四十九、主は何処
ジローラモ・ピエポリとロベルト・アレオッティの二人が故郷ペルーノ村に帰りついたのは、空位二十一年初冬の十二日だった。
どこを見ても人でごった返す都会に揉まれ、混迷を極める関所の数々をどうにか切り抜けて、人目を避ける山道をぬかるませる雨は早くも霙へと変わる時節。まこと多難な道のりだったが、さすがに懐かしい景色を視界に収めれば逃避行の労苦も一瞬で吹き飛んだ。
「今帰ったぞ、皆の衆」
明るい声で家々に呼びかけると、程なく見覚えのある面相がそこかしこから怪訝な表情を覗かせた。村議の顔役に靴職人のご隠居、親方に代わって若衆をまとめる大工の女房まで、忙しく立ち働いていた手を止めて続々と集まってくる。
「お前ら、生きてたのか」
穏健派で知られる旅籠の主人ベニート親父に言われ、二人は得意げな顔を見合わせた。
「まあ、何とかな」ジローラモは大げさに肩を竦めて答えた。「もう少し都を出るのが遅かったら、俺たちも危なかったが、間一髪ってやつよ」
なあ、と傍らの相棒の肩を叩き、揃ってだらしない笑みを浮かべる。が、集う面々の表情は彼らのように明るくはならなかった。
さもありなん、ペルーノ村の状態は未だ酷いものだった。家屋も田畑も半分近くは半年前傭兵に破壊されたまま手付かず。それを何とか修繕、再生する疎らな人手はいずれも本来なら一線を引いている年齢の老人や労働力に数えられない子供ばかり。一揆の熱に浮かされて村を離れた大黒柱に代わり家を支える女たちは、寒空の下男顔負けの腕まくりで力仕事に慣れない細腕を酷使している。復興は未だ、半ばにも差し掛かっていない状況なのだ。
「生き残ったのは俺たちだけか」一渡り見回したロベルトはさすがに微笑を禁じた。「元々賑やかでもなかったが、ずいぶん寂しくなっちまったな」
「いや、お前らだけじゃないぞ」
神妙に答えるベニート親父に案内されたのはロベルトの生家アレオッティ屋敷の離れだった。離れと言っても実際は農具等を保管する物置小屋のようなものである。二人が疑問に思っていると、ちょうどその物置小屋から人が出てくるところだった。
それは少しやつれた黒髪の女だった。両手に空の食器を載せて、憂い顔の口元から溜め息を漏らすその女を見て、ロベルトは思わず声を上げた。
「デボラ、あんた、デボラ義姉さんじゃないのか」
いかにも、驚いて顔を上げるその女はロベルトの兄嫁デボラだった。傭兵にかどわかされて以来全く音沙汰がなかったものだから、生死すら危ぶんでいた相手だけに、ロベルトはひとしおの喜びでデボラを抱き締めた。良かった、良かった、元気そうじゃないか。まさか五体満足で戻ってこれるなんて、思わなかったぜ、義姉さん。
一方でデボラの表情は優れなかった。抱き締めるロベルトの体をぐいと引き離し、顔をうつむけたまま走り去ってしまう。横顔に光るのは目尻に溜まった涙の玉に見えた。
訝るロベルトはベニート親父に促されるまま木戸を開け、覗き込んだ小屋の奥にまた懐かしい顔を見つけた。
「兄、貴?」
呼びかけながら小屋の中に足を踏み入れる。外の光が入り込んで次第にはっきりと浮かび上がってくるのは、彼の兄ロレンツォ・アレオッティの間抜けな寝顔に他ならなかった。
「なんだよ兄貴、兄貴じゃねえか。無事だったのか。良かった、心配したんだぜ」
望外の喜びが弟を饒舌にした。間抜け面して寝てんじゃねえよ。へへ、義姉さんが帰ってきた途端こんなところで昼間っから逢引なんて、相変わらずだな兄貴はよお。全く、こっちの気も知らねえで。
ロベルトは安らかな寝顔を揺さぶり起こした。多少の強引さは気にしなかった。この世でたった二人だけの兄弟が互いに無事だった喜びを、兄貴と共に分かち合いたい。思うだけ逸る気持ちが兄に覚醒を促した。
ロレンツォは目蓋を上げた。さ迷う寝ぼけ眼の焦点は虚ろに辺りを巡り、やがて眼前の弟に定まると、俄かに動揺しだした。
「兄貴? どうし――」
心配する問いかけはロレンツォの絶叫でかき消された。突然叫び、暴れだしたロレンツォはしきりに助けを請いながら、必死に宥めすかそうとする弟の手から逃れようとした。助けて、助けて誰か、助けてくれぇ、俺が、俺が悪かった、悪かったから、許してくれぇ、神様どうか、どうかお慈悲を。
あまりの激しさにロベルトは堪らず兄から離れた。そこへ叫び声を聞いて飛んできたデボラが動揺する義弟を押しのけてロレンツォを抱き締める。
大丈夫、大丈夫だよお前さん。何も怖いことなんてない。神様はきっと許してくださるからね。
ロレンツォの絶叫はデボラの胸の中で次第に嗚咽へと変わっていった。
ジローラモとロベルトは説明を欲する顔をベニート親父に向けた。ベニート親父は頭を振って答えた。
「半年前にふらっと帰ってきてから、ずっとそんな調子だ。他のやつらの事を聞いても怯えるばっかりで。幸い同じころにデボラが帰って来たから世話を任せてるが、初めはもっと酷かったんだ。人の気配に怯えてな、村の作業にも支障が出るくらいで」
「兄貴」
弟の呼びかけに、兄は答えなかった。気は短いが豪放で頼りがいのある在りし日の兄の面影は、その大きな赤ん坊のような姿には皆無だった。
ロレンツォは涙に濡れる髭面をいっそう強くデボラの胸に押し付けた。人の駆ける足音に気づいて、ジローラモは顔を向ける。
「誰か、帰って、来たって」
裾布を両手に掴んで駆けて来た女は、乱れる息を整える間も惜しんで汗ばむ顔を上げた。そして久方ぶりに見た二人の顔に落胆を息を吐く。
「何だ、あんた達かい」
「お前も……帰ってたのか、シルヴィア」
親しく呼ぶのは彼らが幼馴染と言う間柄だからだった。ジローラモとシルヴィア、そしてシルヴィアの弟フェデーレの三人は、隣近所に家を構える縁から幼少の頃より家族ぐるみの親交がある友人関係にあった。
「あたしのことはいいよ。それよりフェデーレは、あたしの弟は一緒じゃないのかい」
シルヴィアはジローラモの胸倉を掴んで問い質した。対してジローラモは気まずそうに目線を逸らして口ごもった。
「どうして」
今にも泣き出しそうな女の顔に、ジローラモは言い訳めいた言葉で答えた。
「誘いはしたんだけどな、あの馬鹿、帰らねえって」
ジローラモは視線を上方へ転じた。数日降り続きだった霙雨が上がり、初冬の空は爽やかな青に染まっていた。
「もしまだ、リティッツィに残ってるんだとしたら、今頃は」
空位二十一年初冬の十二日。くしくもそれは、大逆者ジャコモ・レイ処刑の日付と同じ日だった。
その日のリティッツィは酷い荒れようだった。
首と口と両の手足に枷を嵌められ、罪人には歩く自由すら与えられなかった。四人からなる執行役人に首枷を曳かれ、長々と三刻余りを掛けてリティッツィの大通を文字通り引きずり回されて、一張羅の長衣は血の滲む膝や尻をむき出しにしていた。
無論引き回しの間も穏やかにはいかなかった。道々から悪意と共に投げかけられるのは罵詈雑言や石や生ごみ。危険なもの以外は執行役人が止めなかったため、刑場に着く頃には罪人の体で傷を負ってない部分を探すことのほうが難しくなる始末だった。
同日昼過ぎ。元ルオマ公の居城であり、罪人が自らも住まいとした豊穣宮の前庭に千を越える市民が詰め掛けた。惨めな姿で罪人が登場すれば歓呼の叫びで熱狂し、設えられた断頭台まで引きずられていく間にも天井知らずの熱気が季節を忘れさせるほどに高まっていく。
すでにしてまともな精神状態の者はいなかった。公平に職務を果たすべき執行役人ですら、使命感と言うよりは義憤によって罪人への過度な暴力、仕打ちを容認するところがあった。
ぼろ切れのようになった罪人の体は役人に両脇から支えられて断頭台に立たされた。待ち構えていた刑務官と裁判官が聴衆に静粛を呼びかけ、罪状を読み上げる。力の限りの大音声も、収まる気配のない狂喜の渦を前にしては全くの無音に同じだった。四度読み直し、四度静粛を呼びかけ、五度目にしてようやく、その声は聴衆の耳に届いた。
主文、被告ジャコモは、邪まなる教えによって徒に人心を惑わし、煽り、原告アンジェリカ並びに多数のルオマ貴族、領民の財産及び生命を不当に奪った事実を認め、よって当法廷は原告アンジェリカ・ディ・ルオマの訴えを正当な権利の行使と判断し、ここに被告ジャコモ・レイの斬首刑を宣言する。ルオマ法政庁、ラ・ピュセル領国法院、ガルデニア王国王立裁判所はいかなる上訴も認めない。
罪人は一切の抗弁も抵抗もなく、断頭台に寝かされた。執行役人の一人が代表して鉄斧を構える。斧の刃先が天を向き、聴衆の緊張はいよいよ最高潮にまで達しようとしていた。
最中、処刑台のジャコモは晴れ上がった目蓋を必死に閉じて心の内で幾度も幾度も呼びかけと祈りを繰り返していた。
どうした、何故来ない。呼んでいるだろうが。早く俺を、俺を助けろ、イスナーン。
主よ、どうか主よ、お救い下さい。どうかこの愚僧めを、邪教徒の魔の手から、お救い下さい。エイメン。
彼の心の声に答える者はいなかった。それも今に始まったことではなかったが、ジャコモは絶えず神に対する祈りだけは続けた。
主よ、お聞き下さっておられますでしょうか。この地上の地獄を、ご覧になっておられますでしょうか。そうであるならばどうか、お慈悲を、お慈悲を賜りたく存じます。どうか。
頑なに開けようとしない目蓋の裏に、ジャコモは昔日の父を見ていた。一度目を開けてしまえば、あの虚ろな父の目をまた直視してしまうのではないか。恐怖が、絶対に傷をつけることなどできないはずのジャコモの信仰心にわずかな亀裂を入れた。
主よ、どうか主よ。お聞き下さい。お救い下さい。拙僧はこれほどまでに、あなたの御手を必要としているのです。
何故、お救い下さらないのでしょうか。何故、拙僧の祈りを、お聞き下さらないのでしょうか。
主よ、あなたは、いったい何処におられましょうや。
鉄斧が空気を切り裂く。直後に水気の混じった不快な音が、ジャコモの耳殻を震わせた。
唐突な浮遊感に、ジャコモはつい目を開けてしまった。視界に映ったのは今にも神が降りてきたっておかしくなさそうなほど、透き通った冬晴れの空だった。
薄れ行く意識の中で、ジャコモが思うのは神への怒りでも謝罪でもなかった。ジャコモはただ、父との対面を果たさずに済んだ事を喜んでいた。
ぼとりと肉塊が刑台に転がり、直後、蒼穹を割らんばかりの歓声が街中を包み込んだ。
空位二十一年初冬の十二日午後。ガルデニア王国史上類を見ない農民の大反乱、通称「ジャコモ・レイの乱」は、首謀者ジャコモ・レイの七十九年の生涯の終わりと共に終焉した。
エイジ・ナイトーはその最後を見届けなかった。人伝に聞いたのみで、特別な感慨も抱かなかった。
なんとなれば、彼はその時戦場にいた。傭兵隊「エッセンベルクの白狼」、弓兵隊の末席に、その名を連ねていたのだった。




