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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第一章「エスパラム」
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五、魔人-2

 結局、途中で魔人に遭遇することも、追撃を受けることもなく一行は村の北門までたどり着いた。人気のない通用橋(と言っても行き来ができるように幅一丈に渡って空堀が埋めてあるだけなのだが)を通過すると、眼前には茫漠(ぼうばく)とした荒野に一本の線が走っている。地面の起伏でところどころ途切れて見えるそれは、この最果ての村と外部とを繋ぐ街道である。道なりに進めば一日で隣村に着くだろう。


 道中に二つほど宿場があるが、この騒ぎで人が残っているとは思えない。つまり身の安全を確保するためにはあと丸一日、休むことなく歩き続けなければならないと言うことである。


 日差しが強く照り付けてきた。目蓋を滑る汗が眼球に滲んで目が痛い。額に張り付く髪も不快だ。丘陵はなだらかだが、上っては下りてを繰り返すばかりで終着が見えない。景色も変わり映えなく、時間の感覚が希薄だった。永遠のように長い間歩き続けている気がするが、太陽の位置からしてまだ二刻と経っていないようだ。

 強行軍に英二の両脚はすっかり棒と化しているが、歩みを止める訳にはいかなかった。一度足を止めたら二度と再び歩き出すことはできない、そんな予感がするのだ。


 不安に駆られて英二は振り返った。荷車に赤子を含めた六人。当初同乗していた孤児は自主的に降りて車の牽引を手伝っている。車の後方にはやや遅れてアントニオと母親三人。下りだから多少距離が出てしまったが、なんとかついて来ている。


 英二はため息を飲み込んだ。しっかりしなければならない。アントニオの負担を少しでも減らさなければ。


 頭を振って前を向く。と、視界を埋めたのは小高い丘だった。斜度は緩やかだが頂までの距離が長い。脇腹に針を刺されたまま歩くようなじわじわとした疲労を想像して、英二はついため息をついてしまった。同時にとうとうチキータが膝を折る。荷車は丘と丘の間にある窪地で止まった。


「すまない。少し、休憩してもいいかな」遅れてきたアントニオが額の汗を拭いながら言った。

「俺も今、提案しようと思ってました」英二は把手を下ろしてしゃがみ込んだ。本当に立てなくなりそうなほど両膝と足裏が限界を訴えていた。


 岩場を見つけて移動する。岩陰で日を遮ることができれば多少体力の回復もはかれるだろう。


 相変わらず人の気配はなかった。街道には絶えることなく人馬の足跡が見受けられたが、その跡をつけた当事者の方は、姿はおろか気配とて微塵(みじん)も感じられない。とかく静かだった。魔人の存在もこの逃避行も、まるで全てが白昼夢の中の出来事だったかのように。


 静寂を破ったのは短い女の悲鳴だった。


 岩場に高音が反響する。足を投げ出して横になっていた英二は疲労も忘れて飛び起きた。駆けつけると腰を抜かした女が震える手で自らの口元を覆っている。


「何が――」


 尋ねるまでもなく英二も気づいた。()いだ空間に異臭が漂っている。村で幾度となく感じた臭い。それは紛れもなく死の臭いだった。


 岩陰に、うつ伏せている男がいた。両手両足を投げ出す格好で、この無人の荒野に昼寝もないだろう。なんとなれば男の体には首から上がなかった。投げ出した両腕の間に赤い血溜まりが広がり、肩口までをも朱に染めて、大地によどんだ潤いを与えている。


 英二は恐る恐る男に触れてみた。体は温かい。傷口も乾いていない。鼻を突く濃い血の臭いに、堪らず吐き気がこみ上げてくる。顔を背けると見知らぬ男が英二を見ていた。頬を地面に着け、開いた瞳孔で英二を見つめるのは胴から切り離された男の首だった。


 女の手を取り、英二はすぐさまその場を離れた。


 岩に背を預けうなだれていたアントニオが、あわただしい気配に顔を上げる。砂塵に顔をしかめると、そば近くに英二がひざまずいていた。


「ひ、人が、いました、死んで。まだ温かかった、まだ、近くに魔人が、アントニオ」


 腕を引っ張り上げる英二を片手で制して、アントニオは深く息を吐いた。目を閉じ、大きく息を吸い込んでぴたりと呼吸を止める。組んだ両手を額に当てると、それは祈りの姿勢だった。


「あ、アントニオ! そんな場合じゃ」


 知るという感覚を研ぎ澄ましたアントニオの耳に英二の焦りは届かない。五感をすべて神に捧げて、アントニオは念じた。


 ――生命のマナよ、我に声を聞かせ給え!


 閉じた目蓋の裏に淡い光が(またた)いた。中心に弱々しい光点が一つ。周りを囲むように大小さまざまな光が鮮やかな輝きを放っている。

 すぐ近く、力強い紫の光は英二だろう。大きい青と小さい緑、二つ寄り添うように輝くのは赤子を抱いた母親のものだ。

 それは己を俯瞰(ふかん)した様子だった。アントニオの呼びかけに応え、周囲に存在する生命のマナが光の点となってアントニオに知覚されているのである。これもまた『法術』の一種、その名も『喚起光命』と呼ばれる術だ。


 周囲に彼ら以外の人間はいないようだった。すぐ近くの砂中に眠る赤モグラは凶暴な肉食獣だが、夜行性のため今すぐの脅威にはならない。空を翔る鳥、地を這う虫の類も、彼ら人間の一大事など知らぬ様子で、あるいは飛び去り、あるいは地中へと姿を消す。


 アントニオは知覚の範囲を広げた。周囲十間、一(ビル)、そして半里まで広げたところでとうとう見つけてしまった。これから(のぞ)まんとする丘を越えた先、街道を行進する灰色の光を。

 生命の輝きを徐々に失い、ゆっくりと消えていくのは、おそらく今しがたまで生きていたと思われる村人たちだろう。緩慢(かんまん)な灰色の一団の進行方向には必死に逃げようと駆け続ける光の群れが確認できる。


 ――なんということだ!


 アントニオは心の内で叫んだ。一行の決死の逃避行は魔人の進軍よりはるかに遅かった。彼らがほうほうの(てい)で村を脱出していたころ、すでに魔人たちは村を後にしていたのである。これなら前に進むより引き返したほうが返って安全かもしれない。

 そう思った矢先、アントニオは南方に不吉な輝きを見つけた。


 それはやはり半里後方だった。真っ直ぐ綺麗に横隊を組んだ七つの光が、彼らの歩んできた街道を道なりに進んできている。歩調にいささかの乱れもなく、輝く色は言うまでもなく灰色だった。


 挟まれている。そう気づいた瞬間、アントニオは術を解いてしまった。恐怖が、疲労が、焦りが、アントニオの集中を乱したのだ。魔人の群れは常に一丸となって行動する組織ではなかった。元より知らぬこととはいえ、その可能性を完全に失念していたのは皆を先導するアントニオの失態だった。


「逃げるぞ。魔人がそこまで来ている」


 言うやアントニオは立ち上がった。眩暈(めまい)を起こしながらもなんとか崩れなかったのは、すぐに英二が体を支えたからである。


「アントニオ、また術を」

「大したことはない」


 強がる導師に英二は不安の色をいっそう濃くした。実際大したことはあった。顔中に脂汗(あぶらあせ)(したた)らせるアントニオの顔色は、死人のそれと代わらないほど精気を失っているのだ。


「エイジ、街道沿いは駄目だ。前にも後ろにも魔人がいる。少々危険だが、迂回して隠れられるところを探そう」

「……わかりました。とりあえず、アントニオは車に」

「心配は無用だ、エイジ。私より、炎天下を歩いてきた彼女たちの方を気遣ってやりなさい」


 アントニオが言うのは徒歩で同行した三人の母親たちのことだったが、実のところその場にいるもので疲れのないものなど皆無であった。照りつける太陽の下歩き続け、皆に等しく限界が来ていた。子供たちにいたっては最早諦めた感すらある。

 それでも誰一人文句を言わないのは、明らかに疲労困憊の導師が、率先して皆を奮い立たせているからであった。さあ立つんだ。あと少し、半刻も歩けば湖がある。それまでの辛抱だ、さあ。


 とうに体力の尽きた彼女らを、動かせるのは気力だけだった。長屋に残してきた仲間たちの分まで生きなければならない。可能性があるのに諦めるなんて、彼らの死を侮辱する行為だ。夫を亡くしたものがいた。母を置いてきたものがいた。それでも、それ故にこそ、彼らは生きなければならないと強く思っていた。


 岩陰を出て、英二は振り返る。


「どっちへ?」

「風は南西。北東へ行こう。まずは東、折を見て北へ」


 一行が進みだすと、背後の丘の上に七つの陽炎が揺らめいた。両手持ちに大鎌をぶら下げ、光のない目がアントニオの背中に焦点を合わせる。


 同時に魔人たちは駆け出していた。緩やかな丘陵を逆落としの突撃である。


 アントニオの想定よりもはるかに早い。前後どちらの魔人たちの間にも、半里の距離があったはずなのに。


「アントニオ!」ただならぬ気配に英二も気づいた。

「前を見ろエイジ、速度を上げるぞ! 皆荷車につかまれ!」


 車上のチャロが子供たちをかき抱き、押して歩いていた女たちはわけもわからず車にしがみついた。


「風のマナよ、突風となりて、我が身を、運びたまえ!」


 直後、上空からの突風が荷車の背後に舞い降りた。大地に激突した風は周囲に砂塵を巻き上げて拡散する。勢い荷車は風の援護を受けて走りだした。


 体が軽い。棒のようだった足が勝手に動く。重かったあの荷車が、英二を押し出す勢いで進んでいく。視界は悪いが左手に丘陵を臨めば、方角を誤ることもないだろう。


 ――これなら、


「行けますよ、アントニオ!」


 英二は猛然と走った。この突風がどれだけの間維持できるのかわからない。追い風のうちに、できる限り距離を稼いでおかなければ。


 予想通り、間もなく風は収まった。英二は足を止めることなく振り返る。かなりの強風だった。吹き飛ばされることなく皆ついて来ているだろうか。


 隣で荒い息を吐くチキータ。荷台にはチャロと子供たちと妊婦。車の陰に女が三人。しかし、そこにあるべき姿が英二の視界には見当たらなかった。


「アントニオ……」


 把手を取り落とした英二は、車体に押されて膝を折った。無様に倒れ伏した英二の上で、主機関を失った荷車がきしむ音を立てながら停止する。


「クチナシ、大丈夫?」


 最早英二なしではろくろく荷車を押すこともできない。足を止めたチキータの声に、英二は応えることなく車の下から這い出た。

 アントニオ。かみ締めるようにつぶやいて、夢中で走ってきた跡を引き返す。


「クチナシ!」

「止まるなチキータ! すぐに追いかけるから!」


 微風が英二の額を撫でる。未だ止まない砂埃(すなぼこり)が英二の涙腺を刺激した。見える範囲に導師の姿はない。振り落とされたとするなら、かなり早い段階で分かれてしまったということだろうか。


 果たして、アントニオの姿は砂塵(さじん)の中にあった。力なく膝を折り、地に両手をついてひざまずくその様は己の罪業深さを懺悔しているようにも見える。

 なんとなれば、アントニオの周りには彼の告解を聞く聖職者の姿があった。風に外套をはためかせ、静かにたたずむ七名の聖職者は、経典の代わりに鎌を携えて、珍しくも眼前の坊主をただ見下ろしていた。


 司竜のたもとから現れることから、彼ら魔人を神の使いのそのまた(しもべ)と解釈する説がある。なるほどアントニオは神に仕える身の上だ。非情の魔人といえど殺めるに躊躇(ちゅうちょ)するのは道理であるかもしれない。


 一瞬の安堵に英二の気が緩んだ。


 気配に気づいたアントニオが顔を上げる。虚ろな両目が焦点を合わせた先には、命がけで逃がしたはずの愛弟子がいた。


 ――エイジ。


 愛弟子は走っていた。疲れた体で風を掻き分け、愚かにもこの死に損ないを助けるつもりのようだ。


 考える間もなくアントニオの両手が光を放つ。まばゆく僧服を照らすのは、死力を尽くした生命の灯火(ともしび)だった。


「逃げろエイ――」


 大鎌が風を切った。同時にどさりと音を立てて、丸い何かが大地に落ちた。瞬時に輝きは失われ、残ったのは黒い僧服と赤土にまみれたその何かだけだった。


「ア」と叫んだきり、英二は言葉を失った。必死に駆けていた足の動きが歩みに変わり、しかし止まることはなく、やがて僧服に手の届く距離までたどり着いて膝を折った。


「アン、トニオ」


 心臓が早鐘を打つ。どれだけ息を吸い込んでも動悸が収まらない。村で幾度となく感じた臭いがした。震える指先に触れた汗だくの僧服は生命の温もりをまだ宿し、今にも立ち上がりそうに小さな痙攣(けいれん)を繰り返している。

 視界が急に狭くなった。真っ白く弾けた世界には、原色の赤だけが生々しく映じられていた。痙攣するその体には首から上がないのだ。


「アントニオ」


 我知らず英二は名を呼んでいた。どうした、エイジと応えてくれるはずの禿頭は、赤土を自らの血潮で洗い落としてもなお青白い。そこに生命の気配はなかった。


 背後で土を踏む靴音がした。七人の死神は英二から奪った最愛の師には一瞥もくれずに車輪の跡を追いかけていく。


「ああ」気づけば英二は腰の短剣を握り締めていた。


「ぅああぁ」英二の口から漏れたのは最早意味のある言葉ではなかった。


「あああああ!」あふれ出す怒りと悲しみが声帯を震わせ、とうとう絶叫に変わって荒野に響いた。


 近くの岩場から鳥が飛び立ち、偶然にも遠雷が轟いたが、七人の歩みは止まらなかった。


 英二は駆け出し、両手持ちの短剣を渾身の力で死神の背中に突き立てた。技や術などとは対極にある、ただ力に任せただけの暴力だった。


 体当たりされた魔人が一人、受身も取らずに倒れ伏した。しかし、残る六人は止まらない。英二を見ることもせず、歩調も緩めずに(わだち)を踏みならしていく。


「あああああぁ!」


 英二は飛びついていた。突き刺した短剣を抜きもせず、無謀にも体当たりで一人転ばせ、なお止まらない魔人達に噛みついて三人もの足を止めさせた。


 それでも、残る四人は歩き続けた。英二が他を襲う間に、短剣を刺されたままの魔人までもが平然と立ち上がり隊列に合流した。まるで英二のことなど目に映っていないかのように。


「待て!」魔人の脚に組み付きながら、英二は涙声で叫んでいた。

「待てよ! おい!」


 その声はやはり、届かない。英二は転ばせた一人に馬乗りになって何度も何度も顔面を殴りつけた。ぱち、ぱちと乾いた音が英二の絶叫に混ざった。


「くっ、うわぁあぁぁッ!」


 魔人の顔を赤く染めたのは英二の拳から出た血だった。何度頬を、鼻を、眼孔をぶたれても、魔人は顔色ひとつ変えずすべてを受け入れていた。


 痛む拳を振り乱し、いよいよ英二は駄々っ子のように両手を叩きつけた。体重も乗らない。威力もない。すでに攻撃と呼べる行為ではないのに、やり場のない怒りが英二に止めることを許さなかった。


 魔人は泣きじゃくる英二に手を触れようともしなかった。組み伏せられて殴られても、抵抗はおろか不平すら言わず。


 再び遠雷が轟いた。怒号のような雷鳴は、二度、三度と音を立て、気づけば頭上には陽光を遮る黒雲が垂れ込めていた。


 それを合図とするかのように、魔人たちはぴたりと歩を止めた。東に荷車を追うでもなく、元来た道を引き返すでもなく、左手に鎮座する丘陵に足を向け、粛々と行進を続ける。英二に捕まっていた七人目も騎乗する英二を軽く払いのけ後に続いた。


 英二は夢中で追いすがった。わめきながら地を這い、虚空に伸ばした手が魔人の足跡を握り締める。


 それでも食らいつこうとする英二の執念が、魔人の(かかと)をつかんだ瞬間、


《情報不整合》


 突然の頭痛が英二を襲った。


《対象は失敗の》


 英二は頭を振った。左右を見ても顔を上げても、頭痛の理由はわからない。それは耳鳴りのようでもあった。確かに知覚できるのに、その音を聞くことができるのは、聞いた本人だけなのだ。


 呆然(ぼうぜん)とする英二の手が魔人を放してしまった。


 魔人は去った。振り返ることなく、小高い丘の向こうへと。


 すぐに追いかければ、また捕まえることもできるだろうが、折悪しく雨が降り出した。雨粒が地に満ち、規則的な魔人の足跡を消していく。激しい雨は英二の怒りの炎をも消し、残されたのは悲しみだけだった。


 (かたわ)らに、転がる導師の首を見つけ、英二はそれを抱き上げた。表情はなく、閉じた目蓋には人のよさそうな笑い皺も見られない。冷やりとした死の手触りは、この世の何より冷たかった。


「アントニオ」


 名前を呼ぶ。返事はない。師が英二を抱きしめてくれることも、この世界でただ一人、英二の名を呼んでくれることも、もう二度とないのだ。


 物言わぬアントニオの頭を抱きしめ、英二は驟雨(しゅうう)の中で号泣した。


作品内単位

一町=100m

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