一、戦場の花-2
ユーグは己を騎士の中の騎士と自負していた。指揮官と言う立場でありながら最前線を譲らず、手柄と言えばもっぱら自らの手で挙げた首級を誇った。
自信を裏付けるだけの実力が彼にはあった。事実、横合いから不意に射掛けられた矢の雨は、彼と彼の愛馬の纏う鎧、その表面を覆うマナの膜に弾かれて彼らの体に傷一つ付けることも叶わなかったのである。
優れた騎士の甲冑は矢玉如きを通さない。
まじないや迷信の類ではなく、その言葉を厳然たる事実とさせるのがマナとそれを扱う技術、『闘技』の存在だった。
『闘技』とは強く思うことで実現する技術である。雷よりも速く、巌よりも硬く、そう強く思いながら剣を振り、拳を振るえば、マナがその思いを現実に変え、音を置き去りにする剣、岩をも砕く拳を術者に体現させる。言うなれば強い想念によって現実の物理法則を捻じ曲げる技術なのである(この理屈は『法術』も『魔法』もさして変わらない)。
白兵戦においては無類の強さを誇るこの技術が、分けても恩恵となったのは騎兵であった。動物、植物に関わらず、種族、生態によらず、全ての生命はマナを最小単位として存在している。そして馬とは、その巨体に相応しいだけの生命力、マナを内包する生き物なのである。人と馬、両者のマナがまさしく人馬一体となれば、その総量が人間一人のそれをはるかに凌駕するのは極当たり前の理屈だった。
何者にもその突撃を止めることは叶わず、何者もその存在無くして勝利を手にすることはできない。騎士とは、その存在により戦の勝敗を左右し、勝利の栄光と武人の功と戦士としての名声をも欲しいままにする戦場の花形。
故にこそ、世はまさに騎士の時代と言えた。
しかしながら、馬に乗っているからと言って誰でも彼でも強く成れるわけではなかった。まず以って馬と呼吸を合わせる信頼関係が大事であるし、騎士本人の「矢など通さない」と言う強い意志がなければ、鏃は容易に具足を貫いた。
ラマストル伯軍は無論精鋭で鳴らしていたが、調子が悪い者もいれば未だ実力がその水準に達していない者とているのは、人間で構成される組織にとって避けられない問題だった。加えて、今日ユーグの麾下に配属されている将兵にはアモーリのように直属の配下ではない者も少なくない。
背後で上がる悲鳴と嘶きに舌打ちしながら、ユーグは結局邪魔な弓兵を片付けることにした。初動で遅れをとった右翼としては、真っ先に東へ逃れた敵や同じく追撃に動いているであろう左翼の騎兵と足を競うと言うのも気の進まない話だった。ユーグ個人にとっては毛ほども痛くない弓兵の存在も、放置して目の前を横断するとなればいらぬ犠牲を出すことになりかねない。
そして何より、卑劣な飛び道具で騎士の戦を汚そうとする輩が、ユーグの癇に障った。
それは自身の優位な状況に一切疑いを持たない彼の油断だったかも知れない。敵の挑発に乗せられる形で方向を転換したユーグ・ドゥ・ラマストルは、彼の愛馬の不意の跳躍に驚いて馬速を緩めた。後方では先にも増して嘶きと悲鳴が上がる。
振り返ったユーグはすぐにその理由を理解した。
黒く焼け焦げた畑地には幅二間ほどの空堀が掘られていた。それも遠目ではそれと分からないよう掘り跡に黒い煤をまぶしてある。これに足を取られたらしい。
精兵と言えど気づかないわけだった。ユーグ自身愛馬が気づいて飛び越えなければ無様に落馬していたことだろう。弓兵は恐らく、この空堀に身を伏せてこちらの進行をやり過ごしていたのだ。でなければいくら自身の力量に頼むユーグでも弓の射程内を横断する愚は犯さなかったはずだった。
「空堀があるぞ! 注意を怠るな!」
怒鳴ると同時に舌を打つ。全く、どこまでも愚弄してくれる。
面頬を上げたユーグは怒りも露わに遠くなる敵弓兵の背中を追いかけた。その逃走経路を辿ればこれ以上の罠もないはずだ。
馬腹を蹴れば愛馬は迷わず駆け出した。上げた面頬の縁を矢が掠める。横並びの配置で前を塞ぐ馬車の列は即席の防壁のようだ。細隙からかすかに、こちらを狙う弩の足掛けが覗いている。
「舐めるな!」
再び面頬を下ろしたユーグは敵弓兵が飛び込んで行く馬車と馬車の隙間を目掛けて手綱を繰った。最後尾の弓兵まで目測で五十間。五つ数えるより速く追いつける。
具足を滑る金属音も、最早小気味良い旋律だった。ユーグの騎馬槍は、視界の中で徐々に大きくなるその背中を目標に捉える。
激しく上下動する鞍上でもぶれることのない槍先は、とうとう数間の間合いに迫り、そしてとうとうそれを貫くことなく地に落ちた。
ユーグの突撃を阻んだのはエスパラムの陣営から投擲された石だった。それもただの石つぶてではない。城壁を破壊するために投げ込まれる、重さ二十貫超えの岩塊だった。
直撃を受けたユーグの顔面は鉄兜ごとひしゃげて原型を残さなかった。突然乗り手を失くした馬はただ一頭で数間を駆け続けた後、無数の弩に射抜かれて絶命した。
あわや騎馬槍の、そして岩塊の餌食となるところだったエイジは、寸でのところで第二防御線をすり抜けた。馬車でこしらえた防護壁の内側で、待機していた弩兵隊がすぐに隙間を塞ぐ。荒く息を乱したまま、エイジは馬車壁に上がって戦況を検めた。
第二、第三防御線からの投擲が始まり、先ほどまで彼らがいた一帯はすっかり地獄にその様相を変えていた。命中率は決して高いとは言えないものだったが、あるいは手足を潰され、あるいは致死の重傷を受けて、のたうち回る仲間を目の前にすれば恐慌は当然の反応だった。
絶え間なく投げつけられる岩塊はさしもの騎士でも防ぎようがない。
なんとなれば投擲される岩塊は騎士が自信を持って防げるものと想定する質量を優に超えていた。
板金の美しさに憧れるほど、甲冑の重みに自信を抱くほど、弓矢のように卑賤な武器などは騎士たちの無意識下でその脅威の度合いを低くしていた。
あんなものは防げて当然。所詮飛び道具など平民が狩りに使うもので武器と呼ぶには値しない。
実際容易に防げる騎士も珍しくない(強い思い込みが想念となって鎧本来の硬度を高めていた手合いが多い)だけに、その自信は共通認識となって騎士たちの間に浸透していた。
しかし同時に、戦争の最前線で幾度となく投石機の威力を目撃してきた彼らの内には別の共通認識が生まれていた。
騎馬槍ではびくともしない城壁だって投石機なら破壊できる。あの岩塊が落ちてきたら、意匠を凝らした装飾の甲冑も容易く鉄くずになる。鋼の鎧でも、あれは防げない。
その圧倒的な破壊力を理解し、頼りにしてきた騎士たちにとって投石機の力は剣や槍の持つそれとは別格の存在となっていた。弓矢程度ならものともしない強い想念は、より単純で分かりやすい巨大な力の前に膝を屈したのである。
圧倒的な力を誇示していながら、投石機をはじめとした攻城兵器の類が戦場の花形ともてはやされないのは、その活躍の場が極めて限定的なためと言えるだろう。
なべて投石機とは攻城戦に用いられるものであり、野戦を主な戦場とする騎兵とは活躍の舞台が異なる。騎兵(騎士)とていつでもどこでも十全の力で戦えるわけではないが、その運用の自由度と見た目の華やかさで言えば段違いの支持を集めていた。
故にこそ人気があり、自負もあった。こと野戦において、騎士に勝る兵はいない。相手が城に篭もるのでもなければ、騎士に負けはないのだ、と。
不幸にもラ・フルト侯軍が地獄のような苦境を強いられる理由はそこにあった。相手が城を出て平野に陣を構えているからと言って、野戦が行われるつもりでいた。真っ先に戦場から離脱しようとする敵の騎士を見て、早くも勝利を確信していた。
主力の騎兵を追い立て、後は残された雑兵を自慢の突撃で蹂躙するのみと、勇んで馬首を向けてみれば想定外の反撃が彼らの足と思考を止めた。攻城兵器の野戦運用に前例がないわけではなかったが、これほどの数が用意され、これほど強固な防御陣地が構築されているとは誰も思わなかった。
二重三重に防御線を張り、近づく者を矢玉と岩の雨で殺戮する。さながら城砦のごときその姿は最早陣地と呼ぶにふさわしくない威容だった。
沈黙の十日は、なにも相手を侮ってのことではなかったのである。
「ユーリィ!」止まない悲鳴と喊声に耳を圧されながら、エイジは怒鳴る勢いで尋ねた。「うち以外の状況は」
「似たようなもんだろ。特に知らせはないぜ」傍らに伏せる白毛の犬を撫でながら、ユーリィ・セルゲエヴィッチ・エイゼンシュテインは答えた。
「便りがないのが良い知らせってやつだ」
「そう願いたいね」
苦笑交じりに答えて、エイジは弩の弦を引いた。矢を装填し、細隙に足掛けを乗せて引き金を引く。
命中の確認は行わなかった。罪悪感のためではなく、ほんの少しの時間すら惜しんでいるためだった。細隙の間から見える景色には、指揮官を失いながらも何とか統制を取り戻しつつある騎兵と、わらわらと数を増す後続歩兵の姿が確認できる。休んでいられるゆとりはなかった。
そんな最中に袖を引かれ、エイジは苛立ちも露わに振り返った。腰をかがめる憂鬱顔は工兵隊長のアレクサンドル・イワノヴィッチ・クルピンスキィだ。
クルピンスキィは悲嘆に暮れるような表情でエイジの耳元にささやいた。
「エイジ……弾が、もう……なくなりそうだ……」
「早いな」思わず舌を打ってエイジは尋ねた。「すぐ用意できないのか」
「用意はしている……が、追いつかない……と、ヤンは言ってる」
「分かった」
エイジは肯いた。撃ったばかりの弩を傍らに置き、大きく息を吸い込んで命じる。
「長弓隊、総員抜剣!」
陣中の至る所から鞘走りの音が応えた。エイジ自身も腰の刀に手をかけ、慣れた動きで抜き放つ。
「プンスキ、四半刻の間南面の投石を止めてくれ。白兵で仕掛ける」
肯いたクルピンスキィはすぐに踵を返した。伝令を使ったほうが効率的だが、逐一自分の目で作品の確認をしたがるのは彼の癖だった。
次いでエイジは矢筒をユーリィに渡した。筒の中には鏑矢が三本。ユーリィに意味を尋ねられる前にエイジは続けた。
「ユーリィたちは長弓が出た後石の回収を。手近なやつだけでいい。第二防御線から離れ過ぎないように。終わったらこれを撃って。撤退の合図だから」
「了解」
エイジは今一度大きく息を吸い、あらん限りの大声を陣地内に張り上げた。
「弩隊、撃ち方合わせ! 長弓隊は弩二斉射の後に第一防御線までの敵を掃討! 撤退の合図を聞き漏らすな!」
伝播する命令はまばらに続いていた射撃を徐々に止めさせた。程なく投石も止まり、防御線の外側で呻く敵兵の声すら聞こえるようになった。
エイジはユーリィに渡した矢筒から鏑矢を二本取り出した。一本目を番え、上空に向けて撃ち放つ。一拍遅れて続く弩の斉射は、不意の静寂に油断して仲間の救助に向かっていた敵騎兵を針鼠に変えた。
新たに増える悲鳴を無視して、エイジは深く呼吸した。たっぷり二呼吸の間を取って二本目を番え、放つ。続く二斉射目は誰の命も奪わなかった。ただ、一斉に放たれる矢の風切り音が勇む敵兵の心を恐怖で縛り付けた。
エイジは長弓をユーリィに渡して、三度大きく息を吸い込んだ。
「長弓隊、続けぇ! 聖ジョルジュ、エスパラム!」
聖ジョルジュ、エスパラム!
馬車壁から飛び降りたエイジに続いて、二百の長弓隊が第二防御線を飛び出した。
馬の扱いと言う不得手が、結果的にアントワーヌの寿命を延ばした。隊列に大きな遅れをとっていたアントワーヌは後続の歩兵とほぼ同じ速度で前線に到着し、まことに遅ればせながら勇将ユーグ・ドゥ・ラマストルの訃報を知ったのだった。
彼にとっての不幸は本来ユーグの後を継ぐべき多くの伯爵級騎士たちが、今は亡き右翼総指揮と同じか似たような運命を辿って戦闘不能に陥ってしまっていたことだった。なかんずくの不幸と言えば、その結果彼、アントワーヌ・ドゥ・ペラ伯爵が、現状戦闘可能な将兵の中で最も位の高い存在となってしまったことだった。
「閣下、突撃すべきです! 歩兵を加えて数で攻めれば、あの程度力押しで突破できます」
「卿は黙っていろ! 小生が申し上げているのだ」
年若い騎士が息巻けば、それを制するのは口髭に泡を付けた中年の騎士だった。
「閣下、騎兵を迂回させましょう。歩兵で敵を正面に引き付けて、騎兵による横撃を仕掛けるのです。あの通り投石機は容易に向きを変えられません。正面突撃などは愚作も愚作ですぞ」
かたや落ち着いた風のある初老の騎士が巧みに身振りを交えたしたり顔で兵法を説き、
「閣下、瀕死の戦友を見捨てるなど騎士としてあるまじき行為です。どうか小生に出撃を御命じ下さい。今すぐにでも前線で身動きの取れなくなっている彼らを救い出してご覧に入れます。是非に」
かたや使命感に駆られた青年騎士が熱のこもった眼差しでアントワーヌに訴える。
「貴様、愚作とは一体誰に対しての物言いだ!」
「小生はただ兵理を説いているまでで」
「卿は頭だけでなく耳も悪いものとお見受けする。命令を聞き違えられたら迷惑だ。即刻後方に下がりたまえ」
「何を貴様侮辱する気か!」
「閣下、是非に!」
途端頭痛を感じて、アントワーヌは兜を抱えた。やかましい喧騒を必死に遮断して、努めて冷静に考えるのは己の身の上のことばかりだった。父祖からのペラ伯領に妻の生家ボウフル子爵領の一部。それから数年来より賜っている領国地理院の事務官としての俸禄に加えて、始末の悪いことに十五の時箔をつけるために賜った騎士位の禄も合わせれば、何度勘定してみても今この場にいる中で最も所領が多く、また最も位階の高い存在はアントワーヌ以外にいないのだった。
「閣下、悩む時では御座いませんぞ!」
怒声がアントワーヌを我に返した。確かに、事実である。彼らの騎兵は敵陣半里の辺りで足を止め、一部が合流した歩兵と一緒になって無秩序な攻撃を仕掛けては投石矢玉の餌食となっている。無駄な犠牲を出さないためにも、いち早く部隊の掌握と統制に努める必要があった。どれだけ逃避したところで、彼が今全軍を統べる立場にある事実は変わらないのだ。
聖ジョルジュ、エスパラム!
不意に上がる喊声は彼の結論を急かすかのように轟いた。見れば剣を抜いた敵兵が弩の援護を受けながら収拾のつかない味方部隊に斬り掛かろうと迫るところだった。
「投石が」
つぶやいたのは中年の騎士だった。アントワーヌもすぐに気づいて肯く。若年の騎士はここぞとばかりに声を上げた。
「止んでます、止んでいますよ、閣下!」少年のような笑顔で指を差して、なおも喜色は収まらない。「ご覧下さい、あやつら、投げた石を拾い集めている様子。はは、やつらめ、どうやら撃ち尽くして、とうとう投げる石も底を突いたのでしょう。これはまさに千載一遇の好機と言うもの! 閣下、攻勢に出るのは今をおいてありません! 突撃を御命じ下さい、閣下!」
渋面の中年騎士も瞑目する初老騎士も、今度は異を唱えなかった。
なおもアントワーヌが悩む間に、弩の射撃と連係する敵の凶刃は着実に味方の被害を増やしていた。こちらが寄せれば矢の嵐が舞い、退けばその背中を刃が襲う。数に勝るラ・フルト侯軍がいいように翻弄されて見えるのは、ひとえに指揮する者の有無に他ならない。両者の差が明確な以上、決断が延びるだけ不利を被るのはラ・フルト侯軍の側に違いなかった。
アントワーヌは泡立つ唾を飲み込んだ。根の合わない歯をがちがち鳴らせながら、震える唇はついに決断を下した。
「ぜ、全軍、突げ――」
アントワーヌ・ドゥ・ペラ伯爵にとって一世一代の突撃命令は、横合いから轟く鬨の声に容易くかき消された。
轟音を響かせて大地を揺らし、砂塵を巻き上げながら迫る白銀の軍勢は、割れんばかりの大音声で自らの参上を誇示していた。
聖ジョルジュ、エスパラム、ヴァルター・フォン・エッセンベルク!
全速の騎士群は一里の距離も一瞬で駆けた。見る間に迫る敵影が落ち着きを取り戻しかけたラ・フルト侯軍を再び混乱の渦に陥れた。
ある者は果敢に正面から挑み掛かり、またある者は算を乱して戦線からの離脱を試みる。後方の歩兵群などはまとまりなくたむろする味方の騎士達に遮蔽されて危機的状況を知ることすらなかった。
アントワーヌはと言えば、猛る愛馬を御しきれずに落馬し、戦場のど真ん中で各自勝手に動き回る麾下の騎兵にもみくちゃにされていた。
逃げることも戦うこともままならない程に統率を失った二万数千のラ・フルト侯爵軍右翼は、なす術もなく騎兵突撃の蹂躙を受けた。
左から右へ、速度を落とすことなく駆け抜ける白銀の隊列は、エイジに新幹線を思い出させた。どんな力が働いているのか、その隊列は槍先に掠めた鎧兜を抉り、轢き飛ばした者の四肢を四散させ、馬装を着込んだ馬の体すら十間の中空に跳ね飛ばしている。
何度見てもでたらめだが、おびただしいほどの返り血を浴びてもなお陽光を照り返す騎士達の姿は、全く壮観なものだった。人々が憧れ、頼みとし、この乱世にもてはやされると言うのもこの勇姿をその目で拝めば納得のいく話だった。
向かって北の敵陣に対して不恰好な横陣を組んでいたために、騎兵にとっては弱点となる側面からの突撃をラ・フルト侯軍はまともに食らってしまった。実数十分の一程度でしかない騎兵の突撃であっても、この時のラ・フルト侯軍を壊走に追い込むのに十分な威力を持っていると言うことは今まさに見ている通りである。
結局この戦も、勝敗を決めたのは騎兵の活躍なのだ。
エイジはどっと全身に疲労が行き渡るのを感じた。似たような思いを抱いていたのだろう。ユーリィの撃った鏑矢が、長弓隊に退却の時を知らせた。
狂奔する敵の敗走兵に注意を向けながら、エイジは後ずさりで陣地へ戻る。
ふと目に付いたのは馬を失ったものと思われる重装の騎士風情だった。面頬をがちゃがちゃ鳴らしながら必死にエスパラム軍の突撃から逃れてきたと見えるその騎士は、自分がどこに向かっているのかも気づかぬまま、真っ直ぐエイジらの方へ駆けていた。背格好は小柄でエイジより頭半分程は小さい。
今にも転びそうな危うい足取りは当然のごとく放たれた弩の矢を胸に受けて止まった。そのまま前のめりに倒れたのがまずかったのだろう。具足を貫いた鏃は大地に後を押されてより深くまで騎士の体にめり込んでいった。
エイジからそれ程離れたところではなかった。何気なく駆け寄ったエイジは苦しみにうつ伏せる騎士の体を起こし傷口を検めた。鉄兜の下にある顔はやはりエイジより若かった。齢十五、六と言ったところだろうか。ともすれば初陣だったのかも知れない。恐怖に見開いた双眸からは止めどない涙を流し、唇の動きは、母か、あるいは父の事を呼び求めて止まない。
風の抜けるような呼気に血を交え、必死に呼吸を繰り返すのは具足を貫いた弩の矢が肺にまで達している証左だろう。それはつまり、その命を救うには迅速な処置が必要であると言うことを意味していた。
わずかな逡巡の後、エイジは刺突用の短剣を抜いた。法術士なら助けられるかも知れない。自陣まで運び矢を抜いて、穴を塞いで止血すれば、この少年は死なずに済むのかも知れない。可能性は皆無ではなかった。
だがそれは、この少年がこのまま死を迎えるよりずっと低い確率だった。
エイジは少年の左脇下にある鎧の隙間に細く尖った剣先を当て、掌底で強く押し込んだ。
一瞬だけ見開かれた少年の双眸は、程なく瞳孔から光をなくし、やがて二度と閉じられることはなくなった。
溢れる血でその具足に六芒星を描くと、エイジは短剣を引き抜いて第二防御線に駆け戻った。
「もったいねえ」馬車壁の上からエイジを迎えたユーリィは言った。「ありゃあ良いとこの坊ちゃんだぜ。生け捕りにすりゃあ身代金がふんだくれたのに」
「もう助からなかった」荒い呼吸を整えながらエイジは答えた。「当たり所が悪かったよ」
エイジは袖口で短剣を拭って鞘に納めた。一度だけ、少年の亡骸がある辺りを振り返る。
喧騒は止まなかった。白狼隊の突撃は、相変わらず容赦なく逃げ惑う敵を踏み潰していた。
申し訳ない、素直な気持ちでエイジは思った。
この戦闘におけるラ・フルト侯軍の死者一万余。負傷三万二千(内重傷者一万五千)。逃亡その他一万三千。対してエスパラム公軍の死傷は千五百。
後にオートゥリーヴの戦いと呼ばれるこの戦は、十倍の戦力比と言う圧倒的不利な状況で始まりながら、圧勝と評すべき大差でエスパラム公軍が勝利を収めた。




