五、君よ平らかなれ
一面が砂に覆われた小高い丘の上に、その幕屋は張られていた。四方と天井を正確な四角い布でこしらえた立方体は、表面が陽光を集める漆黒で統一されているために、幕屋の周囲を立ち昇る陽炎で揺らめかせている。
しかし、その見た目に比して内部は肌寒さを感じるほどに冷ややかだった。布地の表面に施された『魔法』の呪文が照り付ける陽光を絶えず冷気に変換して幕内の温度を一定に保っているのだ。夏は汗をかかないように、冬は吐く息が白く煙らないように、一年を通して人が不快を感じない程度の環境を維持し続ける。彼らが技術の粋を集めて気を配るのは、この幕屋が彼らにとってそれだけ神聖な場所であり、特別な存在だからだった。
会見の幕屋と呼ばれるこの四角い天幕は、自らを聖なる者の僕と称する彼ら部族の聖殿だった。
幕屋を揺らす人の気配にマフディ・アル・ディーンは顔を向けた。
現れた男は微笑に口髭を傾けて十字を切った。
「あなたに平穏があらんことを」
「あなたにこそ」
マフディが答えると男は彼の隣に腰を下ろして言った。
「お早いですな」
「手早く済ませたい、と言う意思表示のつもりだったが」マフディは対面にある二つの空席を見て吐息を漏らした。「徒労だったようだ」
男は口元を押さえて上品に笑った。
「まあ、そう仰いますな。定刻どおりに来なければ、我々だけで話し合いを終えてしまえば良いのです。神の定めた会合の場に遅れるなど、冒涜以外の何ものでもありませんからな。当然の措置でしょう」
二人は控えめな笑い声を合わせた。本来厳粛な場であっても、気心の知れた相手と二人きりなら緊張することはない。
この男、アサード・ウッディーンは部族の一派閥、平安派の指導者である。寛大派の指導者を務めるマフディとは宗派こそ違えど、気質的に近しい人柄のため以前より懇意であった。実際その縁でマフディは二番目の妻にアサードの娘を迎えていた。つまりマフディにとっての彼は義理の父親と言うことにもなる。
親族同士であれば自然話題は身内の事へ移行した。アサードは照れ臭そうに言葉を詰まらせながら尋ねた。
「ところであれは、息災ですか」
「ああ」マフディは肯いた。「良くしてくれている、妻としても母としても。それに、家の者と揉めることなく接することが出来るのは、それだけで十分な才能だ。本当にありがたいと思っている」
「それは、何よりです」
新たな気配に二人は会話を打ち切った。背筋を伸ばし、何気ない顔で座り直す。
三人目の男は荒々しく砂塵を巻き上げて幕布をくぐった。ちらと幕内を睥睨し、自分以外の空席を見つけて舌打ちする。
「陰気面め、俺を待たせるとは不敬な」
砂のついた袖無し外套を大きく翻し、先着の二人の前を横切って腰を下ろす。逞しい体躯の壮漢は繁栄派の指導者、ヘサーム・ディーン。マフディ、アサードの両名とは思想的に対立する立場の男だった。
ヘサームは並んで対座する二人を見て嫌みに口角を上げた。
「仲の宜しいことだな。二人揃って俺への陰口でも叩いていたのか?」
「貴殿のことなど話さんよ」アサードは眉根を寄せて答えた。「我々は義理とはいえ縁のある間柄だ。互いの身内のことについてならいくら時間があっても話が尽きることはない。よしんば話題に事欠いたとしても、貴殿の名など挙がろうはずもなかろう」
鼻息で応え、ヘサームは次いでマフディに顔を向ける。
「そう言えば、お前のところの行き遅れを嫁に寄こす話はどうなった?」
「あれには伝えた。返事がないなら縁がなかったということだ」
「ふん、なんだそれは。家長なら口答えなどさせずに従わせればいいだろう」ヘサームは身を乗り出して続けた。「上に立つ者がそんなだからお前のところはどいつもこいつも信仰に覇気がないんだ。また何人か宗旨変えの話しがあったぞ。もちろん承知のことだろうな」
「教えで人を縛る気はない。申し出があったのなら良くしてやって欲しい」
あからさまな挑発にもマフディは表情を変えなかった。ヘサームはつまらなそうに唇を尖らして鼻から苛立ちを吐き出した。仰向いた顔が透かしの入った天井を見る。
「おい、もう時間だろう。俺に議題がある。始めるぞ」
同じく天井を見上げて、マフディは答えた。「まだ、太陽は南中に達していない」
「聖典のことしか口にしない木偶どもに何を期待するつもりだ。あんなのはいてもいなくても会合に差し障りあるまい」
「それでも一派を率いる指導者であることに違いはない。欠いたまま定刻前に議論を始めるのは教えに背く行為だ」
「聖典の教えを引き合いに出すなら、この会見の幕屋に四人も指導者がいること自体が教えに反しているだろう。聖典にはなんと記されていた、え、平安派の?」
アサードは眉間に皺を寄せながらも答えた。
「出黒記二十五章の八にある。『聖僕が主のために聖所を造るなら、主は聖僕の中に住まうを厭わず。聖僕導きを欲さんとすれば、即ち導師聖所にて主の声を聞く』」
アサードの暗誦を受けてヘサームは続けた。
「聖所とは複数の指導者が顔を突き合わせて会見する場所ではない。ただ一人の指導者のみが神と見えるための神聖なる御所なのだ。幾度となく開かれたこの会合で、一度たりとも神の降臨を授からなかったのがその証拠だ」
「何が言いたい」
「分からん奴だな」マフディの問いにヘサームは立ち上がり、二人を見下ろして言った。
「ただ一人の指導者のみで臨まないから神は御越しになって下さらないのだ。お前たちもかび臭い時代遅れな思想など捨てて、ただ俺の導きにのみ従っていれば良い。さすればこの幕屋もかつてと同じように神の栄光で満ち満ちることだろう」
「思い上がるなよ繁栄派の」アサードは怒りも露わに立ち上がった。「聖典を自らの都合良く解釈するうぬらの思想こそが、主の御不興を買っていると何故思わん。祖霊をないがしろにする者が賢しらに聖典を語るな」
「時流も解さん老害め。己こそ聖典の記述にばかり固執して聖僕を正しく導く責務をないがしろにしていると、いい加減理解したらどうだ」
ヘサームの言い分通り、確かに聖典の記述は『導師』と単数形で記されていた。聖典に記された古の時代、聖なる者の僕たちを導く指導者がたった一人しかいなかった事実は、聖典を読む者なら誰もが知っている常識だった。
しかし、単一の指導者による単一の思想によって民を導いていた聖典の時代とはすでにして状況が異なっている。思想の分派した現代においてもただ一人の指導者を選ぼうと言うのは難しい話であるし、それが出来ないから宗派を分けると言う現状が各人によって受け入れられてきたのだ。
思想の分派を時流とするなら、彼のアサードに対する指摘は正しい。もっとも、その正しさは同時に彼自身の発言へと返ることにもなる。時流によって四人となった指導者は、元来一人で担ってきた仕事を四人に分担したに過ぎないため、序列や位階による違いがない。四人合わせてようやく一人前の指導者たちが会見の幕屋に集って神の導きを得ようとする行為は聖典の記述と何ら矛盾しないはずだった。
「もう止めろ、二人とも」見かねたマフディは両者の間に割って入った。「ここをどこだと心得ている。諍いなら表に出て気の済むまでしてくるといい」
マフディの言葉で二人は口を閉じた。互いに憤懣のこもった視線を交わしたものの、結局は双方とも元の位置に腰を下ろして押し黙る。
気まずい沈黙の中、不意に幕屋を揺らしたのは温い微風だった。
三人は揃って顔を向けた。幕屋の入り口に、夜闇と同じ色の外套を纏った人影が佇んでいた。
「失礼」男は十字を切って幕屋の内へ入った。「遅参したか」
「いや」
マフディは答えて、座の中央を見下ろした。絨毯の中心に施された丸い窪みに、円形の陽光が静止している。日は正に南中に至ったところだった。
黒衣の男は音もなく円座に歩み寄り、自身の定位置に腰を下ろした。それほど上背があるほうではない上、隣席が長身のヘサームだからだろう、座った姿はより小さく見える。頭巾を取れば背丈の印象に違わない童顔が露わになった。褐色の肌に黒髪黒瞳。外套を羽織った彼と夜道で見えれば気づかずに素通りしてしまいそうなほど、整っている割には印象の薄い面相だった。
最後に現れた男は、尊称をターヘル・ディーンと言った。聖天主教開祖派の指導者を務める彼は、ここに集う四人の中でも最も若い指導者である。
対面の若者から、マフディは無意識に視線を逸らしていた。彼はこの男に好い感情を持っていなかった。
ともあれ、通例進行は寛大派の役目だった。マフディは小さく咳をして私情を振り払おうと努めた。
ターヘルが言葉を発したのはその直後だった。
「早速だが、方々の意見を拝聴したい議題がある。宜しいか」
その言葉に、マフディはもとよりアサードもヘサームも驚きを禁じえなかった。これまでの会合で、彼が自ら声を上げたことなど一度もなかったからである。
ターヘルは沈黙を了承と受け取った。
「過日、北方の聖地ルーシャナーンの程近くで邪教徒どもの戦があった。数千数万にも及ぶ邪教徒が死に絶え、その血を彼の地で流したそうだ」
「何を饒舌に語りだすかと思えば」ヘサームは嘲笑を浮かべて口を挟んだ。「そんなことは俺とて聞き知っている。数に勝るルーシャナーンの軍勢を打ち破ったのは東に拠点を構えてはいるがアスラパラーマの手の者だと言う話だろう」
自慢げに語る内に、ヘサームは笑みの質を変えた。彼が議題に上げようと考えていたのもターヘルが語る邪教徒の戦についてだと思い出したからだった。
「なるほど、つまりお前が言いたいのはそのことか。今こそ聖僕全軍を結集して失われた聖地ルーシャナーンを奪還する時だと、そうだろう開祖派の!」
勢い込むヘサームに、ターヘルは頭を振った。
「そうではない」
「何?」
猛る気持ちを削がれて二の句が継げないヘサームに代わりアサードは尋ねた。
「では、何だと言うのだ。その異教徒の戦が」
「我々には、今一度の巡礼が必要だ」
ターヘルの言葉に対して真っ先に不快を示したのはマフディだった。
「巡礼なら、ついこの間したばかりだろう。前の巡礼月からさして日も経っていないのに、何を言い出す」
「贖罪行のことではない」ターヘルは頭を振って続けた。「我々が今すべき巡礼とは聖地を訪ね邪教徒によって汚された大地を浄化する儀式のことだ」
言ったきり説明を終えたとばかりに、ターヘルは口と目を閉じた。焦れたヘサームが怒鳴りだす前にアサードは尋ねた。
「その儀式とは、具体的に何をするのだ」
ターヘルは目を閉じたまま答えた。
「四十日四十夜の雨、あまねく地上を拭ひたり。腐敗忽ち悲鳴に変はり、堕落自ずから祈りに変はりたりしを、ヌーフ箱舟の中に嘆いて曰く、『主の御怒り斯様に大なりしか』と」
「創世記六章の四、ヌーフの時代に行われた祓いの儀、だな」
ターヘルの暗誦を受けてアサードはすぐに肯いた。聖典に記された遥か古代、時の指導者ヌーフは神の導きを受けて、堕落し腐敗した地上の全てを大水で洗い流したと言われている。
「賛同しかねる」マフディはやはり異を唱えた。「聖典の再現など恐れ多いにも程がある。それに、どこであれ北方は戦の後で気の立っている異教徒が未だ屯しているはずだ。今不用意に近づいて余計な刺激を与えるべきではない」
「軍勢を引き連れて行くわけではない」ターヘルは頭を振って答えた。「少数の志願者を募って行う。その点に関しては贖罪行と同じだ。そして何も指導者ヌーフの奇跡を再現しようなどと大言するつもりもない。全地上の汚れを祓い神の園を清めるのは聖僕本来の務めのはずだ」
「ふん、くだらん」ヘサームは不満を隠さない態度で吐き捨てた。「要するにわざわざ出向いて邪教徒の散らかした後始末をすると、そんなところだろう、お前の言い分は。全く、くだらん。何が浄化の儀式だ。そんなことをしていったい何の意味がある。聖地に邪教徒がのさばっている今、剣で以ってし、弓で以ってする聖戦以上に主がお求めになっておられる事柄があるのか、え、寛大派、平安派?」
「聖典を読め、ヘサーム・ディーン」ターヘルは一切顔色を変えずに答えた。「『肉体の内に霊魂宿るを併せて之生命と称す。然れど霊魂に正邪有り、肉体に正邪無し。肉体無き霊魂の、あるいは天の頂へ、あるいは地の底へ導かれど、霊魂無き肉体、即ちただ朽ち行く物にして屍鬼に同じ。ただ朽ち行く肉体に、いかで罪業あらんや』
邪教徒は聖なる教えを解さぬ点においてのみ聖僕と異なる。魂をなくした邪教徒の屍は聖僕のそれと何ら変わることはない。朽ち行く物の瘴気邪気を祓うのも、聖戦と同じく主の定めし務めの一つだ。戦だけが神の教えではなく、祈りだけが神の御許に至る道ではない。主は剣を取るべき時を必ずお示し下さる。そしてそれは今ではない。聖典をよく読むがいい。この世の全てがそこに記されている」
へサームは怒気に目を見開いて隣席を睨んだが、握り締めた拳で腿を打ち付けるにとどめた。聖典に逆らうことは神に弓を引く行為と同じである。引き合いに出されれば反論の余地など無いことは彼自身も一派の指導者としてよく理解していた。
「決を採るぞ」ヘサームは不機嫌そうに座を見回して言った。「俺は否だ。巡礼月以外に聖地を詣でろなどと、聖典には書かれていないからな」
「しかし、聖典の教えにも適った善行と言える。私は賛同しよう」アサードは答えてマフディを窺った。
ターヘルは視線を上げて対面を見た。
「貴殿は、マフディ・アル・ディーン?」
問われて顔を向ければ、否が応にもその黒い瞳を直視することになった。結論はマフディに委ねられていた。彼が賛成と答えて肯けば、反対意見は却下されすぐさま全集落に触れが通達される。その決定に逆らう権利は、この世の誰にもない。それが思想の相違のために分派した彼ら部族が唯一意見を合わせることの出来る絶対の掟なのだった。
マフディは眉根を寄せて対面を見返した。ターヘルの主張に不正はなかった。異教徒の所業であっても戦で荒んだ大地を浄化するのは疑いない善行であるし、聖典では巡礼月中の巡礼が奨励されているだけでそれ以外の期間に巡礼することを禁じているわけではない(実際何人もの指導者が神の啓示を授かりたいがために幾度となく聖地を訪ねるくだりが聖典には散見している)。アサードは賛成を表明しているし、ヘサームに賛同する気もない。
然るにマフディの口から出たのは否の言葉だった。
「やはり、賛同は出来ん」マフディはつと目を伏せて続けた。「もとより希望者を募って行うと言うならわざわざこの場で取り決める必要もあるまい。各々の判断で巡礼することを、聖典は禁じていないはずだ」
賛否同数でターヘルの提案は否決された。その後二、三の連絡事項をやり取りして、会合はいつもどおり、何も決定されぬままお開きとなったが、マフディはその間ずっと居心地の悪さを感じていた。
逸らせた視界の片隅に、マフディは妙なものを見た気がしていた。最後まで直視することがなかったために、自分で見たものがただの見間違いだったのかどうか、マフディには判断出来なかった。信じられないと言う気持ちの方が強いくらいだった。
それは対面に座する男の微笑だった。主張の通らなかったターヘル・ディーンは、その薄い唇の端を微かに上げて、どうやら笑っているように見えたのだった。
マフディの知る限り、それはその男が初めて見せた表情だった。一瞬のことだ。見間違いに違いない。思いながらマフディはとうとう彼が頭巾を目深に被る瞬間まで視線を逸らしていた。
それでも、一瞬だけ視界に映ったターヘルの口元は、記憶に刻まれたその口端は、笑っていたようにしか思えなかった。
会合を終えたマフディはいつも以上の疲れを感じていた。帰路に愛馬が彼の身を気づかって何度も足を止めるほど、疲労はあからさまな様子だった。
邪教だ異教だと蔑んでおきながら、聖なる教えの僕たちだってやってることは変わらない。保守と革新、過激派と穏健派に分かれて、この不毛の砂漠で益体もない話し合いをもう百年以上続けているのだ。その間、真実の神が彼らの諍いを仲裁した記録はない。無論、占領した聖地に城と街を築き、我が物顔で日々暮らしている異教徒に対して天罰を下したことも、ただの一度だって。
何も変わらなくて本当は良かったのかも知れないとマフディは思った。革新穏健派のマフディが過激派のヘサームと組めば聖僕は死後に待っていると伝わる絵に描いたような楽園を夢見て勝ち目のない戦いに身を投じていくことになるだろう。また保守派に傾いたとしてもがんじがらめの戒律が彼らの人生を縛り、何のためかも定かでない(聖典はそれを神と幸福のためと説いているが)空虚な一生を多くの民に強いることになるはずだ。
どちらに転んだところで現状より悪化する見積もりなら、決して恵まれてはいない現状でも維持した方がましなのだ。マフディは何故この百数十年の間に一度たりとも彼ら部族が砂漠を出ることがなかったのか、理解した気がした。
俯きがちなマフディの顔を上げさせたのは彼の邸宅の楼門から聞こえるたどたどしい聖教語だった。すぐに頬を綻ばせると、その意を受けて彼の愛馬も歩調を速める。
門衛のナーゼルは頑固者だった。明らかに面識がある客人に対して一向に取り合おうとしない。姓名を求めるナーゼルと来意を伝える客人のちぐはぐなやり取りは、二十間の距離があってもはっきり聞き取れる。
客人は程なくマフディの愛馬の立てる足音に気づいて振り返った。一瞬だけ目を見開いた後、すぐに苦笑して手を上げる。
「君よ平らかなれ、ラフィーク」
聖天主教寛大派の指導者マフディ・アル・ディーン・ラフィーク・ブン・アミールは、彼を尊称ではなく本名で呼ぶ唯一の友人に応えた。
「君こそ、エイジ」
彼らが交わした言葉は聖教語で「こんにちは」を意味する挨拶だった。




