四、空虚な純粋
知れば知るほど神とその職責について疑いたくなる事実だった。
してみればアントニオはもとより聖職者と呼ばれる人々は、在りもしない神と言う概念のために肉体と精神を含めた人生の全てをささげたことになる。あまりの痛ましさに涙すらしたくなるとエイジは思った。
神はいないし、天国も地獄もないし、あまねく人間に善性なんてないし、戦争は終わらない。
頭に浮かぶのは悲観ばかりで、口を出るのは酒臭いげっぷと溜め息ばかり。
「まったく、救えない」
一人つぶやくエイジはいよいよ酔いが回ってきたらしい。今一度深く溜め息を吐いてうなだれると、目蓋は自然に落ち始めた。
「ま~たこんな所で一人酒かよ」
声はうなだれるエイジの後頭部に向けてかけられたものだった。ぐっと眉根を寄せたエイジは機嫌の悪そうな顔を上げた。
「何か御用ですか、隊長殿」
「つれねえ反応だな」声の主は口角を上げた後、ごほんと大仰に咳を払って続ける。「そんな風に飲む酒は不味かろう。喜びたまえ、隊長殿が特別に付き合ってやろう」
「結構です、隊長殿。酒の相手ならすでにいるので」
エイジからの指名を受けたハナはぐいぐいと硬い額を押し付けた。彼女なりの親愛の表現らしい。
「ハインツじゃあるまいし、馬を勘定にいれるなよな」苦笑する隊長はエイジの手から皮袋をもぎ取り、ぐいっと一飲みして喉を潤した。「まあ付き合えよ。小うるさいのからようやく逃げてこれたんだ」
香水と白粉の匂いを全身にまとわせる気安げな男は、この一団を率いるヴァルター・ベレ・フォン・エッセンベルク。南西公領エスパラムの正騎士にしてブリアソーレ城代、それから非公式ではあるがルオマ公姫の騎士も兼ねる名うての傭兵隊長は、エイジにとって直属の上官にあたるが、それ以前に友人の間柄でもあった。
結局エイジは拒むことなく隣を促した。すぐ隣に座られると俄然華やかな香りが際立つ。もちろんヴァルター自身の趣味ではないはずだった。
「小うるさいのなんて言い方、本人が聞いたら気を悪くするんじゃないの」
「構うことはねえよ。面と向かっても言ってるからな」ヴァルターはまた一口呷ってエイジに皮袋を返した。「頼んでもいねえのに何かと世話を焼きたがるのが女の性ってやつなんだろうな。初めのうちは嬉しいもんだが、慣れてくると煩わしい気持ちにもならあ」
やれやれと吐く溜息も贅沢な悩みだとエイジは思った。沈みがちな思考は話し相手が出来ても変わらない。口を付いて出るのは目下の悩みだった。
「あのさあ」
「あ?」
「俺って、悪人かな」
不意の質問にヴァルターは首をひねった。
「そんなことはねえんじゃねえか」
「じゃあ善人かな」
一転明るい表情で尋ねるエイジを、今度は一笑に付す。
「馬鹿言うな、善人は傭兵なんかしねえって」
「どっちなんだよ」
再びの憂い顔に、ヴァルターは初めてその質問が真剣な意味を持っていたらしいことに気づいた。と言っても友人の酒が何かと欝に偏りがちなことにはすでに慣れている。ぼりぼりと頭をかいて、ヴァルターは答えた。
「俺はこいつを生業にして軽く十年以上経つが、自分を悪人だなんて思ったことは一度だってないぜ。もちろん、善人だなんて言う気もねえけどな」なお俯きがちなエイジの背を乱暴に叩いて、ヴァルターは続ける。「こまけえこと気にし過ぎなんだよお前は。どっちだっていいじゃねーかそんなもん」
雑な慰めはエイジの心に響かなかった。ヴァルターはもちろん良い友人だったが、必ずしもよき相談相手とは言えなかった。
なべて傭兵は善悪よりも生死を重要視する。自分が生きるか死ぬかの状況下で物事の善し悪しを問うてはいられないと言う理屈だが、決して罪や罰を恐れていないわけでもなければ人命を軽く見ているわけでもない。彼らはいかなる罪業も神によって許されないことはないと考えていた。
殺生は蓋し罪悪だが、深く反省し悔い改めれば神はその罪を咎めない。
なんとなれば懺悔する者を許さないほど神は狭量ではないからだ。他者の命を奪うことになったとしても、生ある限り生きようとする選択を、決して否定はしないからだ。そう信じればこそ戦を生業と出来るし、自身を省みていつまでも悩んだりはしないのだ。
それは神に全幅の信頼を寄せることで初めて出来る考え方であって、存在そのものを懐疑するエイジとは物事の価値基準が全く異なっていた。それ故エイジの悩みをヴァルターが理解することはなかったし、ヴァルターのように生きることもエイジには出来なかった。
議題が死生観ならヴァルターに相談すること自体が間違いであるとはエイジ自身も気づいていた。そしてエイジはこの件に関してより信頼の出来る相談相手のことを思った。
「戦況は、しばらくずっとこんな感じなんだろ」
「まあ、多分な」
現状の兵力でルシヨンを完全包囲することは不可能だった。ヴァルターが布いた一見やる気のないこの半包囲陣は、都市の北西にエスパラム公の本軍が到着することで初めて完成する。それまでは敵が篭城の優位を捨てて打って出て来でもしない限りは暇をもてあますことになるはずだった。
「休んでいいかな? 二、三日」
その問いにヴァルターは口角を上げた。
「また例の女のところか、サラサン人の」
「友達だよ。女ともだち」エイジは強調するように繰り返した。
「へ、坊主のような言い訳しやがって」にやにやと笑みの絶えないヴァルターはむきになるエイジの脇を肘で小突く。「惚れてんだろうが。とっとと押し倒しちまえよ」
「そ」瞬間、エイジは赤くなる顔面を抑えられずに声を荒げた。「そんなこと出来るか、馬鹿!」
この手の話題なら覚えがあるらしい。ヴァルターは強引にエイジの肩を引き寄せると悪戯っ子の笑みを浮かべて耳打ちした。
「まあ聞けよ。女ってのは難儀な生き物なんだ。簡単に体を許しちまったら淫乱だなんだって蔑まれるし、貞淑ぶって身持ちを固くすりゃあお高く留まってると非難される。あいつらはいつだって言い訳を欲してんのさ。自分からじゃなく、男の方から求めてくれるよう願ってんだよ。だから綺麗に着飾るし、美醜にことさら執着したりもする。だろ?
してみりゃあ女を口説くのは男の務めってなもんだぜ。案外お前のその女友達も、お前に口説かれんのを待ってるのかも知れねえや。試しに強く抱きしめて接吻の一つでもしてみろよ。脈がありゃあそこで止まらねえはずだ」
「やめてくれ」エイジは激しく頭を振って浮かびかけた像を振り払った。「そう言う、不純な気持ちじゃない。純粋な、友達なんだ、彼女とは」
言ってて自分が空しくなったのだろう。反論は次第に小さくなっていく。
「それに俺は、ただ、会って話せるだけでも良いし、幸せだと思ってるし、良いんだよ」
弱っていくエイジはヴァルターにとって格好の玩具だった。苦し紛れの言い訳で塗り固めた防壁に容赦なく真理の石を投げ込んでいく。
「ほぉ~、じゃあヤりたくねえんだ? その女が誰か知らねえやつの所に嫁に行っても一向構わねえってわけだな? 純粋な、お友達、だもんな?」
「そ、れは」言葉を詰まらせたエイジはいっそう小さな声で答えた。「祝福、するよ。彼女が幸せなら、それで。だって、愛ってそう言うもんだろ。自分が幸せになれなくても、相手が幸せなら、それで」
「エティエンヌが言ってたぜ、エイジ」一転優しく肩を叩いて、ヴァルターは諭すように続けた。「処女と童貞の語る愛ほど空虚なもんはこの世にねえってな」
堪えるように震える唇がエイジの目に付いた。気づけばヴァルターの手を振り払い、エイジは友人としての態度をやめた。
「隊長殿、暇を請わせていただきます。三日ほど戻りませんので、これで失礼」
「おうおう、好きにしろ」ヴァルターは最早笑みを隠さなかった。ひらひらと手を振って、去っていくエイジの背中に答えた。「童貞捨てれたら報告しろよ。祝いの宴を開いてやるからな」
エイジはむかっ腹を立てながら陣所を歩いた。宿舎に戻って旅装を調えて、朝までには砂漠に入りたい。ともかくしばらくは、ヴァルターの顔を見たくなかった。いいじゃないか、童貞が愛語ったって。いいじゃないか、会って話が出来るならそれだけで。そんなささやかな時間が、この上ない幸福に感じるやつだっているんだから。
怒りはエイジの視野を狭くしていた。
「――いっ!」
角を曲がったところで出会いがしらの衝突だった。互いに額を押さえながら、エイジは習慣ですぐに頭を下げた。
「すみません、不注意でした」
「いいえ、こちらこそ……あら、エイジ?」
女性の声に名前を呼ばれて顔を上げる。すぐに知り合いだと気づいて、エイジは照れた笑いを浮かべた。
「あ、イリーナ、だったのか」
イリーナ・アキーモヴナ・レヴィーネはヴァルターの情婦だった。結婚こそしていないものの付き合いはエイジより長く、隊長殿の女として隊内では広く知られていた。
「まあ、ちょうど良かった」イリーナはエイジの手を取ってくっきりとした眉尻を下げた。「ねえ、隊長さん見なかった? 人に縫い物頼んでおきながら、あの人部屋にいないのよ。秋なんてすぐ寒くなるでしょ? 早く冬服の用意をしなきゃなのに」
「ああ、それなら厩に」
言いかけでエイジの口をつぐませたのは妙な違和感だった。直感が、何故だかイリーナをヴァルターの元に導いてはいけないと告げている気がした。
「厩ね、ありがとう」
軽く微笑んだイリーナはエイジの来た道へ足を向けた。すれ違い様、その細い指にぶつけた額を撫でられて、エイジは気づいた。そしてすぐに彼女を呼び止める。
「あ、ちょっと待っ、て」
振り返ったイリーナはそのまま静止するエイジに首をかしげた。
「何、どうかしたの?」
「あーいや、なんと言うか、その」
エイジは目を泳がせて言葉を探した。と、不意に手を叩いてイリーナの額を指差す。
「そう、軟膏、軟膏持ってない? 塗っといた方が良いよ。おでこ、赤くなってるから」
「平気よ、これくらい」イリーナは苦笑した。「でも、持ってるから、要るなら貸すけど?」
言って腰紐に括り付けていた小箱を差し出した。女物の僧服に身を包む彼女は正式な手続きこそ踏んでいないものの隊付きの導師エティエンヌの助手を勤める尼僧と言う事になっていた。隊長の情婦と言う立場もあって傭兵隊に従う女たちのまとめ役も兼ねており、有事の際は負傷兵の看病もその仕事の一つであるため応急手当の道具はいつも携行しているのだった。
軟膏入りの小箱を受け取ったエイジは早速指にすくった薬をイリーナの額に塗った。
「あ、もう、いいってば、あたしは」
「良くないよ」抗議の声を無視して、エイジは少し多めに取った薬を白い額に塗りつける。「女は着飾るものだってヴァルターも言ってたし、身だしなみは大事にしないと。うん、これで良し」
ひとしきり塗り終えると、エイジは小箱を返した。イリーナは眉根を寄せて額をぬぐった。
「良くないわ、塗りすぎよ。軟膏臭いってつれなくされたらあなたのせいだからね、エイジ」
「その時は、話が違うって俺の方からもきつく言っとくから勘弁してよ。じゃあ、おやすみイリーナ」
イリーナが更なる抗議を続ける前にエイジは踵を返した。歩きながら嘆息する。軟膏くらいで、彼女の鼻は誤魔化せないだろう。
先ほどイリーナとすれ違った瞬間、エイジは彼女の放つ香りがヴァルターの身にまとっていたものとは違うことに気づいた。恐らくは遊び相手の娼婦あたりがつけていた香水だった。
ヴァルターの不義を隠蔽してやっているつもりは、エイジにはなかった。ただ、彼の裏切りを知っていながら、何も知らないイリーナをヴァルターに会わせるのは嫌だった。どうせ取るに足りない火遊びなら、知らないままでいられた方が彼女のためだとエイジは思った。
ヴァルターは恐らく、イリーナが願うほどには彼女のことを愛していないのだろう。その事に気づいていても、彼の元を離れる気などイリーナにはないのだろう。
いいじゃないか、それでも。いいじゃないか、彼女が望んでいるなら、それで。見返りなんて求めちゃいないんだ。ただ傍にいられるだけで幸せなんだ。愛ってそう言うものじゃないのか。
報われない愛に意味なんかないと、エイジは思いたくなかった。実らない恋に価値なんかないと、エイジは思いたくなかった。
齢十九にして未だ女を知らないエイジは、こと色恋に関してはどこまでも純粋だった。




