあまあまあ、皆さん、このような時こそ、一致団結してことに臨もうではありませんか」
拍手を打って立ち上がったのは南方元帥レイモン・ダレイラック伯爵だった。弱冠二十九歳にして異民族と境界を接する南部一帯の支配を任されている気鋭の正騎士だが、その発言を受けた議場の視線は冷ややかなものだった。
「一致団結とはおかしな事を言う」フランシェヴィル伯は眉根を寄せてアレイラック伯を一瞥した。「出来ることなら、あの戦の前に聞きたかったぞ、アレイラック殿」
アレイラック伯レイモンはオートゥリーヴ平野での会戦に反対した数少ない将兵の一人だった。南方元帥として戦場での活躍を大いに期待されていただけに、彼の口から発せられた消極案はラ・フルト侯軍に動揺をもたらし、好戦派からは散々口さがない非難を浴びせられた。一時は免職の話も出ていたがラ・フルト侯の取り成しと開戦によるうやむやで立ち消えとなっていたのだ。
想定外の敗北と後詰として速やかな撤退を指揮した功績が重なり、今となっては彼を非難する声も霧消してしまったが、どうもそこがフランシェヴィル伯の気に障るらしかった。
南方元帥は敗北によってその地位を守られた。しかも後詰を担っていた彼の手勢は無傷のまま、現在軍勢の半数以上を失ったルシヨン総軍の四分の一を占めている。思い返せば戦の折、侯の側にいたアレイラック伯には撤退を思いとどまるように説得する機会があったはずだった。後詰と言う立場なら、壊乱する味方を助けることも不可能ではない。疑い始めれば撤退時の手際さえ怪しく思えてくる。ともすればアレイラック伯その人が主君に撤退を進言したのではないか。味方であると理解はしていても、状況がフランシェヴィル伯に信用を許さなかった。
一方、アレイラック伯レイモンは明るい笑顔を崩さずに答えた。
「皮肉は止しましょう、フランシェヴィル卿。小生も戦の前に貴殿らから言われた事は忘れることにいたします」
フランシェヴィル伯は返事をしなかった。レイモンは続けた。
「さて、改めて申し上げるまでもなく、ラ・フルト侯家は今危機に瀕しておりますな。城外すぐそこまで敵軍に進駐され、臣下と民の不安と不満は募るばかり。領地への引き上げや敵方への寝返りは数知れず、議会からは連日降伏の嘆願が後を絶ちません。この上もしエスパラム公に西方の戦線を突破されでもしたら、ルシヨンは東西南北を包囲されてしまい、そうなれば侯家の威光だけでは市民たちを抑えることが出来なくなり、遠からず暴動へと発展することは必至。もし外に敵を抱えたまま十余万の市民に暴れられれば、どれだけ堅固な城塞でも陥落は時間の問題となります。まさしく絶体絶命の状況と言えるでしょう」
レイモンは席を立ち、円卓の周囲を歩きながら指を二本立てた。
「こうなった今、我々には二つの選択肢が用意されています。一つはエスパラム公に降伏し、誇りを代価にして命を買うこと。そしてもう一つは、あくまで抗戦を続け、どのような結果になるにせよ、せめて誇りだけは守り通すことです」
大きな音がして円卓の一角が砕けた。木片の刺さった拳を握り締めて、立ち上がったフランシェヴィル伯が抑えた怒声を震わせた。
「命が惜しいのなら一人で降伏でも何でもするが良かろう。幸い今なら閣下もお咎めすることはない。犬のようにエスパラムに尻尾を振って、不義不忠の泥で存分に家名を汚すことだ!」
抗議のために腰を浮かせたロンジュ伯を、レイモンは手で制して続けた。
「フランシェヴィル伯の仰るとおり、命を惜しんだ者たちは今日までの間にその選択をしました。考える時間はいくらでもあったはずですから、小生を含めて今ここに残っている方々は、誇りのために身命を犠牲に出来る覚悟を持つものと判断させていただきます。よろしいですか」
レイモンは一同を見渡した。フランシェヴィル伯は早合点した気まずさを誤魔化すように顔を背けて着席した。ロンジュ伯は真っ直ぐな双眸を向けて肯き、宰相他文官の面々も目を見合わせて肯きを返した。
「御託は不要だアレイラック伯」それまで沈黙を守ってきたオートゥリーヴ伯ガストンは刺すような単眼で相手を睨みつけた。「言いたいことがあるなら簡潔に述べてくれ。貴殿は一体、何が言いたいのだ」
レイモンは真正面から相手を見据えて答えた。
「小生に必勝を期する策が御座います。しかしながら、我が必勝の策を成功せしめるためには今いる全軍の協力が不可欠。そこで方々には是非、このレイモン・ダレイラックがラ・フルト侯閣下の代理として采配を揮うことを認めていただきたいのです」
レイモンの提案は流石に動揺を誘った。フランシェヴィル伯は抗議に口を開きかけるが、結局は眉根を寄せたまま周囲の反応を窺った。ジルベール宰相も「いや、それは」とぶつぶつ繰り返したものの、反論はしなかった。
唯一言葉を発したのは戦傷で失った片目が妙な凄みを感じさせるオートゥリーヴ伯ガストンだった。
「必勝、と言ったな」ガストンは確かめるようにゆっくりと尋ね返した。「貴殿には策があるのか。エスパラムの狼藉者どもを、一人残らず煉獄へ落とす策が」
「然り」レイモンは肯き、オートゥリーヴ伯を見返した。「そして、そのためには貴殿の協力が必要不可欠なのです。もちろん、ご助力いただけますな、オートゥリーヴ伯」
「必勝の策、とは」ガストンは肯かず、再び尋ね返した。
「なに、簡単な話です」レイモンは一枚の銀貨を取り出した。「羨望と嫉妬は一枚の硬貨の表裏です。強い憧れの裏には、必ず同じくらいに強い嫉妬心が隠れているものなのですよ」
レイモンは卓上に立てた銀貨を指で弾いた。銀貨は初め勢い良く回っていたが、やがて回転の速度を落として卓上に静止しようとしていた。
「敵将ヴァルターは確かに優れた指揮官のようです。あの若さですでにエスパラム公軍の一翼を任されている事実は、彼の確かな才能を裏付ける証左に他なりません。しかし、彼が上げた輝かしい武功の数々は彼以外の者が逃した手柄でもあります。エスパラム公に仕える将兵は、皆が心から彼の栄達を賞賛しているのでしょうか」
言ってレイモンは銀貨に手を重ねた。彼の手が銀貨を皆の目から隠したため、その場にいる誰にも、その銀貨が一体どちらの面を上に向けているのか分からなかった。
レイモンは笑みを浮かべたまま続けた。
「付け入る隙はまだありますよ。軍の規模こそわれらに分がありますが、兵の質を比べれば相手方に軍配を上げざるを得ません。しかし、我々が敵より勝っているものがもう一つだけ御座います。それは、補給の容易さです」
レイモンに促されて、ロンジュ伯アルフォンスはルシヨン周辺を記した地図を卓上に広げた。図面は中央にルシヨンの城を据え、その周囲を守る二重の城壁とその内外に築かれた市の街並みからオートゥリーヴ平野の東端に至るまでが大きく描かれていた。ルシヨン城から見て東南の城外市にいくつか記された記号は敵の布陣らしい。そこから平野の東端まで緩やかに引かれた矢印には「四十から百」と注意書きが記載されている。
レイモンはその曲線を指差しながら続けた。
「概して、軍隊というものは数を増やせば増やすほど力を発揮しやすい反面、そのものが抱える問題をも大きくしてしまうものです。伸張し切った補給線を分断してしまえば、数が多い分だけエスパラム公軍に与える影響も大きくなるでしょう。糧食が滞り、給金の支払いも満足に行われなくなると、どのような影響が軍隊、ひいてはそれを構成する個々人に現れると思いますか」
レイモンは顔を上げて今一度議場の面々を見回した。終始絶えなかった笑顔は、その表面に一瞬だけ嗜虐的な色を帯びて続けた。
「簡単なことです。金にも食にも事欠いた人間は失うのですよ。礼節を、ね」




