四十五、垣間見える神速
舐めやがってこのガキ。怒声は風に紛れて消えていく。空気を切り裂いて繰り出されるのは眉間を目掛けた全力の突きだ。
ヴァルターがなんらの警戒もせずに踏み込んだのは、何も慢心のためだけではなかった。聖ジョルジュ兄弟団の剣に居合の技は無い。剣術とは即ち抜き身の剣を扱う術であり、鞘に納まった長剣は抜き身の短剣に劣ると言うのが彼らの唱える定説だった。
そんな彼にとり、対する英二の姿は敵を眼前にしながら逃げるでもなく構えるでもなく、丸腰でただ座り込んでいるだけの間抜けにしか見えなかったのである。
命まで奪うつもりはなかったが、この剣圧なら寸止めしたところでその無防備な額が無傷で済むはずもない。
しかしながら、沸騰した頭は彼の視界を平素以上に狭めていた。彼の剣先は無防備なはずの相手の頭蓋には触れず、そこに座して待っていたはずの間抜けは、いつの間にか手をかけていた騎士刀を半ばほどまで抜いて、突きを終えた彼の腕の下に身を沈めていたのだ。
その刺突は、繰り出したヴァルター本人を除いて、誰の目にも捉えられなかった。ライナーにも、ディルクにも、エンリコにも、そして無論、英二にも。突きの後に一瞬遅れて響いた、空気を突き破るような音。彼らが感知したのはそれだけだった。
対して、英二の動きはその場にいるほぼ全ての人間に見えていた。腰を浮かせ、柄に手をかけて、剣を抜く。気づいてみれば、と言う極些細な動きではあったが、ヴァルターと比べれば止まって見えるくらいにゆっくりとした、静かな動作だった。
ライナーは二つの疑問を胸に抱いていた。
一つは、今まさに突きをくれてやろうと言う構えから、何故隊長殿は相手に剣を抜かせる暇を与えたのだろうか、と言う点。
そしてもう一つは、隊長殿と座して対峙するあの少年が、はたしていつの間に腰を浮かせていたのだろうか、と言う点である。
似て非なる疑問はディルクにも、エンリコにもあった。ディルクはその少年の腰が浮く瞬間を見ていた。柄に手をかける所も同様に見ていた。だが、少年が剣を抜く瞬間だけを何故か見逃していた。エンリコは腰の浮きと抜剣の様子を確かに見ていたはずだったが、その手が柄に届く瞬間だけは見ていなかった。
そして、誰よりも理解に苦しんでいるのはヴァルターだった。まさに少年と相対するヴァルターには、それらの全てが見えていなかったのだ。
攻めの剣。英二はヴァルターの剣術をそのように評していた。柔軟な手首の運動によって、突いた剣を斬りにも払いにもつなげることができる両刃剣ならではの剣筋は、まさに変幻自在。それにあの驚異的な速さが加われば、英二のような常人では近づくことすら叶わなくなる。
故にその連撃を行わせるわけにはいかなかった。互いに切り結ぶ一合目を終える時には、勝負を決していなければならない。それが英二の勝利にとって必須の条件だった。
幸い、幾度も間近に見てきたおかげで分かったこともあった。
恐らくは両刃剣の構造に理由があるのだろう。ヴァルターの剣は突きを多用する。
片刃の剣で突いた場合、その後の選択肢はそのまま撫で斬るか剣を引くかの二択しかない(刃を返して斬り上げることも出来るがその後の姿勢が悪くなるため一般的ではない)が、表と裏で二つの刃がある両刃剣ならそこに払い上げと言う択が加わる。
こと実戦において、この一手の有無はそのまま生死、勝敗に直結するほどの意味を持っていた。攻め手は最速の突きから文字通り縦横無尽に刃を運ぶことで攻めを継続出来るし、それを防がなければならない受け手の困難さなどは言うに及ばない。
まことに合理的な剣の扱いだったが、それだけに、行動の予測が立てやすいと言う瑕が目立った。剣を交える初手において、ヴァルターが繰り出すのは攻めの起点となる突きに相違ない。英二には確信があった。
付け入る隙はもう一つある。斬撃の軌道こそ視認出来ないものの、ヴァルターの連係は常に一瞬の間、英二がその軌道を理解し、次の攻撃を予測出来るだけの隙を伴っていた。
英二はその理由をこう予想した。恐らく騎士ヴァルターにはこちらの動きが見えていない。だからこそ間合いのどこにいても届くように、可能な限りの大振りで剣を振っているのだ。
その際に生じる隙は問題にならなかった。もしこちらが安易に大振りの隙を衝こうとすれば、膂力に任せた斬撃で斬り返すつもりだろうし、よしんば隙を衝かれたとしても軽鎧に守られている身体には狙いやすい急所が見当たらないのである。
攻撃を受けても凌げるのなら多少の隙を恐れる必要も無い。やはり理に適っているが、その強気な姿勢が確かな隙を生じさせているのも事実だった。
ヴァルターの剣に見える綻びは、英二に自信を抱かせた。
膂力の差は無論比べるべくも無い。ヴァルターがチーターや熊なら英二はせいぜいが人間並みだ。そんなところで競ってみても勝負になどなりようが無いのだ。
しかし頭は違う。武術と言うアップデートを十年以上続けてきた英二にしてみれば、どれだけハードが優れていようとも、それを扱うソフトウェアが未熟なのであれば恐れる道理は無かった。いくら速かろうと、どれだけ強かろうと、筋力で抜き、筋力で斬る単純な速さでは、武術の実現する次元の異なる速さを超えることは出来ない。
事実、今まで見てきた誰のものよりも速く見えた騎士ヴァルターの剣は、いつの間にか変化している祖父の剣と違って、構えから太刀筋までを目で見て理解することが出来た。腰を浮かせ、柄に手をかけて、鞘を送る英二を前に、ヴァルターは何の反応も示していなかった。
ヴァルターは英二の姿を見ていなかったわけではない。確かに見ていたし狙いを定めて突きを放っていた。
しかし、ヴァルターには英二の動きそのものが見えていなかった。ヴァルターの目にはただ居着いているだけとしか認識できなかった英二は、実際には彼の思っているよりずっと速い間で、すでに抜刀の構えに入っていた。
部分部分だけを切り取ってみれば、決して速過ぎると言う事は無い。ただ、腰の浮きから抜刀までの動きを筋肉に頼らず、重心の移動によってのみ行うことで、英二は抜刀の気配、運動の兆しと言うものを完璧に近い形で消していた。英二の駆使した力まず溜めない武術の動きが、起こりの無い一調子の抜刀が、直に対峙する彼の目と頭には動きとして捉えられなかったのである。
故にヴァルターの反応は遅れた。
抜く動作を消して抜き、斬る動作を消して斬る一刀の速さは、人間の知覚を凌駕する。その見えない、捉えられない剣こそが、古人をして神速と言わしめた武術の精髄だった。
肩口を、一瞬の間に敵を見失ったヴァルターの刺突が掠める。英二の剣先は静かに鯉口を離れた。
ヴァルターの突きと、英二の腰の浮き、上体の沈みはほとんど同時だった。その正確さ故に、彼の剣はわずかに体軸の逸れた英二の身体には触れなかった。
ヴァルターは刺突の失敗と同時に、自身の窮地を知った。英二の抜き付けた一刀が、突きを終え伸展し切った腕の下を通って、自身の眼前に突き立っていたからだった。
軽鎧では顔面と上腕の内側を守ることは出来ない。即座に後退する必要があったが、突きのために全力を出していた身体が言うことを聞かない。散逸したマナを再び両の手足の末端に集めるだけの間など、至近に見える一刀は許さないだろう。
抜いたよ、じいちゃん。心の中で快哉を叫ぶ。完璧だ。文句無いだろ。
内藤流居合術の奥儀にはこれと呼べる形は無い。基本となる座構え「睡蓮」から、正しく適切な抜き付けを、如何様にも行い得ることが極意であるとされている。相手の距離、構え、得物などからこれと言う太刀を常に過たず抜けるなら免許。その具体的な太刀の習得までを目録の課題とした。
英二が今ヴァルターに対して抜いたのは基本中の基本、北辰之太刀だ。低めに抜いた太刀を垂直に立て、左手を添えて袈裟懸けに斬りつける技である。
英二は当然そのままの流れで左手を柄に添えた。相手の鼻先までほんの数センチ。如何に超人と言えども避けきれる間合いではない。上腕から腕の付け根まで、狙いやすい急所はいくらでもある。
その時、英二は祖父の返事を聞いた気がした。祖父がいつもの優しい声で「駄目だよ」と言っていた、気がしたのだ。
英二の剣は先を取った。相手が常人ならばすでに勝負は決まっている。だが、ヴァルターはそうではない。常人には計り知れない身体能力を誇るヴァルターなら、この間合いで攻撃を受けても致命傷には至らないかも知れない。
必要なのは先の先のそのまた先だ。一歩だけではなく二歩も三歩も先を読んで、体を捌かなければならない。常に考え、足を運び、手指から肘、肩の動作までをも腰の動きと連動させる、全身体によるたゆまぬ運動だけが、術者の動きを神速の世界へと導くのだ。
英二は添えたばかりの左手を柄頭から離した。指先は迷うことなく腰へ伸びる。
ヴァルターは咄嗟に柄から片手を放し眼前の騎士刀を握り締めた。全身のマナが左手のみに集中し、マナに保護されていない騎士刀は土くれのように砕け散る。
そのまま落下する騎士刀を見送って、ヴァルターは口角を上げた。様ぁない。あと一瞬だけ間に合わなかったな。
ヴァルターは勝利を確信していた。それ故に退かなかった。器用に指を操って長剣の柄を返し、右の逆手に持ち替えた正にその時、首筋を走る熱に気づいた。
あごを動かさず、目線だけを下げる。陽光を照り返す短剣の柄と、それを握る少年の左手が見えた。
「今度こそ、俺の勝ちです」
少年は今一度手に力をこめた。ヴァルターの首筋に、一条の赤い線が落ちる。
両者は視線を交わし、たっぷり二呼吸の間を取った。
今度もだろうが。ヴァルターは舌打ちして長剣を手放した。




