二、疑念
ハインツ・プリッケンはちっとも旨くなさそうな顔で温い麦酒を呷った。彼の不機嫌面はもちろん今に始まったことではないが、これまでの場合はもっぱら仕事中の鬱憤や苛立ちが表出したもので、非番の夜の酒の席でまでそれを引きずることは珍しいはずだった。全身から立ち込める重苦しい雰囲気のせいだろう。賑やかな酒場の中でも彼の周囲だけは妙に空いていた。
ハインツは干した杯を叩きつけるように置いて目を閉じた。少し飲み過ぎたかもしれない。明日に残さないためにも、深くならない内に止めておこう。ここ数日と言うもの刻まれ続けた眉間の縦皺を解す手は、不意の水音を聞いて止まった。
顔を上げればがさつそうな手が彼の杯を頼んでもいない麦酒で満たしていた。
「どうした副隊長殿、えらく不味そうに飲んでるじゃねえか」
軽い殺意すら込められたハインツの眼光をへらへら笑って受け流すのはライナー・ランドルフだった。赤ら顔のライナーはハインツの機嫌など露ほども気にかけず隣に腰掛けると、小樽から直接麦酒を呷って歓喜の声を上げる。
「寄るな。ただでさえ不味い酒が余計不味くなる」
率直な悪態もライナーには効かなかった。馴れ馴れしくも肩を組んで、ライナーは満たした杯を示した。
「まあそう言うなって、こいつは悪くないぜ。ヤンに冷やしてもらったんだ。やっぱこの時期の酒は冷えてないと飲めたもんじゃねえや、な、副隊長殿」
ハインツは深く溜め息を吐いたが、結局は杯に手を伸ばし、一息に麦酒を飲み干した。
「いけるじゃねえか、流石副隊長殿だ」ライナーは手を叩いてはしゃいだ。「おい、酒が足りねえぞ。じゃんじゃん持って来てくれよ」
大声で給仕を呼ぶライナーにハインツは小さく漏らした。
「やかましいぞ、馬鹿め」
言いながらも内心では酒の味を認めていた。なるほど確かに悪くない。風通しの悪い酒場に篭る残暑の熱気と、むせ返るような男たちの人いきれも、よく冷えた麦酒が喉を通る瞬間だけは忘れることが出来る。
しかし、その清涼感に彼の不機嫌までも忘れさせる力はなかった。ハインツを苛立たせ、彼の酒を不味くさせているのは何も厳しい残暑だけではない。それは戦勝に酔ってすっかり弛緩し切っている隊内の様子のためでもなければ、調子の外れた声で一人上機嫌に歌など唄っているライナーのためでもなかった。
周知の通り、ヴァルター率いるエスパラム公軍はオートゥリーヴでの戦いにおいてラ・フルト侯軍に大勝した。余勢を駆って進駐を続けるエスパラム軍は次の目標をオートゥリーヴから程近いラ・フルト侯爵領の主都ルシヨンに定めた。兵力の五割以上を損耗したラ・フルト侯軍にはすでに野戦を続ける能力がない。続けざまに攻め立てても良かったが、敵の動きがそれを許さなかった。
ラ・フルト侯シャルルは戦が決する前にルシヨンへの撤退をはじめ、本陣守備の四万余りを無傷のまま城内に入れていた。ヴァルターが軍勢の再編と戦場の後片付けを終えるころにはラ・フルト侯軍の側もすっかり篭城の準備を整え、ルシヨンは攻めるに難い堅固な城砦と化して敵の襲来を待ち構えていた。図らずも持ち前の怯懦が彼と彼の臣下であるラ・フルト侯軍の命をつないだのである(四万を戦線に投入していれば大敗と言う結果自体が変わっていたかもしれないが)。
一方のヴァルターは焦らなかった。野戦から攻城戦へ、頭を切り替えた傭兵隊長は何とか戦場から離脱した敵の残党や、決戦の場に遅参した挙句大敗北をこうむった味方の惨状を知って戦意を失った中小の在地貴族に恭順を呼びかけ、兵を募った。説得交渉はことのほか順調に運んだ。敗残の傭兵達は言わずもがな、中小貴族達にいたっても白狼ヴァルターの威光はまぶしく、反対に一合も刃を交えることなく戦場から逃げたラ・フルト侯シャルルの行動は擁護のしようもない失態に映ったのだった。
そうして当初の倍以上にも数を増やしたエスパラム公軍は、にじり寄るようにオートゥリーヴ平野を北上し、ルシヨンの東から南にかけて攻囲陣を布いた。山ほどの投石機を並べ、昼夜を問わず石の雨を降らせる攻撃が始まり、今宵はその七日目である。篭城を決め込み一向に出てくる気配のない堅城と七日もにらみ合いを続ければ緊張感が薄れるのも無理からぬ話と言えた。それも野戦をもっぱら活躍の場とする騎兵ならば尚のことだった。
「要するに副隊長殿は、馬乗って暴れ回るのが好きで、こう言う戦は好きじゃねえんだ。だからへそ曲げてんだろ」
「そんな話はしていない」
すっかり赤くなった顔で、ハインツは拳を長机に叩き付けた。彼は傭兵と言う生業を誤解していなかった。戦い方にこだわる自由は貴族の特権である。傭兵にとって論ずるべきは勝ち負けの話であって好き嫌いは関係ない。勝つためならどんな手段でも講じるべきだし負けない努力は名誉よりも優先すべき事柄なのだ。
もちろんライナーの言葉はハインツの嗜好を的確に捉えていたが、傭兵と言う職を選んだ時から仕事に私情を持ち込まないのがハインツの信条だった。
「じゃあ一体何が気に入らねえんだよ」
苦笑交じりに問われてハインツは視線を落とした。やはり相当酔っているらしい。よりにもよってライナーなどを相手に、平素ならば絶対こぼすはずのない愚痴を、ハインツはつい吐露していた。
「今回の徴募で集まった一万五千の内、騎兵がどれだけいると思う」
「たしか、少なかったよな。五百くらいだっけ?」
大雑把なライナーの答えに、ハインツは頭を振って指を立てた。
「三百もいない。欠員が六百も出ているのに、補充はたった二百。一個中隊程度だ。歩兵が八千、工兵が二千、残りの五千近くは弓兵だぞ。馬鹿げている」
「あー、まあでも、そりゃそうがねえんじゃねえか」ライナーは干した小樽を弄びながら周囲に首を巡らせた。「だって相手が城じゃあ見ての通り騎兵は役立たずなわけだし、穀潰しを増やしてもさあ」
「黙れ馬鹿め。そんなことは俺にだって分かっている」
何よりハインツを苛立たせるのは得体の知れない胸騒ぎだった。此度の戦でも、無論勝ちを決めたのは騎兵の突撃だった。道理で考えれば、攻城戦に不要な戦力だから騎兵を募らなかったはずだ。
だが、弓兵、工兵の敵を誘引する働きがなければ、その勝利とて決して確実なものとはならなかっただろう。十倍の敵からもぎ取った薄氷を踏むような勝利の立役者が弓、工兵だと考えれば、徴募の結果はハインツに違う答えを導き出させた。
隊長殿は騎兵より弓兵、工兵の存在を重視している。
無論、憶測でしかない。しかし疑念は晴れなかった。誰よりもハインツ自身が彼らの働きに助けられた事実を理解しているからだった。現に彼ら騎兵はこの攻城戦が始まってから、何の働きもしていないからだった。
「ははあ、分かったぞ」気難しい副隊長の本音を聞いて、相談相手はしたり顔で口角を上げた。「ハインツの旦那は嫉妬してんだな。隊長殿があんまりにも飛び道具を頼って当てにしてるから、寂しいんだろ。顔に似合わず、かわいいとこあるじゃねえか」
屋内は一瞬で静まり返った。思い思いに歓談していた男たちは突然立ち上る物々しい気配に余さず背筋を凍らせ、口をつぐんだ。静寂の酒場に、能天気なライナーの笑い声だけが響いた。
ライナーが遅ればせながら急な静寂と隣席から向けられる仄かな殺気に気づいたころ、耳の先まで真っ赤に染めた副隊長は唇を微かに震わせて尋ねた。
「今のは、ライナー」髪をかき上げてゆっくりと立ち上がる。「侮辱だな? 侮辱と取るぞ、え、ライナー・ランドルフ?」
問われたライナーはさしもの苦笑を禁じ得なかった。ちらちらと目を泳がせて周囲を見やる。不幸にも目が合ったのは彼の隊に所属する同郷の朋友だった。
「クラウス、後は任せた」
言うやライナーは矢のような速さで跳躍した。数瞬遅れて、ハインツの抜き打った長剣がライナーの背後を薙ぎ、後ろ髪をわずかに散らせる。辛くも命拾いしたライナーは振り返ることなく通気窓に飛び込んで無事屋外へと脱出した。
「はぁ? 無茶言うなよ、いきなり」
クラウスは抗議の声を止めざるを得なかった。白刃片手の副隊長がライナーの逃げた通気窓から半身を乗り出して逃げる背中に怒鳴り散らしているためだった。
「逃げるな、ライナー! 叩っ斬ってやる! 上官侮辱罪だ!」
ライナーは当然その命令を無視した。残されたクラウスら白犬隊の面々が、小隊長に代わって怒れる副隊長を説得するため夜を徹する羽目になったのは言うまでもない。
エスパラム軍の攻囲陣地は三層に区分けされている。
最前線たる第一層には綺麗に均された城外市の残骸の上に攻城兵器が整然と列を成し、半里先の目標に狙いを定めて昼夜を問わない散発的な投擲でルシヨン城市内を不安と恐怖に陥れていた。
第二層は兵員の営所。城外市の家並をそのまま営舎として利用し、収容しきれない兵員は通に立てた天幕でどうにか格好だけを間に合わせている。それでも尚人の数に比して天幕が不足しているため、地べたに敷いた羽織の上に雑魚寝の兵も珍しくない。
そして第三層にあるのは物資の安置所だった。糧食や飛び道具等の消耗品、厩等が一所にまとめられ、賑わいを聞きつけた露天商や女衒までもが責任者の二つ返事で合流を許されて、装いだけなら平時の色町となんら変わらない有様である。
酒場の喧騒と娼婦の客引きを遠くにしながら、エイジが非番の夜を過ごすのはもっぱら厩だった。厩周辺はどうしても独特の臭気を放つためあまり人が寄り付かない。ペペもボリスも当直で忙しい夜は、大抵愛馬のハナがエイジの酒の相手をしていた。
エイジは厩から出られて嬉しそうに鼻面を押し付けるハナの額を撫でた。見通しを良くするために破壊された民家の残骸に腰掛けてぼんやりと夜空を見上げながら、皮袋の飲み口を傾ける。夜風が陣所の賑わいを運んできた。どこからか虫の奏でる涼やかな音色が、さざめきに合わさって耳に心地良い。初秋ともなれば屋内よりも余程快適に酒が飲める、まずさわやかな夜だった。
攻囲戦と言っても数で劣るこちら側が積極的に仕掛ける道理はない。十分な糧食と万全の備えさえあれば十倍の敵とだって渡り合えるのが城砦の利である。この状況下で真っ向から仕掛けて簡単に攻略出来るようでは誰も城など頼りにしないのだ。
してみれば弓兵の状態は無聊をかこつ騎兵隊と似たり寄ったりの有様だった。攻囲開始の数日は城外市の破壊など忙しく働かされていたものだが、布陣の終わった今となってはそれも熱心に取り組むべき仕事ではない。市内の家屋は壊さなければそのまま営舎に利用出来るし、それらの破壊活動は本来歩兵の領分だった。
オートゥリーヴでの戦から十日あまり、誰かの死はおろか血を見ることすらない現状はエイジにとって望むべき状況と言えた。
しかるに、エイジの心は晴れなかった。先の戦で目の当たりにした光景が、どうにも頭から離れないのだった。
若かった。まだあどけなさの残る童顔の少年だった。明るい未来を嘱望されていたであろう少年の命が、あんなにもあっさりと絶たれてしまった。いや、絶ったのだ。他でもない、俺自身が。
今なお深く、自責の念は残っていた。それでも自分を責めて贖罪しようとか、彼の墓や遺族に頭を下げて回ろうとか、具体的な行動に移る気は起きなかった。この仕事を辞めようと言う気など毛頭ない自身の冷酷さにこそ、むしろエイジは強い自責を感じているのだった。
傭兵となって二年以上の時が経つ。この二年の間にエイジはすっかり死と言うものを馴致していた。そして同時に、己の中に信じて疑わなかった人の生まれ持つ善性、生命の絶対的な尊さと言うものを疑い始めていた。
自身の命と他人の命、幾度も天秤にかけて、幾度も自身のそれを優先した。自身の命が重いと信じれば、他人の命はどこまでも軽くなった。まして戦場で相見えた敵の命など重くなるはずがなかった。
次第に、他者を殺めても恐怖することはなくなった。いつしか、仲間の死に直面しても涙することはなくなった。
もちろん楽しいわけではない。確かに痛ましい出来事だ。涙こそ流さなかったが、今宵のように己の所業に後悔したり、深い悲しみで何も手につかなかった過去だって一度や二度ではなかった。
しかし、戦場において誰かの命が失われることは日常だった。その当たり前の現象に出会うたび、一々足を止めていたら、尊い尊い自身の命すら損なってしまいかねないのだ。
傭兵としての経験を積むほど、エイジの中に深く根付いていたはずの価値観、道徳、信念は、容易に姿を変えられていった。最早エイジは、他者の命に絶対的な価値など見出せなくなっていた。
あるいは、それはエイジの心に作用した防衛本能だったかも知れない。絶対的に尊いものと固く信じ続けていた命を自身の都合で奪う行為は、エイジの心に矛盾を生じさせる。
そんな悪行が許されるのか。あまりに非道過ぎはしないか。
募り続けた罪悪感はいつしかエイジの心の許容量を超え、やがて全てを押し潰してしまうかも知れない。そうならないための言い訳がエイジには必要だった。命は絶対と言うほどに重くはない。強い錯覚に逃避すれば、少なくとも自己の生命は守ることが出来る。
意識的なものにせよ無意識的なものにせよ、結局エイジは楽な道を選んだのだ。利己のために他者を切り捨てる非人道的な選択を続けて、この二年間を生き抜いてきたのだ。
そんな冷血漢が、いかにして人の生まれ持つ善性などとのたまえるのか。どの口で生命の尊さなど語れると言うのか。
思えば傭兵となる遥か以前から、自身の内には悪性が潜んでいたのかも知れないとエイジは感じ始めていた。祖父が心身の修練にこそ価値があると見定めた武術の存在とて、エイジは自己を生かすために、己の利のためにしか使えなかった。初歩的な規則を忘れるほど剣道の試合に熱中出来たのも、防御が得意なのも相手の竹刀を可能な限り捌こうとする姿勢も、頭の中で勝手に真剣の立ち合いを想定していたからだった。
平和な世界での十五年ですら、知らず人を殺める術の習得に血道を上げていた。ナイトウエイジと言う人間の根底で純粋に培養され続けてきた、他者を殺めることに何らの躊躇も覚えないこの悪性が、今も彼を生かしているのだ。
エイジは自身の中に救いようのない悪人を見つけていた。善性によって成り立つはずの世界は、その根底から間違っていた。自己と言う最も身近な基準がそれを証明していた。
自分自身の悪性すら否めないのに、どうして性善説など唱えられようか。
どれだけ拒んでも考えても、その残酷な事実を否定することは出来ない。ために、一人の夜は決まって憂鬱な気分に沈んだ。やはりエイジは酒を飲まずにいられなかった。束の間の酩酊に、逃避せずにはいられなかった。こんな生活を素面で乗り切れるほど、彼と言う人間は強くないのだった。
自然俯くことになったエイジは、ふと下げた視線にアントニオの形見を見つけて一層暗い気分に苛まれた。六芒星の首飾りは全能の神を象徴する偶像のはずだ。そもそも、村を出たのだって、この神と言う存在を糾弾するためであったはずなのに、今では神について考えることもほとんどなかった。
なんとなれば、その問題についてエイジはすでに揺るがない答えを導き出していた。
神はいない。何者も救えない。もしいるとするなら、戦争ばかりで一向に休まらない今の世の中を、どうにかしない理由などないはずだからだった。




